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ノート:豊臣秀頼

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読み方の件

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読み方の件であるが一般人の歴史的な存在としてはやはり「豊臣秀頼」である 読み方も正しいことよりも「とよとみ ひでより」のほうが広く認識されている現実の方を重く見るべきである。

読み方云々をいうのであれば「豊臣秀吉」は歴史的な存在としては「羽柴秀吉」にして読み方も「とよとみ ひでよし」ではなく「とよとみのひでよし」にするのだろうか?一般になじみのないことを無責任な物言いで歪曲することには賛同できない。

重要度があまり高くない案件だと思われるので下のほうに移動して参照程度にとどめるべきである。--以上の署名のないコメントは、202.147.217.98会話/Whois)さんが 2006年4月9日 (日) 02:39 に投稿したものです(こぶまきによる付記)。

横合いからですが私も一言。確かにこの項目の中で一項立ててまで述べることではないと思います。
何より姓の「豊臣」と苗字の「羽柴」の関係については、「豊臣氏」の項目で説明がきちんとされていることなので、そっちに任せればいいのではないでしょうか。
それに「普通に言われている方が間違っているから直してほしい」というようなことを、あまり強く書くのはいかがなものかと……。
上で書かれている方の意見ともかぶりますが、間違っていてもこれだけ一般に広く定着してしまったものは、結局認めざるを得ないと思うのです。
混同されていることに対しいかがなものかと思うのは、それはそれで尊重されてしかるべき考え方ですが、現状本文のように強い口調で語るのは問題なのでは。
この件についてはせいぜい、冒頭部の人物説明の後に、
なお名前の読みは正式には「豊臣」が朝廷から下賜されたであるため「とよとみひでより」となるところであるが、一般的に「の」は読まれない。
また実際の名乗りも終生「豊臣秀頼」ではなく「羽柴秀頼(はしば ひでより)」であったため、
ここでも「羽柴秀頼」とするのが正当かと思われるが、今は一般的な呼称に従う(詳細については「豊臣氏」の項を参照)。
と注記する程度でいいのではないかと思います。こうなると父親の秀吉の方にも説明がいるかも知れませんが。MasakiTomasawa 2006年4月15日 (土) 13:12 (UTC)[返信]
と思っていたら、同じ一族の豊臣秀次の方でもっと簡素にまとまった注記がしてありました(「殺生関白」の項一番下)。
参考までにリンクします。姓と苗字の関係、「の」の有無など極めて簡潔で自然だと思いますので。MasakiTomasawa 2006年4月15日 (土) 14:39 (UTC)[返信]

姓について

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わたしは豊臣秀吉のページでも述べたのですが「誤読が広まっている」という言い方なんですけれども「言い慣わされている」というの言い方が適切なのではないでしょうか?どう考えても他人を見下した物言いなんですよね。多分、言いたい事は何かというと「バカな一般人は”とよとみの”と読まない」。読み方云々で人物の生涯における業績にはあまり左右はしないでしょうに。悪いけれどあまりこんな項には一般の人はあまり関心は寄せていないと思います。多くの人において言い慣わされてきたことにはたとえ間違っていたとしても認める度量が必要だと思います。こんな話に一項立てるよりも「新たな事実の発見」や「地域のオリジナルな伝承」なんかの方を取り上げるべきです。 ハイマン・ロス以上のコメントは、Hyman-roth0512会話投稿記録)さんが[2006年5月1日 (月) 15:04]に投稿したものです(こぶまきによる付記)。

同意です。歴史上の人物の名まえはある意味記号的なものだと思います。豊臣秀吉の豊臣が源平藤橘と同じようなものであっても、習慣的に「とよとみひでよし」と読んで、また、そう広がっています。例えば、勝海舟や吉田松陰など号で呼ばれる人物もいれば、西郷隆盛のように南州とは呼ばず、諱で呼ばれている人もいるわけですが、それも習慣的にそうなっているわけですし、ぐだぐだ言うような事でもないと思います。--以上の署名のないコメントは、218.131.208.37会話/Whois)さんが 2006年8月24日 (木) 04:38 に投稿したものです(こぶまきによる付記)。

