ノート:西郷隆盛像
発起人について
[編集]西郷隆盛像#東京・上野の西郷銅像において福澤諭吉が発起人となったと書かれていますが、これは正しくないです。厳密には福澤は第1回目の建立計画の発起総代人が正しいです。第1回目の建立計画は、1883年(明治16年)8月に鹿児島県人およびその他の有志者が発起人となりなされたもので、福澤がその発起人から頼まれて発起総代人となり、『時事新報』の1883年(明治16年)8月25日号に南洲西郷隆盛翁銅像石碑建設主意を掲載したのですが、「このときの銅像は遂に建立の運びに到らず、後年になつて上野公園内に西郷銅像が立てられた」のです。(『福澤諭吉全集』第19巻796-797頁参照)第2回目の建立計画は1889年(明治22年)2月11日に大日本帝国憲法が発布され、西郷が正三位を贈られたのを記念して芝公園弥生社において祭典を執行して、その祭典で吉井友実が発起人となって西郷銅像の建立を提案してなされたものです。(詳細は「上野公園銅像の由来」を参照)第2回目の建立計画は成功して、今の上野公園にある銅像ができたのです。ですから、今の銅像の発起人は吉井友実が正しいのです。--敷島健一 2009年12月30日 (水) 05:24 (UTC)
- コメントなるほど。では第一回は福沢諭吉で第二回は吉井友実と記述するのが正しいようですね。私の調べた脚注にある著書では福澤諭吉とだけ書かれていました。--イタリア研究会 2009年12月30日 (水) 05:43 (UTC)
- 福澤諭吉が発起人とする説明を修正しました。--敷島健一 2010年1月5日 (火) 13:08 (UTC)
記事の追加部分に、
発起人は福澤諭吉が務めたが計画が頓挫し、第二回目に吉井友美が引継ぎ、
と記載されていますが、福澤諭吉は発起人ではなく発起総代人が正しいです。また、第1回目の計画を「吉井友美が引継い」だというのは正しくありません。第1回目と第2回目とは無関係だったと考えられます。記事を記載する場合は出典を明示するようにしてください。--敷島健一 2010年1月25日 (月) 11:59 (UTC)
- 報告 イタリア研究会(会話 / 投稿記録 / 記録)さんは、Ajax009(会話 / 投稿記録 / 記録)さんのブロック逃れを企図したソックパペットと推測されたため、無期限ブロックされています。--Nnkrkrhhdi 2010年2月3日 (水) 17:01 (UTC)