ノート:道徳
この記事は2011年11月14日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、存続となりました。 |
自分で何も書いていませんが、少し気になる点があるのでお尋ねします。 道徳と倫理の関係について、一方が他方に依存するという考え方は一般的なのでしょうか? 無知をさらけ出すようで気が引けるのですが、私が読んだいくつかの倫理学者の著作(主に18~20世紀英米系)や私自身の語感を頼りに「道徳」「倫理」を考えますとこの二つの語にはっきりと区別をするべき理由はないように思います(相互に互換的に用いてもなんら違和感がない、ということです)。 「道徳」と「倫理」の語を意識的に使い分ける論者もあるとは思います。しかし、そういう使い分けが何の説明や定義付けもなしに(あるいは道徳記事にあるような仕方で)一般的に受け容れられているかどうか断言できるのか?と思ってしまいます。
私自身なんどか倫理にリダイレクトさせようか、と思っていたのですが、ニュースなどで「道徳や倫理に」などと併置する例も何度かみたことがありますので「私の感覚がおかしいのかも」と思いとどまっておりました。このあたりの用語法の一般をご教授願えればと思います。
加えて、「道徳を守ることが正義である。」はかなり偏った言い方のような気がします。 個人的には「よいgood、正しいright」くらいならしっくりきます。正義justiceにはそもそも国家的(政治的な)な意味合いにおいてしか用いない(justiceには強く善の配分という要素があって、それは国家において可能になるという)見方も根強くありますゆえ。それに、記事中の道徳観に加えて、道徳の遵守が必ずしも正しいのではない、という道徳観も同時に広く受け容れられています。例えば、「親の言うことは聞かなければならない」という道徳がある一方「親の言うことは必ずしも守らなくてはいけないわけではない」という遵守を肯定しない意見も広範にあると思われます。(Setomanko 15:13 2004年2月10日 (UTC))
訳語の道徳と日本語の道徳に大きな違いがありそうに感じます。私は西洋の倫理書は殆ど読んだことが無いのでイメージですが。日本の場合はやはり儒教道徳で「我慢せよ。」「従え。」が強いように思います。倫理の場合はケース毎に何事かを考えるというようなイメージがあります。実際にはそれでも大差のない場面は多そうですが。正義も誰が唱えるかで全く中身が変わります。私の場合は政治的というより「裁き」というイメージです。(それを政治家が使う訳ですが。)Johncapistrano 16:20 2004年2月10日 (UTC)
- 道徳や倫理は「規範」ですので「我慢せよ。」「従え。」のような無条件的命令(定言命法)は西洋的感覚でも倫理・道徳としても問題ありません(規範は命令や奨励の形をとります)。「ケース毎に何事かを考える」はethicsの学としてのイメージですよね。英語のethicsとmaralsは前者がギリシャ語から後者がラテン語から輸入された単語で、原語における意味はどちらも「習慣」のようです(moralの方には人間特有の精神性を多少含んでいたようですが)。
道や徳、倫や理といった言葉そのものは中国古典期以来存在しますので、訳語と漢字から受けるイメージの違いは確かにありそうです。しかし、それを強調するのであれば道徳一般の説明に入れるのでなく、はじめから西洋における~、日本における~、日常的な用法と一般的な説明なしでやってしまったがよいような…。一般的説明を可能にするために私はとりあえず、規範性を洋の東西に共通な(+倫理と道徳に共通な)要素として提案しておきます。(Setomanko 04:27 2004年2月11日 (UTC))
- 道徳や倫理は「規範」ですので「我慢せよ。」「従え。」のような無条件的命令(定言命法)は西洋的感覚でも倫理・道徳としても問題ありません(規範は命令や奨励の形をとります)。「ケース毎に何事かを考える」はethicsの学としてのイメージですよね。英語のethicsとmaralsは前者がギリシャ語から後者がラテン語から輸入された単語で、原語における意味はどちらも「習慣」のようです(moralの方には人間特有の精神性を多少含んでいたようですが)。
- たしかに。言われてみると、道徳と倫理と、両方使われてはいますけど、その違いについて誰かから明確に教えてもらったおぼえはない・・・。『「道徳を守ることが正義である。」はかなり偏った言い方のような気がします。』という言い方は、塩野七生氏の「マキアヴェッリ語録」で受けた印象『道徳に振り回されて政治の大局を誤まってはならない』に通ずると思います。//論点がずれるかもしれませんが、僕は笠谷和比古氏の「武士道の思想・日本型組織と個人の自立」を愛読しています。この本では、赤穂浪士の討ち入りを例に取り、「忠義とは、藩主個人に対するものか、あるいは藩全体に対するものか」という議論を紹介しています。月臣くにひと 16:35 2004年2月10日 (UTC)
- ご指摘いただきありがとうございます。記事を読み返す度に、私見がかなり入ってしまった記事になってしまったかなと反省しています。勉強不足で誤解等ありましたら、修正していただければと思っていますのでよろしくお願いします。
- 「道徳」も「倫理」も観念の一種であると思いますが、私見として日本の「道徳」は社会的・政治的色彩が強いなかで形成されてきたものと考えます。元々は、家庭や地域で子供への「しつけ」として言われてきたものが定着し、地域で普遍性を有するようになり、教育を担ってきた寺・神社などの宗教と融合して「道徳」となったものと思います。子供たちに対する社会や政治の要求が纏まったもの、名言・格言を含んだものが「道徳」の持つイメージの一つです。そういった意味では「慣習法」的な側面も持っています。又、「倫理」は個人的な観念を表す際に使用するイメージを持っており、社会的な束縛は少ないものと思います。言葉の用法としては大同小異であり、イメージ先行で利用されていると思います。
