ノート:豊臣秀吉/過去ログ1
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秀吉は猿と信長に言われて可愛がってもらっていた。(2004年8月12日 (木) 15:30 222.5.161.233)
6本指
>普通は小さい頃に1本を切除するが、秀吉は6本指を生涯通したとのことである。
とのことですが、当時でも切除する場合が多かったのでしょうか? 難民 2004年10月28日 (木) 03:43 (UTC)
- 今職場なので原典には当たれないのですが、前田利家の証言の中に「6本指の人は大抵、幼年期に余分の指を切るものだけど、太閤様は切ったりしなかった」というくだりがありました(と記憶してます)。「だから太閤様はちょっと特別な人なんだよ」というニュアンスだったかな?shimoxx 2004年10月28日 (木) 03:55 (UTC)
- 昔からそういった手術は行なわれていたのですね。ありがとうございました。難民 2004年10月30日 (土) 16:31 (UTC)
秀吉の家臣
五大老五奉行ってのは豊臣政権の機関じゃないかなぁと思えるのですが、家臣の分類法としてはどうなのでしょう?--武蔵野武蔵 2005年3月3日 (木) 13:15 (UTC)
氏・姓(かばね)
豊臣秀吉に与えられた氏は「豊臣」で、姓(かばね)「朝臣」だと思うのですが、本文の記載は適切なのでしょうか? 203.165.160.121
- 公卿の姓である源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏・橘氏)の四姓に匹敵する第五の新姓として豊臣朝臣という氏姓(本姓)が朝廷より秀吉に下賜された1586年に始まる。豊臣氏にはこうかいてあるよ218.226.34.113
- 姓を「セイ」と音読みをすれば、血族集団を指しますし、「カバネ」と訓読みすれば、日本の氏(ウヂ)を階層化した一種の爵位となります。また、氏も「シ」と音読みすると、姓(セイ)の内部がさらに細分化した家系を意味しますが、氏(ウヂ)と訓読みすると、姓(セイ)と同等な血族集団を意味します。厳密には相互の混乱もありますが。ですから、「豊臣」は「姓(セイ)」であり「氏(ウヂ)」、その「姓(カバネ)」は朝臣となります。--ウミユスリカ 2006年1月28日 (土) 01:07 (UTC)
苗字
苗字にこだわっている人がいますが、元々苗字は、便宜上の通称で、本人がそう名乗って、人がそう呼べばそれが苗字です。秀吉は豊臣姓をもらってから、豊臣としか名乗ってないのだから、あえて苗字はといえば、「無い」か「豊臣」です。源頼朝の苗字は何かというのと同じくナンセンス。 61.210.161.11 2005年10月22日 (土) 05:09 (UTC)
- 苗字は確かに便宜上の通称ですが、武士など領主階級の間では階級認定上重要な役割を果たしていました。姓を与えるのは朝廷ですが、武士の間では自らと同じ苗字を名乗ることを許すなどの方法で朝廷の姓を媒介にした主従関係と似たような君臣関係の構築が見られます。豊臣秀吉も、主要大名に対して「羽柴の名乗りを許す」、徳川家康も同様に島津などの重要な大名に「松平の名乗りを許す」というのをやっています。つまり、豊臣氏の苗字が羽柴だというのは有効に機能しているんです。--ウミユスリカ 2006年1月28日 (土) 01:12 (UTC)
未確認の流説の取扱い
「未確認の流説」を百科事典に書くのは余りにも無責任なので、移動しました。 --忠太 2005年12月27日 (火) 13:14 (UTC)
- ==未確認の流説==
- なお、ルイス・フロイスや前田利家の残した記録によると、片手(右手)が6本指(親指が2本)だったという(多指症)。我が国では事実上、小さい頃に1本を切除して整形するのが一般的であるが、秀吉は6本指を生涯通したとのことである。
- なお、「豊臣(とよとみ)」という姓は聖徳太子の名前「豊聡耳(とよとみみ)」から取られたという説がある。
- 秀吉は埋蔵金を、現在の兵庫県の猪名川町に隠したという噂も有名である。
(以上)
指が六本あったという記述は戻すべきだと思います。
指が六本あったというのはルイスフロイスの記述から事実だと思われます。彼の著書はかの時代の考証において重要な役割を果たしていることは事実であり、決して無責任で「未確認の流説」とはいえないはずです。
ただ、戦国時代の日本の風習については、いささか情報不足に思います。(あまり一般的な情報では有りませんし、、、)
豊聡耳という姓の話ははじめて聞きました。もう少し詳しければ記述を加えるべきだと思います。
埋蔵金については別に記載する必要はないと思うのですが、、、
他にも徳川の財宝やナチスの隠し財宝、ナポレオンの軍資金などそういう話には事欠きませんが、それに関する記述はいずれにもないように思います。ですから、あえて書く必要もないと思います。 どうしても必要ならば「埋蔵金」等の新しい項目でも作るべきでしょう。
「指六本」に関する記述に関して皆さんの意見をお聞かせください。FW190 2006年1月27日 (金) 08:16 (UTC)
- 指六本を最初に書いたshimoxxと申します。フロイスの『日本史』および前田利家の回顧録とされる『國祖遺言』に指六本に関する記述があることを知り、非常に興趣をそそられましたので、ついつい書いてしまいました。指六本はそれなりの根拠がありますので、未確認の流言とまでは言えないでしょうけれども、しかし確実な史実と断定することも難しいようです。ともかく、指六本はどちらかと言えばトリビア的・豆知識的な記述ですから、書かなくても良いでしょうし、バランスさえ欠いてなければ書いてあっても良いだろうと思っています。まあ、秀吉の指六本説はあの井沢元彦があちこちで言及していますので、胡散臭く感じるのも無理はないですけどね。--shimoxx 2006年1月27日 (金) 16:45 (UTC)
- 確かに医学的に言っても、秀吉の出生地の周辺には多指症遺伝子が比較的高頻度で認められるようですね。井沢元彦が大きく取り上げていることでも、その大半は彼のオリジナルというよりすでに他の研究者や研究家によって注目されたものを大きくクローズアップして見せている部分が大きいので、井沢氏の独自の位置づけ方などを除けばそれほど奇異なものでもないものは多いと思うんですね。彼が取り上げることで胡散臭さが加わってしまうというマイナス面は否めませんが。--ウミユスリカ 2006年1月28日 (土) 01:16 (UTC)
- 井沢氏が言及しているといっても、あくまでも「紹介」なのだから、確認できる原典や史料だけ示せば問題ないのでは。ちなみに、あまり関係ないですが『シグルイ』でも原作にはない虎眼先生の六本指の元ネタになってますね。--Charon 2006年1月28日 (土) 01:23 (UTC)
表現に関して、、、
>しかし、晩年に領土拡大を目論んで行った世界史上でも最大規模の侵略戦争である文禄・慶長の役は失敗に終わった。
この「世界史上でも最大規模の侵略戦争」という表現はかなり誇張されていないでしょうか?
どう考えてもモンゴル帝国や十字軍のそれと比べて規模が小さすぎるように思うのですが、、、FW190 2006年1月27日 (金) 07:58 (UTC)
- 「世界史上でも最大規模の侵略戦争である」は明らかに中立性を欠いた記述ですから、この部分は削るべきだろうと思います。--shimoxx 2006年1月27日 (金) 16:45 (UTC)
改名欄について
現在、テンプレートの改名欄が「日吉丸、木下藤吉郎、秀吉、羽柴秀吉、平秀吉、藤原秀吉、豊臣秀吉」となっていますが、豊臣秀吉の改名歴を正確に反映していません。というのは、羽柴秀吉が平秀吉になり、藤原秀吉になったのではなく、羽柴という苗字(氏)はそのままで、ウヂ(本姓)を平、藤原、豊臣と改めているからです。つまり、苗字の改名歴が「木下→羽柴」であり、ウヂの改名歴が「平→藤原→豊臣」、さらに諱は最初から最後まで「秀吉」、通称は「藤吉郎」から「筑前守」に任ぜられて以降は官途名乗りへという流れです。ですから、「羽柴秀吉」が「平秀吉」になったのではなく、同時に「羽柴筑前守平秀吉(羽柴ちくぜんのかみたいらのひでよし)」であったわけです。このあたり、現状の武士テンプレートではうまく表現できないように感じられます。何かいい解決策はありませんでしょうか。--ウミユスリカ 2006年3月1日 (水) 21:57 (UTC)
- こちらで、「源平藤橘などの姓を加えた名乗りは、ここでは記しません。氏族の項に記載します。 」となっていますし、本姓は除けば解決すると思います。全ての組み合わせを書くとかなりの数になりますしね。考えてみると苗字も書かないほうが良いかもしれませんが、、--俊 2006年3月4日 (土) 09:44 (UTC)
>織田信長の死後、織田氏を守ろうと立ち上がった柴田勝家や佐久間盛政、佐々成政、山岡景隆、滝川一益ら忠臣
- 何ですか、この頓珍漢な解釈は。
豊臣秀頼の項で気付いたのであるが「豊臣秀吉」の読み方はここで書かれている通りおそらく「とよとみ の ひでよし」で正しいのかもしれない。しかしながら一般的にはどう考えても「とよとみ ひでよし」の方がしっくりくると考えられる。 またこれほどの個性のある人物の読みはそう簡単に変えていいものではないと思われる。現時点では参照程度の事項にとどめるべきでむやみなことを行うのは逆に混乱を招くものである。また読みが「とよとみ ひでよし」のままだとしても秀吉の本質を損なうものではないと考えられる。よってこの項は下段に下げておく。2006-04-09 08:51:02 special:contributions/202.147.217.98(履歴より署名追加--ikedat76 2006年4月30日 (日) 21:59 (UTC))
名称表記の編集合戦について
今、旧字体表記と本姓・実名間に「の」を入れるかどうかで編集合戦が起きてますね。旧字体表記は情報量という点で、必ずしも排斥しなくてもよいのではないでしょうか。あと、「の」を入れるかどうかですが、プロの歴史学者の著作でも本来は「の」が入るべきとする主張が見られる一方で、慣例として「の」を入れないことが定着しているのもまた事実です。そういった実態を両論表記すればよいだけのことではないかと。--ウミユスリカ 2006年4月28日 (金) 22:18 (UTC)
英語版について
英語版の記述に若干の悪意を感じます。 ことに慶長の役には"無意味な戦争"(あるいは"むなしい戦争"(=futile war))など主観の入った記述がみられるほか、秀吉氏没後の日本軍を一方的にたたきのめした(600隻の船のうち550隻を沈めた、だとか)ような記述があります。これらの拠出がよくわからないので何ともいえませんが、内容が内容なので日本人の側から在る程度の修正が必要と思われます。 私は英語を多少かじっている程度で、文章的表現も怪しいので皆さんの協力をお願いします。--2006-04-29 01:29:30 special:contributions/58.70.13.96(履歴より署名追加--ikedat76 2006年4月29日 (土) 17:25 (UTC))
- 否定的な評価を何でもかんでも悪意に結びつけるのは短絡というものでしょう。典拠がなければ修正すればよいし、あればそのままでよいだけのことで、「内容が内容なので日本人の側から在る程度の修正が必要」な理由が理解できません。--ikedat76 2006年4月30日 (日) 21:59 (UTC)
- むなしい戦争で間違っていないと思う。 --忠太 2006年5月1日 (月) 12:31 (UTC)
- 英語版を機械翻訳で見る限り、戦闘による打撃や敗北が主因で撤退したような表現になっていて妥当でないようです。また被害の量的評価もかなり疑問です。
- 豊臣政権の崩壊主因が朝鮮出兵というのもどうかと・・・朝鮮出兵は間接的には秀次切腹の要因の一つになるかと思いますが、勝っても負けても主因は後継者問題でしょう。yasumi 2006年5月7日 (日) 11:11 (UTC)
