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ノート:西村記念館

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改名提案

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新宮市のサイトでは「旧西村家住宅(西村伊作記念館)」[1] [2]という表記が用いられており、朝日新聞・読売新聞・紀伊民報の記事では単に「旧西村家住宅」か「旧西村家住宅」(西村伊作記念館)[3] [4] [5]という表記が見られます。文化遺産オンラインでは単に「旧西村家住宅」[6]となっています。現在の記事名は「西村記念館」ですが、旧西村家住宅または旧西村家住宅(西村伊作記念館)への改名を提案します。--Asturio Cantabrio会話2021年10月7日 (木) 17:00 (UTC)[返信]

2010年に「旧西村家住宅 主屋」として建物が重文指定されたので、それを掲げて上記のように記載されているようです。文化遺産オンラインは「旧西村家住宅 主屋」です。博物館の名としては「西村記念館」であり、入口に掲げられています。また、西村記念館の表記は除外されているようですがネット検索すればあります。要するに博物館として「西村記念館」(Nishimura Memorial Museum) でよく改名は反対です。--Hiyotchi会話2021年10月7日 (木) 20:52 (UTC)[返信]
コメント 新宮市の条例の新宮市重要文化財旧西村家住宅(西村伊作記念館)条例では、名称は「重要文化財旧西村家住宅(西村伊作記念館)」なっています。従いまして博物館の名としては「西村記念館」ということはできません。この条例に従うと「重要文化財旧西村家住宅(西村伊作記念館)」となりますが、重要文化財は省略して旧西村家住宅(西村伊作記念館)を支持します。--Customsprofesser会話2021年10月8日 (金) 02:53 (UTC)[返信]
重文としての主屋修復より、旧西村家住宅(西村記念館)としていますね[7][8]。市内の案内表示も、旧西村家住宅(西村記念館)になってるようです。しかし佐藤春夫記念館があるから(西村伊作記念館)? 市とかでこうしましょって決めたんだろうなぁ。Wikipediaの記事名は条例に従うものなのでしょうか?--Hiyotchi会話2021年10月8日 (金) 04:29 (UTC)[返信]
コメント 新宮市教育委員会文化振興課のサイトや、新宮市観光協会のサイトでも「旧西村家住宅(西村伊作記念館)」表記ですね。臆測ですが、西村京太郎記念館とか西村計雄記念美術館に配慮したのかも知れませんね。--ねこざめ会話2021年10月15日 (金) 22:40 (UTC)[返信]
コメント Hiyotchiさんが言われるように、2020年の保存修理完了&一般公開再開を機に「旧西村家住宅(西村伊作記念館)」表記で統一するようになったのだと推測しています。--Asturio Cantabrio会話2021年10月16日 (土) 23:08 (UTC)[返信]
コメント 提案者さんがフォローしていないようですが、旧西村家住宅(西村伊作記念館)のほうが支持が多いので、今後2週間程度で異議がなければ、旧西村家住宅(西村伊作記念館)に改名したいと思います。--Customsprofesser会話2021年11月29日 (月) 08:42 (UTC)[返信]
旧西村家住宅(西村伊作記念館)のほうが支持が多い……ですかぁ、だいぶん乱暴ですね。支持は貴方ぐらいです。異義はすでにありますよ。それを無視して2週間とかくぎって、まったく随分とわがままですね。は、ん、た、い、してます。わかりますかぁー!これぐらいのことは記事の中に記載すればいいだけです。--Hiyotchi会話2021年11月29日 (月) 09:54 (UTC)[返信]
賛成 保留 いま記事のほうを少し編集してきました。ついでにいろいろ検索しましたが、新宮市教育委員会文化振興課新宮市観光協会和歌山県観光振興課るるぶなどは「旧西村家住宅(西村伊作記念館)」ですし、あとGoogleマップもそうです。改名しても良いのではないでしょうか。じゃらんは「西村記念館」でしたけど、情報が更新されていないですね。--ねこざめ会話) 2021年11月29日 (月) 16:25 (UTC) 自身の調査不足のため賛成を撤回し保留に変更。--ねこざめ会話2021年11月30日 (火) 15:29 (UTC)[返信]
1960年代より半世紀以上知られる「西村記念館」の名称は、記念館の入口玄関の上に長らく掲げられていましたが、修復に乗じて昨日今日のうちにこっそり掛け替えられてしまったのでしょうか?「旧西村家住宅(西村伊作記念館)」とかカッコで二重に記したようなのを、これが正式名称なのだぁって掛け替えられてたらもう笑うしかないですね!--Hiyotchi会話2021年11月30日 (火) 00:34 (UTC)[返信]
コメント 1960年代から「西村記念館」という名前で知られていたのですね。初めて知りました。私はてっきり1998年に市に寄贈されて以後に西村記念館と呼ばれるようになったのかと思っていました。改めていろいろ検索していますが、こちらの個人ブログでは玄関の上の看板が確認でき、佐藤春夫記念館のブログでは道路に埋め込まれたプレートが確認できました。あとマガジンハウスの記事は出典として使えそうです。なお、自身の調査不足を理由として賛成を撤回し保留に変更しました。--ねこざめ会話2021年11月30日 (火) 15:29 (UTC)[返信]
コメント 改名提案から来ました。「旧西村家住宅(西村伊作記念館)」という併記の記事名には反対寄りの立場です(WP:POVNAMINGにも該当?)。建物を主題にするなら「旧西村家住宅」、施設を主題とするなら「西村伊作記念館」を記事名にして、もう一方は記事内で言及すればいいと考えます。私は建物がメインと考え「旧西村家住宅」を推します。Hiyotchiさんが言及された「西村記念館」と書かれた看板は、最近行った方がツイッターにあげた写真を見る限りでは現在も入口に掲げられているようですが、行政上の名称と異なるケースは多々ありますので、「西村記念館」は「西村伊作記念館」の愛称や通称と考えます。--ねむりねずみ会話2021年11月30日 (火) 14:46 (UTC)[返信]
コメント 重要文化財に指定された「建物」としてなら「旧西村家住宅」という記事名が良さそうですね。「旧チャップマン邸」も近くにありますし。ところで「旧西村家住宅」の英語表記、Former Nishimura House[9]Former Nishimura Residence[10]のどちらも正式表記のようで悩みます。あとトリップアドバイザーではOld Nishimura Houseの表記も使われています。--ねこざめ会話2021年12月1日 (水) 20:45 (UTC)[返信]

