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ノート:鎮守府将軍

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名前の変化

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2006年3月2日 (木) 09:11 (UTC) の編集で鎮守将軍の名が征夷大将軍に変化したかのように書かれましたが、そのような説を唱える学者はいないと思います。鎮守将軍大野東人の上に陸奥持節大使藤原麻呂が置かれたように、征夷大将軍(およびそれに類する将軍・大将軍)は鎮守将軍の上に置くものとして任命され、現地で鎮守将軍以下と合流して戦いました。任命記事を追えば、鎮守将軍が通常の任官と一緒なのに対し、他の将軍は必ず大きな軍事行動にともなう臨時任命で、しかも鎮守将軍と交代していないことがわかるはずです。文室綿麻呂は征夷将軍になる前には陸奥按察使で、このとき佐伯耳麻呂が鎮守将軍、物部足継は、鎮守副将軍でした。綿麻呂が征夷将軍に任命されたときに佐伯耳麻呂はその副将軍になります。現地にいる官人を横滑りさせた点でこのときの任命は特殊ですが、征夷将軍が鎮守将軍の上に立つことの表れで、耳麻呂は征夷副将軍と鎮守将軍を兼ねたと考えるのが自然でしょう。そして戦後の論功によって足継が鎮守将軍に昇格するのです。 --Kinori以上のコメントは、Kinori会話投稿記録)さんが[2006-03-02 T11:33:51 (UTC)]に投稿したものです。

非常に詳しくご存知なのに感服しました。私の方はネットでちょこちょこと調べただけなので知識の方は全然およばず、それほど詳しい方が書かれたとは思っても見ず失礼しました。
ですが、将軍というのは司令官ですからひとつの作戦には一人しかいないはずで鎮守将軍の上に征夷(大)将軍がいるのは「言葉」としておかしいと思ったのです(勿論そういうことが無かったと言えるほど調べてはいないのですが、あったとすればそれだけ混乱していたということになると思います)。
そちらの書かれたことをそのまま使って申し訳ないのですが、鎮守将軍が副将軍になって指揮下に入ったということならおかしくありませんし、その前文室綿麻呂は「陸奥按察使」ということのようですので建前として「文官」ですからその下に「武官」である鎮守将軍がいてもやはりおかしくありません(勿論そのころはまだ「武士」はおらず「文官」と「武官」がそんなにはっきり別れていたわけではないでしょうが一応はそんなところかと思われます)。
坂上田村麻呂の後一旦小康状態になり、文室綿麻呂は文官である陸奥按察使となったものの例えば収拾がつかなくなったとかで、武官専任になって陣頭指揮にあたった、というようなことか、あるいは(無論中央の了承を得る必要はあるでしょうが)非常事態を宣言し戒厳司令官になった、ということと似たようなことかも知れません。
また、事態が落ち着いている時の鎮守将軍は例えば物部足継の官位は従五位下で、ぎりぎり昇殿を許される程度のもののようです。
それから、その頃は兼任の場合、武官が文官を兼任しているのではなく、文官が武官を兼任しているように思えるのです(一部例外を除いて)。文官についても、陸奥按察使の後任は陸奥守のようですので、十分中央の権威が及んでいないと思われる場合は「使」あるいは「大使」(今流だと外国扱い、持節だと全権?)で、掌握できていれば「守」なのではないでしょうか ?
さらについでとして、征夷将軍になる前の文室綿麻呂は陸奥按察使で鎮守将軍の上司にあたるようですが「大使」ではなく、中央から見ればさしたるものではないように思えます。
坂上田村麻呂が実績のあった人で(人が偉かった)、後で源頼朝が征夷大将軍になって、さらにその後江戸幕府で将軍が偉かったので、征夷大将軍や鎮守府将軍が偉かったように思われがちなのですが、元々はそうではなかったと思うのです。
そういうことで、文章がすこしうるさくなりすぎたようにも思えますのでその辺を踏まえて直してくださるとありがたいと思います。--以上の署名のないコメントは、210.139.2.180会話/Whois)さんが 2006-03-04 07:22:26 (UTC) に投稿したものです。
そのように書いてくださったおかげで、あなたがこの問題についての知識を持ち合わせていないことがわかりました。ウィキペディアの執筆は、調べて良く知っていることについて行うのです。また、いくら頑張って考え確信がもてたとしても、自分が考えた説を記す場でもありません。そういう場合には読むだけにとどめてください。
本文についてですが、鎮守将軍についての記事に征夷将軍について書き連ねる必要はないと思います。何十人もいる鎮守将軍のそれぞれについて前職が何、そのときの按察使は誰と記す必要はありませんし、一時期についてだけ記すのもおかしなことです。弘仁5年の再任とは、いったいどこで見つけたのでしょうか。何かの勘違いではないでしょうか。結局、直すというより、前に戻したほうがよりよくなると思います。--Kinori 2006年3月5日 (日) 00:58 (UTC)[返信]

────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────まず、私自身について説明しておきますと、インターネットへの接続はダイヤルアップで主にメールやりとりに使っておりちょとした知らべ物にウェブを使う程度のユーザーです。ですので、元より Wikipedia については見るのが主体です。

それで何故書き込んだかというと、最近ウェブで検索すると Wikipedia が良くヒットし中には信憑性を疑われるような内容が散見されるのです。当初はなんだろうと思っておりました。しかしそのうちおおよその仕組みが判りましたので、まあ仕方ないことだとは思ったのですが、

幸い自分でも書き込めるということで、また今現在多少暇なこともあり、試しに書き込んでみているだけだということです。 これから Wikipedia とどの程度の付き合いしたら良いか私として一応見極めでもしておこうか、という程度のことです。

ウェブで検索するとヒットしてしまいますので、全くかかわらないわけにもいかず、ですがダイアルアップですからどんなにかかわってもたかが知れてるのですが。

そういうことですので、書いた中身に「こだわり」があるわけではありませんので、いかようにしてくださっても結構です。

しかしご注意申し上げたいことはあります。

今回私が因縁をつけて見たのは、「日本語として間違えている」ということで、学説や知識の前に、当たり前なことは当たり前なはずです。

最近の世の中一般の風潮としてテクニックが偏重される傾向にありやはり仕方ないのかも知れないのですが、 そういう基本的なことをおろそかにしないでいただけると Wikipedia が私にとって好ましいものになると思います。

検索するとどうしてもヒットしてしまいますので、それだけ影響力があるのだということも心していただけたらと思います。

以 上
--以上の署名のないコメントは、210.139.2.180会話/Whois)さんが 2006-03-06 09:05:48 (UTC) に投稿したものです。

日本語としての間違いというのは、将軍は一つの戦場に一人しかいないはず、という指摘に関わるところでしょうか。もしそうだとしたら、そのような理解が誤りです。一つの戦場に複数の将軍という状況は、当たり前におきます。ウィキペディアに混じる誤りについては、私自身日頃から苦しく感じていることです。心したいと思います。--Kinori 2006年3月6日 (月) 16:55 (UTC)[返信]
征討軍において3人以上の将軍が任ぜられる場合、主将を大将軍と呼称することは、各種百科事典でも確認されます。念のため。--Suifu 2006年9月13日 (水) 15:01 (UTC)[返信]