- 崩壊主因ではあると思います。文治派と武断派の確執を増幅させて徳川家康の発言力増大→関が原に至らしめたのですから。両派の対立が無ければ後継者が秀頼でも暫時重臣らの合議制で成人まで推移したのではないかと思います。--水野白楓 2006年5月10日 (水) 08:37 (UTC)
- そのご意見であっても主因は秀吉→秀頼という強力な後継者不足による権力闘争ですよね。結局、文禄・慶長の役が無くとも豊臣政権の権力構造を換えない限りは秀吉の寿命が尽きて同じ事が起きます。英語版の記述のように軍事的敗北が続いたから撤退した訳でもなければ、朝鮮への出兵と敗北が主因で豊臣政権が崩壊したとは言えません。yasumi 2006年5月12日 (金) 03:40 (UTC)
- むなしい戦争で間違っていないと思う。 --忠太 2006年5月1日 (月) 12:31 (UTC)
氏・姓について
可読性に配慮し、節を分割しました。--ikedat76 2006年5月2日 (火) 01:12 (UTC)
豊臣姓について ~本性と名字の違い~ あまりにも文章が押し付けがましくてクドイ気がするのはわたしだけなのでしょうか?「豊臣秀吉」は一般的には「とよとみ ひでよし」と言い慣わされていま す。それを何が何でも「とよとみのひでよし」と読め!!と言わんばかりに書いている人間がいる。わたしの見切りではこれを書いている人の考えは2つ指摘できます。ひとつは「知識のひけらかし」です。もうひとつはこのことを知らない人をバカにした書き方です。申し訳ないけれどわたしにとっては一番嫌いな人間ですよ。だいたい本当に400年前に「とよとみの…」と言っているのを聴いてきたのかっていいたいですよ。あるいはそう呼ばれていた確証はあるんですかね? まさか、机上でのお勉強をそのまま持ち込んだなどというのではないでしょうね。
それはともかく、ここで提案します。 豊臣秀吉の一族の苗字の説明は豊臣氏のページに大きな部分を任せて豊臣秀長や豊臣秀次、豊臣秀頼も足並み揃えてそれぞれのページでは参照にとどめる書き方をしては如何かと思います。みなさまのご意見をお聞きしたいものです。 ハイマン・ロス
- 他ユーザーを誹謗することはお控えください。あなたの好き嫌いや「見切り」ではなく、この記事をどう編集すればよりよい記事になるのかだけをお書きください。また、署名は--~~~~で時刻つきの署名が自動的に展開されますので、ご利用ください。--ikedat76 2006年5月2日 (火) 02:16 (UTC)
百科事典は知識の保管所です。Wikipediaは、参加者一人一人が己の知識を持ち寄り提供することで成り立っています。それを「ひけらかし」「人をバカにしている」としか受け取れない人は、残念ながらWikipediaには向いていないかと存じます。なお「本当に400年前に「とよとみの…」と言っているのを聴いてきたのか」についてですが、それを言い始めたら史学も文献学も成り立たないことを附言しておきます。--Arpeggio 2006年5月2日 (火) 01:20 (UTC)
やや感情的な物言いにとられたことについてはお詫びします。 姓名のことを書くこと自体あるいは事典の保管的機能を否定するものではありません。 しかし、もう少し一般に向けた謙虚な書き様があるはずなんです。 マニアックなことを扱っているわけですからね。 姓名の項についての文章はその点で少し行き過ぎた書き様でしょう。
今の状況ではすぐに修正編集を行えば編集合戦勃発が決定的になってしまいます。それは回避するように努めなければならないのでわたしなりに対話に入っておるつもりです。 ハイマン・ロス
- 「押し付けがましくてクドイ」という点には賛同 --忠太 2006年5月2日 (火) 12:48 (UTC)
- 通りすがりですが、ちょうど記事を読んで気になった箇所なので。「ウィキペディアの~」辺りの記述は不要かと思います。記事内においてWikipediaでの記事名原則を書く必要はないと思います。執筆者にとって必要な情報であっても閲覧者には不要ですから、残しておくにしてもコメントアウトという形にして表示されないようにするのが妥当かと思います。--Koichi 2006年5月10日 (水) 08:09 (UTC)
- (賛成)ハイマン・ロスさんのご提案に賛成します。説明は豊臣氏のページにまとまってあればよいと考えます。--猪山人 2006年5月10日 (水) 17:27 (UTC)
(賛成)同じくハイマン・ロスさんのご提案に賛成します。姓や名字については扱いが難しいとは思いますが、やはりクドさを感じます。516 2006年5月11日 (木) 14:29 (UTC)- (意見撤回)源頼朝すら見ていませんでした。「の」は入るべきという意見に修正です。他の事とごっちゃになってしまいました。516 2006年5月11日 (木) 16:52 (UTC)
- (反対)やはり間違いは直さなければならない。自分も「とよとみ・ひでよし」が正しい読み方だとしか思っていなかったが、wikiを見て「ああ、豊臣というのは、源や平と同じでのがつくのかとはじめて知った口であるからだ。文章が説教臭かったりして鼻に付くなら、やわらかい文体に変えたりすればいいが、表記は残すべきである。「とよとみひでよしと読め!書け!」というのは今以上におかしい。--218.218.153.125 2006年5月11日 (木) 14:37 (UTC)
- (コメント)おっしゃるとおり、私もの入り表記が本当は正しいと思いますし、説明は残すべきであると考えます。しかし豊臣秀吉のページに説明を書く必要はないと考えます。なぜならの入り表記の問題は、豊臣氏に関する問題であって、秀吉一人に関する問題ではないからです。いちいち同じような説明を豊臣秀頼などにも繰り返し書く必要はないでしょう。--猪山人 2006年5月12日 (金) 05:16 (UTC)
- 読み仮名の「の」表記だけ残し、説明文は豊臣氏に移し、「詳しくは豊臣氏を参照」という一文だけ添えるというのがいいかもしれませんね。「とよとみひでよし」表記には反対です。--218.218.153.138 2006年5月12日 (金) 15:24 (UTC)
実はですね、本姓+実名の間だけじゃなくて、古くは名字+通称の間にも「の」を入れていたという話しもあるのですよ。ですから、本姓+実名型の呼称にのみ「の」をつける方式に統一するというのも、ある意味混乱を避けるための便宜的なものである側面は否定できないんですね。これは、同時代的にありえなかった「織田信長」のような名字+実名型の呼称を歴史的人物の個人特定の符号として扱わざるを得ないという歴史学上の便宜的妥協と共通するものがあります。本当に同時代的な呼称で百科辞典記述を一貫させたら、読者が個人特定するのが非常に困難になってしまいますから。そういう側面も念頭におく必要があるかとは思います。--ウミユスリカ 2006年5月11日 (木) 15:41 (UTC)
上杉謙信が誰かに送った直筆の手紙で「武田晴信の悪行がうんたらかんたら」みたいなのを見た事があるので「織田信長」表記が当事ではありえないとも言えないと思いますが。--218.218.153.125 2006年5月11日 (木) 16:12 (UTC)
- なるほど、イレギュラーな面はあるとは思いますが、そういう用例も確認されているわけですね。ありがとうございます。もし原典が確認できたら、教えていただけませんでしょうか。--ウミユスリカ 2006年5月12日 (金) 01:46 (UTC)
- 画像は某掲示板で見たのですが、上杉神社にある宝物館に展示してあるようです。「たけ田はるのぶ」を呪詛する内容で、「神仏のご加護で武田晴信を討ち取れたら、新社殿を造営することをここに誓います」といった感じのもののようですね。--61.196.6.126 2006年5月12日 (金) 03:03 (UTC)
- それは「晴信」が諱だからではないですか。当時は生きている人を諱で呼ぶのはタブーでしたが、敵であればかまわないのでは。そう考えると、記事本文に「名字+諱の表記は当時においては行われていなかった」とありますが、死んでしまえばその人を名字+諱で呼ぶのは当時においても行われていたわけですから、本文の説明は厳密には誤りですね。--猪山人 2006年5月12日 (金) 05:16 (UTC)
那須与一などもありますし、「の」を入れるかどうかは慣習的なものでしょう。入れる入れない、どちらが正しいというものでは無かろうと思います。「豊臣姓について ~本姓と名字の違い~」は一つの考えとして、主張色を薄めつつ豊臣氏や本姓などに移せば良いと思います。--俊 2006年5月12日 (金) 05:59 (UTC)
- 「の」を入れるのは平安以前の「読み癖」だと思っていましたが。例えば渡辺綱なども名字で「の」を入れますよね。一方、江戸初期の藤原惺窩は本姓でも「の」をいれないのが普通ですよね。確実な学者の見解というのはあるのですか? Zorac 2006年5月12日 (金) 15:15 (UTC)
- 私も、本姓でありながら「の」を入れない例として卜部兼好(吉田兼好)を思い出しました。これ以上の専門知識はないのですが、やはりZoracさんの説が正しいのかもしれません。--猪山人 2006年5月12日 (金) 23:23 (UTC)
ちょっと今、手元で参照できる状態ではないのですが、プロの歴史学者で、「本姓+実名・諱」形式の実名には本来「の」が入り、豊臣姓の人名に「の」が入るのが本来の形であるべきだという考えをはっきり文章にしている例として、岡野友彦の「源氏と日本国王」(講談社現代新書)があったかと思います。しかし、私も先に述べたように、古くは名字に対しても「の」が入っている用例が多々見られるんですね。むしろ、「の」はファミリーネーム的な集団名要素が属人的な個人名要素として人名に組み込まれきっているか、それとも集団名こそが個人名に優先しており、個人はあくまでもそこに従属するパーツであるという意識が優先しているかというかというのが本義ではないかと思います。で、「本姓+実名」という人名表記は平安時代中期以降にウヂ集団の社会的実効性が有名無実化していくにつれて朝廷における天皇とのかかわりにおいてのみ意味を持つようになっていき、それ以外の場では使われなくなっていきました。だからこそ、本姓の属人化は進行がストップしてしまった。それに対して、最初は名字の地の家組織への個人の従属の意味合いが強く、「の」をつけた名字呼び名が普通だったのが、次第に個人が表に出て、名字が個人に従属する人名要素に転落していった。そうした結果として、本姓呼称には「の」がつき、名字呼称には「の」がつかないという形態が結果として定着したまでで、デフォルトとしてのルールではなかったと見たほうがよいのではないかと思います。「本姓+諱」「名字+通称」という通常の組み合わせも、それがデフォルトで正しいからというよりも、当時の意識としての常識、つまり本姓だの、諱だの、名字だの、通称だのといったパーツの惹起する意識の意味合いから、結果としてそうした組み合わせになってしまうことが自然な意識の流れだったとしたほうがよいのではないかと思い始めています。だからこそ、呪詛のような特殊なケースでは「名字+諱」という組み合わせが生じても、意識の流れとしてはごく自然だったと考えたほうがよいのでしょう。そういう意味で、豊臣秀吉に「の」を入れるかどうかというケースにしても、おそらく朝廷の儀礼の場では「の」を入れて呼んだのだと思いますし、そうした場では「の」を入れるのが「正しい」のでしょうが、ファミリーネームの属人化の進んだ当時の時代性を考えると、「の」を入れない呼び方も同時並行で存在してもおかしくはないのかもしれません。--ウミユスリカ 2006年5月13日 (土) 00:09 (UTC)
- さすがウミユスリカさん詳しいですね。まあ、「の」など強調するほどのことではない訳で、どちらにしろ「豊臣秀吉の項には豊臣が名字ではなく本姓であることを簡単に書いて、詳しくは豊臣氏と本姓に移す。」という俊さんに一票です。 Zorac 2006年5月13日 (土) 10:00 (UTC)
