ノート:越後湯沢温泉
開湯の時期について
[編集]『日本鉱泉誌』(内務省衛生局・1886年)に天和年間(1681年~1684年)開湯とあることは本文で述べましたが、『新潟温泉風土記』(野島出版・2001年)でも「天和年間、新発田藩士高橋半六により、山の手の沢で温泉が発見されたと伝えられています。」と記述がありました(127ページ)。
新発田藩という書き方は明らかに江戸時代に入ってからの話ですし、遡ったとしても国人の新発田氏や地名としての新発田の名が見えるのは鎌倉・室町時代以降ですから、平安時代末期はさすがにやや飛びすぎではないかと思います。
高橋半六を開祖とする宿泊施設がホームページで平安末期説を掲げておられるので、何らかの資料があって上記の書籍にはそれらが反映されていないとすればおかしくはない訳ですが、地滑り伝説も年代のブレからして口伝のようなので、開湯伝説の時期もいくぶん前後しているのではないか?という印象です(地元の神話や伝承などが観光用に多少脚色されるというのはよくある事例)。
湯沢という地名が文献に現れたこと、高橋半六が温泉(源泉)を発見したこと、設備が整えられて湯客を取るようになったことという3つの事象をミックスした結果、平安時代と鎌倉時代と江戸時代という3つの開湯時期と3人の高橋半六さんが出現した…というのが現状ではないでしょうか。
記事としては、高橋半六の記述をどこにするか、もしくは開湯伝説の諸説をどういう形で併記するかという話になるかと存じます。
『湯沢町誌』(湯沢町教育委員会・1978年)ではいつの頃からか利用されていたという趣旨の書き方で、口碑には触れていませんでしたが、天和二年の検地帳に湯元の地名が記されていることを引いて、この頃には利用があったと見られる…というようなまとめ方でした。ここに半左ェ門の名が見えるため、現代の松坂屋→高繁→高半の系譜に連なる方がおられたのは確かだと思われますが、この半左ェ門が半六とは書かれていません。
なお『南魚沼郡志』(南魚沼郡教育会・1920年)を国立国会図書館デジタルコレクションで見てみましたが、鉱泉のページが欠になっていて確認できませんでした。
高田藩時代に藩内の温泉の営業許可や名所案内のような資料があればもう少し絞り込めると思うのですが、どなたかご存知ではないでしょうか。--大源太太郎(会話) 2024年9月26日 (木) 14:53 (UTC)