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ノート:長篠の戦い/過去ログ1

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過去ログ1 過去ログ2

ノブナガトーナメント

「ノブナガトーナメント」に興味を持ったのですが、"nobunaga tournament"でweb検索をかけても一件も引っかかりませんね。"ノブナガトーナメント"でも新聞記事など信頼性の高いソースはないようですが、どんな団体がいつ頃どこでやっている大会なのでしょうか?さんぽ (ノート) 2005年5月26日 (木) 17:10 (UTC)

3段撃ち

例示されている「3段撃ち」を疑問視する理由は3項とも根拠薄弱ではありませんか?
・訓練が大変と言っても不可能ではなく、3列が入れ替わる方法以外にもやり方はある。
・戦闘指揮が可能であるのに「撃て」だけ"声"が聞こえないとするのは不合理。
・早合を使うと「3段撃ち」より早く次の弾を撃てるとする根拠がない。(むしろ「3段撃ち」をよりスムーズに行える)
コストパフォーマンスが悪いとする根拠は?
「3段撃ち」実施に疑問があることを否定しているのではありません(念のため)。


私は「鉄砲3段撃ち」が無かったとする見方は十分に説得的と思っていますが(ただ、相変わらず学校教科書は「鉄砲3段撃ち」が定説扱いですね)、百科事典という性質上あまり詳細に書くことが出来ないために上記の方のような疑問が生まれてしまうのだと思います。解決策としては、出典を示しておくのがよいのではないでしょうか。(申し訳ありませんが、私の手元には現物がありませんので、本文の方にそれを書き込むことが出来ません)--219.161.205.46 2005年8月26日 (金) 22:43 (UTC)

当代記や武田三代軍紀(=昔の書物)で武田四天皇と長坂、跡部の言い争いは記されています。たしかに跡部は三河地方までは出陣してないのですが、決戦前の戦評定に出た可能性はあると思います。これに関連して三州長篠戦記」には織田家重臣佐久間信盛が5が13日に「信長を日頃から恨むところがあり、決戦を行えば、戦い半ばで裏切って信長本陣を突くとか、紀伊国物語には長坂、跡部両氏に信盛が内通したように見せかける起請文を書き、軍資金、脇差を送ったとの記述があり、そのことから戦をした可能性もあります。(水野信元もあったようですが彼は嘘が有力だとか)  津本陽氏の「武田信玄」だと当時勝頼は種子島筒(織田勢装備の鉄砲、有効射程200m、人体必中射程100m)が千丁あったことと、一回発砲するまでに 20〜25秒かかると記述されています。(ちなみに武田騎馬軍団の机上の多い地形を走る速度は時速30キロ)これらを決定的な古文書を知っている方がいらっしゃればそれを明示の上でお願いします。


津本氏の武田信玄は小説なので、全面的に信じるのは危険ですからやめた方がよろしいかとは思います(津本氏自身、その鉄砲の出展史料を明示されておられませんし)。
現在火縄銃の実演で知られる「獅子の会」での実験によると、火縄銃の有効射程は50m前後だそうです。こちらは現存している当時の銃での結果ですが、私が調べた限り、天正年間で200m届く鉄砲があったという歴史史料は見つかりません(そもそも有効射程と必中射程(この表現もどうかと思いますが……)が、それぞれメートル法で100m単位というのも、当時の度量衡と技術から見れば不自然ですし、腔線(ライフリング)のない火縄銃では科学的に考えても有効射程の半分が必中射程なんて事はありえません)。
なお、『武田三代軍紀』は享保年間(1716年から1735年まで)に成立した本であり、長篠の戦いから150年近く後に成立したもので、既に当時の逸話を多く取り込んでいます。一例を挙げれば、長坂光堅にも勝頼から駿河にいた彼宛の書状が現存し、その日付から長坂光堅が当時戦場にいなかったことは確実となっています。
また、『当代記』は成立年間は不明ですが江戸時代初期に作成された本であろうと言う説が有力です。徳川側の史料に武田軍最高首脳部の口論が記入されているとしたら、誰がそれを伝えたのでしょうか。その時の武田軍最高首脳部はほぼすべて戦死あるいは武田滅亡時に自害しており、伝聞できる人物がいないように思われます。
また、『三州長篠戦記』(正確には『三州長篠合戦記』ですね)も江戸時代以降に成立した本であるようです。私はこの本が手元にないのですが、参加人数が「武田勢は二万余騎、徳川・織田連合軍は七万二千人」と、どちらかと言えば荒唐無稽に近い内容の本であり、小和田哲男氏などは戦国時代の本ではない旨を発表されているようです(このあたり、詳しい方がおられましたら追記をお願いします)。
付け加えると騎馬隊の時速30キロと書かれておられますが、設楽原は意外と起伏も多く(現場で見てきました)当時は梅雨時期であり、前日まで雨が降っていたようです。となれば地面はぬかるんでおり、さらにあの時代の日本には蹄鉄がありません。また、上に乗る人間の方も鎧を装備しています。蹄鉄なし、過重重量、路面が悪いと悪条件が揃えば、現代の馬でも30キロも出すのは不可能でしょう。--羽奈瀬蓮 2007年7月10日 (火)

鳶ノ巣砦攻撃

鳶ノ巣砦の攻撃後に設楽ヶ原で主力決戦という形で記述されていますが、設楽ヶ原の開戦時刻が午前6時・鳶ノ巣攻撃が午前8時という説もあり、その場合には設楽ヶ原での決戦を決定した理由が「酒井軍による鳶ノ巣砦への攻撃の成功」ではなくなります。即ち酒井の別働隊の行動は奇襲という形ではなく、十分武田方にも察知・認識されていた行動であったことになります。逆に言えば、認識させることで武田方が開戦を決意するか退却するかの選択を迫らせた行動ということになります。この辺りの説も反映させた方が良いと思うのですが、如何でしょうか。Nubolari 2006年9月16日 (土) 21:31 (UTC)

この説は新城市のHPにも詳しく掲載されているものですね。[1] このHPはマルチメディアが多用され直感的にわかりやすいので、リンクを張っておくといいかもしれません。--220.212.0.120 2006年9月29日 (金) 16:47 (UTC)

日付

西暦による合戦の日付を教えてください。他のヴィキでは29日ではなく28日と書いております。どれが正しいでしょうか?--Alex K 2007年2月3日 (土) 06:22 (UTC)

調べてみました。個人的な調査の限りでは、29日の方が正しい模様です。28日ってどこに書いてあるのでしょう?--羽奈瀬蓮 2007年7月13日 (金) 02:16 (UTC)
いまさらですが、某書籍では、長篠の合戦は5月21日に開戦し…とありました。これは正確でしょうか?--海蛇 2008年7月13日 (金) 02:16 (UTC)

間違いでした。6月21日でした。--海蛇 2008年8月5日 (火) 11:39 (UTC)

武田騎馬軍団は実在したのか

「信長公記」には、武田軍の攻撃に関して「懸かり来る」「是又馬入るべき行にて」という表現があり、三十騎から五十騎の騎馬隊が数度に渡って突撃を掛けている様子が伺われます。 後世の人間がイメージするような数百騎の単位で構成された大騎馬軍団の突撃ではありませんが、騎馬部隊程度であれば存在したと推測できます。もちろん、当時の戦闘のレベルから見て立派に騎馬軍団と呼称してよいと思うのですが?--チェリーブロッサム 2008年2月9日 (土) 01:20 (UTC)

信長公記に記述されている順番は、そのまま武田軍の布陣を南から眺めていったものとほぼ同じであるようです。--雪解の泉 2008年6月12日 (木) 13:18 (UTC)

天候

当日の天候は、日付によっては天気が違います。21日は曇りのち雨という書籍があったんですけど …--海蛇 2008年8月5日 (火) 11:44 (UTC)

鉄砲

鉄砲の3段うちが存在したとは言い切れないですよね。現に設楽原では数個しか玉が出土してないじゃないですか。当時火縄銃は高価かつ少数しかなかったので、そう簡単に1000丁だの3000丁だのという数の鉄砲集めはできません。--海蛇 2008年9月5日 (金) 07:44 (UTC)

