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ノート:阿武隈急行線

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東北本線の迂回については単に迂回(振替乗車)に協定を結んでいないだけか、有効長の問題もある。

本文内のコメントから転記: 別会社で災害迂回はあるのでしょうか?説明希望

いづれも、回答がない場合は削除も含めて検討されたし。鉄道忌避伝説といい、事実を確かめない書き込みは問題があるので。

鉄道忌避伝説について

[編集]

2007年10月10日に鉄道忌避伝説にかかる記述を削除した者です。 阿武隈急行沿線の鉄道忌避伝説は少なくとも福島県民の間では史実として定着しておりまた「福島県史」にも記述がありますが、当時の具体的様子を記した史料がないなど根拠がきわめて不十分であり、現時点ではウィキペディアに記載するのは不適当と考えます。 風評に惑わされず、史料にあたった上での正確な記述を希望いたします。

(コメント)鉄道忌避説を「無かった」と導きたい利用者がいるようですが、「有った」と同様に「無かった」とする直接的な出典も無いと思われます。上記のご意見のように「鉄道忌避説」の節自体を削除してしまった方がいいかもしれませんね。--はまくん 2009年1月18日 (日) 12:30 (UTC)[返信]

(コメント)仮に削除しても、また書き込む人がいる(以前、私も一度削除している)ので、あえて「鉄道忌避伝説」があったとしておいた方が良い様にも思いますが、確実な資料がない以上、削除やむなしかもしれません。資料が見つかるまで、「保留」しておくことを望みますが。--Jnr bus 2009年1月19日 (月) 15:30 (UTC)[返信]

(コメント) 鉄道忌避伝説はなかった(であろう)立場から何度か本稿の執筆をしている「219.172.236.124」です。 阿武隈急行沿線における鉄道忌避伝説を仮に史実とするならば、「福島から槻木にかけての約50キロの区間において住民の反対運動がきっかけとなって大規模な路線計画の変更がなされた」ということになります。となれば、鉄道の敷設者、地方行政機関、住民側のいずれかにおいて明確な資料が残っているのが普通でしょう。神代の昔ではなくたった百数十年前の明治時代の話な訳ですから。また、住民運動という視点で考えると、足尾鉱毒事件以前の時期に発生した運動として、下手すれば全国版の日本史の教科書に掲載されてもおかしくない事項でもあると考えます。

ところが、現在まで史料ひとつ明示されることもなく伝説だけが独り歩きしているのが現実です。私自身福島市春日町にある福島県歴史資料館に足を運び史料を探したことがありましたが、手がかりは得られませんでした。

探し方が悪いと言われればそれまでですが、鉄道忌避伝説の発生地のひとつとされる伊達郡梁川町(現・伊達市)が編集した郷土史年表[1]においても、東北本線の着工や開通は掲載されていても、反対運動が起こったとする記述は見当たりません。少なくとも「粟野小学校 新築校舎竣工」などよりは掲載されるにふさわしい事項と思われますが掲載されていないということは、イコールこの地において鉄道忌避の運動は存在しなかった、という証拠にはならないでしょうか?

いずれにせよ、はまくんさんが仰る「両論併記」は鉄道忌避運動の実在が証明される史料が見つからない限りは却下されるべきであり、仮にこの事項をウィキペディアに掲載する場合には、①阿武隈急行沿線地域において鉄道忌避伝説が見られること、②ただしこの伝説は史実性が非常に疑わしいこと、が明記されていればOKなのではないかと考えます。--219.172.236.124 2009年1月19日 (月) 16:46 (UTC)219.172.236.124[返信]

(コメント)ご意見ありがとうございます。219.172.236.124さんは、以下を認識されていますでしょうか。

ウィキペディアは何ではないかより抜粋

  • 批評する場所ではありません。あなたの主観的・個人的感想や評論を書く場ではありません。
  • 個人の随筆や論文を載せる場所ではありません。個人的な意見や提言を記述しないようにしてください。ウィキペディアでは、人類の知識となっているものを掲載しています。まだ人類共通の知識となっていない意見を伝達する場所ではありません。自分の意見をさも大勢の人々の共通認識であるかのように言葉を濁さないでください。
  • 独自の調査結果を発表する場所ではありません。

219.172.236.124さんの編集及び上記ご意見を拝見するとこのウィキペディアの基本方針をことごとく無視されていると思い削除を提案するに至りました。

  • 明治時代中期の土木技術では東北本線のルートが現実的である。

などのくだりは検証可能な出典があるのでしょうか?参考として挙げられている伊達市のホームページは初めから認識しておりますが、「想像に難くありません」と結ばれているように、特に根拠がある見解とは思えません。そもそも、当初から梁川方面のルートが検討されなかった可能性だってあるわけですから。

上記、「私自身福島市春日町にある福島県歴史資料館に足を運び史料を探したことがありましたが、手がかりは得られませんでした。」として「無かった」と結論づけているあたり、編集内容がまさに独自研究そのものでしょう。また、「鉄道忌避伝説はなかった(であろう)立場から何度か本稿の執筆をしている」のお立場は、Wikipedia:中立的な観点に背くことになりませんか?

