ノート:近衛信尹
「信尹は、生来才気煥発で、直情的で奔放活発な性格で戦国の公家にふさわしい性向であった」とありますがその典拠をお教えください。~~~Dr.DEPPER
信尹の薩摩への貢献度の高さと、それを伝えたい文章作成者の熱意はわかりますが、「御仮屋守」「噯」「一所持」など鹿児島郷土史の専門家でないとわからない用語を使用されるのは、「百科事典」というwikiの性格に沿わないと思います。別項目を立てて詳しい用語解説をされるか、かみ砕いた用語を使用されるようにお願いいたします。
また宮田家の話や近衛公園の文麿の碑、手植えの藤の話などについては地域性の高い話題で、信尹の生涯を記すには余りに細かい話題のような気がします。エピソードとしてセクションを新たに設けては如何でしょうか。
また文章の処々に「讒言」という単語が多用されていますが、菊亭晴季については注を見ると配流の理由が信尹の発言にある事が明確に史料に現れていますし、「石田三成の讒言による木下吉俊切腹云々」という話についても、明確な同時代史料の提示がないかぎり「三成の讒言」の有無を論じることはできないと考えます。江戸幕府成立後の三成についての記述はあてになりませんから。両者とも人名もろとも削除すべきと考えます。--衛攸之 2010年8月3日 (火) 10:39 (UTC)
Dr.DEPPER様
☆「信尹は、生来才気煥発で、直情的で奔放活発な性格で戦国の公家にふさわしい性向」・・・その典拠をお教えください。
父上・近衞前久(さきひさ)に良く似た性格であったという事でしょうか。 藤原道長も、率直・直情型の人、娘3人を天皇の妃とし、嬉しさのあまり、 あの有名な「この世をば 我が世とぞおもう 望月の 欠けたることも 無しと思えば」の句を詠まれたとか・・・
御参考に、『流浪の戦国貴族—近衛前久』 谷口研語 中公新書、お薦めです!
Wiki用ペンネーム 近衞藤 (自宅のパソコン故障、ネットカフェ等で、パソコン拝見
致し、ログイン出来ず・・・すみません。)
衛攸之様
. .歴史の先生でいらっしゃいますか? 上記の Wikiペンネーム 近衞藤 です。 Wikiの編集は、ネットカフェ等で、致しております。 わかりやすい加筆、御意見、ありがとうございます。
私は、現在、自宅にパソコンがありません、資料として、参照のみのつもりで、Wikiを拝見、 編集参加するつもり、全くありませんでしたが、近衞信尹が、秋目に滞在という記述が気になり、 訂正を記入致す事を契機に編集参加となりました。
秋目には、近衞信尹散策なさり、腰かけられたと伝えられる亀石の話は、ございます。これを滞在したと想われ記入なさったでしょうか。滞在致しましたのは、中坊の御仮屋(現在の龍巌寺一帯=宮田但馬守信景の屋敷。宮田家は役所の代わりを務める役宅として、お白洲=裁判、寺子屋=教育、御仮屋=貴人・島津公・家老・地頭・その他来賓の接待、上乗り様=貿易の現地元締め 等任務。)です。世の中、様々な方がいらっしゃいますし、今後も、事実と異なる事等、書かれません様、近衞信尹公の足跡を守る為、当時仕えた者の子孫、関係者がいる事も明記した方が良いのではと存じました。
衛様~ 「御仮屋守」「噯」「一所持」など鹿児島郷土史の専門家でないとわからない用語を使用されるのは、「百科事典」というwikiの性格に沿わないと思います。別項目を立てて詳しい用語解説をされるか、かみ砕いた用語を使用されるようにお願いいたします。~
近衞藤~ 御指摘、有難うございます。少しずつ、注釈や、話題追加ページ、別項目等、用語説明、致す所存でおります。
衛様~ 宮田家の話や近衛公園の文麿の碑、手植えの藤の話などについては地域性の高い話題で、信尹の生涯を記すには余りに細かい話題のような気がします。