(追加)手持ちの教科書に「…3000丁の鉄砲を用いて三段撃ちをした(数、三段撃ちに関しては異説あり)。この戦いでの弾丸が6,7個出土している…となっていました。わずかながら異説の可能性を示唆しています。--海蛇 2008年10月20日 (月) 07:40 (UTC)
すみませんが、何が言いたいのか、また、何がしたいのかがわかりません。さらに単純な教科書の記述は、歴史項目では決定的な情報足りえないのに、名前や出版社、誰を対象に出版された物かすら記述されてないのはまったくお話になりません。
あと僭越ながら、体裁を直しておきました。--EULE 2008年10月20日 (月) 08:29 (UTC)
この話は確か「新説!?日本ミステリー」で取り上げられています。但し「新説!?日本ミステリー」はバラエティ番組であり、かつこういう説もありますよという議論で賛否を問うものですので、ウィキペディアの内容を根本的に変更する理由にはあたらないと思います。--またーり 2009年1月21日 (水) 00:59 (UTC)
補ってくれるのは良いことなのですが、この件に関しては前提としてその海蛇氏の主張自体が良くわからないんですよ。根拠も仮定も示さず、自己完結した結論をただ述べるだけですし、追加で述べた教科書の記述は、まったく内容を補填してないですし(弾丸6,7個出土している→数個しか出てない!って言ってるのだとすれば、読解力が酷いとしか言わざるを得ないですし)。そもそも三段撃ちや鉄砲数の異論はすでに記述されてることですし。--EULE 2009年1月21日 (水) 06:41 (UTC)
海蛇氏に対しては異説を唱える書籍の名前と出版社名を明記していただきたいとは私も思いますね。上記の天候についてもどの書籍ののものか記載されていないようでは議論にすら値しません。まあ数ヶ月前の議論ですし最近ウィキブレイクしているようですのでこれ以上の指摘はしません。--またーり 2009年1月22日 (木) 04:48 (UTC)

西洋の騎兵とはいつの時代のことか?

長篠の戦いをめぐる論点と詳細の武田騎馬軍団の存在に「やはり日本の戦国時代における騎馬隊は西洋の騎兵とは異なるものと考える必要がある。」とありますが、この西洋の騎兵とは一体いつの時代の西洋の騎兵なんでしょうか? もし中世ヨーロッパの騎士のことならば、騎士一人に対して徒歩の従者が平均4,5人付き従っていますので、事情は日本の武士とあまり変わらないことになります。従ってこのままの記述では適切とはいえません。もしも近代騎兵のことを指すならば、異なるのは当たり前のことで、なぜわざわざ比較して、その違いを主張しなければならないのか理解に苦しみます。武田軍が近代騎兵と同じような騎兵隊を擁していたという主張があるならば別ですが、私はそのような主張は聞いた事がありません。従ってわざわざ近代騎兵との異同を論じる必要性はないと思います。--すすき・ちんや 2009年3月5日 (木) 16:44 (UTC)

(私は記述者では無いですが)文脈の判断の上では、ここで違うとされているのは「従者の制度」ではなく「機動力を利用した運用法」です。古くはハンニバルの戦術に見られるように、西洋の騎馬戦術は基本的に機動力を主眼として運用されたことは否定されないと思われます。もっとも、モンゴルやフンなどの例を見るに、西洋に限定する記述は変だとは思いますけどね。--EULE 2009年3月5日 (木) 17:17 (UTC)
ここで質問をいているのは「西洋の騎兵とはいつの時代のことか?」ということです。西洋の騎兵といっても時代により実態は異なっており、一口に西洋の騎兵と言った場合、曖昧で漠然とした概念になります。ある事象を別の事象と比較する場合、比較対象が曖昧で漠然としたものであれば比較の意味を成さないものになります。--すすき・ちんや 2009年3月7日 (土) 04:38 (UTC)
制度や具体的な運用法の話をしてるなら、確かにおっしゃる通りでしょう。ですが、ここで言ってるのは騎兵それ自体の意義です。「機動力」と言うのは、それこそ騎兵の「概要」に書かれていることです。「人は二足歩行をしている」という記述に対して「いつの時代の人間を指しているのか」と言われても困るわけです。もっと言えば、質問自体が始めから的外れであると言うことです。
該当部分をもっと具体的に噛み砕くならば、それを最初に記述した人は武田の騎兵は「衝撃力」を念頭に運用され、諸外国で用いられてきた「機動力」の要素は皆無であるってことなのでしょう。--EULE 2009年3月7日 (土) 08:38 (UTC)
EULEの言わんとしていることがいまひとつ理解出来ないのですが、西洋においおても時代によって騎兵の概要に書かれているような内容に当てはまるとは限りません。西洋中世騎士には歩率が付き添っており機動力というより衝力を武器として運用されています。なので時代を明確にせず一口に西洋騎兵と比較しても不適切な比較にしかならないのです。--すすき・ちんや 2009年3月8日 (日) 05:37 (UTC)
(インデント戻し)まず、あなたの意見は「特定の時期・場所に限定にすべきだ」で、私の意見は「特定の時期・場所に限定すべきではない」ってことです。その理由は、機動力は騎兵の一般例であるから。無論、あなたが言うように機動力がことさら軽視された例外も存在しますが、それはあくまで例外あるいは稀な例です。
あくまで「西洋のいつの話か」と繰り返すのを見るに、理解できないのは私の意見をちゃんと読んでないからだと思われます(こういうとあなたはおそらく「それは本文にあることだ」と言われるでしょうが違います)。このまま堂々巡りになるようでしたらコメント依頼でもした方が良いと思いますがどうしましょうか?--EULE 2009年3月8日 (日) 08:26 (UTC)
どうも勘違いされているようですが、西洋史の中で中世は大きな比重を占めており、その中で軍事力の中核となった騎士は決してEULEがおっしゃるような例外でもなければ稀な例でもありません。「特定の時期・場所に限定すべきではない」という意見は騎兵という存在が西洋でも時代によって様々な形態を有している事実を無視し、都合が悪ければ「例外」や「稀な例」として片付けてしまう暴論といえます。--すすき・ちんや 2009年3月8日 (日) 15:06 (UTC)
だから、こちらの文章を読んでないと言ってるわけですが、何で西洋の○○の時期だと限定するのですか?騎兵が西洋でしか使われてなかったとでも言うんですか?あなたは、私の文章も元の文章も何が説明したくて記述されているのか読もうとしてない。そうでなかったら読解力が酷いとしか言いようがない。あなたは自分で結論を出して自己完結しちゃってるんですよ。具体的な比較対象がなければならないと。
もう一度だけ具体的に説明します。それで駄目ならコメント依頼を出して第三者も混じってもらうことにします。元の文章で言いたいことは(おそらく)「武田の騎馬隊には一般的な騎兵と違い機動力が用いられていない」。その上で、元の文では西洋と書かれているが、実際にはモンゴルやフン族といったように西洋に限定せずとも問題は無いし、むしろ変である(私の意見)。元の文章が誤解を招く可能性については否定いたしませんが、だからこそ正しく通るように直すべきだと(例えば2度目でも言った『武田の騎兵は「衝撃力」を念頭に運用され、諸外国で用いられてきた「機動力」の要素は皆無である』と置き換えるとか。)。
逆に聞きますが、一般に騎兵において機動力は関係性が薄い、騎兵で機動力が想起されることは普通無いと思いますか?また、元の文章は何の為にその記述があるとあなたは思いますか?--EULE 2009年3月8日 (日) 15:44 (UTC)

(インデント戻し)えーと色々と言いたいことがありますが、あまり相手の一句一言に拘って反論しても無用の紛糾を招くかもしれないので一つだけ確認します。EULEさんも現状の「西洋の騎兵」記述は不適切であり、改善すべきであるとの認識ということでよろしいですね?--すすき・ちんや 2009年3月9日 (月) 12:05 (UTC)