>厳密には秀頼は関白にも豊臣の氏長者にもなれなかったので生涯、羽柴姓で通したと思われる。
「中公文庫日本の歴史13巻 江戸開府」(辻達也)207ページには清韓文英が書いた方広寺の鐘銘の原稿の写真がのっています。

そこには「大檀那 正二位右丞相豊臣朝臣秀頼公」と書かれています。羽柴の苗字など使っていません。
一方で、「奉行 片桐東市正豊臣且元」とも記載されています。つまりこの鐘銘文は、苗字があれば書くという形式であることがわかります。
羽柴秀頼名で発給された文書があるのでしょうか。--219.167.115.251 2008年8月1日 (金) 13:05 (UTC)[返信]
(追記) そのほかにも叡福寺聖霊殿には「御太子堂再興内大臣豊臣朝臣秀頼卿奉」と刻まれた擬宝珠が、金剛寺 (河内長野市)の多宝塔には「内大臣 豊臣朝臣秀頼」と刻まれた擬宝珠が残っているそうです。(二つ目の擬宝珠は個人ブログの写真で確認済み)--219.167.115.251 2008年8月1日 (金) 13:23 (UTC)[返信]

北野天満宮の摂社で、秀頼が造営した地主神社にある擬宝珠の写真を見ることが出来ます。
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/m_kitanotenjin.htm
「右大臣豊臣朝臣秀頼公」「片桐主膳正豊臣貞隆奉行」「慶長十二年 未丁 十一月」の署名が確認できます。
>厳密には秀頼は関白にも豊臣の氏長者にもなれなかったので生涯、羽柴姓で通したと思われる。
以降の記述は事実に基づいていないと判断出来ますので削除いたします。--219.167.115.251 2008年8月2日 (土) 12:05 (UTC)[返信]

秀頼と且元とでは身分が違います。同じ相手に対して署名するについても、正二位で右大臣の秀頼はただ「秀頼」と書けば(あるいはただハンコをひとつつけば)済みますが、秀頼の下で奉行として働いている且元は「片桐主膳正且元」と丁寧に詳しく書かなければならないのが当時の社会常識です。秀頼は「羽柴と名乗る資格がない」のではありません。「わざわざ名乗る必要がないほどエライ」のです。詳しくは「書札礼」などをキーワードにして調べてください。--呆庵入道 2009年11月7日 (土) 12:51 (UTC)[返信]

上の例を見つけたものですが、上記の例は「厳密には秀頼は関白にも豊臣の氏長者にもなれなかったので生涯、羽柴姓で通したと思われる。」に対する反証として、秀頼が羽柴の名字を使用した例がないこと、「豊臣朝臣秀頼卿」「豊臣朝臣秀頼公」と他者が書いている例を指摘して、秀頼が豊臣姓を名乗っていたことの例として出したものです。秀頼が羽柴の名字を名乗る資格がないなどとは誰もいっていません。ところで、秀頼の名字が「羽柴」であり続けたということの出典を「豊臣氏」で求めています。また、出典対応もお願いします。--模様砂漠2 2009年12月14日 (月) 09:39 (UTC)[返信]

なぜ秀頼の遺骨と判ったか?

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「昭和55年(1980年)、大坂城三ノ丸跡地より秀頼とみられる遺骨が発掘され、京都の清凉寺に埋葬された。」との部分がありますが、学術的な調査はなされたのでしょうか?清涼寺にあるのは首塚だと思うのですが。--立志堂 2007年11月30日 (金) 23:05 (UTC)[返信]

記述について

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文中の大半が、秀頼の人物に関する記述ではなく、「大坂の陣」についての記述になってしまっているので、少々、整理した方が良いのではないでしょうか?--ポテンシャル0 2008年5月22日 (木) 05:13 (UTC)[返信]

秀頼の実父の詮索について

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「バカバカしい」という言い回しがお気に召さなかったということですが、これはまたつまらない揚げ足取りをなさいましたねえ。

では「出典を欠いたゴシップ記事を削った」と言い換えればよろしいでしょうか。いずれにしても、あのようなゲスの勘繰りを好んでWikipediaの記事としてとりあげる意味がまったくわからない、ということです。

