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ノート:里見甫

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ほとんど個人エッセイのような記述について

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西村修三氏は自分の投稿記事が編集されたことに対し「出典を明記した記事を削除した場合はアラシ」と言ってリバートしているが、それだけではアラシにはなりません。いくら出典を示しても、記事には中立的観点に疑問のある記述や表現が多い。事実、これまでにも投稿者自身によるエッセイにすぎないとの指摘が複数出ている。もう少し、西村修三氏は、事実記載に徹した百科事典的記述に努めるべきだ。それと、「備考」の記事が長すぎるとの指摘に対し、「備考が長いとするのは感想」と意味不明の反論をされていますが、「感想」で結構じゃないですか?。あなたの記事には中立性や文章のまとめ方などについて問題ありとの「感想」が読者から寄せられているということですよ。その声を真摯に受け止め、より良い記事にしていくことに努めるべきです。問題の部分はについては私も長いと思ったし、そもそも「備考」なんて妙な項を立てること自体違和感がある。ここは西村修三氏の個人ページではありませんから。すべての人に編集権があるのを忘れずに。--60.39.117.19 2007年12月14日 (金) 08:45 (UTC)[返信]


西村修三です。かなり推敲しましたが、読みにくかったらごめんなさい。

最初に、60.39.117.19さんが私の書いた記事に対して『ほとんど個人エッセイのような記述について』と見ているのに対し異議を唱えるものではありません。個人的に批判は次の一歩と考えます。但、それはノートに記入された批判のみです。この点は例外は認めませんし、すべきではないと信じています。但、60.39.117.19さんが「(記事の中に)中立的観点に疑問のある記述や表現(がある)」とされたのは、記事の編集方針の何処と抵触し、また具体的には何を意味されているのでしょうか?

公的な方針の一つであるWikipedia:中立的な観点は、「中立的な観点からは、意見や事実について、それを支持する者と批判する者とが共に合意できるように記述することを目指します」と書かれています。Wikipediaを構成する概念において、個人が中立的な観点を確保することはできません。なぜなら、個人は個人の主観でしか記事をかけないからです。個人の「主観的な記述」の遥か対岸には別の「主観的な記述」がある可能性を上記の公的な方針は認めています。Wikipedia:検証可能性をご覧になってください。『ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」です』と明記されています。互いの異なる意見を統合しながら「共に合意できるように記述することを目指」すのです。

「(記事の中に)中立的観点に疑問のある記述や表現(がある)」とされたのは、この公的な方針から離れていませんか?60.39.117.19さんから見た「西村修三のパーソナリティにおける中立性の度合」を秤で量っていませんか?

繰り返しますが、私の記事が『ほとんど個人エッセイのような記述』とする認識の対岸には別の認識があり、その対岸にはまた第3、第4…と無数に存在する可能性があります。60.39.117.19さんにしろ誰にしろ個人の意見は結構なことです。繰り返しますが検討すべきでしょう。よい記事を書くための批判をして下さい。但、具体的にどの文章の、どの見方がと示さずに、意見の検討もせずに、外観において恣意的に削除してよいとはWikipedia:中立的な観点のどこにも、Wikipedia:削除の方針のどこにも、ありません。読みづらい、つまらない、ウケ狙いすぎ…。それは感想です。悪い感想を書くのも聞くのも仕方はありませんが、個人のノートに書くなりでよろしいのではないでしょうか?私としては本心より、60.39.117.19さんにしろ他の方にしろ悪意を持つものではありません。混乱しているだけです。以上の文章はあくまで私の感想ですが記事の基本方針に対する意見として書かせていただきました。今後の編集方針について以外のご意見、質問その他は個人のノートにお願い致します。

追記:「備考」とするタイトルですが適当なタイトルがあるならば検討のうえ決めればよいと考えます。前段が里見甫の略歴となった分、後半を題のないままでトピックスとするのはバランスが悪いと考えたためタイトルをつけましたが、「備考」がよいか悪いかをノートで検討せずに削除するのは、「内面の観念はともかく外観において恣意的に削除」と見たわけです。

西村修三 2007年12月15日 (土) 03:07 (UTC)[返信]


利用者:Misolaさんの編集について

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「ほとんど個人エッセイのような記述について」でも書きましたが、具体的にどの文章の、どの見方がと示さずに、意見の検討もせずに「検証可能性」を満たした記事を、外観において恣意的に削除してよいとはWikipedia:中立的な観点のどこにも、Wikipedia:削除の方針のどこにもありません。Misolaさんの意見、他の意見、それぞれ互いの異なる意見を統合しながら「共に合意できるように記述することを目指」す記事において、編集方針について意見があるなら皆さんに分かる形で説明されたうえで直すための努力をしませんか。

Wikipedia:検証可能性には「出典を示す責任は、ある編集を行った執筆者、またはその編集を残すことを希望する執筆者にあります」とあります。『詳細は通信社の歴史を参照』は、Misolaさんの判断はともかく、加筆修正の条件を十分満たしています。検証可能な出典の明示がなければ、当然、削除されてしかるべきとしか判断できません。

内容は戻しておきますので、ご検討、ご賢察をお願いします。西村修三 2008年8月18日 (月) 09:02 (UTC)[返信]

ご指摘ありがとうございます。2008-08-17T21:55:48の版を編集したmisolaと申します。
上記削除の意図は、該当部分の内容が、里見甫の記事からやや離れたものではないかというところにあります。検証可能性について意見はありません。その旨、要約に記載しておけば、お手数をおかけすることもなかったかもしれません。申し訳ございませんでした。
また、内容がやや離れたものという意見自体についても、私1人の意見ですので、私が再度削除することはありません。
なお、出典の記載方法について、refタグとreferenceタグを利用した脚注形式を使用する記事が大半と思いますので、その方法が他の記事との統一感という観点では望ましいと思います。次回編集の機会がございましたら、こちらについてご検討よろしくお願いいたします。--misola 2008年8月18日 (月) 11:25 (UTC)[返信]
エッセイ的であるとはいいませんが、現状の「備考」セクションの内容は里見甫の記事で取り上げるべき範囲を超えているように思います。以下に示す程度の記述が適切ではないでしょうか。
佐野眞一は里見について「電通が今のような広告会社になったきっかけを作った一人である」と評している。1932年、新聞連合社奉天支局長の佐々木健児の推薦により、里見は満州国通信社の初代主幹となる。満州国通信社の創設の背景には、電通の勢力を満州から排除する狙いがあり、これは日本のニュース通信社を一元化して情報を統制しようとする動きにつながるものであったとする。通信と広告の二本柱で日本を代表する通信社となっていた電通は、1936年にニュース通信部門を同盟通信社に譲渡して広告代理業に専念することになるが、里見が初代主幹を務めた満州国通信社の創設がその1ステップであったとする見方である。
要約が適切でなければ訂正していただいてかまいませんが、いずれにしてもこの節を電通の歴史から書き起こす必要があるとは思えません。また見出しも、「満州国通信社の初代主幹として」「電通との関わり」といった内容に即したものに改めるべきだと考えます。--Aurion 2008年9月30日 (火) 08:17 (UTC)[返信]