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ノート:金日磾

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脚注について

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現在の脚注は、正直言ってあまりに多すぎる上、誤りやここで記すべきでないものも多数含んでいるように思われます。以下、問題あると思われる部分を記しておきます。

^ 身長は8尺2寸(約193cm)であったといわれている。このころの時代の尺は、目的によって異なっていた。布や身体を計るときは、23〜24cmである。23.2cmという説もある(190.24cm)。距離を測る場合は約27.7cmである。前趙の劉淵、夏の赫連勃勃らの匈奴も長身であった。白晢、長身、黄髪、緑睛、深目、高鼻、多鬚の肉体的特質をもった種族とする説もある。

8尺2寸(約193cm)であったことだけで十分でしょう。

^ 光禄大夫は医師の官名である。以下略

誤りです。それ以降も金日磾に直接関係ありません。

^ 金人と記述されている。金色の銅像、銅に金がメッキされたようなものか、金無垢のものかは不明(仏像という説もある)。当時匈奴の社会で覡(かんなぎ:神官)は、重要な身分であった。金日磾は捕獲された当時、そういう立場だったかもしれない。

不明なら不明とだけ記すか、特に言及しない方がよろしいでしょう。特に最後の一文は単なる想像、妄想としか思えません。

^ ツングース系の女真族が建てた国「金」と彼の名前の金は無関係である。

わざわざ記す必要はないでしょう。

^ 北方の騎馬民族、スキタイとの関係が深いとされている。以下略 ^ アーサー王神話が、スキタイと関係があるという説もある。以下略 ^ スキタイ人は手が長いということが特徴である。以下略 ^ 日本人も長弓を用いる民族である。以下略 ^ 世界の弓の歴史は古い。以下略

これらはここで記すこととは思えません。記したいなら、スキタイ匈奴アーサー王日本人といった項目など、しかるべき記事にしてください。もちろんそこで記すに足る内容であるかは別問題ですが。

^ 金日磾の末裔は王莽の外戚になった。王莽が生きているうちは、権力を振るうこととなったが、王莽が死んで「新」が滅び、後漢ができると、立場が逆転し、政敵に追われるようになった。そのため都を去り、移住したという説もある。

金氏と王莽に母方の血縁関係があったのは事実ですが、「権力を振るうこととなった~」以降はどこの説なのか明記してください。

^ 中国の山東半島の付け根にある(りんし)という地域の遺跡にある、以下略 ^ 漢民族は東方異民族を「夷」と呼んだが、この字は「大」と「弓」の組み合わせで以下略 ^ 前漢時代、中国人がいう倭には、現在の内モンゴル地域の北方の倭と朝鮮南部の倭があったとみられている。以下略 ^ 当時漢はこの地域を真番郡(伽耶国付近)と呼んだが、武帝の死後洛東江流域のこの郡および臨屯郡(新羅付近)は放棄され、漢の影響の及びにくい地域となっていた。以下略

これもここで記すこととは思えません。

^ 没年西暦199年3月20日という説がある。 ^ 妻はインドの阿踰陀(アユタ:南インド)国の姫、許黄玉:ミトコンドリアDNAの鑑定で一族が、インド系と確認された。末裔は金海許氏。 ^ 6個の金の卵から生まれたうちの一つという伝説を持つ。 ^ 黄金の箱に入っていたという伝説を持つ。紫色の大卵から生まれ、そこには天から舞い降りた白馬がいたという伝説の閼智(赫居世:BC69年3月1日生まれ)にちなんで名づけた。 ^ 壱岐の原の辻遺跡からは、中国の「新」王朝時代の通貨「貨泉」、鉄製の斧、鎌、鍬、釣り針、さらには鉄鋌と呼ばれる鉄の板が出土している。王莽の時代は、22年間と大変短かったので、貨泉が貿易のための通貨として、使用されたとは考えにくい。 ^ 金海金氏(韓国の金海金氏の人口は約377万人)は匈奴の王族金日磾の末裔であるという学説。金日磾の墓参りにいった金一族のコメントに彼の墓は地味だという記載がある。また古代の明石国造あるいは大倭国造も彼の一族という説がある。 ^ 紀元前後に高度な鉄の製造技術(脱炭素綱、鋳造製)が九州に伝えられたとされる。これは王莽の時代にほぼ一致する。製鉄用の鉄鉱石を求めて日本人が朝鮮半島に渡ったという記録もある。鉄と人間(捕虜か?)が交換されたとされる。神話では素盞鳴尊(スサノオ)は、製鉄による樹木の伐採を嘆き、日本に植樹を伝えたとされている。 ^ 和気清麻呂(わけのきよまろ、733年(天平5年)- 799年4月4日(延暦18年2月21日))は朝鮮半島からの渡来人。和氏は倭人の末裔と考えられている。彼は所領に薬草園を持ち、医術に長けていた。