一番始めの発言でも言ったように記述の意味を考えれば西洋に限定するのは不適切だと考えますよ。そして質問に答えたので私の質問にもお答えください。あとコメント依頼を出しておきました。--EULE 2009年3月9日 (月) 14:29 (UTC)
「この戦いに限った話ではないが、有名な「武田の騎馬隊」の実在には様々な異論がある。・・・やはり日本の戦国時代における騎馬隊は西洋の騎兵とは異なるものと考える必要がある。」
確かに「西洋の騎兵」は直感的にピンと来ない表現に思えます。文面からすると「武田の騎馬隊」「武田騎馬軍団」のようなフレーズを聞いて一般人が連想する「騎兵」とは「近代騎兵」だと思います。士だけが騎乗していた騎士や騎馬武者とは違い、兵を馬に乗せて編成したした騎兵隊を表現しているんだと思いました(明治以降から戦前には実物の近代「騎兵」が居ましたし、戦後は西洋とは言えアメリカの「西部劇の騎兵隊」(南北戦争あたり?)がイメージの元になっているんじゃないでしょうか?これは独自研究だけど) ただ、そこまで深読みしないといけないのかと思うと、もっと親切な表現があるんじゃないかという気がします。--yasumi 2009年3月10日 (火) 12:02 (UTC)
「日本の戦国時代における騎馬隊は西洋の騎兵とは異なるものと考える必要がある」の部分を「遊牧民族の騎兵や近代兵制における騎兵」と改めればよいのではないか。認識は一致しているように見えるが、なぜそんなに揉める必要があるのか?--Cave cattum 2009年3月11日 (水) 07:12 (UTC)
概ねCave cattumさんの意見に同意なのですが、少し変えて「全員騎乗で戦う遊牧民族や近代兵科の騎兵」で如何でしょうか?--yasumi 2009年3月11日 (水) 11:06 (UTC)
賛成。お任せします。--Cave cattum 2009年3月11日 (水) 11:14 (UTC)
賛成 Cave cattumさん、yasumiさんの意見に同意します。--Arawodas 2009年3月11日 (水) 12:09 (UTC)
賛成 yasumiさんの「全員騎乗で戦う」を入れるのは良いアイデアですね。賛成。--すすき・ちんや 2009年3月12日 (木) 13:43 (UTC)
勘違いされているので改めて。比較対象を何にするかで揉めているかのように思われてますが、それは違います。すすき・ちんや氏が述べているのは「何であれ比較するなら、対象を具体的にすべきだ」であり、私が述べているのは「まず記述の意味を考えると・・・」と言うので微妙に前提が異なります。例えるなら腐ったダンボール肉まんがあって、すすき・ちんや氏は腐っていることを問題視し、それに対して私がそもそもそれはダンボールだから・・・と言ってるような感じです。確かに両方が問題視していますが、何を問題視しているのかは全く異なります。
すすき・ちんや氏は(良くも悪くも)現状の記述の意味を判断してません。その記述が何を表しているのかは前提に入って無い。読んでもらうとわかるように、その記述は「武田軍には騎馬の最大の特徴である機動力を生かした作戦がほとんど見受けられない」にかかっています。と言うことは、騎兵の効力である機動力と衝突力のうち、衝突力を念頭に運用されたと言うことが言いたいとわかります。その上で、別に機動力を念頭に運用したのは、モンゴルやフンの騎馬民族など非西洋でも見られたことなので、比較対象に西洋と限定してある現在の記述は変である。と言うのが私の意見です。
結論として、すすき・ちんや氏の目指す所は、具体的な比較対象かそれ自体を削除すること。私の目指す所は、機動力が用いられなかったことの強調(なので、結果として比較対象を必要としない)。
まあ、何故、ここまで拗れたかと言うと「記述の意味を考えると・・・」と言う私に対して「私が言ってるのは比較対象を具体化することだ」と返されて、そこで前提の違いを埋めるわけでもなく応戦してしまったことだと思っています。--EULE 2009年3月12日 (木) 08:52 (UTC)

その記述が何を表しているのかは前提に入って無い。
単に「西洋の騎兵」では、現状の記述が何を表しているのか判然としないのです。ですから改善を検討すべきだということです。それから武田軍の騎馬兵が衝突力を念頭に運用されたかと言うと、それには少し疑問を感じてしまいます(衝突力を全否定はしませんが)。むしろ、この節の文章の主眼は、武田軍が騎馬兵だけの構成ではないということに思えます。--すすき・ちんや 2009年3月12日 (木) 13:43 (UTC)

他の方も軍制と感じたようなのでその点に関して持論を取り下げます。その上で案としては削除してしまっても問題の無い記述だと思いますが、Cave cattum氏の意見などもあるのでこれ以上は何も言いません(ただ混乱されたのか騎馬民族が混ざってますが、これは比較対象とすべき物で、同質の対象と扱うものではないです。)。あと私の最初の意見にそう返していただければ良かったと思います。--EULE 2009年3月13日 (金) 08:40 (UTC)

(コメント依頼から来ました。途中参加ですので、全てを把握しきれているか分かりませんので、ご迷惑をおかけするかもしれませんが、宜しくお願い致します。)

すすき・ちんや氏が主張されている内容はEULE氏が仰っているとおり、「具体的な比較対象かそれ自体を削除すること」・「何であれ比較するなら、対象を具体的にすべきだ」で間違いないでしょうか?

私の意見を述べさせて頂きます。まず、現状の文章には問題があります。明らかに改善すべきです。これは皆さん同じ認識と考えてよいでしょうか?次に、問題点ですが、何について「異なるものと考える必要がある」のかが、この一文では明確にされておりません。ただし、前の文章から文脈的に考慮すると、EULE氏の仰るとおり、「機動力」に関して、あるいは機動力を生かした「戦略的意義」などについて、「異なるものと考える必要がある」とされていると判断できます。ですので、EULE氏の意見を踏まえると、文脈的な意図はその戦略的意義や用途、あるいは重要性を比較しているのであって、例えば

  • やはり日本の戦国時代における騎馬隊は、戦略的意義(あるいは戦略的用途など)において、機動力を重視した西洋の騎兵とは異なるものと考える必要がある。

と、何について「異なるものと考える必要がある」のかを明確にすれば問題ないとお考えでしょうか?比較されている内容こそが問題であり、比較対象の具体性は必要ないということでしょうか?(間違っていたらご指摘下さい。)

しかしこのように、何について「異なるものと考える必要がある」のかを明確にしても、すすき・ちんや氏が仰るとおり、「西洋の騎兵」は具体的にする必要があると思います。なぜなら、比較対象は、機動力を重視したものでなくてはこの文章は成立しません。「西洋の騎兵」を、実際に機動力を重視したことを明確にして、はじめて「機動力」に関しての比較対象として成立します。

しかし、機動力を重視したものでないことが述べられた文章であればよいのですから、具体的な比較対象があえて必要とも思えません(この点ではすすき・ちんや氏と同意見かもしれません。)つまり、例えば

  • やはり日本の戦国時代における騎馬隊は、戦略的意義(あるいは戦略的用途など)において、機動力を重視した騎兵とは異なるものと考える必要がある。

などに変更されるほうが良いかと思います。

また、「全員騎乗で戦う遊牧民族や近代兵科の騎兵」への変更に関して賛成意見が多いようですが、私は反対です。この点ではEULE氏と同じ意見になると思うのですが、文脈的にはあくまでも「機動力」に関して比較しているのに、「全員騎乗」や「近代兵科」などに比較の内容が変わってしまっています。これでは文脈的に成立しません。

蛇足でもう一つ問題点なのですが、「武田軍の騎馬隊」の一例のみを以って、「日本の戦国時代における騎馬隊」としていることも、変更すべきと考えますが、ここでの議論の対象ではありませんので、詳細な意見は避けます。--125.195.105.85 2009年3月15日 (日) 08:11 (UTC)

長篠の戦い#武田騎馬軍団の存在の節は、「実質的には騎馬武者に率いられたその従者(武家奉公人)及び徴集された農兵による歩兵部隊であった」「軍制上から単独兵科としての騎馬隊の編成は難しく、騎兵のみで部隊を構成したという事実は一部を除いてない」と続いてきており、要するに「全員騎乗ではない」と結論づけたいわけで、yasumi氏のご提案で適切です。
騎兵には、全員騎乗し戦略的用途において機動力を発揮するものと、胸甲騎兵のような全員騎乗するが機動力は重視せず、決戦場でせいぜい数百メートルの突撃力を発揮する兵科とがあります。武田の騎馬隊は歩騎混成ですからどちらとも違います。--Cave cattum 2009年3月16日 (月) 05:27 (UTC)

しかし本文では最終的に、

  • 関連して武田軍には騎馬の最大の特徴である機動力を生かした作戦がほとんど見受けられない。やはり日本の戦国時代における騎馬隊は西洋の騎兵とは異なるものと考える必要がある。