議論を蒸し返すようで恐縮なんですが、どうしても「とよとみ・の・ひでよし」という表記に違和感を感じており投稿しました。確かに「本姓」の場合、のが入るというのが原則なのでしょうが、Zoracさんやウミユスリカさんの見解のように例外もあるようですし、それに、豊臣秀吉よりはるか昔の源頼朝や平清盛などが、後世にのが入って伝わっているのにもかかわらず、豊臣秀吉の場合は、のが入らずに後世に伝わっているのでしょうか?その理由は色々と考えられますが、豊臣秀吉も例外のパターンだったと考えるのが自然のように思えます。であれば、保守的に考えて、「とよとみ・の・ひでよし」と表記するのではなく、「とよとみ ひでよし」と表記しておき、但し書きか何かで、「「とよとみ・の・ひでよし」と呼ばれていた可能性もある」などの一文を入れておく方がいいのではないでしょうか?iwacchi 2006年9月13日 (水) 15:24 (UTC)
確かにちょっと書き方はくどいですね。苗字について言えば、平安末の苗字はかなりの数が「の」を入れて読んでいることが分かります。有名なのは那須与一(ナスのヨイチ)、そして、現在の国語教科書ではかなりおなじみになっている熊谷次郎直実(クマガヤのジロウナオザネ)ですかね。私は、これが苗字の原風景であると考えています。苗字はもともと地のものであるというのは、すでに言われていますが、現代語で名乗りを解釈すれば・・・「クマガヤ(エ)っていうところ「の」ジロウナオザネっていうもんだ。」と言う感じであると考えます(ちなみに熊谷は平姓としています)。いまでもこんないい方があります。「○○(屋号が入ったり三丁目だったり)の○○君」というものですが、これの「の」と同じ感覚かと思います。つまり「~(というところ)の~」という意味で「の」が入っているのかと思います。苗字はもともと「自身の住んでいるところ」などをあらわすものであり、それがいつのまにか苗字のほうが一般的になり、いわゆる現在で言うところの「姓(ここでいう姓は、小泉純一郎の小泉に当たる部分のこと)」になったため、「の」が落ちたとも考えられます(つまり、ウミユスリカさんがいうところの属人化)。とりあえず、俊さんの案に賛成いたします--koon1600 2006年9月20日 (水) 17:00 (UTC)
- 現状では1行目にとよとみ・の・ひでよしと表記されていますが、慣例的や保守的に考えてとよとみ ひでよしに戻そうかと思いますが如何でしょうか?また、「豊臣姓について ~本姓と名字の違い~」の部分で、「これは本姓と名字の混同に起因すると思われる誤った読み方である」と断定した記述もあります(豊臣氏のところにも同じ)ので、これについても、記述見直したいと思いますが、如何でしょうか?iwacchi 2006年9月21日 (木) 12:57 (UTC)
- 無理に戻す必要も無いように思います。少なくとも「とよとみのひでよし」と呼んだとする考えには、『源氏と日本国王』(岡野友彦、講談社現代新書)27-28ページの議論に見るとおり、それなりの根拠が存在している訳で、岡野氏の提起が全く否定されているのであればともかく、そうした否定視する動きは特に見られないようです。ともあれ。冗長かも知れませんが、例えば(とよとみ・の・ひでよし / とよとみ ひでよし)と併記する方法はどうでしょう。どちらか一方の読みだけを採用するのと比べて、よりwikipediaらしい方法だと思うのですが。--shimoxx 2006年9月21日 (木) 13:36 (UTC)
- 確かにShimoxxさんのご意見ももっともと思われます。それに、不毛な編集合戦につながりかねませんし...。併記の方向に賛成します。ただ、そうするのであれば、先ほども書きましたが、「豊臣姓について ~本姓と名字の違い~」の部分や豊臣氏で書かれている、とよとみ ひでよしの読み方は間違いであるという書き方も問題ありと思いますので、表現を改めたほうがいいと思いますが...。iwacchi 2006年9月21日 (木) 14:21 (UTC)
- 私の今の考えは「の」入り表記に明確に反対ですね。岡野友彦氏が文献で述べている説というのは一つの説ではありますが、世の中の多数説はどうなっているのでしょうか?国史大辞典など大半の文献で、表記は「とよとみひでよし」になっているかと思いますが。多数説と少数説で食い違いがあるのであればウィキペディアとしては多数説を採用すべきです。--猪山人 2006年9月22日 (金) 15:58 (UTC)
- いずれにしても、(とよとみ・の・ひでよし)=正・(とよとみ ひでよし)=誤という現状の表現は間違っているという意見が多数と思われます。あとは、(とよとみ ひでよし)の単独表記にするか、(とよとみ ひでよし/とよとみ・の・ひでよし)の併記にするかの議論かと思いますが、ここである程度、意見の集約ができたら修正したいと思いますし、豊臣秀頼などの豊臣一族もあわせて修正したいと思います。あと、実はもうひとつ気になることがあるのですが、それは『「羽柴」という名字は豊臣姓下賜後も変わっていない』の部分の記述なのですが、豊臣姓下賜後も羽柴姓を非公式の場で使い続けていたのであれば、この記述で正しいと思うのですが、そうでなければ、豊臣姓下賜後は、苗字がなくなった(使わなくなった)と考えるのが自然ではないでしょうか?iwacchi 2006年9月25日 (月) 13:21 (UTC)
- 確かにShimoxxさんのご意見ももっともと思われます。それに、不毛な編集合戦につながりかねませんし...。併記の方向に賛成します。ただ、そうするのであれば、先ほども書きましたが、「豊臣姓について ~本姓と名字の違い~」の部分や豊臣氏で書かれている、とよとみ ひでよしの読み方は間違いであるという書き方も問題ありと思いますので、表現を改めたほうがいいと思いますが...。iwacchi 2006年9月21日 (木) 14:21 (UTC)
- 無理に戻す必要も無いように思います。少なくとも「とよとみのひでよし」と呼んだとする考えには、『源氏と日本国王』(岡野友彦、講談社現代新書)27-28ページの議論に見るとおり、それなりの根拠が存在している訳で、岡野氏の提起が全く否定されているのであればともかく、そうした否定視する動きは特に見られないようです。ともあれ。冗長かも知れませんが、例えば(とよとみ・の・ひでよし / とよとみ ひでよし)と併記する方法はどうでしょう。どちらか一方の読みだけを採用するのと比べて、よりwikipediaらしい方法だと思うのですが。--shimoxx 2006年9月21日 (木) 13:36 (UTC)
- これについてお答えしますね。苗字と姓は、両立するものです。そのため、豊臣姓を下賜されても、羽柴という苗字が消滅するわけではありません。また、豊臣姓を得てから羽柴は使われていないのは確かなのですが、別の使われ方をはじめます。羽柴と言う苗字をばら撒きだしたのです。前田(前田利家)、丹羽(丹羽長秀)などが羽柴姓を与えられています。なので、なくなったとは言えないかと思います。--koon1600 2006年9月25日 (月) 13:38 (UTC)
- 羽柴という苗字をばら撒くことで使っていたということは承知しているのですが、私が言いたかったのは、うまく表現できないのですが、例えば、徳川家康が松平という苗字をばら撒いていたからといって、徳川という苗字と松平という苗字を2つ使っていた(自称していた)わけではありませんよね。あくまでも、徳川家康は徳川という苗字だったわけで、苗字と本姓の違いがあるにしても、豊臣秀吉自身としての名乗りとして、「羽柴」を使っていないのでしたら、豊臣姓下賜以降は苗字がなくなったと判断したほうがいいように思うのですが...。iwacchi 2006年9月25日 (月) 15:31 (UTC)
- 秀吉の苗字「羽柴」が豊臣賜姓後に消滅したかどうか、史学研究の場では結論が出ていないようです。先の岡野氏は、秀吉・秀頼の苗字は死ぬまで羽柴だったのではないか、と提起されていますが、あくまで提起にとどめておられます。ですので、『「羽柴」という名字は豊臣姓下賜後も変わっていないとする意見もある』くらいが落としどころのような気がいたします。
- 本論とは離れてしまいますが、歴史上人物名の読みというものは、明確な根拠が必ずしも存在している訳ではなく、単に慣例的にそう読まれている例が実のところ大多数である、という点にも留意しておきたいものです。例えば毛利元就などは、その読みを記した史料が現在見つかっていないので、「もとなり」という読みには学問的な根拠が実は無いのだ、といったような話があります。「とよとみひでよし」という読みにも学問的根拠が特にある訳ではなく、ただ無批判にそういった読みが慣例となっていたに過ぎないという側面がある訳です。現に「とよとみのひでよし」説に対する「とよとみひでよし」説からの反駁はまだなされていないようですし、少なくとも「とよとみひでよし」が積極的に支持されているとは言えないのです。何が言いたいかと言いますと、史学研究の場でも明確な結論が出てません(おそらく今後とも出ないであろう)ので、断言調を「~という主張もある」に和らげるとか両論併記にするとか、そんな風に対応するのが良いような気がするなあ、ということでございます。--shimoxx 2006年9月26日 (火) 10:37 (UTC)
- 羽柴という苗字をばら撒くことで使っていたということは承知しているのですが、私が言いたかったのは、うまく表現できないのですが、例えば、徳川家康が松平という苗字をばら撒いていたからといって、徳川という苗字と松平という苗字を2つ使っていた(自称していた)わけではありませんよね。あくまでも、徳川家康は徳川という苗字だったわけで、苗字と本姓の違いがあるにしても、豊臣秀吉自身としての名乗りとして、「羽柴」を使っていないのでしたら、豊臣姓下賜以降は苗字がなくなったと判断したほうがいいように思うのですが...。iwacchi 2006年9月25日 (月) 15:31 (UTC)
- ちょっと私の勉強不足でわからないのですが、フロイス日本史ではどうなっているのでしょうか?あの本は、原本は焼失していますが、写本はのこっており、かつ人名地名がローマ字で書いてあるため、読みについて貴重な資料となっていると記憶しています(戦国武将の読みは結構これで確定されているはずです)。ただ・・論が未だに決定していないところを見ると、やはりhideyoshiとしか記されていないのでしょうね・・・まあ、表現は和らげたほうがよいでしょうね。そのほうが中立ですし。--koon1600 2006年9月26日 (火) 11:25 (UTC)
議論も止まったようですし、豊臣秀吉の読み方について、次のとおり変更の提案をしたいと思います。 1.(とよとみ ひでよし/とよとみ・の・ひでよし)の併記にする。 2.「本姓と苗字の読み方の違い」については、豊臣氏に集約し、ここからは削除する。ただし、「豊臣秀吉の読み方については、豊臣氏を参照のこと」などの一文を入れる。 3.上記の方針は、秀長や秀頼・秀次も同様にする。 4.豊臣氏で記載する「本姓と苗字の読み方の違い」については表現を和らげ、「こういう学説がある」程度に留める。 こんな感じでいかがでしょうか?--iwacchi 2006年10月5日 (木) 12:41 (UTC)
- 案に賛成です。私個人としては、「とよとみ・の・ひでよし」の併記すら必要ないと考えていますが、大勢には従います。--猪山人 2006年10月5日 (木) 13:04 (UTC)
- そですね。とても良いご提案だと思います。--shimoxx 2006年10月5日 (木) 15:14 (UTC)
- 私もその案で進めても良いと思います。頭の表記についてだけは変えましたが・・・--koon1600 2006年10月14日 (土) 07:16 (UTC)
ここでの合意事項を一部反映させていただきました。ただ、豊臣氏の部分については、表現方法が自信ありませんので、是非修正願います--iwacchi 2006年10月17日 (火) 13:54 (UTC)
”キリシタンの危険性”
「政策」のところに”キリシタンの危険性”という用語を削除か変更していただきたい。理由は以下の通りである。
