ノート:袁煕
表示
>『三国志』魏書袁紹伝の本編によると、202年9月~204年8月まで鄴およびその周辺は曹操軍に包囲されており、他州から助勢があったという記述もない。
とあるのですが、このような事実はありません。202年9月からの曹操と袁譚らの戦いは黎陽が戦場で、鄴が囲まれた訳ではありません。その後、一旦曹操が退いてその間に袁譚と袁尚が仲たがいしたという点からも分かるはずです。また包囲など物理的に遮られていなかった以上、刺史になったからといって本当に一切鄴に行かなかったのかという点も不明ですので、「袁煕は建安年間に幽州に転出して以降、甄氏は鄴に残っていたとある。」も「疑わしい」の証拠とするには少々心もとないところでしょう。致命的な誤りも含む上に独自研究ではないでしょうか。
そもそも「曹叡は袁煕と甄氏との間で出来た息子という説が存在する。」だけではどこで言われているのかも分かりませんので、このあたりも含めて編集させていただきます。
念のため言っておきますが、私は別に「曹叡は袁煕と甄氏との間で出来た息子」と主張したいわけではありません。出典のない怪しいままの「説」と、それを誤読によって「疑わしい」とするという内容、いずれもWikipediaとして問題があると思うから編集するのです。--てぃーえす 2009年12月20日 (日) 15:07 (UTC)