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ノート:薬丸兼陳

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伴左衛門は誰かですが、薬丸家譜によれば兼福の二番目の養子次兵衛は「薬丸半左衛門嫡子」とあります。すなわち、兼陳の子兼福と同世代、同族で薬丸半左衛門という人物がいたらしいことになります。屋敷の持ち主はこの人物ではないか、ということが一点です。さらに、薬丸家の屋敷は遅くとも江戸後期には新屋敷になってます。古地図をみると久保や黒葛原といった薬丸家と養子縁組する家々は新屋敷で隣家です。兼福系の薬丸氏は新屋敷に移っていたのではないか、が二点。傍証として、薬丸家譜が兼陳以前ではなく兼福から始まっていることです。これはつまり、兼福は分家したということではないでしょうか。あくまで個人的見解です。ただ、伴左衛門は兼陳か兼利かというような個人的推測を本文で書くのはどうかなと思います。--盛風力 2008年4月11日 (金) 09:58 (UTC)[返信]

今回ばかりは個人的見解どころか、とんでもない愚説なので、「伴左衛門は兼陳か兼利か」というような文は削除しときます。ついでにこの件は忘れてください。1週間近く放置してたのが恥かしいくらいです。なお、薬丸家系図は「鹿児島市史Ⅲ」で確認しております。ついでに、同書掲載の寛永13年の「薬丸伴左衛門」は兼利であることは濃厚で(寛永13年当時の薬丸家は同家と為兵衛家しかないため)、初め、新堀の下(今の山下町)の東郷重位の近所にいて、少なくとも、元禄年間の鹿児島城の本丸まで焼けた火事以降に新屋敷に移動したものと思います。  ちなみに久保七兵衛家は寛永13年には「久保田諏訪の後辺」(現在のどこかは不明)にいたようで、大山巌の先祖、大山九郎兵衛が近所にいました。貞享年間の火事で家が焼けたそうです(「示現流聞書喫緊禄付録系図」の「久保之昌」の項)。新屋敷移住はこの後と思います。  薬丸兼福の二人目の養子については、おそらく兼福の従兄弟ではないでしょうか。あと、薬丸兼福から系図が始まっている理由として勝目清「鹿児島のおいたち」に、元禄年間に鹿児島城本丸が火災にあい、本丸内にあった御記録所が全焼したことが関係していると思われます。このため、藩内の旧家などを廻って、資料を複製したそうです。この火事が原因の根拠として、系図の詳細な記述が元禄時代からはじまっていることと、御記録所をもとにした西郷隆盛家の系図も元禄から始まっていることによります。火災当時、御小姓組クラス(薬丸家も享保まではこのクラスだったと思います)の系図資料は救済されなかったかもしれません-220.111.240.206 2008年4月27日 (日) 01:56 (UTC)[返信]

薬丸家の家格ですが、江戸初期から地頭や奉行に任じられてたところをみると、下級家臣である御小姓組クラスではなく、やはり元々中級家臣それも上の方だったのではないでしょうか。壱岐守は肝付旧臣のためか25石で始まりますが、戦功で加増され、子孫も結構な石高になってます(江戸後期にはぼろぼろですが)。結局小番とされますが、昇格というよりはここが妥当なところではないかと思います。しかし薬丸兼陳はそれなりに史料のある人物で記録所に史料がなくても書けたはずで、薬丸家は兼陳の免状等も所持してたのに系図には載せないのは個人的には不自然に感じます。あと、西郷家の系図が元禄始まりなのは当時の九郎兵衛から島津家に取り立てられたからだと思います。--盛風力 2008年5月3日 (土) 15:57 (UTC)[返信]
  • 資料がないために断定は控えますが、元禄年間に城内の記録所が焼けたときに薬丸家が山下町に住んでいたとしたら、資料も丸焼けなはずです。まあ、どおでもいいことですが・・・。ないもんはないということで。この件に関しては冷静に考えるとどうでもいいことですよね。

西郷九郎兵衛ではなく西郷九兵衛ですよ(「西郷家系図の紹介」参照)。池田米男や沢田延音さんが元禄年間に熊本から来たとかいってますが、西郷家の系図には一言もそんなこと言ってません。それどころか、寛永13年の時点ですでに西郷九兵衛がいたりするんですよ。まあ、西郷隆盛の先祖かどうかは断定を避けますがね。しかも、万治2年の西郷九兵衛の石高は3石といいます。--210.237.32.170 2008年6月3日 (火) 12:23 (UTC)立山源次郎[返信]

西郷家江戸中期召抱え説は通説となっているし子孫も信じてるので、もし元禄以前から続くとすれば新説ですね。興味深いです。さて、立山源次郎さんの会話ページに書いたのに読んでもらってないようなのでここに書きますが、記事編集時に余分な空白が出来て記事のレイアウトが滅茶苦茶に崩れています。気をつけてもらえますでしょうか。修正してもまた崩されてしまうので・・・--盛風力 2008年6月8日 (日) 06:22 (UTC)[返信]

:会話ページについては正直知りませんでした。初期に、空白を作らないで編集したときに改行されなかったこともあり、癖になっています。なかなか編集が下手なもので、大変申し訳ありません。以後気をつけたいと思いますし、なるべく治しておきます。--立山源次郎220.111.240.207 2008年6月9日 (月) 04:03 (UTC)[返信]

  • 「伴左衛門は誰かですが、薬丸家譜によれば兼福の二番目の養子次兵衛は「薬丸半左衛門嫡子」とあります。すなわち、兼陳の子兼福と同世代、同族で薬丸半左衛門という人物がいたらしいことになります。屋敷の持ち主はこの人物ではないか、ということが一点です。さらに、薬丸家の屋敷は遅くとも江戸後期には新屋敷になってます。古地図をみると久保や黒葛原といった薬丸家と養子縁組する家々は新屋敷で隣家です。兼福系の薬丸氏は新屋敷に移っていたのではないか、が二点。傍証として、薬丸家譜が兼陳以前ではなく兼福から始まっていることです。これはつまり、兼福は分家したということではないでしょうか」とありますが、「薬丸家文書」を見たところ、同文書には「伴左衛門」という人物の書いた文書も見受けられ、また、寛永13年の屋敷名簿には「薬丸伴左衛門」はいるが、「薬丸半左衛門」はいませんでした。

 また、「薬丸刑部左衛門」のほうが200石近くある反面、「薬丸半左衛門」の方は30石しかないので、分家したのは「薬丸半左衛門」の方では?。それに「古地図をみると久保や黒葛原といった薬丸家と養子縁組する家々は新屋敷で隣家です」とありますが、いつの、何という名の古地図ですか?。文化4年の「鹿児島城下明細図」には「薬丸長左衛門(薬丸兼武)」の名が新屋敷どころか、鹿児島城下のどこにもありませんが、いったい、いつの時代の古地図ですか?  「薩摩の秘剣 薬丸自顕流」ではたしかに、薬丸兼富久保之英が新屋敷に住んでいたことが書かれていますが、そもそも久保之英の曾祖父は中福良生まれであり、新屋敷ではなかったはずです(寛永13年の名簿には「西田新屋敷」という項目がありますが、久保家は「久保田諏訪の後辺」でした)。貞享年間に火事に久保家があっており、久保家自体が引っ越してきています。おそらく、新屋敷自体が現在でいうニュータウンのようなところでしたから、理由はともあれ江戸時代の中期に現在の山下町あたりから引越してきたのでは?。-コッペパン-122.215.65.93 2008年7月13日 (日) 06:42 (UTC)[返信]