- 「大航海時代にのヨーロッパの植民地政策」―ヨーロッパ全体ではなく、イスパニア・ポルトガル・イギリスとオランダだけである。そして植民地政策ではなく、領土拡大政策である (イスパニアを除けば他国は海外の国々に植民地を作るために相当の人数がいなかった)。植民地政策というものは、17-18世紀に産業革命によって人口を増やした西ヨーロッパの諸国は外国に対して行った政策である。
- 「日本人奴隷貿易」―その貿易は日本人の自らの手でハジめられたものである、とくに戦国大名(織田信長・豊臣秀吉をふくめて)はその貿易を促進していた。キリシタン達はその貿易の「ブローカー・サービス」をしていただけだ。戦闘でとった捕虜を売ったりしてたのは、キリシタンではない日本人である。
- 「サン=フェリペ号事件」―その事件についての史料が非常に信憑性低いものである (19世紀!!日本のものではなく、イスパニアと戦争していたアメリカのもの!!当然イスパニアに関する記述は好意的ではない。)。--Alex K 2006年10月7日 (土) 02:47 (UTC)
220.111.135.51さん
IP:220.111.135.51(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)さん、対話に応じない場合は、ブロック依頼させてもらいます。説明をお願いします。--Quark Logo(会話) 2014年10月15日 (水) 07:17 (UTC)
秀次事件について
こちらに移ります。秀次事件の記述を過去の資料、及び反論者の間で中立的な記述にするべきではないかという話です。例えば過去には「降って湧いたような“謀反”の疑いが持ち上がった」「定説では」「現在の史学界で多くの逸話は枝葉のついた創作であると判断されて」などと記述されておりました。また、先ほども「しかしこれは秀吉が一族尽く誅殺したことを正当化するための秀次の罪状という側面」などと断定して書かれておりましたが、それを示す歴史的資料が示されているわけでもなく、証明されておりません。「誰々という学者が~~と述べている」と記述されるわけでもなく、ただ見ている側にそうであるかのように思わせるための文章でしかありません。どうも、「日本や宣教師にこのような資料がある。一方で〇〇という学者がこのような根拠で反論している」というものではなく、こうであってほしいという願望から文章を構成しているのではないでしょうか。定説にしても「〇〇が定説であると主張している」と記述するのならわかりますが、編集者が定説を決めてしまっています。某氏は願望から始まる編集は控えてはいかがですか。--220.111.135.51 2014年10月15日 (水) 08:17 (UTC)
- 「ノート」とはまさにここのことです。紙のノートにまとめろという意味ではありません。そのようにちゃんと主張されないと、相手にはあなたの考えは伝わらないのです。あなたが主張しないでリパートされると、こちらには全く意味がわからず、どこに反論しているのか、そもそもただの荒らしなのか反論しているのかさえも判断できません。そして編集は、最終版ができるわけではありません。相手がこう書いたからこういう考えに偏って編集しているのだろうという決めつけは、いけません。そもそもですが、それはガイドライン違反ですし、非建設的です。何を問題視して、こうすべきではないかと言ってくれないと、特にあなたはIPユーザーなので、こちらとしては荒らしにしか見えず、コメントで書いてることは全く意味不明でした。
- さて、繰り言をいっていてもしょうがないので、話を先に進めますが、まず私が取り上げている出典はお読みでしょうか? それらにはそれぞの出典にそれぞれに謀反の実態として疑わしいと言うことが書いてあるので、””をつけました。一族尽く誅殺したことを正当化も、表現は敢えて違うわけですが、出典の内容に沿ったものです。「歴史的資料が示されて」いないというのは誤解であり、それぞれ付加した出典の表記をご覧ください。初心者のようなのですが、wikipediaは証明の場ではありません。出典主義といって、出典の内容にあることを書くというものです。書いてないことは、否定しているとか、存在しないものとして黙殺した編集だと思う人が多いようですが、書いてないことは単にまだ書いてないことなのです。深読みしたり、読心術のまねごとは喧嘩になるだけです。
- 誤解の1つは、出典に沿って書いてあることを私が特定の主張をしているするものです。だいたいそれが違います。付加した出典について加筆しているだけです。(殺生関白という呼称はそもそも史実性は薄いのですが)暴虐が秀次の身を滅ぼしたという説を書くのは一向に構わないわけで、実際にそういう両面的記述に替えましたが、何にしても、いきなり完成形ができるわけではないし、出典を探さねばならない。出典を一つも付けたことのないIP:220.111.135.51(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)さんから、私に資料を示してない等いわれるのはかなり納得できないわけですが、渡辺世祐の『豊太閤と其家族』を出典に加えて、暴虐が秀次の身を滅ぼしたという説も加えて、下書きをもう書いたので、その流れで文句がなければ編集を再開したいと思います。
- あと「願望から始まる編集」等の文言は、全く不要で意味不明のひと言だと言わざる得ません。諍いになるだけなので(ほぼスルーしてますが)できれば控えてください。- Quark Logo(会話) 2014年10月15日 (水) 09:55 (UTC)
- まず初心者認定や個人的な非難が続いていることはとても残念に思います。また、私の述べたことが根本的に理解できていないように思います。「〇は△をした(出典A)」という断定と、「Xという学者は〇は△をしたと述べている(出典A)」は異なる文章です。見ている側にも誤解を与えます。当時書かれた資料である『大かうさまくんきのうち』やイエズス会日本年報。またそれ以外の宣教師の記述、本来ならば断定に値する資料ですら、この件では「秀次は乱行した(出典A)」とはしておりません。「Xという資料では〇は△をしたとしている(出典A)」と、あなたの文章を訂正した方も皆書いています。その意味は分かりますか?秀次においては論争がある分野であったり、他には何百年もあとの人間が歴史的資料なく状況証拠で判断したものだったり、たかだか推測、論評であったりするためです。故に「〇は△をしたと述べている(出典A)」にとどめるわけです。「日本や宣教師にこのような資料がある。(出典)一方で、〇〇という学者がこのような根拠で反論している(出典)」となるのはそういうことです。秀吉がどうこうを入れたいのであれば例えば「日本や宣教師にこのような資料がある(出典)。一方で、〇〇という学者がこのような根拠で反論している(出典)、また、□は乱行は秀吉が一族尽く誅殺したことを正当化するために秀次に擦り付けた罪状という側面があったと述べている(出典)」などとすれば済む話です。「定説」認定や「殺生関白とも呼ばれた乱行・悪行を理由とする説が当時からあった」や「秀吉が秀次を陥れるためにどうこう」の断定などと、見ている側にいかにそうもであるかのような印象を与える文章を意図的に組み上げるのではなく、中立的にしませんかと述べています。あなたは何百年もあとの人間の推測や論評に過ぎず、歴史的資料すらないものを文章によって誤解を生じさせようとしているように見えます。「一族尽く誅殺したことを正当化も、表現は敢えて違うわけですが、出典の内容に沿ったものです」と述べておられますが、いや表現変えないでください。あなたは私に初心者とおっしゃいましたが、私はあなたがこれまでどのような記事を編集なさって来たのかを調べたり詮索する気はございませんが、そのような姿勢で編集をなさって来たのであればそれはそれで問題ではないでしょうか。--220.111.135.51 2014年10月16日 (木) 14:00 (UTC)
- 多分、またあなたは誤解してますが、初心者かと聞いたのは、ジャムリンさんも書いてるように、他人からみてあなたの編集行動や言動は、wikipediaのガイドラインを熟知してないように見えるのです。「ノートで議論してください」と言ったのが意味が通じませんしたよね? あなたの返事は、「自らの独自研究を一方的に貼り付けながらノートを作れと主張するのは適切ではないです。」と怒っているようです。”ノートを作れと主張”ってどういうことすか? 初心者ならばやり方をわかってないで言ってるだけだからしょうがないですが、初心者ではないならば分かっていてとぼけている荒らしか、対話を拒否しているかでしょう。だから荒らしではないのですねと確認しなければならないし、削除するだけでは何を言ってるのかわからないから、ノートで対話して意志疎通を図ってもらわないと困るという話はしなければなりません。またあなたがジャムリンさんに指摘されているように、独自研究とは何か、中立的観点とは何かを理解しているかも疑問なので、話を進めるうえで、この話をしないわけにはいかなかったのです。非難というよりもこれは厳重注意であり、もうこの話はしませんが、改めてガイドラインの熟読をお願いします。あなたが初心者か初心者ではないのかしりませんが、面倒でも、嫌がられても、話をかみ合わせるために苦言しておかなければなりませんでした。
- さて、ようやく本題に入れますが、最初からそういう風にわかりやすく書けばよかったのではないでしょうか。あなたのリバートした編集は削除して短くしただけで意図が全然伝わってません。その上、独自研究でも願望でもないので、意味不明のコメントは全くないほうがマシだった。一部間違ってるところもありますが、「ノートで議論してください」と言った時にノートにそれを書いてくれたら、意図が伝わったわけで、編集合戦も回避できたわけです。
- ○×▽の話は、そういう風に書いているつもりですが・・・伝わらんもんですね。やはり先入観とは怖い。それに冷静にみてあなたが文句をいっているのも私が書いた文章のなかの数行に過ぎないわけですが、酷いいわれようだ。
- 一般常識として、太田牛一の著書やイエズス会関係の書は、多少を読んで内容を知っていればわかりますが、玉石混合の情報源であり、あることは正しいが、あることは間違っているといったもので、必ずしも内容をそのまま断定できる資料ではありません。これは非常に有名です。ご存知なければ勉強してください。また日本西教史とモンタヌス日本誌はこの部分の内容がほぼ同じで出典もほぼ同じです。これは太田牛一の書とそれを基にした小瀬甫庵の書の関係と同じです。だから必ずしも殺生関白についても多数の出典があるわけはないのです。これが歴史的に根拠のある、強固なものであると思っているなら誤解で、確固たる資料とは言えないからこそ、異論が出てくるわけです。
- しかしながらwikipediaは証明の場ではないので、史料の信憑性については言及するつもりは特にないし、するにしても脚注程度に留めて、そこは触らないで文章を構成するつもりです。あくまでも出典主義なので出典の内容に沿って、書かなければなりません。一次史料の間違いを指摘するとしても、それは出典とする二次(あるいは三次)史料の内容を紹介すると言う形で書く必要があるということです。そもそも一次史料だけで記事を書いているわけではないので、出典に沿えば、一次史料の内容とは異なることになることもあり得るわけです。そこが理解できてないでしょう。極端に言うと、一次史料に批判的な資料を出典に記事を書いたら、一次史料に否定的な内容になるということです。これは編集者の主張ではなくて、出典の書籍を書いた著者の主張です。史料にケチ付けたいとかそういう観点で編集しているわけではないのですが、誤解しているから”願望”などという変な表現が飛び出すのだろうと思います。
- もちろん基本的にあらゆる説を包括的に書くことを意図しており、否定的なものだけにするつもりはありません。そもそもPepecoさんがばっさり削除したこの節に、出典をつけて再構成し始めたのは私です。だからこそ出典を足して、様々な話を書き足しているわけです。そうこうしている間にも、下書きに3説4説と増やしましたが、あなたが文句を言っているところというのは、そのうちの1つか2つを書いた”部分”であり、私が部分を書いているところを、全体だと思って削除してまとめてしまって逆に一つのようにしてしまっているという状態です。だから戻そうとするわけです。あなたの言っていることは言いたいことはわかりますが、全く私のやろうとしていることとは全く違いますから、結論において、甚だしく見当違いです。