首露王など該当人物の記事内でやってください。

失礼ながら、これらの脚注は例えれば「徳川家康」という記事内で「伊達政宗」や「春日局」について長々と脚注を入れるようなものです。それぞれ該当の記事があるのだから、そこでやればいいことです。

脚注、及び文献を整理させていただきました。無闇な編集は慎んでいただき、何かご意見があるならまずはノートか会話ページでしていただければ幸いです。--てぃーえす 2008年4月20日 (日) 12:44 (UTC)[返信]

GhqLg氏へ

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GhqLg氏は、まず編集を差し戻した理由を述べていただけないでしょうか。こちらは上に挙げたように編集した理由を明らかにしています。まずは再度差し戻しますが、これ以上一方的に差し戻しを重ねるようならしかるべき手段をとらせていただきますので、ご了解ください。--てぃーえす 2008年5月4日 (日) 14:16 (UTC)[返信]

前回は<利用者てぃーえす>を「荒らし」と判断しました。なお貴殿に取り消しの連絡は差し上げておりますので、当方が一方的にしたというつもりはありません。ただね、事前通告なしにあれは、荒らし行為でしょう。今回は前回より多少ましな修正方法ですので、検討してました。考証のプロでは無いそうなので、執筆の協力をしていただければよかろうかと。ただよく読まないで判断するのはまずいでしょう。山東省文登市に至り、金という名前を叢と改姓した[要出典]とあるのは、中文版の記述を読んでないためかと考えます。また新羅に渡って金閼智(きんあっち:西暦AD65年8月4日生まれ-没年不詳:慶州金氏の始祖) となったとされる説がある[要出典]は英語版の記述を読んでないためだろうと判断します。日本列島まで至った者もいた[要出典]は、削除した文献中に関連する記述があります。 なお伽耶国(金官加羅国:金海市周辺)に渡って金海金氏の祖先である首露王(しゅろおう:西暦AD42年3月15日在位-没年不詳)は若干問題がありそうなので、削除する予定でした。 また「日磾は馬何羅らが武帝を暗殺しようと企てた時にいち早く察知し、馬何羅を格闘の末に捕らえた。これにより忠節を称えられるようになった。」の記述は漢書にあるものですが、史記には無いような記述です。これを論評無く掲載するのはいかがなものでしょうか。また漢書には、馬何羅ではなく莽何羅とあります。馬何羅を漢書の執筆者が莽何羅と記載する事があるとされていますが、あえて馬何羅と記述するなら貴殿が削除した小説を引用するしかないでしょう。漢書通りの名莽何羅に変更してください。なお漢書(著作権消滅)に完全準拠する方向であれば問題は無いのですが、ネットに似たような記述がありますので、著作権に触れないよう、注意してください。それでいままでは、英語版(著作権は放棄されている)に近い記述をしてきました。また金日磾の読みですが、英語のJin Midiを載せないと、金日磾(低い音で発音)というニュアンスが消滅します。英語版にKorean progenyとあるように、韓国人にとってはかなり重要人物らしく、熱心な執筆活動が続いています。それでHangul: 김일제を表題に掲げた訳です。この人物はある意味で国際的な人物です。--GhqLg 2008年5月10日 (土) 04:25 (UTC)[返信]