と結論付けており、これは、機動力について異なるものと考える必要がある、と受け取れます。要するに「全員騎乗ではない」と結論づけたいわけではなく、「全員騎乗ではない」から「機動力を重視したものではない」と結論づけたいように受け取れます。つまり、「機動力を重視したものではない」と結論づけたいからこそ「全員騎乗ではない」ことを説明しているわけで、「全員騎乗ではない」ことが結論であれば、そもそも件の文章は必要すらなくなってしまうと思います。--60.239.240.6 2009年3月16日 (月) 05:47 (UTC)

「機動力を重視したものではない」と結論づけたいように受け取れるのでしたら、「全員騎乗ではない」という結論が変わらない範囲で、書き換えてください。「武田の騎馬隊は機動力重視ではない」と書くと、ならば胸甲騎兵のようなものかと解釈される可能性があるので、不適切です。--Cave cattum 2009年3月16日 (月) 07:30 (UTC)
  • 関連して武田軍には騎馬の最大の特徴である機動力を生かした作戦がほとんど見受けられない。これは先述のとおり、武田軍の騎馬隊が全員騎乗したものではないことに起因しており、戦略的意義において機動力を重視した全員騎乗の騎馬隊などとは本質的に異なるものと考える必要がある。

では如何ですか?--60.236.85.179 2009年3月16日 (月) 07:59 (UTC)

ちなみに、ここでは「機動力重視ではない」ことを結論付けたいだけですので、「衝突力重視」と受け取られるか否かは、また別の話であり、別に記載すべきでしょう。「衝突力重視」とあえて誤解させるような表現も特に見当たりませんので「胸甲騎兵のようなものかと解釈される可能性」があっても、不適切とは言えません。--60.236.85.179 2009年3月16日 (月) 08:04 (UTC)

武田の騎馬隊は、機動力を重視した全員騎乗の騎兵とも違いますし、機動力を重視しない全員騎乗の騎兵とも違います。要するに全員騎乗の騎兵とは違うというのが結論です。せっかくyasumi氏のご提案で過不足無く言及されていたものを、「また別の話であり、別に記載すべきでしょう」とかいってわざわざ言及不足の状態に変えてしまい、改悪するのはやめてください。--Cave cattum 2009年3月16日 (月) 08:49 (UTC)

機動力の話をしている文脈で、衝突力や他のことを比較対象に織り込む必要性がないと言っているだけです。「機動力を生かした作戦がほとんど見受けられない。」と言っていることから帰結する文章なのですから、機動力について述べるべきであって、衝突力のことはまた別で述べればよい話です。

私はコメント依頼からきたものですので、議論の邪魔をするつもりはありませんが、Cave cattum氏のような、排他的な発言はやめるべきだと思います。全く礼儀知らずにもほどがあります。あなたのような人との議論は私も願い下げですので、これで失礼いたします。--122.130.138.127 2009年3月16日 (月) 11:56 (UTC)

別にyasumi氏のご提案に対しては排他的になっていませんが。yasumi氏のご提案は改善だから歓迎され、IP氏は改悪だから歓迎されない、ただそれだけの話です。--Cave cattum 2009年3月17日 (火) 03:35 (UTC)
(コメント)ちょっと気になったので。乗馬突撃(いわゆる衝撃力の発揮)と下馬しての徒歩突撃(これは攻撃開始線/攻撃準備線到着前の戦場間機動という意味合いでの機動力の発揮)、戦略機動や戦術機動は一旦脇において、こういった表現法での説明が必要になるのではないかと。--219.106の者 2009年3月17日 (火) 17:31 (UTC) 不備修正--219.106の者 2009年3月17日 (火) 17:34 (UTC)
結論付けて良いのであれば、当初議論されていたお二方などで編集をお願いします。
それとは別に、時代や場所での騎馬武者騎士騎馬隊騎兵騎兵隊などの用語についてイメージが混同されているため、これに触れた話題は騎兵ページあたりに振ってしまった方が良いかも知れませんね。--yasumi 2009年3月21日 (土) 22:18 (UTC)
追加発言もないようなので議論に沿った形に編集しました。--yasumi 2009年3月26日 (木) 10:56 (UTC)

イタリア戦役との関係についての編集合戦について

まず、当該の部分についての経緯をまとめると、Kanryu氏が記述したものです。しかし、出典が無く、かつ通説あるいは有名な説というわけでも無かったので、私がKanryu氏の会話ページで出典を要請し、何のアクションも得られなかったためにコメントアウトしました。除去ではなくコメントアウトをしたのは、その会話ページで述べたように、その考察自体は決して単なる憶測や俗説と呼べるほど信頼性の無いものではないので、そういう措置をとりました。

さて本題ですが、まず出典があるならば、イタリア戦役との関係性を記述することには問題は無いと考えます。よって、これを直接証拠がないという理由によって除去することには反対いたします。一方で、今回のきっかけとなったIP氏の加筆にも一部を除いて反対致します。野戦築城のことに関しては、既に記述されているわけであり、この節で説明しているのは、あくまでイタリア戦役との関係についてです。当初のkanryu氏の記述は(出典こそ無いが)その辺に絞っているので良いのですが、IP氏のほうは蛇足的です。まして強制改行タグの使用など、文章構成において問題があると考えます。

両者の妥協点としては、その説を唱える研究者の実名を出し、○○はイタリア戦役との関係性を考察(主張)している。というような形で、あくまである研究者の意見とするのでどうでしょうか?そして文章の基本はkanryu氏の版に合わせる。--EULE 2010年9月26日 (日) 05:07 (UTC)

はじめまして。
>>その説を唱える研究者の実名を出し、○○はイタリア戦役との関係性を考察(主張)している。というような形で、あくまである研究者の意見とするのでどうでしょうか?
良いと思います。その意見には基本的に賛成いたします。しかし、関係を示す歴史的資料のない、すなわち関係のない他国の戦争の内容をこのページに書く必要があるとは思えません。この戦争のページにおいて、特定の部分、つまり長篠の戦いにおける戦術の説明をしている部分の一部に、注として「○○はイタリア戦役との関係性を考察(主張)している。」という主旨の文章を入れることを提案いたします。--119.172.192.172 2010年9月26日 (日) 05:31 (UTC)


イタリア戦役等における野戦陣地・人工的障害物の背後からの連続射撃という戦術は、織田・徳川連合軍が長篠の戦いで用いたものと完全に一致しているわけではありません。
ですから記す必要があるのです。
>>「○○はイタリア戦役との関係性を考察(主張)している」
この表現では同意しかねます。
(A)イタリア戦役等とどのような類似性があるのかということを説明する必要があります。
(B)信長がクレシーの戦いや16世紀当時の西洋における戦術に強い興味を持ち、ルイス・フロイスからそれらに関する詳細を聞いていたということも明記するべきです。
119.172.192.172は、自らは何の根拠もなく複数の識者による客観的事実の指摘を否定し、これも何の根拠もなく信長の独創性を主張したいだけです。
さっさと投稿ブロック処分にすることを提案いたします。
上記(A)(B)が満たされるなら、文章の体裁については従前のものでも異論はありません。
戦争同士の関連を示す歴史的資料もなければ、参考にしたとする歴史的資料もありません。
しかも上の方自身が述べている通りなら、完全に一致しているわけではありません。要するに完全に似ているだけです。
関係を示す歴史的資料が皆無であり、似ているだけという話で、WIKIで「この戦争は戦い方を教わって行ったのだ」として強調しろというのはあまりにも無理な話であり、「○○はイタリア戦役との関係性を考察(主張)している。」は当然の話です。さらに当たり前のことですがWIKIは辞書に近い場であって、独自の考察を、書いている人間が入れる場ではありません。
論点は要するに、関連を示す歴史的資料が皆無、すなわち歴史的に何の関連性もない似ているだけという他国の戦争を、似ているからという理由で中に大きな枠を作って内容説明する必要があるのかないのかという部分です。
仮に関連のない戦争の戦術の近い部分を載せたいとしても「○○はイタリア戦役との関係性を考察(主張)している。」と共に注として差し込んでおけば何の問題もありませんし、関係のない似ているだけという他国の戦争を一つ一つ内容を記述する必要はありません。他でも同様でこのページに限った話ではありません。
それと、上の方はどなたか存じませんが、署名はしましょう。最低限のマナーです。--119.172.192.172 2010年9月26日 (日) 08:32 (UTC)


