ノート:苅谷剛彦
ノートで議論して欲しい記述
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- 社会学者の宮台真司は、こうした苅谷の立論は、経済決定論的であり、受験する側=児童・生徒の「動機付け」への考察が全く欠如しているとして批判している。しかし、苅谷剛彦の著書を丹念に読めば、単なる経済決定論ではないこともわかる。
IP:125.203.111.163(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)さんの編集記事:
に対するIP:219.112.198.45(会話 / 投稿記録 / 記録 / Whois)さんによる否定文。--Global H 2008年4月6日 (日) 03:06 (UTC)
上記と似た論点ですが、本文中の
- 実質的に経済格差が学力格差を産出し、
これも嘘とは言えないまでも誤解をまねく表現だと思いますがどうでしょうか。--Kurubu 2010年6月21日 (月) 14:34 (UTC)
苅谷氏の主張と宮台氏の批判の齟齬について(苅谷氏の側から見て)
[編集]苅谷氏の主張が単純な経済決定論ではない点については、「大衆教育社会のゆくえ」における以下の記述で分かります。
- (p65)東大入学に有利な階層の子どもたちは、有名進学塾に行くための教育費や、私立の中高一貫校の授業料を負担できる「財力」のみによって、有利な立場にあるのではない。それ以上に、この階層と結びついた財力以外の要因が東大入学までのチャンスを強く規定しているということである。
- (p76,1960年の森口兼二の研究成果を示して)収入階層間の成績水準の差よりも、親の職業間の差の方が大きい。
- (p86,同じく森口からの引用)「…必ずしも親の富裕度で決定されてしまうのではなく、相当に収入のある層でも親の学歴が低い場合、進学できないことがかなりあり得ることを意味する」
3番目は完全に他人の文章の引用ですが、この文を引用した点で、苅谷氏の問題意識の所在が分かるかと思います。--Kurubu 2010年7月4日 (日) 11:44 (UTC)
宮台氏の発言がいつの時点かにもよりますが、とりあえず初期の著書「大衆教育社会のゆくえ」の後ろの方にもっと直裁的な表現がありました。
- (p212)あるいは、「個性」や「創造性」重視の名のもとに、教育格差を問題視しようとする視線が、再びさえぎられる可能性は高い。しかも、このように教育を通じて階層分化が固定・維持されたとしても、そうして生まれた格差は、もはや家庭の経済力によって生まれるものではない。これまで以上に文化の差がものをいう。
- (p213)「教育の不平等をめぐるトリレンマ」(「能力で適した者がその職に就くべきだ、という能力主義」、「生まれた環境によって構造的にその子の将来が異なるようになってはならない、という機会平等」、「子供の教育への親の影響力に、外部が干渉するべきではない」、この3つを同時に成り立たせる事は不可能である。Fishkin,1987)
「動機付け」は「個性」や「創造性」同様に「文化の差」が強く影響する領域であり、苅谷氏もその後の著書のタイトルに「意欲格差」という言葉を用いています。「動機付け自体が文化という階層差の影響を受ける」わけです。宮台氏はもうちょっと深い意味で言ったのかも知れませんが、だとすると、宮台氏の発言の引用の仕方が誤解を招く表現だという気がします。--Kurubu 2010年7月7日 (水) 05:54 (UTC)
東京大学教育学部附属中等教育学校校長を経て
[編集]苅谷剛彦氏は、東京大学教育学部附属中等教育学校の校長の経験はありません。--2405:6580:2BE0:200:C145:9446:AC2B:2E84 2024年10月28日 (月) 12:14 (UTC)