熱心なご投稿に感謝いたします。ただプレビューの使用などをして同じ記事にはできる限り一括した投稿をお願いいたします。それでですが。
  1. まず他言語版のウィキペディアは適切な情報源とは認められません。「掲示板やニュースグループ、Wikiで構築されたサイトへの投稿、あるいはブログ上の記述は、一次情報源としても二次情報源としても使用されてはなりません。」(Wikipedia:信頼できる情報源より)。英語版の当該部分を見てみましたが、脚注も張られておらず、参考文献として挙げられているのは『漢書』や『資治通鑑』のみで結局この説が誰の手によるものかは解りませんでした。
  2. 「削除した文献中に関連する記述があります」では困ります。その文献名とできればページ数まで脚注をつけて挙げてください。でないと本文を読んだ人がこの説について知りたいときに参考文献全てを読まないといけないことになります。
  3. 参考文献中に挙げられている『秦漢帝国』を見ましたが金日テイに関する文章は10行程度、『匈奴』では金日テイの名前を見つけることができませんでした。たぶん見落としているだけだと思うのですが。いずれにせよこのように関連性の薄い本を参考文献として挙げるのはあまり良いことと思えません。また陳舜臣氏はあくまで小説家ですのでこれも不適切と思います。
  4. 『漢書』「莽何羅」が「馬何羅」のことであるのは別にいちいち注釈を挟むほどのことと思えません。これは完全に明白な事柄でありますから。書くとすれば馬何羅の項目に書くべきでしょう。また『史記』と『漢書』の異同についていちいち記載すべきとも思えません。両書とも信頼できる史料として定評があるものです。その異同を問題とした研究論文でもあれば別ですが。
上でてぃーえすさんもおっしゃられていますが、この人物の記事ではこの人物のことを中心に、そこから派生した子孫の話などはこの項目では簡単に触れるに留めて、別の該当する項目で(この記事なら金閼智の項目)で詳しく述べるべきでしょう。劉邦の項目で劉備のことにいちいち触れないのと同じことと思います。らりた 2008年5月10日 (土) 14:13 (UTC)[返信]
追記。国際的な人物だから英語・ハングル表記をというのはあまり理由になっていません。それでしたら世界中に名の知れている人物・たとえばチンギス・ハーンなどは各言語の表記を逐一書かないといけないことになってしまいます。らりた 2008年5月10日 (土) 14:42 (UTC)[返信]
GhqLg様、コメントをしていただいたこと素直に喜んでおります。こちらの趣旨をご理解いただけたようで、ありがとうございます。また、貴方のおっしゃる「国際的な人物」というご指摘などは、この記事を良いものにする上でも有益なことだと思います。私としては、何もこれまでの編集内容全てを削除したいわけではなく、明らかな誤り、あまりにもこの記事で記すべき内容から離れた脚注などを整理したかっただけなのです。この点をご理解いただいて節度ある編集をしていただく分には私からはこれ以上の意見はありません。
ただ、金日テイの記事を作成しながら『漢書』を参照していなかったことは今後注意すべき点でしょう。また貴方の「馬何羅」「莽何羅」についてのご意見等についてはすでにらりた氏が私の言いたいことを全て述べているのでこれ以上は言いません。荒らし呼ばわりは心外ですが、これに関してはキリがなくなる恐れがあるのでこれ以上はやめておきましょう。--てぃーえす 2008年5月11日 (日) 07:40 (UTC)[返信]

とりあえず、漢書に則した形に巻き戻しましょう。 引用資料は漢書の金日磾です。 後代の人が加筆修正したものは省略するということで。--GhqLg 2008年5月13日 (火) 23:03 (UTC)[返信]

光禄大夫

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开放分类: 制度、官职、历史

官名。战国时代置中大夫。秦有中大夫,为郎中令属官。汉武帝时始改郎中令为光禄勋,改中大夫为光禄大夫,秩比二千石,掌顾问应对。隶于光禄勋。魏晋以后无定员,皆为加官及褒赠之官:加金章紫绶者,称金紫光禄大夫;加银章紫绶者,称银青光禄大夫。唐、宗以后用作散官文阶之号,光禄大夫为从二品,金紫光禄大夫为正三品,银青光禄大夫为从三品。金、元升金紫、银青于光禄大夫之上。明特进光禄大夫正一品,光禄大夫从一品、清光禄大夫正一品。