119.172.192.172は、自らは何の根拠もなく複数の識者による客観的事実の指摘を否定し、これも何の根拠もなく信長の独創性を主張するのはやめてもらいたい。
>>要するに完全に似ているだけです。
自分が気に入らない記述は、信長自身が「西洋の戦術を真似しました」と言っている文献が出てくるまで認めないとか、正気ですか?
Wikipediaでは、出典を明記して検証可能性を確保していれば、出典元の文献で断定的に書かれている内容をそのまま断定的に引用しても許されるはずです。
私が提示した文献には、
「長篠の戦いは西洋の戦術の真似であると考えられる」
ということが断定的に書かれています。
私はその内容をそのまま引用しただけです。
出典元の文献で断定的に書かれている内容をそのまま断定的に引用して何の問題があるのでしょうか?
私の記述を「という説がある」と改めるのならまだしも、信長の独創性を否定する説の存在さえも読者の目に触れないように隠蔽し、さらに完全に削除するのは、明らかにマナーもモラルもない行為です。
119.172.192.172を投稿ブロック処分にすることを、再度、提案いたします。
>>それと、上の方はどなたか存じませんが、署名はしましょう。最低限のマナーです。
上の記述は私です。
単に署名し忘れただけですが、自分が気に入らない説の存在さえも完全に闇に葬り去ろうとする人間に、マナーがどうとか言われたくないですね。
以上に明らかなように、この信長オタとは合意が形成されていないので、引き続き本文の保護をお願いします。
この者は、保護が解除されたら、また自分が気に入らない説の存在さえも抹消しようとするでしょうから。
--60.34.116.94 2010年9月26日 (日) 10:39 (UTC)
Kanryu氏が来るまで発言するつもりは無かったんですが、それぞれにコメント。
119.172.192.172氏へ
これが単なる戦いなら、確かに氏の言い分も通ると思います。おっしゃるように似通った部分があるってだけで単なるこじ付けですから。普通なら。しかし、野戦築城というものを考える上でイタリア戦役の例は代表的な物であり、日本史においてはこの長篠の戦いが重要な物です。というか、むしろ三段撃ちなんかよりもよっぽど野戦築城の方が重要なんですよ。だから、野戦築城について別節を設けて多少なり、詳しく記述することは私は問題ないと考えます。ただし、最初の方でも言ってますように60.34.116.94氏の文面というのは蛇足的だと思います。せめてkanryu氏くらいが望ましい。
60.34.116.94氏へ
>断定的に引用しても許されるはずです。
許されないです。中立的観点に違反するので。あくまで特定の人物が主張していることは、特定の人物が主張しているという形で記述しなければなりません。60.34.116.94氏の文面というのは、いかにも既に学会などで広く支持されているかのような誤解を与えかねません。私は、イタリア戦役との関係を論じる研究を否定するつもりはありませんが、これが広く支持されているとは認められません。
また意見が対立しているとはいえ、119.172.192.172氏の意見は一理あります。署名などの指摘も妥当なものであり、そこに悪意を見出さないでください。それを信長オタが気に入られない説を封じようとしているだのとレッテルを貼って、あまつさえブロックで発言権を奪おうとするのは、むしろその方が問題であるので気をつけて欲しいです。強制改行や署名の件から氏が初心者だということはわかりますので、ブロックという措置はそう軽々しい物ではないと知ってください。--EULE 2010年9月26日 (日) 10:59 (UTC)

書き込むのが遅れました。EULEさんご苦労様です。おっしゃるとおり私が追記した時点では出典とできる記事はWikipediaのゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバくらいであったため、受けた指摘に対して特に反論はせず、この記事は長らくコメントアウトされたままになっていました。今回の編集合戦によって結果として出典元を用意できる形となったので正式な記事として採用できる形になったと思います。

戦国時代における火縄銃の影響の大きさはみなさんご存知と思いますが、この兵器の運用には海外勢力との連携が不可欠でした。当時日本では火縄銃本体は既に国産化されていたものの、肝心の弾薬の原料である硝石が国内で採掘できないため全量が輸入品であり、朝鮮、明(中国)、キリスト教勢力のいずれかと貿易して手に入れるしかありませんでした。 織田政権はキリスト教勢力と協力関係にあった国内最大の勢力の一つでした。こういった状況から信長は火縄銃の運用に必要な原料やその運用法について並々ならぬ感心があったことは想像に固くなく、まだ学会の主流にはなっていませんがイタリア戦役の故事と結びつけて考えている研究者も複数いるようです。ちなみにイタリア戦役は長篠の戦いからわずか数十年前の話であり、その戦いで勝者であるスペイン王国とイエズス会の派遣元であるポルトガル王国は王家を一つとする兄弟国家です。

まとめに入りますが、現状ではこれらの指摘はそういう「可能性がある」レベルだと私は思います。私が当時書いた記事を基準にされるのはもちろん構いませんし、出典元の記事を参考にするのはいいでしょう。全部削除してしまうというのも過度に断定的に書くというのもどちらも極端な話であって、出典元が指摘する内容に沿った形で無難にまとめたいところですね。--kanryu 2010年9月26日 (日) 11:38 (UTC)


このノートという場や履歴において、信長オタという個人的な誹謗中傷を繰り返しうけた事実はとても残念に思いますが、EULEさんが仲裁に入ってくださいましたので、60.34.116.94さんとのやりとりは中断するとして、EULEさんに対するコメントをしたいと思います。
では、私からの提案ですが、欧州云々ではなく、野戦築城という戦術そのものにスポットライトを当て、その戦術専門の枠を作ればよろしいのではないでしょうか?それならば、この戦争自体は海外の戦争とのつながりを示す歴史的資料はなく、即ち海外の戦争とこの戦争とは何の関わりもない事柄ですが、この戦争で行われた野戦築城の説明をすると共に、海外の類する事柄の例を示す事が出来ます。それならば、長篠の戦いの枠から逸脱せず筋が通ります。
ということならば、「野戦築城」という題名で枠を設け、この戦争で行われた野戦築城に関する簡単な説明をまず最初。次にに欧州の類似すると思われる簡単な例。イタリア戦役の例が代表例というのならばそれでいいでしょう。こちらは詳しく説明ではなく簡単な例示で十分と思われます。内容が知りたいなら向こうの記事に飛べばいいのですから。そして、その代表例の最後に注でくくり、「○○はイタリア戦役との関係性を考察(主張)している。」を入れておく。もちろんこの戦争で使われた野戦築城の説明であり、欧州は野戦築城は説明ではなく類する事柄のの例示ですのでそこだけ認識できればと思います。
もしくは過去の文に野戦築城の説明が既にある、ということであるのならば、その説明部分に、注で海外の代表例と、○○はイタリア戦役との関係性を考察(主張)している。を入れておけばよいでしょう。
こんなもんでいかがでしょうか。
ちなみに、あなたと簡単に会話をしましたが、私は野戦築城についてあなたほどの知識はないでしょうし、あなたは中立な立場から文章を作る事が出来ると思います。私の意見に賛同いただけるのなら、この戦争で使われた野戦築城の項目の執筆を依頼したいのですが難しいでしょうか。--119.172.192.172 2010年9月26日 (日) 11:59 (UTC)
追記ですが、kanryuさん。「まだ学会の主流にはなっていませんがイタリア戦役の故事と結びつけて考えている研究者も複数いる。」このような発言をしたからには、結び付けて考えていることを示す複数の研究者の資料文献がなければ何の説得力もありません。そのような研究者が複数いるという言いっぱなしは、前にも述べられていますがいかにも既に学会などで広く支持されているかのような誤解を与えかねない発言に他なりません。さらに、この戦争と、例の事柄を結ぶ歴史的資料なしに説を唱える人間が100人いようが1000人いようがただの主張の粋を出ないことをご理解ください。--119.172.192.172 2010年9月26日 (日) 12:22 (UTC)