なお「自ら羽柴秀頼と名乗ったことがないから、秀頼はあくまで豊臣秀頼であって羽柴秀頼ではない」というのは学術的には成り立たない議論です。北条政子は自らそのように名乗ったことはありませんが「北条政子」で立派に通用しています。もちろん「豊臣秀頼」で定着しているものをわざわざ「羽柴秀頼」と呼ぼうとするのはいたずらに混乱を招くもので避けるべきですが、それは「羽柴秀頼」と呼ぶのが学術的に不正確だからではありません。単に「羽柴秀頼」では誰のことかわからない読者が多数存在するという事実に配慮したものでしかありません。

それと「秀頼四天王」というのは、誰がそう呼んだものでしょうか。わざわざリバートされたからには、ただ漫然と新版よりも旧版を尊重したという以上の、それなりの情報源があってなさったものと思います。--呆庵入道 2009年12月3日 (木) 14:47 (UTC)[返信]

ノートページでクダを巻いて、要約欄に何も書かず報復と受け取れる編集を行っても「議論を提起すべき」とのコメントに対する対応は一切していただけないんですね。自分の意見を受け入れてほしかったら、それなりの対応と態度を取るべきではないでしょうか。コメント依頼や議論の提案はいつやるんですか? --彩華1226 2009年12月9日 (水) 19:16 (UTC)[返信]
2009年12月3日にすでに。それで、彩華1226さんが、出典を欠いたゴシップ記事をWikipediaに掲載することに固執なさる理由はなんですか。新しい版よりも旧い版のほうが、ただ漫然と旧い版であるという理由だけで新しい版に優越するものであるという態度をとり続け、加筆をしないままリバートに専念なさるのはなぜですか。「報復」という言葉が天に向かって唾するものであるのにお気づきでないのはなぜですか。さてさて奇妙なるかな。別に私はあなた個人には関心はないのですよ。ただ、あなたは目の前を蚊や蝿が飛んだら払いのけるでしょう?私がしていることもそれと同じです。あなたが私の前に現れなくなったら、私はあなたのことなど忘れてしまいます。あなたは私にとってその程度の存在です。私はあなたの投稿履歴をチェックしたこともなければ利用者ページを閲覧したこともありません。興味がないからです。今後も同様です。視界から外れたら忘れます。視界に入ったら思い出します。そこはあなたの運不運です。選ぶのはあなたです。勝手になさい。--呆庵入道 2009年12月24日 (木) 15:10 (UTC)[返信]
「秀頼が秀吉の実子かどうか」は「出典を欠いたゴシップ記事」ではなく、「そうした風説があったという歴史的な事実」です。本来であれば「秀頼が秀吉の実子かどうか」という記事は近年の研究などを論拠として風説が流布されるに至った要因、風説の真実性などについて加筆されるべき項目だと考えます(例:道鏡崇徳天皇)。貴殿が「秀頼が秀吉の実子かどうか」という問題を「出典を欠いたゴシップ記事」と決め付けている時点で貴殿がWikipediaユーザーとして解決しようのない問題を抱えているとしか言いようがありません。--彩華1226 2009年12月25日 (金) 17:06 (UTC)[返信]
「そうした風説があったという歴史的な事実」についての出典が欠如していると申しあげているのですがご理解いただけなかったようで残念です。1ヶ月という時間があったのに、私の質問に何ひとつお答えにならず、出典を探査する努力もなさらなかったようで残念です。そういえば、あなたの利用者ページを先日はじめて拝見しました。どういうお方かよくわかりました。大いに意を強くしたとだけ申しあげております。--呆庵入道 2010年1月21日 (木) 13:37 (UTC)[返信]

(インデント戻す)編集履歴を拝見させていただきましたが、編集合戦の状態と判断し、呆庵入道様の編集を一旦差し戻しました。彩華1226様・呆庵入道様とも、相手を攻撃するような表現は控えてください。

さて、「秀頼が秀吉の実子かどうか」の節ですが、一番最初に呆庵入道様が要約欄に記入した「バカバカしい」との表現、上で主張された「ゴシップ記事」との記述では、残念ながら呆庵入道様の主観にすぎず、除去理由にならないでしょう。彩華1226様はこの主観的要素のため記述削除に反対しているのでしょう。ただし、呆庵入道様が指摘されるとおり「出典を欠いた」のは事実ですので、除去されても仕方ないですね。ただ言い方に問題があり、双方とも攻撃的過ぎます。