近衞藤~ 衛先生、一時期の滞在ではないかと、田舎の話は、全国版に不適切と、お思いでいらっしゃいますか? 私、その点、先生と意見異なります。 文化人等、歴史人物の生涯の紹介、略歴の記述は、その人物の代表作を生み出した滞在先、留学先や、人生の転機・創作に影響の大きかった地域の協力者(パトロン等の世話人)・友人・交流文化人・エピソード等登場、歴史人物の人柄・横顔を浮かび上がらせるのは一般的手法の様に承知致しております。 その意味では、配流先の坊津は、人生の転機となり、書の作風を豪快に変え(古筆学者の御言葉)、近衞信尹公の代表作、「坊津八景」等、天満宮等の絵を多筆し、精神的にも、又、海外から異文化の伝来する文化的刺激の多い、並はずれた景勝地で、人物や創作的才能を成長させるには、当時として、理想的な地であったかも知れません。 都では、詭弁・屁理屈で、当時の天下人・秀吉の関白就任に反対した近衞信尹公を、配流(左遷)に追いやった政敵勢力の記した書物も主流でございましょう。
近衞信尹公の人柄・横顔を浮かび上がらせるエピソード・影響の大きかった地域としては、 転機となった坊津は、枝葉ではなく、むしろ、メインでございます。私は、むしろ、 近衞信尹公の配流に言及なさる際、都側の資料だけ、目を通し、 (時間が足りなくて? 遠隔地の為、手段がなくて? 郷土史の信憑性を馬鹿にして? ) 現地・坊津の情報に関心すら持たずに?書かれた、かなり片手落ち、もしくは、都の政敵の書いた、「物ぐるい」等と悪口そのまま、受け売り的に書かれた近衞信尹公の人物像と、自筆の手紙等から拝察する、明るくユーモラスな性格との、まるで別人の様な隔たりが、実は、いつも、気になっておりました。 お手植えの藤は、藤原氏の宗家・近衞家の嫡男が配流されるという、あってはならない絶望的状況の中で、藤原氏の再興・繁栄を、切実な想いで祈った、人生の記念碑的特別の意味があるのです。 細かい話題・枝葉ではなく、精神的創作的修行の地、人生の転機、要点と存じます。
衛様~ 文章の処々に「讒言」という単語が多用されていますが、~
近衞藤~ 「讒言」という単語は、私以外の編集者も使用なさり、中央の学者も郷土誌でも使用され、 近衞信尹公配流の状況・大逆風を適切に表現している言葉と存じます。
衛様~ 菊亭晴季については注を見ると配流の理由が信尹の発言にある事が明確に史料に現れていますし、「石田三成の讒言による木下吉俊切腹云々」という話についても、明確な同時代史料の提示がないかぎり「三成の讒言」の有無を論じることはできないと考えます。江戸幕府成立後の三成についての記述はあてになりませんから。両者とも人名もろとも削除すべきと考えます。
近衞藤~ 「細かい話題・枝葉ではなく、精神的創作的修行の地、要点と存じます」私は、
(削除致しますと、配流先 の状況がわからなくなるので) 経緯エピソードも必要と存じます。「三成の讒言」とは、
江戸時代以降に作られた話ではなく、郷土史では、当時から伝わっている話と、承っております。
衛先生、編集補って戴き、誠に有難うございます。 「前久・信尹は父子で薩摩に滞在し薩摩の平和・文化の発展に貢献したことになる。」の一文、前久・信尹・父子の有り様を、見事に言い表しておられると、存じます。 いつの日か、お話できる機会がありましたら、幸いです。
☆追記(気になりましたので・・・)
衛様~ 宮田家は現存しており、今でも「信」を代々の通字としている。
近衞藤~ ☆「宮田家は、現存」 → 家系図も有、本家が400年以上、同じ場所(龍巌寺一帯)にあり、本家に近い筋は、戸籍のみで、子孫証明されます。 ☆今でも「信」を代々の通字としている。→ 本家の30代~40代の男子には付いてますが、そのお子さんに付いているか、(昭和年代、県外に家族で移住なさって、)確認致して居りません。