- ここは秀吉の項であるので、秀吉にとって秀次切腹事件とはどういう意味を持つかの言及が必要と考えますし、たくさんの説を紹介しつつこの事件には歴史上の謎が残されたままになっていることを示唆する記述をするつもりです。そもそも謀反とされたこと自体が謎の核心部であり面白いネタがここにはあるのです。あなたが消した部分に、そういった部分につながる話が入ってるわけです。まだ修正と出典の追加が必要だったので、あの時点で十分だったとはいえませんが、これから育てる余地があり、削除できない部分だったのです。
- 秀吉の項ですから、秀吉と事件との関係を書かないとダメなので、あなたの編集では、説を列記しているだけで、説明をしてません。何で殺生関白がでてきたのかという理由がある、少なくとも理由があると主張する識者がいて、それを出典を示して説明しようとしているわけです。そもそも殺生関白の話をここに書き足したのは私ですが、わざわざ殺生関白を否定するためにこの話を出したわけではなくて、秀次切腹事件の真相にそれが関係しているという説があるから書いているわけです。卵が先かにわとりが先か、という議論がありますが、江戸時代は儒教文化の社会なので罪人ならば悪からんというのが通念であったわけで、そういうことがまさに指摘されているわけです。もちろん出典に沿って書いているわけで、そういう主張をしているわけではなく、そういう内容の出典なんだということです。情報の羅列だけでは意味を成しません。
- 心証操作のために組み上げるような編集ではないことはこれくらい書いたらわかるでしょうか。出典主義と中立的観点については、まだ理解されてないような気がするのですが、wikiの中立的とはあたりさわりのないマイルドな表現に抑えるということではなくて、すごく簡単にいうと、A出典の善玉説があったらB出典の悪玉説も併記するということです。あなたの言ってる中立性は内容を薄めてしまおうとしているように感じます。それはやり方が違うんだということは何度も言おうとしてます。江戸初期の書物が直接出典になっているわけですから、あったものはあったです。そこを変えたら出典の内容を捻じ曲げる独自研究になるので、単なる婉曲だというかもしれませんが、あなたのやり方の方が間違ってます。
- ところで、表現は敢えて違うようにしているのは、コピペにならないように気を付けているという意味です。写したりするともちろん版削除ですから、引用するのにいい箇所がなかったら替えて自分の文章で書いたというのは普通ですし、ほかにどうしろと? 引用にもルールがあるのですよ。引用で構成することもできなくもないですが、引用とした時点で語句を変えてはならないので、単語とかならいいですが、文章として何かを構成しようというなら、都合のいい文章が載ってるとも限らないし、かなり無理矢理の文章せざるえず、長い文章になるので、短くするには自分の文章でないと。ちょくちょく意味の分からないことをおっしゃいますね。初心者でないなら失礼かもしれませんが、出典を取った記事を書いたことのない編集者ならではの意見でしょうか。あと最後に誤解ないようにと思って細かく書いたら長文になりました。一応、これは説明しようという善意からです。--Quark Logo(会話) 2014年10月16日 (木) 19:59 (UTC)
- 「大かうさまくんきのうち」や「イエズス会日本年報」といった当時の複数の記録が玉石混合ならば、それから何百年も後に出された推論ならなおさら玉石混合ですよ。また、当時の複数の資料からの乱行の記述を説とするのなら、それからずっと後に出された推論や意見ならなおさら説なんですよ。「秀吉が一族尽く誅殺したことを正当化するための秀次の罪状という側面」にしても2002年出版の小田氏の著書の文章を「表現は敢えて変え」、しかも「小田氏がこのようにと述べている」とは記述せず、確定事項として記述する。「そのような説がある」とすらしない。
- wikiは個人の歴史的見解を世に固着化させるための場所ではありませんよ。論争のある点や論評、意見について「~である(出典)」と「~は~であると述べている(出典)」は区別されています。
- 「何で殺生関白がでてきたのかという理由がある、少なくとも理由があると主張する識者がいて、それを出典を示して説明しようとしている」のならなおさらです。著者Xはこのようにして殺生関白が出てきたのではないかと述べているとしてください。殺生関白はこうであると断定した記述にしないでください。
- もちろん定説などとそれらしいことを記述し、そうであるかに見せようとする必要もありません。--フジ(会話) 2014年10月17日 (金) 12:18 (UTC)
- それは誤解と偏見です。まず「定説」という表現はすでに使っておりません。ご確認ください。「個人の歴史的見解を世に固着化」などのようなことは目的としてないし、やろうともしておりません。それらは相手の立場を決めつけによる批判で、Wikipedia:個人攻撃はしないのガイドラインに反するものです。私の編集を誤解されております。
- 次に、断定した記述にするつもりはなく、現在の下書きはそうなってません。識者(人名)の主張として書くつもりであり、すでに訂正済みです。過去の編集から判断されていると思うのですが、過去の編集はもはや過去で、私は過去版に戻そうと主張していません。前回が長文だったのでポイントがわかりにくかったかもしれませんが、フジさんの書かれていることは、論点が完全にずれていると思います。
- 私はこの問題は、IP:220.111.135.51(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)さんが中立的観点の意味を間違えていることが原因だと考えています。またここで指摘した、当時の記録の矛盾点については私が出典とした書籍に書いてある矛盾点であり、私の個人的見解ではなく著者の見解です。フジさんがいわれているように、著者の主張として書こうとしているので、最初からそうしているつもりです。編集はどんどん新しくなっていくのであって、版削除にするという議論でない限り、過去版の話をされても困ります。
- ところで、フジさんと、IP:220.111.135.51(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)さんは同一人物でしょうか? もしそうならソックパペット行為(多重アカウントの不正使用)で、無期限ブロックにもなりうる違反行為になりますよ。--Quark Logo(会話) 2014年10月20日 (月) 12:25 (UTC)
5日、返事がないのですが、話は終わりですか? 納得されましたか、まだ言われることありますか。何もなければ解除申請したいと思いますが。--Quark Logo(会話) 2014年10月25日 (土) 01:33 (UTC)
- フジさんが返事をなさると思っていたので、一応168時間は意識していたものの返事が遅れました。あなたのノートを確認してくれということなので確認しましたが、「秀次の暴虐を強調することは、秀吉が一族尽く誅殺したことを正当化するという側面[注 8]もあり、多くの逸話は創作か誇張であるとして小和田哲男は殺生関白の史実性を否定し」を「小和田哲男は、秀次の暴虐を強調することは秀吉が一族尽く誅殺したことを正当化するという側面[注 8]があり、多くの逸話は創作か誇張であるとして殺生関白の史実性を否定しており、宮本義己[16]も疑問視している」など、微妙に順序を入れ替えた方がよいように思う部分もありますが基本的にこちらの主張した訂正がなされており、その記述で解除申請をして問題ないと思います。
- 一つだけ言わせていただきますと、あなたの反論にもなっていない文章の周りに個人攻撃だのソックパペットだの無意味な文章を差し込んで無駄に容量を増やすみたいな行為はどうなのかなと思います。一つ前の記述でもそうですが、ちょっとやりすぎなように思いましたよ。ここも、私のノートの記述のようにしましたがいかがでしょうか。で十分だと思います。
- 議論をしてくださったことに感謝いたします。あなたの2014年10月25日 (土)の解除申請したいという提案から一週間待って異論がなければ解除申請でよいと思います。ありがとうございました。--220.111.135.51 2014年10月26日 (日) 03:33 (UTC)
労せずに文句言うだけは楽だろうなという思いはありますが、ここはぐっと我慢して、そのようにしましょう。ただあなたのガイドライン無視の姿勢は明らかなので、次に同じことがあったら、コメント依頼とチェックユーザー依頼の対応からスタートしますので、同じことを繰り返さないように、よろしくお願いします。--Quark Logo(会話) 2014年10月26日 (日) 12:56 (UTC)
- 「ガイドライン無視の姿勢は明らか」ならすぐに依頼しなければだめですよ。そもそもあなたの依頼行為の自由を私が妨げられるわけではないのですから黙って依頼すればいいのですよ。ガイドライン無視だ、個人攻撃だ、依頼するぞ依頼するぞなどと論点にもない幼稚な脅しを複数回かけることは、前回指摘しましたが大変みっともない行為なので今後は控えたほうがよろしいかと思います。そのような行為を今後も同じように繰り返すと、それ自体が依頼の対象になりかねませんのでお気を付けください。あなたが悪かった点を悪かったと認め、今後よい編集をなさることを私は切に願っております。頑張ってください。それでは。--220.111.135.51 2014年10月26日 (日) 20:19 (UTC)
- いえ、ログはずっと残るので大丈夫です。ご心配なく。ここでは執拗に挑発して来たり、突っかかってる人は珍しくもないです。一々対応するのは却って面倒。収まったものを蒸し返す必要はなく、もうすでに終わった事です。現時点で管理人さん等をこれ以上煩わせる必要性を感じません。自由云々じゃなくて他人の迷惑ってものがあるからね。--Quark Logo(会話) 2014年10月26日 (日) 21:13 (UTC)
外部リンク修正
編集者の皆さんこんにちは、
「豊臣秀吉」上の5個の外部リンクを修正しました。今回の編集の確認にご協力お願いします。もし何か疑問点がある場合、もしくはリンクや記事をボットの処理対象から外す必要がある場合は、こちらのFAQをご覧ください。以下の通り編集しました。
- http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201601/CK2016012202000254.html の書式設定/使用方法を修正
- http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201601/0008741293.shtml の書式設定/使用方法を修正
- http://www.tokugawa-art-museum.jp/planning/h19/03/obj03.html の書式設定/使用方法を修正
- http://www.koya.org/rekishi/sengoku.html にアーカイブ( https://web.archive.org/web/20070810111135/http://www.koya.org/rekishi/sengoku.html )を追加
- http://www.pref.saga.lg.jp/web/nagoya.html にアーカイブ( https://web.archive.org/web/20081222055327/http://www.pref.saga.lg.jp/web/nagoya.html )を追加
編集の確認が終わりましたら、下記のテンプレートの指示にしたがってURLの問題を修正してください。
ありがとうございました。—InternetArchiveBot (バグを報告する) 2018年3月27日 (火) 18:44 (UTC)
この編集は個人HPからのコピペではないか?