とりあえず出典を広く集めるために該当節に{{未検証}}を添付しました。議論があったとはいえ、ノートへの誘導も無く、出典養成テンプレートも記事に無かったためです。これで一旦様子を見て、出典が出ないようでしたら除去すればよいでしょう。--KurmUmy 2010年1月22日 (金) 11:45 (UTC)[返信]

「仲裁は時の氏神」と申しますから、とりあえず仰せのとおりにいたしましょう。ときに「一旦」というのはどの程度の期間を想定されていますか?私としては、彩華1226さんはどうせ再度リバートしてくるだろうから、今回は2週間の猶予期間を与えて「そうした風説があったという歴史的な事実」と「秀頼四天王」の出典の提示を要請しようと考えていたところだったのですが、短すぎるでしょうか。--呆庵入道 2010年1月25日 (月) 13:17 (UTC)[返信]
1年かかろうが2年かかろうが、なんの支障がありますか。というのは冗談として、秀頼研究をまとめた入手しやすい文献が(当然通俗的なものを別として)意外と少なく、最新の研究状況や研究史について把握しづらい部分があります。ただし、淀殿についてはゴシップ的な風聞を廃した研究がすすんでおり、これらを参照として秀頼に関する風聞とその歴史上の展開について調べるつもりです。--彩華1226 2010年1月25日 (月) 14:49 (UTC)[返信]
これまでの彩華1226さんの実績からして空手形に終わる可能性も否定できないので、どなたか中立の第三者の方から適正で私にも納得のいく猶予期間の提示がない限り2週間以上待つつもりはありません。とりあえず2010年2月10日23時59分(日本標準時)を過ぎたら、問題の部分はいったん除去しますので、調べ終わってからあらためて加筆してください。中傷以上のものではない出典をまったく欠いたバカバカしいゴシップ記事を放置するのは、泉下の秀吉一家に対する侮辱であり、Wikipedia日本語版全体の恥辱です。なお「秀頼四天王」とやらいうへんてこな煽り文句の裏付けもお忘れなくお願いいたします。--呆庵入道 2010年1月30日 (土) 10:10 (UTC)[返信]
「中傷以上のものではない」「バカバカしいゴシップ」というのは支持できません。「侮辱」「恥辱」と感じるのは単に呆庵入道様の主観でしかありません。また冷静に記事の内容のみを考えてください。編集者の態度は無関係です。
「一旦」の期間を聞かれたので、気が進みませんが一応私から提示しておきます。約1ヶ月はどうでしょうか。年単位では待てないという意見が出そうなので、とりえあず月単位で。最初の加筆は2005年12月でかなり長期間存在する記述のため、多くの閲覧者・執筆者が出典明記する必要すらない(自明のこと)と考えていた可能性もあり、ノート参加者以外の方に告知する必要があると考えます。この記事は彩華1226様のものでも、呆庵入道様のものでもないのですから。なお除去理由はあくまで「出典が無い」ことでしょう。--KurmUmy 2010年1月30日 (土) 14:31 (UTC)一部訂正--KurmUmy 2010年1月30日 (土) 14:34 (UTC)[返信]

もちろん、問題の部分を除去する理由は「出典がないこと」です。ほかのものは私の主観です。そのことに自覚はありますのでご安心ください。ただ、そのことをこっそり隠して、それで議論を自分の有利な方向に運ぶ、そういう術策を弄するのはいやだ、というだけです。問題の部分については「出典がないこと」だけで十二分に除去する理由になるものと私は考えます。

本来、問題の部分の「出典」は、彩華1226さんが2009年11月15日の時点で本件記事に編集を加えた時点できちんと明示されていなければならなかったはずのものであり、それをいまごろになって「いま調べているところです」などと平然と嘯いているのは、いったいどういうことなのか、深刻な疑問と不信感を感じています。彩華1226さんであれ、ほかのウィキペディアンのみなさんであれ、50日の時間があったのに私の問題提起に誰も応えなかったのですから、これ以上時間を確保する必要はないものと考えています。