「鉄道忌避説があった」とする具体的な資料もありませんし、「阿武隈急行の沿線地域に鉄道忌避説が無かった」と直接具体的根拠に基づくする出典も未だ提示いただけておりません。初めは、「忌避説あり」と言い伝えと「忌避説なし」の見方があることが書かれていれば良い(両論併記)と考えておりましたが、「資料がないから無かった」とWikipediaの記事上で考察し結論を導く(独自研究)という問題ある編集が行われる以上、Wikipedia:検証可能性に基づき、確実な出典が明示されない限りは信頼できる情報源を欠く編集は、除去されるのもやむを得ません。これは、「鉄道忌避説があった」という記述は無論のこと、「鉄道忌避説が無かった」とする現状の記述も同様です。「史実として確認できないなら無かったとすべき」ではなく「史実として確認できないなら該当の記述は除去すべき」なのです。

ただ、Jnr busさんのご指摘(的確なご意見ありがとうございます)のように、削除してもまた記述される恐れがありますので、コメントアウトでの対応としたいと考えております。--はまくん 2009年1月20日 (火) 12:10 (UTC)[返信]

了解いたしました。このような場をご提供いただけて、はまくんさんには感謝しております。はまくんさんのお立場が「鉄道忌避伝説があった」説に与するものではなく中立的であることを確認の上で、削除に同意いたします。また、先ほどのコメントにおいてはまくんさんの気分を害されたかと思います。お詫び申し上げます。

ただ、どうしても気にな点がひとつ。

『「阿武隈急行の沿線地域に鉄道忌避説が無かった」と直接具体的根拠に基づくする出典も未だ提示いただけておりません。』のくだりは、実際に忌避運動がなかった場合は永久に提示不可能となる可能性があります。また「なかったこと」を証明するのは、御承知のこととは思いますが、各方面に散らばっている史料をしらみつぶしに検証する必要があり、相当に膨大な時間と労力が必要になります。従って、状況証拠(主として現地の地形)的に鉄道忌避運動がなかったと判断できるケースでも「鉄道忌避運動はなかった可能性が高い」という記述しかできず、その事に触れた論述の大半は仮に査読(に類する過程)を受けていたとしても「信頼できる情報源」の要件を満たさなくなってしまうというジレンマを抱えています。実のところ「鉄道忌避伝説はなかった」派のバイブル的存在と化しつつある青木栄一「鉄道忌避伝説の謎」ですらも、その呪縛からは逃れられておりません。そうすると、阿武隈急行に限らず、鉄道忌避説が存在する路線の項目における鉄道忌避伝説の真贋のくだり、特に忌避説が存在しなかった可能性に触れる文章は、忌避説があること自体を理由としてウィキペディアへの掲載が不可能になるという問題が発生するような気がするのです。そしてこのことはまた、鉄道忌避伝説があったと主張する人たちを利する結果となり、中立性の上での問題もまた内包することになります。

この種の問題の場合、どうしても掲載させたい場合にははまくんさんが仰るように「両論併記」しか方向性がないのでしょうか? そして、その評価については鉄道と政治の項あたりに委ね、これの記述とは明らかに違う内容(鉄道忌避運動に対する明確な資料の発見など)があった場合に限り、その事実を記述するという形にするしかないのでしょうか? [特別:投稿記録/219.172.236.124|219.172.236.124]]

(コメント)219.172.236.124さん、再びご意見ありがとうございます。ご指摘のご懸念もごもっともと思います。

Wikipedia:独自研究は載せないによると、「独自研究ではないことを示す唯一の方法は、その記事の主題に直接関連のある情報を提供している信頼できる資料を参考文献として記し、その資料に記された内容に忠実に記述することです。」とあります。阿武隈急行が主題である当記事においては、

  • 阿武隈急行沿線について具体的に検証した結果、鉄道忌避は無かった。
  • 総論的に鉄道忌避は無かったとする内容で、阿武隈急行沿線をケーススタディ的に検証している。

このような書籍などが公に出てくれば、その内容に沿って記事に記載できると考えますがいかがでしょうか?