その複数の研究者の主張の存在さえも完全に闇に葬り去ろうとした人間が、どの面下げて他人様に説教垂れてんだか。
鏡を見ろよ。--114.180.81.242 2010年9月26日 (日) 14:18 (UTC)
119.172.192.172です。とりあえずアカウントを取得いたしました。IPは何らかの方法で変わったとしても誰と誰が同一人物かは大体判定できるものの、読み手が混乱する恐れがありますので。
さて、114.180.81.242さん、そもそも新しく作られた項目そのものが、前述したとおり関連を示す歴史的資料が皆無、すなわち歴史的に何の関連性もない似ているだけという他国の戦争の内容の話であり、この戦争のページに書く必要のない事柄でしたので削除で問題ありません。同様に、例えば戦国武将が古代中国の戦争のいくつかの事例を知っていた可能性があり、ある戦争において古代中国の特定の戦術に似た戦術が取られたからといって、古代中国の似た戦争の内容の一つ一つをある戦争のページに載せていく必要はありませんし、真似したと考えられるなどとは記述しません。また、ある本で過去に似た戦争があるから真似かもしれないという個人的な主張が行われていたからといって、真似したかもしれなという主旨の項目を作り、海外の似た戦争の内容を一つ一つ書く必要もありません。古代インドでも古代アラビアでもギリシャでも同様です。仮にどうしても戦術の似た部分を記したいとしても野戦築城の説明されている部分に注記として海外の似た事例及び○○の主張を載せれば十分な話です。
とりあえずあなたにお聞きしたいのですが、「その複数の研究者」というのは当然kanryuさんのコメントからつながっている「この戦争とイタリア戦役の故事と結びつけて考えている複数の研究者」を指しますね。私が長篠の戦いとイタリア戦役の故事と結びつけて考えている複数の研究者うち誰と誰と誰の「主張の存在さえも完全に闇に葬り去ろうとした」のでしょうか?また、「主張の存在さえも完全に闇に葬り去ろうとした」とはなかなか力強い表現だと思いますが、一般に既に広く出回り、当然に公に公開されている書籍、文献についてWIKIにおいて、そもそも必要のない項目の一部分として結果として消えたら、「主張の存在さえも完全に闇に葬り去ろうとした」とは一体どのようなことなのでしょうか?「存在さえも完全に闇に葬り去ろうとした」の定義とあわせてお答えください。
それと、WIKIでは論争の解決として基本的に「礼儀を忘れず、冷静に、個人攻撃はしない」事が求められています。あなたと私の間でも礼儀正しく冷静な議論ができることを期待しております。
とりあえず私はEULEさんからのリアクションがまだですので、引き続きそもそも項目自体前述した理由により必要ない。どうしても似ている他国の戦争の戦術部分を載せたいとして野戦築城の注記として似ている他国の戦争及び、特定の主張者を載せればよいという提案状態です。--Yamazaki02 2010年9月27日 (月) 00:40 (UTC)
アカウント登録ありがとうございます。ついては本題ですが、まず不明な点があるのでお尋ねしますが「戦術専門の枠」とは具体的に何のことでしょうか?節のことでしょうか、それとも記事のことでしょうか?その辺がちょっとわからないのでお願いします。
それでいずれの形にしても、私がそれを詳しく記述することは難しいです。私は基本的に歴史の流れに興味を持ってるので、その通説や俗説、ほか有名な説について、そこそこの知識は持っていても、個々の専門的な話、例えば今回は戦史や軍事学の範疇に入るので難しいです。歴史で野戦築城が用いられた実例ならわかるけど(日本史なら陣城の方がピンと来るが)、野戦築城という主題で記事を書こうとするともうお手上げです。何を調べれば良いかもわからない。ただIP氏が言っているように、単に「○○が主張している」だけだと、何でそういう結論に至るのかさっぱりわからないで、(記述するなら)多少なり背景の言及の必要はあると考えます(しかし、何度も言うように、IP氏の記述というのは蛇足的だから賛成できない)。
いずれにしても、直接証拠は無いわけですから、主張者の推測にならざるを得ず、それに分量を割くことに懸念を示すのは理解いたします。--EULE 2010年9月27日 (月) 03:32 (UTC)
EULEさん、お返事感謝いたします。まず、「戦術専門の枠」とは、”野戦築城という戦術そのものにスポットライトを当て、その戦術専門の枠”ということですので、その戦術、即ち野戦築城。野戦築城専門の枠をこのページのどこかに作ればよいのではないか、ということでした。その一つ目の案では、論点と詳細というとちょっと定義が同じではないかなとおもいますが、想定していたのは詳細も含んでいるということで論点と詳細の節の中の一段落として野戦築城の説明や、この戦争における野戦築城の簡単な説明、他国でも国内でも簡単な例を差し込んでまとめておけばどうかということでした。が、野戦築城のページも既にありますね。簡単に言うと野戦築城の定義は事を有利に運ぶために現地で作った各種簡易建造物、欠点は待ち構えなので相手がそもそも来てくれなければ作り損になるということですが、アジアで初めてと断定してしまうポイントも気になります。野戦築城のページが既にある以上このページで野戦築城の説明をする必要はありませんし、同時に下でこの戦争で使われた野戦築城の説明をすれば「信長軍団の到着」と重なって二重説明になってしまうかもしれません。結局、二つ目の案の”もしくは過去の文に野戦築城の説明が既にある、ということであるのならば、その説明部分に、注で海外の代表例と、○○はイタリア戦役との関係性を考察(主張)している。を入れておけばよいでしょう。”の文章が当てはまるのだと思います。前に述べたとおりある本で真似したと考えられると書いてあったから、歴史的にこの戦争と欧州の戦争のつながりを示す歴史的資料がない中、野戦築城はアジアで初めてと断定し、海外で似た戦争があったから信長が真似した可能性があるという主旨で文章を構成する必要はないといわざるを得ませんし、宣教師云々などとそれっぽい理由付けをしていく必要があるとも思いません。つなげる歴史的資料が発見されてから検討すれば十分の話でしょう。
それなら、このページにおいて野戦築城の説明がなされている、すなわち「信長軍団の到着」の段落の、野戦築城のリンクに飛べる付近に注として海外例及び特定の主張を差し込んでおいたほうがずっとわかりやすいでしょう。また、海外における野戦築城の説明を入れたいのならリンク先の野戦築城の記事内に記述する事が最も適切でしょう。
新しい段落を作ったらどうかという主旨を一つの案として入れたのにも関わらず、結局は注に入れるのが最も正しいのではないかと、海外の野戦築城の説明を入れたいなら野戦築城のページで行ってはどうかという提案になってしまい大変申し訳ありません。EULEさんはどうお考えでしょうか。--Yamazaki02 2010年9月27日 (月) 08:54 (UTC)
refタグかそれに類する形で、既にある野戦築城の説明部分(「武田軍が大敗した理由」の中が妥当かな)にYamazaki02氏が提案するような分量で記述し、より詳しいことは野戦築城の方で具体的な戦術や関係性などを記述してもらうというのは良いかもしれません。kanryu氏とIP氏の意見を待ちましょう。--EULE 2010年9月27日 (月) 09:32 (UTC)


野戦築城の記事に長篠の戦いについての記述を追加する分には問題ないと思いますが、それで長篠の戦いのページから記述を削除する理由にはならないでしょう。Yamazaki02さんのご高説は参考にするべき点多々あるかと思いますが、私が疑問に思っているのはその一点です。出典元の各文章をよく読んでみてください。

『複数の研究者うち誰と誰と誰の「主張の存在さえも完全に闇に葬り去ろうとした」のでしょうか?』ということですが、具体的には私が記述した段落全体を何度も何度も削除しようとしたことでしょう。WikipediaではIPアドレスユーザーが特定の記述を十分な根拠もなく何度も追加しようとしたり削除しようとしたりすると、荒らし同然に扱われることがあります。

追加として『渡部昇一の戦国史入門 頼山陽「日本楽府」を読む』の解説文にはクレシーの戦いから信長は学んだのではないかという指摘があり、実際に調べてみるとクレシーの戦いも十分参考になりそうです。従って私が当時書いた『イタリア戦役との関係について』よりも現在の『西洋の戦術との類似性』の方がトピックとしては理にかなっているでしょう。

なお、今回の論点とは外れますが『銃砲と歴史2 長篠の戦い5戦いの「実像」戦術革命』では

  • 鉄砲が戦いの帰趨を決めたのは長篠の戦いが最初ではないこと
  • 信長自身や他の大名の編成がこの戦いを境に鉄砲隊中心に大きく代わったという事実は見いだせないこと
  • この戦い以降、野戦において鉄砲隊が特に活躍して勝敗を決定づけた事例が増加したという事実は見いだせないこと
  • この時代以降日本の城郭が鉄砲による攻防を前提とした進化をしていると必ずしも言えないこと
    • (特に大砲に対処するには土壁や石壁よりも土塁の方が有利。戊辰戦争で廃城寸前まで損壊した若松城が好例)

など、Wikipediaの記事にはない有益な論点がいくつかあり、出典元を踏まえつつ記事を充実していければと思います。--kanryu 2010年9月29日 (水) 02:29 (UTC)