- 倫理学の学術的分野では別の意味や使い分けがあるのかもしれませんが、(専門ではないのですみません。)「道徳」と「モラル」を同一視することができるのか?との疑問も個人的には抱いています。本質としては同じでも文化の差が大きいと捉えるべきなのでしょうか。一応「モラル」との兼ね合いを考慮して後で修正できるよう紹介文を記述したつもりです。
- うまく記述できなかったと思いますが、道徳の定義で問題になるのが普遍性があるとしながら、完全に普遍的な教えがないことです。例えば「人を殺してはならない」と言いながら「愛する者のためには命がけで戦え」などと言われる矛盾したものがあります。戦時下であれば全くと言っていいほど通用しない教えで、都合によってどうにでも変わってしまい普遍性など無きに等しいものを如何にも普遍性があるかのようにしてしまうものだと思います。
- 「道徳を守ることが正義である。」との表現は、確かに「正しい」とするほうが誤解が少なく良いと思いますので修正したいと思います。蛇足ですが、日本の「正義感」も武士の心得・道徳教育によるところが大きいのかなと思いました。最近言われている「男らしさ」「女らしさ」の問題も「道徳教育」の影響なのかなと思っています。 CharBow 04:55 2004年2月11日 (UTC)
- 私もそれほど学術的用法に詳しいわけではありませんが、まず「倫理」を個人的だとする見解への一つの反論として、「政治家の倫理」「医者としての倫理観」などという言い方を。これには明らかに社会的束縛があると思いますし、これを「政治家の道徳」「医者の道徳性」と読み替えてもさして違和感ない(日本語として微妙な感触の違いはありますが)。あと、日本語でモラルというと「道徳的な感覚・感じ方・感受性」って感じですよね(哲学用語のモラルセンス(道徳感覚)と同じかどうかは分かりません)。これは確かに別立てで記事にできると思います。道徳の普遍性云々については長い蓄積がありますし、力のある人が書けば独立した記事にもなりえますね。ただ、定義にまで普遍性が入るかどうかは疑問があります。倫理の項目の最初の一文が一番適当な定義かと(この記事の残りの部分には個人的に同意しかねるところもあるのですが)。
- 参考にと、英語版にざっと目を通してみました。ethicsはのっけから倫理「学」の説明になってますね。ethicsの別名としてscience of moralityを挙げられています。あちらが倫理学の対象と考えている同一の概念をこちらが勝手に倫理、道徳として別々に扱っているだけなのかもしれません。(Setomanko 07:40 2004年2月11日 (UTC))
- そうですね。「社会的な束縛は少ないもの」との表現は適当でなかったかもしれませんね。ただ、「政治家の倫理」「医者としての倫理観」などという言い方については、それぞれ「個人として形成された政治家の倫理」「個人として形成された医者の倫理観」をまず問題とし、その集合体としての倫理を問題としていると見ることができるのではないかなと思います。その上で、個人に形成された倫理は、本人の意識が変わらない限り変わることは無いので、社会やまわりが騒いでも本質的には個人の問題なのではないかなと思います。
- 「この様な道徳によって個人の倫理・倫理観は形成された」といった言い方をするのが自然な感じがします。手段としての「道徳」によって形成されるものが個人の「倫理」であるといったイメージがあるのではないでしょうか。逆の表現をしても問題はないのかもしれませんから、こだわってもしょうがない問題なのかもと思いますが。CharBow 15:10 2004年2月12日 (UTC)
というわけで一つ提案なのですが、記事の分量が互いに少ない「道徳」「倫理」を「道徳(倫理)」とか「道徳と倫理」とでもして一つの記事にしてしまってはどうでしょう?(「道徳」「倫理」の項目はリダイレクトにしておいて)。
二つの語義や語感の違いも同時に扱うことが出来ますし、編集の過程で分離せざるを得ないほどの違いがあるとわかれば自然とまた分離していくのではないでしょうか(今度はそれなりの分量のある充実した項目として)。(Setomanko 07:40 2004年2月11日 (UTC))
それよりも倫理と倫理学を統合した方がよさそうです。他言語のリンク先も同じようです。Johncapistrano 08:05 2004年2月11日 (UTC)
他言語のリンク先が同じなのはEthics(Ethik, Ethique)の訳語として倫理学と倫理の二語を当てたためです(翻訳上も訳し分けます)。まあ、論理(logic)と論理学(logic)ほどの差異ですが。(Setomanko 08:35 2004年2月11日 (UTC))
倫理との統合については、私も個人的には異存はありません。倫理の中に道徳の記事が入る形でもいいと思いますし、現在の倫理の定義で問題は無いのではないかと思います。既に手を加えている方がいらっしゃるので支障のない形で統合できればと思います。無責任なお願いで申し訳ありませんが、記事の統合をしたことがないので、統合の方法が良く判りません。そこで、できれば統合の方はお願いしたいと思っています。CharBow 15:10 2004年2月12日 (UTC)
ご面倒をお掛けしました。統合されたようで安心しました。有り難うございました。CharBow 05:41 2004年2月16日 (UTC)
関連項目について
[編集]あまりに長くなっていましたので、関連があまりにも間接的だと思われる項目を削除し整理しました。社会や政治なども道徳と関連しているとはいえ、わざわざ載せなくても繋がりは明らかだろうという意味で削除しても良いように思います。--Mo-rin 2009年3月26日 (木) 15:43 (UTC)