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ノート:萩原葉子

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「砧高等学校定時制」の謎

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  • 本文で「要検証」が入り、今はコメントアウトされていますが「この名前の学校は存在しない」砧高校定時制について。「奇を衒わない自然な地名が校名となっている」(戦後の新制都立高校命名の特徴的美学)ことと「定時制がある」ことから、地元都立高校の可能性が高いといえます。
  • 一つの有力な可能性が、1948年から1958年まで存在した、東京都立園芸高等学校(本校;世田谷区)の「定時制砧分校」(砧も世田谷区の地名)です。大学の国文科を目指すなら園芸高校(Wikipediaによれば当時は園芸科・造園科・農業科)よりも普通科の方が有利に見えますが、立地条件(通いやすさ)や編入試験科目などからここを選んだ可能性もあります。そして葉子が定時制高校に入った理由は「戦前に旧姓の女学校を卒業していたが、新制の高校卒業の資格を得るにはあと1年間の履修が必要だった」(梯久美子「この父ありて 作家 萩原葉子(5)」(日本経済新聞・2021年12月11日、第31面。土曜朝刊の連載で「萩原葉子」は同年12月25日・第7回まで))のですから、兎にも角にも1年間通えば新制大学受験資格が得られたのです。
そして正式名称「都立園芸高校定時制砧分校」が、ある時点で、編集スタッフの誰かが間違えるか、きちんと書くことを面倒がるかして、実在しない「砧高校定時制」に化けて今日に至る? 萩原朔美さん宅から修了(卒業)証明書でも出て来ればウラが取れるのですが。
『世田谷区議会史 資料編』の昭和23年のページに「定時制による新制砧高等学校設置請願」という記述がありますが、この件がその後どうなったのか調べてみたらよいのではないでしょうか。実際には別名で開校したのだが、構想段階の名称で引き続き呼ばれることが多かったとか、そういうオチかもしれません。この辺を自分で調べようとしていたのですが、社会の状況がそれどころではなくなったので、ここに書いておきます。--西村崇会話2022年2月1日 (火) 06:43 (UTC)[返信]
東京都教育委員会が1990年に出した『都立学校沿革』によると、東京都立園芸高等学校砧分校は普通科・園芸科の構成でした。1958年に園芸科は本校、普通科は東京都立千歳丘高等学校に移管されたとのことです(93, 107-108ページ)。--西村崇会話2022年3月21日 (月) 00:33 (UTC)[返信]
千歳丘高等学校定時制は1984年に『閉校記念誌 26年の歩み』という本を出したようです。1984年というとこの方は既に著名人ですから、東京都立園芸高等学校砧分校普通科に通ったのなら、著名な出身者のような形で言及があるかもしれません。こんな本を読むことができるのはいつのことだかわかりませんので、ここに書いておきます。--西村崇会話2022年4月12日 (火) 15:08 (UTC)[返信]
『閉校記念誌 26年の歩み』にはこの方に関する記述は見当たりませんでした。この方が東京都立園芸高等学校砧分校普通科出身ではないのか、出身だが寄稿はしなかったのかは不明です。--西村崇会話2022年6月17日 (金) 19:34 (UTC)[返信]