西郷どんは、島流しの間に、2人、子供が生まれました。 近衞信尹公も、30歳位の(朝鮮に出陣しようとしていた程の血気盛んな) 青年、坊津滞在中に、2人、子供が生まれました。 一人目は、都から連れてきた女官が到着間もなく産みましたが、 生まれて間もなく亡くなりました。 二人目は、現地・坊津の世話係を務めた、宮田家の娘に生まれ、 御落胤誕生の証として、宮田家は、 近衞信尹公の「信」の一字を賜り、代々、通し字として、名付けてきたのでした。 当時、信尹公の身の回りのお世話をしていた娘も複数、多くの人達が、 近衞信尹公に心を砕き、お仕え致しておりました。 上級武士の寝占山城守の娘も近衞信尹公のお側近くに仕え、 近衞信尹公許されて、京都に戻られる折には、寝占家は、御茶碗を賜っております。 この寝占家は、後の小松家、あの小松帯刀の小松家と同じです。 他にも上級武士関係者等、多数、お仕えしていた中で、宮田家一軒に 通し字・一字拝領となった理由は、この御落胤誕生という事です。
この特殊事情の為、当家は、本家以外に、最も血の濃い家を、代々、重視する風が ございました。
宮田秀夫氏(宮田家後見人・県漁連副会長・宮田水産経営)は、町中の水産関連の 連帯保証人となって、多く面倒を見ていた為、いつか他人の借金で、宮田水産も 倒産し、宮田家離散となる事を危惧、当時、宮田家の中で血が最も濃いM嬢 (父親が本家娘と分家息子の間に生まれた一粒種)が、坊津役場に勤め、 嫁に行くつもりでいたのを、無理やり、 宮田水産に転職させ、婿養子をとらせ、 跡取りとして、残すことに成功。親戚の古老の人々は、M嬢の血の濃さと、風貌が、 昔の役宅顔(本来の本家顔)だと言って喜んだそうです。
これらの郷土史・宮田家事情は、長井実行氏(実父が、宮田本家より、長井家養子。 東京帝大飛び級総代、逓信省官僚、夫人は吉田茂縁戚の政治家一族、代議士の娘)からも、 多くを、教わりました。実行氏によると、当時は、宮田家筋のいとこ数人、 東京帝大に進み、内務官僚から、県知事となった、宮田笑内氏も分家出身です。 (長井実行氏・宮田笑内氏は共に、人名録に載っている方々なので、お名前を例示させて戴きました。)
篤姫ブームの中、役宅顔(本家顔)と言われたM嬢と、 近衞文隆氏の御顔が、瓜二つであった事が、わかりました。宮田家の人々が、 本家の顔として大切に想っていた顔が、 文隆氏の様な御顔、という事は、近衞信尹公は、そういう、お顔立ちだったのですね。
2008年近衞家御当主御一行様、1泊2日の『 近衞信尹公の足跡を辿る旅 』 史跡巡りの御案内を務めた後、翌年、M嬢は、76歳で、 (近衞家・宮田家、4世紀を超えた廻り逢いという)人生の御役目を果たしたかの様に、亡くなりました。M嬢も、家系図所有していましたが、戸籍のみで、子孫証明されます。M嬢の家は女系で、「信」の字がついていませんでした。跡取り娘も独身、 家系存続の危機に瀕しております。もちろん、彼女、無事、結婚し、男児誕生となれば、「信」の字は付けるでしょうが、「信」の字、女性にはついておりません。 歴史を継承する墓守役は、男女、性別問わなくて良いと存じております。 宮田水産倒産の際、多くの宮田家関係者が、県外に移住致し、離散状態? に見えなくもないのですが、過疎の町でもあり、故郷を、郷土史を守る為、都会に移住なさった方々が、少しでも多く、帰郷される事を、祈念致しております。
様々な情報を掲載して下さい。
[編集]●「生来、才気煥発で奔放な性格」だった、等々の説明が載せられていたのでしたら、是非とも引用されて文献・書名を注記したうえで加筆しておいて頂きたいものです。
●それに全国各地に残る伝承があるのでしたら、出来る限り分かり易く多くの「情報」を記載しておいて頂き度いものと存じます。
●また左大臣近衛信尹の小姓・吉田某が、宇喜多秀家の正室の家来と喧嘩騒動を起こし、高台院(北政所)や所司代を巻き込む事件にまで発展した逸話(『時慶記』『西笑和尚文案』)なども附記しておいて頂けると幸いです。
よしなに。