注 光禄大夫の解説。中国の百科事典より引用。大夫は「医者」である。--GhqLg 2008年5月14日 (水) 07:32 (UTC)[返信]

↑百度百科--GhqLg 2008年5月14日 (水) 07:35 (UTC)[返信]

百度百科よりも先に『漢書』を参照すべきと思うのですが・・・。『漢書』にも同じことが書いてますけど、光祿大夫は郎中令改め光禄勲の属官であり、論議を司る。ということです。らりた 2008年5月14日 (水) 11:41 (UTC)[返信]


母の名前について

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GHQ氏は母の名を「教子」としていますが、その出典、根拠はなんでしょうか?少なくとも漢書金日テイ伝には無いと思いますが。--てぃーえす 2008年5月14日 (水) 22:43 (UTC)[返信]

漢書のバージョンは?そう記述されているの書いただけですが。ただ前回の記述は誤りかもしれません(誤訳)。あるいは匈奴の名前なので長い(当て字)のかもしれません。--GhqLg 2008年5月14日 (水) 22:46 (UTC)[返信]

貴方の参照した漢書の原文の該当部分をここに抜き出してもらえませんか?バージョンというのが何を示しているのかは後で確認するとして、まず該当部分はどこなのか教えてください。--てぃーえす 2008年5月14日 (水) 22:51 (UTC)[返信]

  1. 「金日磾母亲教子有方」
  2. 「武帝为表彰其“教诲两子,甚有法度”下诏在甘泉宫壁上画成图像」--GhqLg 2008年5月14日 (水) 23:03 (UTC)[返信]
漢籍電子文獻で検索をかけてみても二つとも発見できない・・・と思って「金日磾母亲教子有方」をググって見た所、過去に外部リンクとして挙げられていたこちらのページがかかりました。これは『漢書』とは違いますよ。
『漢書』には「日磾母教誨兩子」とありますが、これは「日磾の母は二人の子を教え導いた」と訳すべきでしょう。中日辞典 诲らりた 2008年5月15日 (木) 12:26 (UTC)[返信]
妥協案→「閼氏」は、人名にしてはおかしい。むしろ日の母の所属氏族と考えられるので、新しい資料が発見されない限り「閼氏の人」とする。--GhqLg 2008年5月15日 (木) 22:34 (UTC)[返信]
えーとですね、閼氏は匈奴単于の妻のこと。中国で言えば皇后に相当する言葉です。らりた 2008年5月16日 (金) 12:04 (UTC)[返信]
休屠王后悔,昆邪王殺之。休屠王の皇后「悔」は昆邪王により殺された。--GhqLg 2008年5月17日 (土) 11:12 (UTC)[返信]
その「后」は簡体字の「後」ですよ。漢に降伏したことを後悔した休屠王を昆邪王が殺したってこと。らりた 2008年5月17日 (土) 11:46 (UTC)[返信]
閼氏=妻だそうです。下の陳さんの中国の歴史p555にありました。王昭君・・・を賜い閼氏(妻)と為す。「休屠王の閼氏の絵」=「休屠王の妻の絵」--GhqLg 2008年5月17日 (土) 13:34 (UTC)[返信]

金人について

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陳舜臣「中国の歴史(二)」講談社文庫、p448、17行には「休屠王が天を祭るために造った金人を、・・・」とありますが、金人の記述がある史記など、他の資料はこの記述を取らないようです。(即銅仏像)を二回目の記述に付加してます。--GhqLg 2008年5月15日 (木) 22:52 (UTC)[返信]