なお、Wikipediaのいかなるルールに照らしても「5年間誰も編集の手を加えなかった記述」イコール「五本の柱から超越した無謬の記述」という等式は成立しないものと考えます。

ついでながら、彩華1226さんが求められている「出典」は、豊臣秀頼の実父は石田三成であるとする風説の出典は文献A、大野治長であるとする風説の出典は文献B、徳川家康であるとする風説の出典は文献C…といったたぐいのものであり、豊臣秀頼の実父は豊臣秀吉であると立証する「出典」ではありません。「ゴシップ的な風聞を 廃した 排した研究」などは調べていただく必要はありません。彩華1226さんは「ゴシップ的な風聞」だけ調べていただければいいのです。それが彩華1226さんが2009年11月15日以来繰り返し繰り返し試みてきたことであり、いま求められていることです。ご自分のなさってきたことにきちんと自覚を持ってください。--呆庵入道 2010年2月1日 (月) 13:45 (UTC)[返信]

まず、「50日の時間があった」とは言えません。私がノートを拝見した限りでは、お二方とも喧嘩腰であって、出典が有る無しの論争を行っていたとはいえません。呆庵入道様は出典を求められていたつもりだったのかもしれませんが、12月までの上記ノートを見る限りでは、「出典を欠いたゴシップ記事」が言葉の応酬として繰り返されるだけで、明確に出典を求める発言がありません。まず出典を欠いていることよりも主観による判断が問題視されたのがきっかけですし、その後挑発的なやりとりで推移しますがこの間はお二方とも話が噛み合っていません。出典関連の議論は1月、それも出典を求めていたのに出ないとの呆庵入道様の発言のみです。その上、私が問題視するのは記事本文に議論案内が無いことです。出典を本当に求めるのであれば、2009年に要出典かノートへの誘導をつけるべきでしょう。実際私が気づいたのは、呆庵入道様による大量削除後の記事を見たからです。問題提起が十分告知されていなかったと考えます。この節が作られた時に{{告知}}も付けられていれば除去に賛成できたのですが。--KurmUmy 2010年2月1日 (月) 16:34 (UTC)[返信]
ここはWikipediaですから、出典はわざわざ求めなくても出てくるのが当然ではありませんか。ほかのウィキペディアンのみなさんはともかく、少なくとも彩華1226さんは、2009年11月15日の時点で出典を明示する義務があったはずです。なお、私が彩華1226さんの私との議論に対する誠実さに疑義を呈するのは、先方が私に対してつきまといといやがらせをはじめたきっかけが、暗君準皇族の削除依頼のノートで私が先方の意向に従わず、先方の不興を買ったことにあり、それ以来ずっといやがらせを受け続けている、という前史があるためであって、本件記事のノートの記述ぶりからのみで説明できることがらではありません。--呆庵入道 2010年2月1日 (月) 17:22 (UTC)[返信]

約束のとおりにさせてもらいました。あしからず。--呆庵入道 2010年2月10日 (水) 20:28 (UTC)[返信]

「2010年2月10日23時59分(日本標準時)を過ぎたら、問題の部分はいったん除去します」という「約束」は少なくともKurmUmyさんが同意しておらず、ノートでの合意ではありません。--彩華1226 2010年2月11日 (木) 05:56 (UTC)[返信]
実にくだらないいいがかりです。それがいい社会人の言うことですか。それともあなたは責任能力や権利能力を欠いたお方なのですか。「異議をとなえなかった」ということは「同意した」ということと同義ではありませんか。あなた自身も異議をとなえませんでしたが、それこそ同意したということと何が異なるというのでしょうか。あなたには羞恥心というものはないのですか。ないのでしょうね。あればそのような言動がとれるはずがない。 60日近く 約90日にわたって「そのような風説があったという歴史的事実」の出典を明記できない、という点だけでも大いに恥ずべきであるのに、さらに恥の上塗りをされることはまことに理解に苦しみます。私の理解の範囲を超えるものです。非常識きわまる。話になりません。やはりあなたはリバート以外には何もできない方です。再確認しました。--呆庵入道 2010年2月12日 (金) 22:35 (UTC)一部加筆--呆庵入道 2010年2月12日 (金) 23:33 (UTC)[返信]