そういう観点もあるのならば、戦術史からの側面みたいな節を作って、その中の一要素として野戦築城に言及してみても良いかもしれませんね。まあ、とにかく互いに妥協できる点は妥協して合意を目指してください。互いに自分の主張を言いっぱなしではなくて。
あとクレイシーの戦いの言及ですが、「○○はクレイシーの戦いとの関係性も考察している」という程度ならいいですが、これを詳しく当記事でやるのは反対です。必要性は全く感じません。--EULE 2010年9月29日 (水) 06:10 (UTC)
私もクレイシーの戦いもここで取り上げろといったところで当記事での内容記述に反対です。これまでに何度も述べてきたこともあり改めて長文で述べるつもりはありませんが、もし書くとしても上記において述べられている位置においてrefタグの形で野戦築城のカテゴリーに入る海外の戦争の中で特に有名なものと、EULEさんが述べている程度の長さで、つまり「○○はクレイシーの戦いとの関係性も考察している」という形で書きましょう。そして、欧州に限らないアジアを含む野戦築城のカテゴリーに入る過去の海外の戦争の詳しい例は野戦築城の記事の中においてお願いします。ここで書く内容ではないですし、そちらに存分に書く機会はありますので。また、今回の論点から外れる話においては私は触れないでおきます。--Yamazaki02 2010年9月29日 (水) 12:44 (UTC)
1つ重要なことが抜けていたので言いますが、クレイシーの戦いを詳しく記述する必要性を感じないのは、Yamazaki02氏が述べている単なる類似性で引き合いに出すなということそのままです。私は「野戦築城」に関しては多少詳しくても良いと思うと述べましたが、これは先にも述べたように「野戦築城」と言う観点から見て特筆性があると思うからです。野戦で地形などを利用し射手を保護して主戦力として用いるというのはローマ時代でもあるし、もしかしたら日本でも源平合戦の頃にあったかもしれない。ここで特に「野戦築城」と呼ばれる物は、あくまで火器が登場し発達した後で、歴史な必然性というか戦術的な必要性というかから登場したものを言う。つまり、火器を用いていない野戦築城の例を、ここで詳しくやるというのには反対ということです。
あと、すっかり忘れてましたが、その論の主張者というのは、どの程度の権威があるんでしょうか。例えば学会やその研究の重鎮だとか、あるいは一般に著名な人物であるとかなら、特筆性はあると思います。在野の民間学者とかのごく一部が唱えているとかであれば、わざわざ記述する必要はないでしょう。まあ、イタリア戦役との関係はそこまでマイナーな物じゃないと私は知っているので、言及する価値はあると思いますが、挙げられた出典も、それが権威がある、あるいは有名であるってわけではないなら、当然、それに見合った分量に抑えるべきだと思います。--EULE 2010年10月2日 (土) 05:32 (UTC)

議論が止まってるうちに保護も解除されてしまいました。一応、IP氏の編集は、同じ野戦築城の記述を認めるkanryu氏にも肯定されているようには見えないので、一時的にkanryu氏による 2010年9月26日 (日) 04:49(JST)の版にまで戻しました。具体的な結論が出ていないために、これを最終決定にする気は無く、あくまで一時的な処置であることをYamazaki02氏にはご理解いただきたい。結局、私やYamazaki02氏の発言について反論が無いので、もう1週間待って何もなければ、当初の提案どおりの処置の後、除去したいと思います。--EULE 2010年10月28日 (木) 15:27 (UTC)

(追伸)IP氏は結局、建設的な議論に参加してくれませんでした。これでまだ編集合戦をするようであれば、保護ではなく、次は半保護の依頼をしたいと思います。--EULE 2010年10月28日 (木) 15:29 (UTC)

フジさんによって章がまとめて削除されてしまい、元に戻すようにお願いしましたが話を聞いてもらえません。この場である程度の同意は得られていたと私は考えていたのですが、そうではないのでしょうか。EULEさんの発言を元にまとめてみます。

  • イタリア戦役との関係性に関する記述は維持すること
  • IP氏の加筆については出典の追加を除き、原則削除すること
  • 全体としては私が最初に書いた記事に出典を追加した状態とすること
    • フジさんによって削除される直前の状態です

――というのがEULEさんの仰った当初の提案どおりの処置だと思うのですが、その後で章全体を記事を削除するつもりだったのでしょうか。

次にYamazaki02さんが主張されている「野戦築城の記事を作れば長篠の戦いの記事から現在の記述を削除しても良いのではないか」についてですが、当然ながら反対です。

  • 長篠の戦いで織田側の陣地に念入りな準備がなされており
    • これは信長公記に記述があります
  • 鉄砲を大量かつ集団的に運用した好例であり
  • 鉄砲が野外戦で防御陣地の兵器として活躍した先例を宣教師等から信長が知っていた可能性があり、その可能性を指摘する複数の文献がある
    • 結果として戦国時代における技術・文化・情報の世界的な広がりを示す好例

といった意義がありますので、やはり長篠の戦いのページにこの章は記述されるべきであり、時代背景が薄れてしまう野戦築城のページに移してしまうと意義が半減してしまうのではないでしょうか。

なお「クレイシーの戦い」に対しての言及ですが、文献でこうあるので章の表題を変更しようと提案しただけで、本文中にクレイシーの戦いについての言及を加えるという主張はしていません。--kanryu 2010年11月11日 (木) 07:37 (UTC)

知っていた可能性があるというだけで書き始めるとそれこそあらゆる戦に当てはまることであって、そして読者にあたかも参考にしたかのような印象のみを植え付けかねませんので基本的に反対です。
提示されている情報も50年前に海外で野戦築城の戦があったことと、宣教師が来ていたことで、これで信長が参考にしたと書いてもキリもないです。あらゆる戦はあらゆる過去の戦を参考にした可能性があると言おうと思えば言える話ですので。
信長が参考にした可能性云々はそれを推察できる程度の歴史的な根拠が出てきたら書けば良い話でしょう。--126.112.208.214 2010年11月15日 (月) 05:56 (UTC)
溢れかえるほどの書物があり、あるいはインターネットでリアルタイムで海外の情報が分かる現代の尺度で当時のことを推測することはできません。天正時代は南蛮貿易や宣教師を通じて海外の情報が比較的入ってきやすい時代ではありましたが、それでも情報を主体的に入手できる人々は非常に限られていました。船を持つ水軍、堺の商人たち、南方との貿易を積極的に行う島津や九州のキリシタン大名たち、そして織田政権です。
また海外からの新知識に触れても理解できるかどうかは別の話で、例えばルイス『日本史』では地球が丸いことを説明したときに理解できたのが信長一人だけだった、というエピソードもあります。
記事本文にあるようにこの戦いは非常に特筆性の高いものであり、これらの状況証拠がそろっているからこそ複数の文献で説が出ているわけで、安易に一般化して否定するのはどうかと思います。--kanryu 2010年11月15日 (月) 07:29 (UTC)

126.112.208.214さん以降、特に反対意見も出ていないようですので、一週間このままならば2010年11月11日 (木) 07:37 (UTC)で表明した状態に記事を確定させることにします。--kanryu 2010年11月20日 (土) 06:12 (UTC)

