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ノート:長宗我部盛親

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関ヶ原の戦いの節に「この時、同様に長束によって進路を阻まれたが、家臣の機転によって無事に東軍に所属した山内一豊は、長宗我部氏のあとの土佐国の国主となっている。」とあるのですが、山内一豊は、関ヶ原の戦い直前は家康に帯同して上杉征伐に向かうところであったし、そもそも領地も掛川ですから、水口の長束正家に進路を阻まれたということはないと考えます。もしかしてこれは「巧妙が辻」のストーリーにある千代からの書状が水口の関所を無事に通り抜けて一豊に届いたというエピソードを指しているのでしょうか?私はあの部分のエピソードが史実なのか、司馬遼太郎の創作部分なのかがはっきりわかりませんが、前記の理由から盛親と同様の意味で一豊が長束正家に進路を阻まれたということはないと考えますのでコメントアウトにしました。もし、出典などがある記載でありましたら、その旨をノートに書いて戻していただきますようお願いいたします。--124.255.6.44 2006年10月18日 (水) 16:54 (UTC)[返信]