さて、1ヶ月の冷却期間が設定されたわけですが、彩華1226さんはもう豊臣秀頼の記事から手を引かれたらいかがですか。あなたが「そのような風説があったという歴史的事実」の出典を明記できない、その能力がない、ということはもはや隠しようがないわけです。そうなるとあなたがこの記事にかかわる必要もなくなります。あなたにできることは2月11日にしたような姑息な陰謀をめぐらせることだけです。ぜひ本件記事から手を引かれることをお勧めします。これは親切で申しあげているのです。あと1ヶ月あります。熟慮されることをお勧めします。

蛇足ながら、以前にも同様のことを申しましたが、彩華1226さんにはもう2度と私の前に姿を現さないこともお勧めします。今回またしてもあきらかになったように、あなたが私の前に姿を現してあれこれいちゃもんをつけるたびに、結局のところあなたの言い分は説得力のないいいがかりであることが衆目にさらされ、あなたが負け犬であることを再確認して終わる、ということの繰り返しです。そろそろあきらめたらどうです。あなたはご自分ではお国のためにならない危険思想の持ち主を常時監視して何かあれば摘発しようと精励している警察官か何かのおつもりなのでしょうが、はたから見れば、みかじめ料を納めない飲食店の営業を妨害する暴力団員に過ぎません。これ以上続けてもあなたのためになりません。これは親切で申しあげているのです。あわせて熟慮されることをお勧めします。--呆庵入道 2010年2月14日 (日) 16:38 (UTC)[返信]

しばらく参加できない間にまたもめてしまったようで残念です。出典が無い以上記述はできません。彩華1226様はいきなりrevertせず、ノートで異議を述べるべきでしょう。また呆庵入道様、相手を不快にさせる言動はおやめ下さい。そして記事内容と直接的に無関係な内容を書かないで下さい。上記の後半は個人的所感であって会話ページのほうがよいです。
さて、残念なことに記事は保護されました。保護経緯へ批判が出る虞がありますが、それは水に流すべきです。その上で、私としては「秀頼が秀吉の実子かどうか」節は、復帰するなら出典明記を必要とすることに賛成です。彩華1226様、ここは落ち着いて、出典が見つかってから追加してはどうでしょうか?--KurmUmy 2010年2月17日 (水) 14:30 (UTC)[返信]
「所感」というご指摘はごもっともなものと思いますが、本件の一連のごたごたが暗君の削除依頼のノート以来の彩華1226さんの私に対する腹いせであって、豊臣秀頼はいわばダシに使われたに過ぎないことを明示する必要があったこと、私の一連の言動は正当防衛としての一面があったことはご理解ください。なおかの御仁の会話ページは私に限らず各方面からの抗議と苦情で充満していて私などはとても相手にされそうにありません。KurmUmyさんのほんらいこの場で述べるべきでないことばであるとのご指摘はそのとおりだと思います。先方がこれ以上攻撃を仕掛けてこない限りは再発防止に努めます。--呆庵入道 2010年2月18日 (木) 10:07 (UTC)[返信]

豊臣家は禁中並公家諸法度の適用を受けた

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「豊臣家は幕府からは近衛・一条・九条・鷹司・二条家と同じく公家として扱われ、禁中並公家諸法度の適用を受けた。」との一文があります。 ところが、禁中並公家諸法度は豊臣家滅亡の慶長20年(1615年)5月より後の慶長20年7月17日(1615年9月9日)に公布されており、辻褄が合いません。

無署名の方がおっしゃる通り、禁中並公家諸法度は豊臣家滅亡後に公布されています。ろくに確認もせずにリンクまで張ったことを反省しています。
上記の一文の内、少なくとも「禁中並公家諸法度の適用を受けた」の件は削除されるべきと思います。--かめつる 2011年11月9日 (水) 12:21 (UTC)[返信]
一週間が経ったので、上記の通りに削除させていただきました。--かめつる 2011年11月16日 (水) 14:02 (UTC)[返信]

小石の方について

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武蔵国 成田氏にリンクが貼られていますが、小石の方の出自は伊勢国 北畠氏一門 成田吾兵衛助直の娘(同時代資料なし、「台徳院殿御実紀」にそういう記述がある)と思われるので、武蔵国 成田氏との血縁はない可能性があります。