2010年11月11日 (木) 07:37 (UTC)の記事に確定させるということなら反対ですね。現状のrefタグの範囲内で十分説明されています。前に述べた通り長篠の戦いの記事に、歴史的つながりを示す資料の全くない、即ち関係のない戦争である第一次イタリア戦役や第二次イタリア戦役の内容解説は必要ありませんので。野戦築城のページや、第一次イタリア戦役や第二次イタリア戦役のページ自身の内容を充実させることをお勧めします。--Yamazaki02 2010年11月20日 (土) 12:16 (UTC)
2010年11月15日 (月) 16:05(UTC)時点の記事は、良い妥協点だと思います。出典元がひとつ抜けてしまってますので、後で追加しておきましょう。
ただしWikipediaにおいては、検証可能性を満たしていれば、学会で定説であるかどうかに関わらず記事本文に記載することができます。ましてや一次資料があるかないかは関係ありません。検証可能性『2 「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」』をご覧ください。--kanryu 2010年11月21日 (日) 06:34 (UTC)
一応、議論の推移は確認していましたがそれは違うので発言します。
検証可能性は必要条件であって十分条件ではないです。当たり前の話ですが、特筆性が無ければ(記述の必然性が無ければ)、検証可能性を満たそうが除去されてしまうでしょう。例えば極論ですが、関ヶ原の戦いにおいて、出典付きで当時のアメリカの動きなんて入れたって無駄でしょ。また中立的な観点にあるように、個人の意見や少数派の意見を大きく取り上げる、まして定説であるかのように取り上げるというのは、それはそれで問題です。これもわざわざ個人の考えを取り上げて言及する必要があるかという話になる。
今回の話が難しいのは、その記述の必然性があるかどうかで、必然性があると思う人は当然あるって言うし、無いと思う人は無いって言うし、水掛け論になってしまう。「クレイシーの戦い」については必要ないとはっきり断言したように、はっきりと無い(ある)と断言できる程度はあるにしても、それがどこまでに及ぶかというのは難しいです。--EULE 2010年11月21日 (日) 07:04 (UTC)
わかりました。私としてもkanryuさんの述べた事柄に対して部分的に思うところはありますが、kanryuさんの現状の認識についてEULEさんからも既に指摘が入っていますし、私としては長かったこの話題もあと一つ出典を付けるという形で妥結に向かうということでそれを歓迎したいと思います。
あ、一つ、特筆性ということなら、歴史的資料としての根拠がないので私としては余り賛成ではないのですが「野戦築城、鉄砲、長篠の戦い以前」という点で既に確保され記されています。それ以外の向こうの個々の戦争の内容が知りたいのなら、向こうの記事を作成、もしくは充実させた上で青色状態(リンク)にしておくことが原則として最も適切なんですよ。向こうの個別の内容を読みたい人は勝手に飛びますから。
それはともかくとして、kanryuさんにお聞きしたいのですが、出典の追加というのは現状の「名和弓雄『長篠・設楽原合戦の真実 甲斐武田軍団はなぜ壊滅したか』(雄山閣出版、初版、1998)253頁」がある横に、スペースを空けて、出典をもう一つ置いて妥結ということで間違いないでしょうか。--Yamazaki02 2010年11月21日 (日) 10:57 (UTC)
また、それは「渡部昇一『渡部昇一の戦国史入門 頼山陽「日本楽府」を読む』(PHP研究所、出典部は本文ではなく解説文)」←これのことでしょうか?--Yamazaki02 2010年11月21日 (日) 11:01 (UTC)
いつのまにか、私の記述したこの節が、すっかり全部消えちゃってますね。全ては無に帰した。--kanryu 2011年12月16日 (金) 09:25 (UTC)

近年の研究の反映

当記事においても若干加筆しましたが、近年武田研究に関する大きな動向として西上作戦の再検討というものがあります。これは従来元亀2年の三河・遠江侵攻の経緯が文書の年代比定の修正から長篠の戦いにおける動向ではないかというもので、一定の承認は得ていますが、議論は続いているという状況です。ですから記事への反映は動向を見守りつつ行ないたいのですが、現在の状態における合戦の動向部分について、なにかしかのアナウンスができればどうだろうと思います。--でここ 2010年12月29日 (水) 07:12 (UTC)

「鉄砲三段撃ち」「武田騎馬軍団」について

近年、この二点を中心とした軍事史的な再検討の研究動向があって興味深く、wikipediaにおいても当然これらの指摘を反映させて記事を構成することが望ましいなと思うのですが、ただ『信長公記』がどうして武田騎馬軍団を信長の鉄砲三段撃ちという革新的戦術で撃破するという構図の著述をしているのかが気にかかります。

私見になってしまいますが、騎馬文化というのは源平合戦以来の武家の伝統であり、新羅三郎義光以来の高い格式をもつ武田家の騎馬軍団を、鉄砲という新興兵器の革新的利用で撃破するという新旧交代の構図を、信長公記の著者は反映させたがっているのではないかと、史観のようなものを感じます。

それが近世・近代社会における受容を経て今日に教科書にまで記載されている物語に至っているのであろうと思いますし、たとえ軍事史的に史実性が否定される出来事であるにしろ、それ自体には意義のあることであろうかと思います。

軍事史的再検討の記述はまったく問題ないと思うのですが、一方で信長・信長公記研究の観点とでもいいましょうか、なぜ鉄砲三段撃ちのような物語が成立し、合戦図屏風などを経て近世社会に受容されていったのか、そちらの歴史的背景の加筆もないとバランスが取れないのではないだろうか、と感じます。

私は織田氏関係には詳しくないのですが、織田研究においてこうした観点の研究は存在しないのでしょうか?--でここ 2011年1月28日 (金) 06:49 (UTC)

お考えになっていることと実際の信長公記の記述とがかなりの差異があるようですので、一度実物を読まれることをおすすめします。--kanryu 2011年1月28日 (金) 13:50 (UTC)
わたしの関心・執筆範囲の優先度からして、信長公記研究の把握は先になりそうです。お詳しい方がおられて対処していただければ、と思います。『甲陽軍鑑』をめぐる問題とも通じるのですが、史料性の否定とか、出展がない状態での反論などがごっちゃになって、資料や記述の背景がわからないままに散らかった記述になってしまっているのですよね。甲陽軍鑑の勝頼期の武田家に関しては、近年丸島氏の指摘がありますから紹介して、バランスを取ることを試みました。--でここ 2011年1月28日 (金) 14:22 (UTC)
このウィキペディアの「信長公記」にも書かれていますが、でここ氏が言っているのは、小瀬甫庵の「信長記」での話です。「信長記」は娯楽性を持たせるために大分脚色されており、信憑性は低いってのは、そう疑う余地のないところです。--EULE 2011年1月28日 (金) 15:15 (UTC)

『甲陽軍鑑』が派生編纂資料を産み、武田家の物語ができていったのと同様の理解をしています。信長公記においては信長が鉄砲を活用して武田騎馬隊を打ち破ったとする基本的な筋だけですね。それが次第に三段撃ち伝承へと完成していった、のでしょう。わたしは信憑性を問題にしているのではなく、今のいたずらに近年の軍事史的検討のみが肥大化してしまって、もうちょっと時系列に研究史を整備したらどうだろう、と感じているのでしょうね。私は武田信玄川中島合戦など武田氏の主要項目で、脚注で甲陽軍鑑の基本的性格を記しておくという措置を行っていますが、本記事ではどの情報が何に依拠しているのか出典情報のないまま論述がどんどん進んでしまい、整理が必要であると考えています。

基本的に長篠合戦については信長公記が基本資料でわずかな文書はみられる。信長公記が近世・近代に派生物を産み三段撃ち・武田騎馬軍団崩壊の物語として完成し、絵画資料などもつくられるようになる。近代にはおそらく戦史的な注目もあって、実証史学においてもなにかしかのアプローチがあるのでしょう。信長研究・武田氏研究における注目のされ方、そして近年の軍事史検討、そして元亀2年の三河侵攻が長篠前提説による政治状況の再検討と、研究史的な流れが整備できればいいなぁと思います。わたしは「信長公記」研究の深いところをまだしらないので、詳しい方がおられれば手をつけてくれませんか、ということですね。--でここ 2011年1月28日 (金) 16:40 (UTC)

出典情報が無いまま論述が進んでいるということは否定しませんし、それはウィキペディア的によくないものであるということも否定しません。が、本稿の構成については、まず経緯についてはごくごく一般的な事象で取り扱っています。全くそれに異論が無いとは言いませんが、それでもその異論を述べる人であっても、それが一般的によく知られたことであると認めるでしょう。それは信長公記(あるいは別の何か)が基にされているとかどうかじゃなくて。
その上で、個別の論点や、異論、あるいは今では俗説とされるものがどう形成されていったかは、「長篠の戦いをめぐる論点と詳細」で個別にまとめられている。例えば兵数の異論なら高柳光寿、三段撃ちなら信長記から明治の陸軍学校など。その辺りを、その場所で、より詳しく具体的に詰めたり、出典を補っていくという話なら賛同しますが、それなら特に宣言せずとも現状で可能です。
あと武田の騎馬軍団に関しては、そもそもそれ1つ独立記事にすべきであって、ここで解説するようなことではないかと思っています(実際、内容も長篠の戦いとは直接関係無いですし)。あれはちょっと異質だと思ってます(だから前に全体的にまとめた時、第一文で「この戦いに限った話ではないが」と付けました)。--EULE 2011年1月29日 (土) 07:57 (UTC)