利用者:Jediwikipedian(会話 / 投稿記録 / 記録)氏の連続投稿による編集ですが、出典とされている個人ホームページの文書のコピペではないでしょうか? 「京都公家の藤原公雅が・・」から「・・の子孫が木下藤吉郎秀吉となった」までは、ほぼ同じ。「(地名)」がないぐらい。
もちろん個人のホームページを出典とする段階で、出典無効なのですが、コピペとなると、版削除が必要になるように思います。コピペを疑われる書き方や、個人ページからの転載などは絶対止めてください。ウィキペディアでは、その点は厳しく対処されます。
あと、余談ですが、源姓の系図がある話は、書籍等で取り上げるものもある異説の一つで、別に新説でもなんでもありませんし、もちろん定説として認められたわけでもなく、系図学者・系図研究者の話であって、面白歴史の一つではあっても、認められた史実ではないです。どの説であれ、秀吉の出自が確定する可能性はほとんどありません。--Quark Logo(会話) 2018年9月17日 (月) 06:02 (UTC)
- 利用者:Jediwikipedian(会話 / 投稿記録 / 記録)氏は、コメント欄に「あんたも偉そうに「!」なんて一々付けなくていいから。」と書いておりますが、いや、いや、いや、コピー&ペーストなら、版削除の削除申請をしなければならないのであって、全然分かってないのではないのでしょうか。Jediwikipedian氏が書き込む以前に差し戻される場合もあるわけで、単なる個人のルール違反というだけでなく、編集者全体にとって迷惑千万なのであって、赤の他人から説教されたくなかったら、方針・ガイドラインを熟読して、反省してもらいらい。つうか、コピペしたよね? --Quark Logo(会話) 2018年9月17日 (月) 09:19 (UTC)
- 報告 郊外生活と申します。Quark Logoさんが指摘されているように、外部サイトからの転載を確認しましたので、 Wikipedia:削除依頼/豊臣秀吉 20180918 を依頼したことをお知らせいたします。--郊外生活(会話) 2018年9月18日 (火) 04:34 (UTC)
- コメント - ご苦労様です。--Quark Logo(会話) 2018年9月18日 (火) 05:44 (UTC)
秀吉の苗字に関して
まず先に申し上げますが、「豊臣は苗字か否か」の話ではありません。
現在改名歴が「木下藤吉郎 → 木下秀吉 → 羽柴秀吉 → 藤原秀吉 → 豊臣秀吉」となっていますが、「羽柴と豊臣の間は藤原で正しいのか」と言うのが今回の主旨です。つまり、近衛前久の養子になったわけですから「近衛秀吉」が適切ではないのかという事です。秀吉としても単純に平姓から藤原姓に乗り換えたわけではなく、関白職を得る足掛かりとして摂家に潜り込むことこそが重要だったはずです。また、武士テンプレートの解説や公家テンプレートの解説でも「源平藤橘などの姓を加えた名乗りは、ここでは記しません。」とあり、この観点からも「藤原秀吉」ではなく「近衛秀吉」の方が適当だと思うのですがいかがでしょうか?--イイダムシ(会話) 2022年3月16日 (水) 07:57 (UTC)
- タイトルの「秀吉の苗字に関して」ですが、とりあげられている「改名」歴は、どこの項目も、苗字と本姓が混在しています。近衛秀吉というのは、近衛前久の名字だとはどこが出典なのでしょうか。「藤原秀吉」で適正だと思います。小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書)では、「猶子というのは養子とはちがう。字義どおり、「なお子のごとし」という…単に仮の親子関係を結んだ子のことをいう。」猶子を足がかりに豊臣賜姓で武家関白になったと、他の研究者からも「摂家の一員」とは見られていないようです。秀吉が、「摂家の一員」とはどういう根拠なのでしょうか。--奈良たかし(会話) 2022年3月16日 (水) 11:18 (UTC)
- 「近衛」が名字である事に出典が必要なのでしょうか?家名は公家において名字に相当するはずです。逆にそれを否定するとなれば近衛前久を始め家名で立てられている記事全てを本姓に修正する必要に迫られます。また、慣例とは言え摂家でなければ関白職に就けないわけですから近衛家に入ることは必須であり、仮初であろうと形式的なものであろうと近衛家の一員即ち近衛秀吉になったと見るのが妥当だと考えます。逆に秀吉が近衛でなくても関白になれたのであれば養子(猶子)になる必要はなく、そもそも藤原氏に改姓する必要すらなかったでしょう。--イイダムシ(会話) 2022年3月17日 (木) 01:31 (UTC)
- 猶子は一般的に子の姓の変更を伴いません。『日本史大事典』の「猶子」の項目も確認しましたが、そちらにも同様に書かれています。よって出典は必要です。--HANSON(会話) 2022年3月17日 (木) 04:08 (UTC)
- 「近衛」が名字である事に出典が必要なのでしょうか?家名は公家において名字に相当するはずです。逆にそれを否定するとなれば近衛前久を始め家名で立てられている記事全てを本姓に修正する必要に迫られます。また、慣例とは言え摂家でなければ関白職に就けないわけですから近衛家に入ることは必須であり、仮初であろうと形式的なものであろうと近衛家の一員即ち近衛秀吉になったと見るのが妥当だと考えます。逆に秀吉が近衛でなくても関白になれたのであれば養子(猶子)になる必要はなく、そもそも藤原氏に改姓する必要すらなかったでしょう。--イイダムシ(会話) 2022年3月17日 (木) 01:31 (UTC)
コメント 「源平藤橘などの姓を加えた名乗りは、ここでは記しません。」を本稿に適応するなら、改名歴は「木下藤吉郎 → 木下秀吉 → 羽柴秀吉」とすべきです。姓+名である豊臣秀吉を記載している時点で、公家テンプレートの解説を援用しての「藤原秀吉」の否定はできないかと。--星命定軌(会話) 2022年3月17日 (木) 06:56 (UTC)
編集・査読が不要な紀要を出典することと、より信頼できる情報源と対立する箇所
以下の編集には出典と他の情報源と対立する内容があると考えられます。
豊臣秀吉(oldid=89841992) 2022年6月4日 (土) 14:25 Xyy 会話 投稿記録 195,211バイト +391 →九州平定とバテレン追放令
歴史学者の神田千里は、秀吉の詰問に対するガスパール・コエリョの返答は、第一条の信仰強制と第三条の人身売買に関して、イエズス会が日本の寺社を破壊すべくキリシタンを教唆したり、イエズス会が奴隷売買に関わっていたような事実を、故意に隠蔽したとする
この文章は以下を出典としています。
しかし第一条の信仰強制と第三条の人身売買に関しては、既に高瀬弘一郎氏が指摘されているように、コエリョは、イエズス会が日本の寺社を破壊すべくキリシタンを教唆したり、イエズス会が奴隷売買に関わっていたような事実を、故意に隠蔽している — 『伴天連追放令に関する一考察 : ルイス・フロイス文書を中心に」『東洋大学文学部紀要, 史学科篇』第37巻、東洋大学、2011年、 65-110頁。』
紀要は独自研究的な自由な性質があり、ピアレビュージャーナルではないため「独立した二次資料:編集者の監視や、事実の検証プロセスを経ている」を満たしておらず、特に通説や定説に反したり、議論が発生しうる話題についてはそのまま出典とするには特別な注意が必要です。
編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限りより信頼でき、よりすぐれていると一般に認められているものの中から、出典を幅広く選ぶようにして下さい。信頼できる情報源であるかぎり出典は一つである必要はなく、複数挙げられていることがむしろ好ましいです。 — Wikipedia:信頼できる情報源#独立した二次資料とは?