ただ、ご意見中にある「鉄道忌避伝説があったと主張する人たちを利する結果となり、中立性の上での問題もまた内包することになります。」は、Wikipediaと世情を混同しているような気がしていますが…。Wikipedia:中立的な観点は、あくまでWikipedia上での適用であり、「Wikipediaで触れられていないから世の中で一方の立場が利する。それは世の中にとって中立的でないからWikipedia上問題だ。」では無いと思います。

いずれにせよ、上記のような具体的に「あった」「なかった」が検証されている資料が出てくるまでは、「阿武隈急行における鉄道忌避」自体の編集は待ってみてはいかがでしょうか?近い将来出てくると思いますし、もしかしたらもう出ているかもしれませんよ。--はまくん 2009年1月22日 (木) 11:49 (UTC)(追記)--はまくん 2009年1月22日 (木) 12:08 (UTC)[返信]

コメントアウトで対応しました。--はまくん 2009年1月28日 (水) 10:53 (UTC)[返信]

こんにちは。

岡崎真一郎氏の阿武隈急行物語に、本命ルートという題で以下のようなことが書いてありました。

東京からの路線ルートの改正基準は、野蒜港、八戸港を結んで青森港に至ること。内陸部の人口が多い都市を結ぶこと。急勾配はやむを得ないが、トンネルはなるべく避けること、などであった。また、福島-仙台間は、始めは、阿武隈川沿いの保原、梁川、丸森、角田を通って槻木にいたるルートであった。しかし、沿線住民は汽車の煙で稲が枯れる、火の粉で火事になる、灰で桑が枯れる、汽車の振動で稲の花粉が落ちたり地割れして水がなくなる、また疫病を運んでくるなどの理由で反対した。 とあります。 反対の本当の理由は、養蚕で栄えた伊達郡が明治11年に鉄道公債を購入し、延期願を出したが認められなかったといわれているという記述もありました。

現在の東北本線のルートに落ち着いた理由は、鉄道敷設が原則として旧街道に沿って行われたことが第一でその上、土地の買収が現在の東北本線のルートの方が早く進んだ(逆に丸森・角田ルートは思ったように進まなかった。)と書いてありました。

この阿武隈急行物語の最後には参考文献も載ってありますので、一度見てみてはいかがでしょうか。--Jet-0 2009年1月30日 (金) 13:37 (UTC)[返信]

  • 阿武隈急行物語の参考文献を探してみたところ、一部が宮城県図書館で見つかりました。 

鉄道ピクトリアル636号では、東北本線福島から槻木間の予定線は、阿武隈川沿いのルートと奥州街道沿いのルート2つがあり、奥州街道沿いのルートが選ばれたとあります。反対運動が起こったという記述は無いもののルート候補の1つだったことに間違いは無いようです。

鉄道ジャーナル1982年7月号通巻185号の「特定地方交通線の実態と問題を現地に見る 12 丸森線」(鈴木文彦氏)の記事には、明治18年に塩釜(塩釜港駅のこと。1997年廃止)から福島間の測量が始まる。それ以前の原案では、槻木から福島間は阿武隈川沿い、すなわち現在の丸森線のルートをとることになっていたが、採用されなかった。経緯は判然としなかったが、沿線は養蚕が古くから盛んな地域であり、農家が汽車の煙は養蚕に害ありとしてこぞって反対したためとされている。白石ルートが決定した時、宮城県角田では提灯行列をして祝ったとさえ伝えられている。以後もこの地区では阿武隈川の水運に頼っていたが、大正2年に起きた水害を境に川蒸気の航行が中止になったとあります。鉄道忌避運動が起こったという明確な記述はありませんが、1982年当時はこの説が有力視されていたようです。

最後に、阿武隈急行物語の参考文献を挙げておきます。

  • 走れ丸森線
  • 丸森線建設運動の軌跡
  • ものがたり東北本線史
  • 枕木の詩
  • 宮城の鉄道物語
  • 角田市史
  • 角田の百年
  • 角田変遷三十年図誌
  • 丸森町史
  • 丸森線工事誌
  • 東北大学鉄道研究会機関誌「青葉 27号」・「あおば 特別号」
  • 鉄道ジャーナル 185号 264号
  • 鉄道ピクトリアル 210号 500号 636号
  • 河北新報
  • 福島民報
  • 福島民有
  • 朝日新聞
  • 毎日新聞
  • 日本経済新聞
  • サンケイ新聞

鉄道ジャーナル264号も読んでみましたが、東北線のルートのことについての記述は見つかりませんでした。鉄道ピクトリアル210号及び500号は、図書館で探してみたものの見つかりませんでした。--Jet-0 2009年3月3日 (火) 08:32 (UTC)[返信]