竣工年

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冒頭に「1914年から翌年にかけて竣工」とあります。確かに下津2018にそう書かれているのですが、これは通説なのでしょうか。短い紹介文だと1914年竣工、と書かれていることがほとんどのように思います。一方で下津2018はずっと1915年竣工で通してあり、何か理由があるのだろうと思います。田中修司『西村伊作の楽しき住家』の1914年12月のところに「完成」と書かれており(239ページ)、どっちなのか微妙な時期だったのかもしれません。西村自身が書いた『楽しき住家』か『我に益あり』あたりを見てみないとはっきりしないように思います。--西村崇会話2022年1月11日 (火) 07:33 (UTC)[返信]

  • 西村崇さんの「1915年竣工で通してあり、何か理由があるのだろうと思います」についてですが、『我に益あり』の巻末に付けられた「年譜」の「1915年(大正4)31歳」のところに「8月、住宅建築落成。同月次男永吾生まれる。」とあるのが原因の一つと推測します。これは、本文の「新しい家ができたばかりのときに、暑い8月だった ― 永吾、二男が生まれた。」に拠るものです。ではそうなのかというと、これに基づいて(多分第三者が)落成としたのが誤りと思われます。本文にはその前に「… あの家をこわして、そこに新しい大きな家を作った。それは欧州大戦の始まった1914年であって、その年号を家の隅石に彫刻してある。」とあるからです。で、「家ができた。」ので家の庭で新築の祝をして、年を越して …「私の家ができて … 落ち着いてその家に十年も住むことになってしまった。」と記され、そして先程の「新しい家ができたばかりのときに …」に続いています。以上、多少参考になれば幸いです。--Hiyotchi会話) 2022年1月11日 (火) 20:51 (UTC) --Hiyotchi会話2022年1月11日 (火) 21:39 (UTC)[返信]
    • 情報ありがとうございます。『我に益あり』はもうしばらくしたら家から出られなくても読めるようになるはずなので、そうなったら読みたいと思います。西村はこの建物を何度も改築したようなので、完成をいつと見なすかで解釈に差があるのだろうと思っていました。--西村崇会話2022年1月17日 (月) 04:54 (UTC)[返信]
      • 黒川創『きれいな風貌――西村伊作伝』新潮社、2011年。ISBN 978-4-10-444404-5 を読みましたが、この本も1914年12月竣工の認識でした。97ページから1914年の話が始まり、「新たにみずから設計したプランによって」新築していたと述べたのち(98ページ)、その家は年の暮れに竣工した(102ページ)、と書かれています。このとき庭で旅まわりの劇団が「家なき子」を演じた、ともあります。1915年の話はこの記述の次の段落からです。この本は「完成した家」=「後の西村記念館」である旨の記述はなく、百科事典記事の根拠にはなりません。が、こんな状況で下津2018を根拠に1915年説を書くのなら、下津2018が示している文献は全部読んで、下津が何を根拠に1915年竣工と主張しているのか、検討した方がよいでしょう。単に帰属化するだけでは不十分だと思います。--西村崇会話2022年2月17日 (木) 22:55 (UTC)[返信]