歴史学に限定するのであれば、寺社破壊については先行研究からキリシタン迫害の時代に主な一次資料が失われ、残されている一次資料は弾圧時代の後世の脚色されたものが中心となっているため寺社破壊はスローガン化しているとされ、その上で①織田信長等の戦国大名による軍閥化または敵対する領主と連携した寺社の破壊②戦国時代に多くあった荒廃した寺社の転用③集落全体が改宗して不要となった④特定の宣教師が破壊を扇動[1]といった事由に分けるのが一般的ですが、混乱を避けるために信仰強制ではなく寺社破壊を使うのが一般的です。この出典より詳しい論文はあるので、他の論文を良く読んでから引用することを推奨しますが、九州、本州等の地域(九州内でも異なる)、時期によって状況は異なるため、複数の異なる情報源・出典が必須な話題だと考えます。
次に「イエズス会が奴隷売買に関わっていた」という強力な表現ですが、これはイエズス会が商業的な主体として奴隷貿易に従事したとの意味として受け取れます。イエズス会は日本での奴隷貿易を止めるための運動を行っていたが、宣教師側に人身売買を止めるための司法権限がないため、より大きな問題である永代人身売買を避けるために契約期間を定める許可証に署名して[2]、当時としては一般的でなかった年季奉公(ポルトガルでは奴隷の一形態)とするよう人道的介入をしていたことは、最近の査読つき論文等[3]でも明らかにされているので「イエズス会が奴隷売買に関わっていたような事実を、故意に隠蔽したとする」という表現は他のより信頼できる情報源と細かな点で矛盾するという点を指摘しておきます。分かりやすく言うなら奴隷貿易の主体は営利団体であるポルトガル商人と日本人であり、日本のイエズス会はポルトガル帝国のアジア全域(インド、東南アジア等)の法制度・商慣習から著しく逸脱する権限も能力もなく奴隷貿易への対処療法しかしなかったということです。ただし秀吉も奴隷貿易の主体であるポルトガル商人の貿易を禁じることは無かったため対処療法しかやらなかったという点では変わらないでしょう。--2400:2410:C1A3:5300:1291:5FF2:77F6:5870 2022年6月6日 (月) 01:42 (UTC)
- ①まず一つ目として、wikipediaにおけるガイドラインには以下の記述があります。
これらの研究は査読を経て学術雑誌あるいは各大学の紀要などに掲載されます。これを学術論文と呼びます。これら学術論文はある程度の分量が溜まった所で当該研究の執筆者の名前でまとめられて出版される場合があります。これを専門書と呼びます。またこれとは別に専門家によっては書き下ろしという形で専門書を執筆し、出版されることもあります。これら学術論文・専門書はその他の専門家によって追試が行われ、その内容に矛盾が無いか・論証の過程に問題が無いかなどが検証され、その末に学界として取り扱いが決まります。査読・追試を経た学術論文・専門書は「信頼できる情報源」として認められます。これに対して一般書と呼ばれる分類があります。これは専門家ではない一般の読者向けに著された本です。一般書であっても専門家によって著された本はほとんどの場合「信頼できる情報源」と認められると考えられます。ただし学術論文・専門書と比べてかなり割り引いて考えなければならないでしょう。
- 見てわかる通り査読を経て学術雑誌あるいは各大学の紀要などに掲載された記述を使ってはいけないなどというガイドラインはありません。また、神田千里は著名な歴史学者の一人であり、一次資料に基づく権威としての二次資料であり、さらに、「歴史学者である神田千里は」という、どの学者が述べているかをも明記した記述であり、あなたが各所でやっているような断定的な記述をしているわけでもなく、wikipedia内の記述として問題のないものです。
- ②そもそも、宣教師が日本で行った教唆などについては、そもそも一次資料で大量に見られ、例えば、あなたがよく編集しておられるガスパルコエリョですが、一五八五年三月三日、フィリピンイエズス会の布教長に対し、日本への軍隊派遣を求め「もしも国王陛下の援助で日本66か国が改修するに至ればフェリペ国王は日本人のように好戦的で頭の良い兵隊を得て、一層シナを征服することが出来るであろう」という書簡を送っていますね。また、ルイスフロイスの訳文では、ガスパルコエリョはこのように述べ、キリシタンに寺社の破壊を教唆しています。「あなたの罪を償いたいとして考えられることの一つは、もしあなたが良い機会だと思えば、路上、通りすがりに最初の人としてどこかの寺院を焼き始めることです」これは神田千里の「イエズス会が日本の寺社を破壊すべくキリシタンを教唆した」と完全に合致する内容です。他にも多数ありますが、宣教師が喜々として日本人をキリシタンに改宗させ神社仏閣を破壊させたことについて、戦前の学者も含めて考えれば、これら1次資料に対する二次資料としての日本の歴史学者の辛辣な指摘も多くあり、これまで私もその存在を知っていました。奴隷貿易の対象になった日本人女性が、性的奴隷にされていたことを示す記述があることも知っています。しかし、あまり否定的な記述は私の編集方針と合わなく、あえて記述しなかっただけにすぎません。例えばあなたはご自分のバテレン追放令#追放令以前の宣教師の状況の編集を見て一方的で偏っていると自覚されたことはありませんか?
- ③また、奴隷貿易に宣教師が署名を行っていたことに関し、日本の複数の学者が関与と主張し、別の学説としてこれは人道的介入だと主張するのであれば、それを主張している学者の名前を明記した上で、「学者である〇〇は宣教師の奴隷貿易への関与は人道的介入であったと主張している」と、双方を並列的に記述すれば済む話であり、どちらを消してどちらだけを残すものではありません。また、日本に限らず世界中の奴隷貿易での宣教師の介入が、あなたの言う所の人道的介入であったかどうかは検証が必要でしょう。世界中でどのように宣教師が奴隷貿易に関わっていたかを今後調査し、wikipediaに明記することで見えてくることもあるでしょう。少なくとも、あなたが宣教師の日本を含む世界での行いについて、より詳しく、記述を望んでいることはよくわかりました。出典に基づき日本だけでなく、アフリカ、南米を含む世界まで視野に入れて今後、宣教師の行いを記述していくことを検討せざるを得ないでしょう。--Xyy(会話) 2022年6月6日 (月) 12:10 (UTC)
- ②③についてはあなたの個人的印象と、あなたの考える真実、あなたの行動指針が混在しており、私にどう反応して欲しいのか、何が論点なのかが見えません。ただし「編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限りより信頼でき、よりすぐれていると一般に認められているものの中から、出典を幅広く選ぶようにして下さい。信頼できる情報源であるかぎり出典は一つである必要はなく、複数挙げられていることがむしろ好ましいです。」のガイドラインは違反しないように気をつけてください。
- ①については紀要が何かをもう一度調べられたほうが良いかと思います。
- 見てわかる通り査読を経て学術雑誌あるいは各大学の紀要などに掲載された記述を使ってはいけないなどというガイドラインはありません。 — --Xyy(会話) 2022年6月6日 (月) 12:10 (UTC)
- もう一度あなたが投稿したwikipediaのガイドラインを良く読んで見てください。
- これら学術論文(紀要)・専門書はその他の専門家によって追試が行われ、その内容に矛盾が無いか・論証の過程に問題が無いかなどが検証され、その末に学界として取り扱いが決まります。査読・追試を経た学術論文・専門書は「信頼できる情報源」として認められます。
- つまり紀要はレビュー前の段階の学術論文に過ぎず、紀要の追試が行われた査読つき論文(国際会議の論文やピアレビュージャーナル)が「信頼できる情報源」とガイドラインは規定しています。紀要が何かを分かってない人がwikipediaの編集をしてる現状には問題があると思います。他の方に迷惑をかける前にwikipediaのガイドラインを良く読んで理解してから投稿するようにお願い申し上げます。--2400:2410:C1A3:5300:472D:E8CC:9580:A0B6 2022年6月6日 (月) 13:47 (UTC)
- いいえ、例えば、「Wikipedia 日本語版からの学術論文の引用状況」という論文を検索して読んでいただければわかるのですが、現に多くの引用が紀要論文から行われています。また、それ以降の文意もよく読み取るべきでしょう。「これに対して一般書と呼ばれる分類があります。これは専門家ではない一般の読者向けに著された本です。一般書であっても専門家によって著された本はほとんどの場合「信頼できる情報源」と認められると考えられます。」著名な歴史学者が一次資料を基に記述した二次資料が、査読を経て学術雑誌に載せられた紀要が信頼できる情報源として使えず、専門家が著した一般書はほとんど信頼できる情報源になるでは話の筋が通らなくなります。繰り返し言いますが、該当の文章は、「専門家に書かれた紀要」が信頼できる情報源に当たらず使えないというのはあなたの誤読です。
- さらに、上部には以下の記述もあります
- 自己公表された情報源とは、いかなる形式の独立した事実確認も受けていないか、著者と公表作業との間に誰も立ち会っていないような公表物を指します。この中には、個人のウェブサイト、また自費出版によって出版された本が含まれます。誰でも、ウェブサイトを作ったり本が出版されるように金を支払い、そしてある分野の専門家であると主張できます。こうした理由から、自己公表された本や個人のウェブサイト、ブログの大部分は情報源として受け入れられません。自身の専門分野内について記述している著名な専門研究者や、自己公表物を制作している著名な職業ジャーナリストの場合は、この例外になるかもしれません。
- それが査読を得た紀要水準でなくても、専門家の自主公表された情報源であっても、情報源になることはあり得ます。また、上記でも述べていますが、私は、「歴史学者である神田千里は」という、どの学者が述べているかをも明記した記述であり、あなたがその直後でやっているような、「秀吉はポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった。」という、「サン=フェリペ号事件」等とも相反する、しかも「恐れて」などという個人的な感想を交えた内容をそれを主張している学者の名前を文章に明記せず断定的に記述しているあなたの編集姿勢の方が問題に見えます。「歴史学者の〇〇は、秀吉はポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになったとしている。」でしょう。
- それと、あなたが各書で引用に使っている徳富猪一郎ですが、歴史学者ではありませんよ。また、例えば彼の奴隷貿易には、以下の記述があります。
- 『近世日本國民史 5 ―― 豊臣氏時代 乙篇』
- ポルトガルの商人はもちろん、その水夫、厨奴らの賎しき者までも、日本人を奴隷として買収し、たずさえ去った。しかしてその奴隷の多くは、船中にて死した。そは彼らをむやみに積み重ね、きわめて混濁なるうちに籠居せしめ。しかしてその持ち主らが、ひとたび病にかかるや――持ち主の中には、ポルトガル人に使役せらるる黒奴も少なくなかった――これらの奴隷には、一切頓着なく、口に糊する食糧さえも、与えざることがしばしばあったためである。この水夫らは、彼らが買収したる日本の少女と、放蕩の生活をなし、人前にてその醜悪の行いをたくましゅうして、あえてはばかるところなく、その澳門(マカオ)帰港の船中には、少女らを自個の船室に連れ込む者さえあった。
- あなた自身が徳富猪一郎を重用しているのですから、この記述も書かれるべきでしょうね。
- あなたは、あなたに都合の良い文章か、あなたに都合のよくない文章かで、基準を変えることをやめた方がよいでしょう。--Xyy(会話) 2022年6月6日 (月) 20:03 (UTC)