「何年に」「どこの出版社から」「誰が」「何という題名の本で」「どのような記述で」書かれていたかをはっきりさせて下さい。でないとこちらも検証のしようがありません。金人については発見できたので追記しておきました。ただ「佛徒祠金人也」の訳はこれで良いのかどうも不安です。らりた 2008年5月16日 (金) 11:56 (UTC)[返信]
ISBN:9784061847835、旧IS:(406184783X)←中国の歴史(二)、史記については、確認します。金人については、史記に論評がありました。史記にもバージンが多くて、原語を併記したものが信頼性が高いようです。その記述を見ると、史記から金日に関する記述が、意図的に削除された事が伺われます。当初金人が何で、銅の仏像か解釈に苦しみました。で、最終的な結論は、金人=金日だったのですが、そう証明する記述は、間接的なものばかりでした。--GhqLg 2008年5月17日 (土) 05:09 (UTC)[返信]

金日の婦人の記述について

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どうも記述の意味が理解できません。「日は武帝から宮女を賜った。」はなにぶん推測です。--GhqLg 2008年5月17日 (土) 05:18 (UTC)[返信]

日本語訳でもいいから漢書金日テイ伝をちゃんと読んでください。
「賜出宮女,不敢近。上欲内其女後宮,不肯。其篤慎如此,上尤奇異之。」
大意は「後宮の女を日テイに下賜したが、日テイは彼女を自分に近づけなかった。武帝は日テイの娘を後宮に入れようとしたが応じなかった。彼の篤実で慎重なことはこのようであり、武帝はますます彼を只者ではないと思った」あたりでしょうか。--てぃーえす 2008年5月17日 (土) 06:49 (UTC)[返信]
確認しました。--GhqLg 2008年5月17日 (土) 10:49 (UTC)[返信]

子の名前

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--GhqLg 2008年5月17日 (土) 08:53 (UTC)[返信]

日磾兩子貴,及孫則衰矣。子の名前は「貴」と「孫」では?--GhqLg 2008年5月17日 (土) 11:09 (UTC)[返信]
そのちょっと前を見てみてください。「日磾両子、賞、建」とありますよ。貴方が引いた部分の意味は「日テイの子2人は貴い地位にあったが、孫の代になって衰退した」です。あまり言いたくないのですが、まずはもうすこし読解力を身に付けてから編集した方がよろしいのではないですか?--てぃーえす 2008年5月17日 (土) 11:47 (UTC)[返信]


あの、このノートフォントのタグの閉じ忘れがあるようですが、確認をお願いいたします。

確認しました。--GhqLg 2008年5月17日 (土) 11:09 (UTC)[返信]

一旦のまとめ

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まずGHQ氏に言いたいこと。次から次へと新しい節を立てないでください。疑問はできれば一括して出してください。議論が拡散していくだけなので新しい疑問があったとしても前の議論が完全に決着してから述べるようにしてください。以後は特別な理由がない限り、新しい節を立てないようにしてください。
そして私もてぃーえす氏もあなたの教師ではないんです。解らないなら解らないなりにもう少しきちんと調べた上で質問をするようにしてください。上でてぃーえす氏もおっしゃっていますが、中国語の読解力をもう少し身に着けてから編集したほうがいいように思います。
今後、質問がある場合には新しい節を立てないで、以下に追加するようにしてください。らりた 2008年5月17日 (土) 11:52 (UTC)[返信]

日磾の読み方

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日磾の「日」は中国では古来よりなぜか読み方が変ですけれど、日本では状況が異なります。金日磾の逸話が『松浦宮物語』に引用されていて『無名草子』で論評されている関係上だと思いますが、読み仮名の表記の揺れは「じつ」と「じち」くらいしかないようです。読み仮名に「じつ」や「じち」を採用している本はたくさんあるので、こういうのを出典と呼ぶべきかはわかりませんが、一応、本文では筑摩の『吉川幸次郎全集』と小学館の『新編日本古典文学全集』を挙げておくことにします。日本語の「みつ」にきちんとした出典がない前提で話を進めるとして、独自研究か否かを深く追求するつもりはありませんけれど、読み仮名について新説を紹介したいのなら、横着せずに章を立てて特異な発音である事情を説明した上で論じるべきだと思います。--Askr会話2020年10月3日 (土) 10:53 (UTC)[返信]

日本語の読み方を提示する時は、日本語の読み方を書いた文献を出典として提示してください。お願いします。--Askr会話2020年10月9日 (金) 08:50 (UTC)[返信]