- たぶんあなたは自分の頭の中の声と会話しているように見えます。「紀要を出典すべきでない」とXyyさんご自身が捻じ曲げて主張した点を私が主張したとXyyさんは認識し、それに対して(あなた自身に対して)反論してるようですが、私が主張しているのは紀要が「信頼できる情報源」ではないということで、それについて議論する意味はないという点です(そもそもXyyさんの最初の反応から紀要を誤認していようですし、紀要や査読が何かを理解していなかったと考えるのは普通の反応でそれについて長々と議論する必要はありません)。つまり「議論が発生しうる話題についてはそのまま出典とするには特別な注意が必要です。」というのが私の指摘です。「査読・追試を経た学術論文・専門書は「信頼できる情報源」として認められます。」というガイドラインに新解釈を与えようといくら努力しても無駄です。それと熱くなって長文を投稿するのはやめてください。ノートは議論すべき場所ではなく、合意形成をする場です。ガイドラインを良く読んでWikipedia:礼儀を忘れないようにしてください。--2400:2410:C1A3:5300:5140:4736:B0FF:EE3F 2022年6月7日 (火) 00:23 (UTC)
- ①「Wikipedia 日本語版からの学術論文の引用状況」の統計にもある通り、専門家が記述し、大学の学術雑誌に記載された紀要はwikipediaでも極めて広く使われているものです。
- ②専門家が記述しほぼ査読を受けてない一般書が「ほとんど信頼できる情報源」となるのにもかかわらず、権威のある専門家記述し、査読を得て大学の学術書に載った記述が信頼できる情報源とみなされないなどという話はこれまでwikipediaで出ていません。あるならばその議論をあなたが持って来るべきでしょう。
- ③あなた自身がそもそも専門家でない出典、上記で指摘したような即ち遥かに信頼するに値しない出典を使い続けてきたのにもかかわらず、専門家に記述され、大学の学術雑誌に記載された記述を出典とし、さらに「歴史学者の〇〇は~~と述べている」という文体として記載したものの記述の除去を試みること自体ダブルスタンダードと言わざるを得ません。
- あなたが、歴史学者の一次資料に基づく二次資料をの除去を試み続けるのならあなたのこれまでの編集『 IP:2400:2410:C1A3:5300::/64 (会話 / 投稿記録 / 記録 / GUC / ST / ブロック)』全体を精査の上、特に宣教師関連の記述は、多数ある宣教師の各国での行いについて、出典に基づき、上記でこれまで記載してきたように再編集を始めざるを得ないことはお伝えしておきます。--Xyy(会話) 2022年6月7日 (火) 10:50 (UTC)
- ようするにあなたの論点は紀要が「信頼できる情報源」だとは現在は考えていないが、それらが慣習上使われているため、または査読がなくともあなたが信頼する専門家が書くものは査読つき論文に書かれる内容よりも何らかの理由で優れているため、あなたの紀要を使った出典は議論の余地なく許されてしかるべきだという事だと思います。紀要の被引用数が多いとのデータはWikipediaのガイドラインとは無関係であり、あなたはそれを理解しなければなりません。あなたは慣習があるか無いかに関わらず、またはあなたの考える公正の概念とは無関係に以下のガイドラインに従うことが期待されています。
- これら学術論文(紀要)・専門書はその他の専門家によって追試が行われ、その内容に矛盾が無いか・論証の過程に問題が無いかなどが検証され、その末に学界として取り扱いが決まります。査読・追試を経た学術論文・専門書は「信頼できる情報源」として認められます。 — Wikipedia:信頼できる情報源#歴史
- 複数の情報源があるならより信頼できる情報源を選び、どちらも信頼できる情報源(ピアレビュージャーナル、国際会議の論文等)であるか信頼性が同等かつ矛盾した内容があるなら両論併記をしてもガイドラインには反しないでしょう。
- 編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限りより信頼でき、よりすぐれていると一般に認められているものの中から、出典を幅広く選ぶようにして下さい。信頼できる情報源であるかぎり出典は一つである必要はなく、複数挙げられていることがむしろ好ましいです。 — Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の評価
- 関係学会に普及している見解に矛盾する主張。 — Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められる
- 紀要や一般書は何もないよりはるかにましなので適宜使うことは否定しませんが、それらが「信頼できる情報源」(WP:RS)とWikipediaが定義する査読を経た学術論文や査読付き論文を集積した専門書(または英語版のガイドラインにあるようなジャーナルに掲載されている論文のレビュー、モノグラフ、複数学者による査読・論文審査のある博論等)と一致しない場合、特にそうした情報源にある通説や定説に反したり、議論が発生しうる話題についてはそのまま出典とするには特別な注意が必要です。
- 最後にあなたは削除どうのこうのと私が主張していない点を仰っていますね。私の記憶では、本件で即時削除は要求していなかったはずです。問題とされている文章についてガイドラインに準拠した情報源の検証は引き続き必要ですが紀要の信頼性と「信頼できる情報源」との優先順位の問題点はすでに明確になっているので、あなたは紀要ではなく査読つき論文を探すことができます(Wikipedia:信頼できる情報源#信頼できる情報源の発見・アクセス方法)。あなたの文章と一致するピアレビュージャーナルの論文などが確認できれば要検証タグは外します。最初はあなたの個人的印象、あなたの考える真実、あなたの行動指針が返信に混じっていたため意図が不明でしたが、検証中の文章の削除をして欲しくないという一点があなたが優先している点だと分かりましたので、あなたの返信についてこれ以上掘り下げる意味はないと思いますし、反応する意味はないと理解しました。--2400:2410:C1A3:5300:2615:21BE:83BB:9B4D 2022年6月7日 (火) 14:47 (UTC)
- ①「Wikipedia 日本語版からの学術論文の引用状況」の統計にもある通り、専門家が記述し、大学の学術雑誌に記載された紀要はwikipediaでも極めて広く使われているものです。
- ②専門家が記述しほぼ査読を受けてない一般書が「ほとんど信頼できる情報源」となるのにもかかわらず、権威のある専門家記述し、査読を得て大学の学術書に載った記述が信頼できる情報源とみなされないなどという話はこれまでwikipediaで出ていません。あるならばその議論をあなたが持って来るべきでしょう。
- ③あなた自身がそもそも専門家でない出典、上記で指摘したような即ち遥かに信頼するに値しない出典を使い続けてきたのにもかかわらず、専門家に記述され、大学の学術雑誌に記載された記述を出典とし、さらに「歴史学者の〇〇は~~と述べている」という文体として記載したものの記述の除去を試みること自体ダブルスタンダードと言わざるを得ません。
- でも述べたように、あなた自身がとうてい専門家と言えないような出典を大量に使い、歴史的資料として大量に残っており、それに対する歴史学者の見解も多数ある宣教師の汚点の隠匿を試みる編集を続け、その一方で、これまでwikipediaの中でも一般的に使用されてきた一次資料に対する歴史学者が記述した二次資料を除去したり、不当にアンダーラインを付けて回っていることを指摘されていることが理解しておられないようだ。
- 「宣教師自身が記述した秀吉の詰問」や、「宣教師自身が記述した寺社仏閣の破壊の教唆」、「九州御動座記など九州に訪れて直接に奴隷貿易を目撃した記述」など、明々白々に記述された一次資料に対して、歴史学者の著書や、学術雑誌に掲載された論文を引用し、「歴史学者の〇〇は~~と述べている」という一切疑いのない文体で記述された二次資料という、wikipediaの基準を十分に満たす出典が信頼できない情報源ならば、そもそもあなたがこれまで記述してきた多くの内容が再編集を必要とせざるを得ません。仮に、「九州御動座記」の内容に疑いを持つ研究者がいるのなら、「九州御動座記」に言及して奴隷貿易を指摘した史学者(「大量の日本人女性を、奴隷として本国に持ち帰る」豊臣秀吉がキリスト教追放を決意したワケ)などと並列して、一方で、「歴史学者の〇〇は~九州御動座記に対して~~と述べている」という文脈で記述すればよいだけにすぎません。
- はっきり言って、あなたが他の記述に要求している水準を自らが守れているとは全く言えず、削除しないことは当たり前ですが、不当に付けられたアンダーバーへの対処、「ピアレビュージャーナルの論文」ではないからアンダーバーを付けたというのなら、あなた自身が「ピアレビュージャーナルの論文」のみを使用してきたかを含め検討が必要でしょう。--Xyy(会話) 2022年6月7日 (火) 20:21 (UTC)
- あなたは以下のガイドラインに従うことが期待されています。
- これら学術論文(紀要)・専門書はその他の専門家によって追試が行われ、その内容に矛盾が無いか・論証の過程に問題が無いかなどが検証され、その末に学界として取り扱いが決まります。査読・追試を経た学術論文・専門書は「信頼できる情報源」として認められます。 — Wikipedia:信頼できる情報源#歴史
- 編集者は複数の情報源の信頼性を評価し、できる限りより信頼でき、よりすぐれていると一般に認められているものの中から、出典を幅広く選ぶようにして下さい。信頼できる情報源であるかぎり出典は一つである必要はなく、複数挙げられていることがむしろ好ましいです。 — Wikipedia:信頼できる情報源#情報源の評価
- 関係学会に普及している見解に矛盾する主張。 — Wikipedia:信頼できる情報源#特別な主張には特別な証拠が求められる
- 以下の点を理解されてないようなので繰り返します。
- あなたの特別な主張を正当化するために紀要ではなく査読つき論文(「信頼できる情報源」)などを探すことができます(Wikipedia:信頼できる情報源#信頼できる情報源の発見・アクセス方法)。繰り返しますが、あなたの文章を支持・サポートするであろうピアレビュージャーナルの論文などが確認できれば要検証タグは外します。Google Scholarで探すと30分とかからず、Rômulo da Silva Ehalt, Jesuit Arguments for Voluntary Slavery in Japan and Brazil, Brazilian Journal of History, Volume: 39, Number: 80, Jan-Apr. 2019., p.10、といった私の主張を裏付ける信頼できる情報源の2次資料が被引用数の情報つきで見つかりました。あなたのガイドラインに対する攻撃的な無理解は、おそらく査読や学術資料の検索に関する無知が原因だと推察できますので、Wikipedia:信頼できる情報源#信頼できる情報源の発見・アクセス方法を良く読んで実践される事を推奨します。--2400:2410:C1A3:5300:D63D:B74F:C9DD:15E1 2022年6月7日 (火) 22:26 (UTC)
- あなた自身が専門家ではない、即ち歴史学者ではない出典、さらには専門家が記述したわけではない一般書を大量に使い、片やこれまでも一般的に使用されてきた歴史学者による一次資料に基づく二次資料は隠滅して回る。
- 特別な主張?「宣教師自身が記述した秀吉の詰問」や、「宣教師自身が記述した寺社仏閣の破壊の教唆」、「九州御動座記など九州に訪れて直接に奴隷貿易を目撃した記述」といった一次資料に対する歴史学者による二次資料の何が特別な主張なのか。
- 私は今後、宣教師やキリスト教に関する実態については精査していくつもりですが、少なくともwikipediaの中でいくら隠滅を図ったところで、汚点を隠滅できると思わない方がよいでしょう。--Xyy(会話) 2022年6月8日 (水) 09:12 (UTC)