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ノート:芸大アカデミズム

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検証可能性

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この項目ですが、

  1. 「芸大アカデミズム」の語は、音楽に関してどの程度一般的に使用されている語なのでしょうか。「信頼の置ける資料」における用例を示していただければと思います。
  2. 用例が豊富にあるのであれば、ここにかかれている記述がそれらの用例に照らして十分客観的であることを説明してください。
  3. 芸大は音楽以外にも、美術工芸に関する教育も行っているので、これらに関する「芸大アカデミズム」の言及が文献上に存在していると思われますが、それに対する言及がないことは不適切ではありませんか?

--Pugnari 2006年7月15日 (土) 04:00 (UTC)[返信]

お答えします。芸大アカデミズムという書法の存在は、日本音楽コンクールと吹田音楽コンクールの本選会の1990年代までの歴史を調べると非常によく解ります。用例は豊富にありますが、「これが用例だ」と呼ぶと名誉毀損を主張する人々もおられると思うので、あえて実名は伏せてあります。恐らく初めてここに来た人々は典拠の無さを疑う人がいるかも知れませんが、典拠は日本の楽譜出版社から出版されている日本人作曲家の管弦楽のスコアに豊富にあります。美術のアカデミズムは良く知りませんので、いずれは項目分割すればよい話です。--222.1.24.16 2006年7月17日 (月) 10:29 (UTC)[返信]

この語は少なくとも雑誌などでは一般ではないです。作曲家や音楽学者などで長らく隠語同然で暗黙の了解で使われていた物です。雑誌や新聞・専門書の書かれていた事を目にした事は一度もありません。しかし芸大を頂点とする日本の音楽教育界では一つの事柄について上で明示されるとその下級音大は自然に従っていく傾向があります。Kanno.13.10.06、18:00以上の署名の無いコメントは、195.93.60.3(会話履歴whois)氏が[2006年10月13日 (金) 16:00 (UTC)]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。[返信]
丁寧なお返事ありがとうございます。なるほど、私は日本の現代作曲家の状況にはお世辞にも詳しいとは言えませんが、当該記事に書かれているような作況傾向が存在し、それがまた派閥化していた時期があるということの可能性が理解できないほど蒙昧ではありません。私がお聞きしているのは、そのような作曲、あるいは作曲家の集団や傾向が存在していることを証明せよと言っているのではなく、もしそのような作曲家集団や作品の傾向が存在したとして、それらに対して「芸大アカデミズム」というを対応させる日本語の用例がどれほどあるのかということに対して疑義を挟んでいるのです。これは、音楽ではなく日本語の問題です。もし質問の意図を理解していただければ、ここに現在書かれている概念に該当する作曲の例でなく、「芸大アカデミズム」という語そのものの用例をお示しください。もしそれが名誉棄損に当たるというのであれば、当該記事が、かくかくしかしかの雑誌の何ページに用例がある、というような形でも構いません。それが示せないのであれば、やはり、Wikipedia:独自の調査に該当すると思いますよ。記事の内容が事実であるならば、すくなくとも項目名をあらためるか、芸大作曲教育の記事を掲載するに適切な場所に移動すべきだと思います。--Pugnari 2006年7月17日 (月) 12:10 (UTC)[返信]

例えば「和声 理論と実習」については俗に芸大和声と言われておりますが、これを芸大和声だなんて明記する公式ソースはどこにもありません。しかし、皆で「芸大和声」と言っていることは公然の事実であり、誤りがあったら芸大側が何らかの処置に出るはずです。芸大アカデミズムもこれと同じで、作曲、ピアノ、ヴァイオリンには確実に「流派」が存在しました。21世紀以降この流派はかなり細いものになっていることが指摘されていますが、存在は事実でありこのメソッドによる音楽性の弊害は隠せません。芸大アカデミズム継承者の1人はマリー・シェイファーに向かって「奴はクズだ」と吐き棄てるように酷評しましたが、こんな人でも就職できてしまったのです。--211.126.98.169 2006年7月18日 (火) 09:33 (UTC)[返信]

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UTCさんの意見に依存はありません。そのとおりです。この述語が書かれた書物はありません。我々作曲たちが仲間と音楽論を交わす時などに良く用いる言葉です。もし「芸大アカデミズム」という隠語が「音楽芸術」などが当時使う執筆者がいたとするならば発刊の前の検閲で必ず消されてしまったでしょう。人の思った事が
自由に発表できるWikipediaだからこそ書ける項目に違いありません。僕はこう言った隠語が明かるみに出され議論されるネットの素晴らしさを痛感しております。
Kanno,13.10.06,18:9分以上の署名の無いコメントは、195.93.60.3(会話履歴whois)氏が[2006年10月13日 (金) 16:09 (UTC)]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。[返信]
いまさらですが、WIkipediaは「人の思ったことが自由に発表できる」場ではありません。ウィキペディアは何でないかをお読みになってください。Aotake 2006年11月11日 (土) 07:00 (UTC)[返信]
なるほど、私は作曲に関して専門家ではありませんが、件の和声3巻本は存じておりますし、それにたいして音楽関係者が良い評価ばかりを下しているわけではないことも存じ上げております。しかし、Wikipedia:検証可能性の観点からみると、あなたが良くご存知で、私が薄々存じ上げている評判を根拠に記事を執筆することはできないのです。「芸大アカデミズム」をあなたがおっしゃる「芸大和声」とか、原稿記事に掲げられている作曲手法に結びつけて記述している明確なソースが存在しなくてはなりません。くしくもあなたがおっしゃるように、そのようなソースが存在しないとなれば、項目名そのものが独自に定義されたことになり、Wikipedia:独自の調査のガイドラインに沿っていないことになります。私は個人的にはそのような項目は取り除くべきであると考えますので、記事の改名、ないしは記事内容を他の適切な場所に移して記事を削除することが少なくとも必要ではないかと思います。更に、内容に関しても、作品の例があるかどうかが問題ではなく、それに明確に言及した2次ソースがなければなりません。その観点からWikipedia:独自の調査に抵触すると疑われる内容が多く含まれており、それ自身問題だと思います。--Pugnari 2006年7月19日 (水) 14:11 (UTC)[返信]

独自の調査であれば、50年以上にもわたって同じ書式が続くわけが無いでしょう?5年くらいであれば、独自の調査で片付けられてもしかたが無いでしょうが。これは私個人の主観ではなく、ほぼ全ての音楽人が認めていることです。逆に、「かようなアカデミズムは存在しない」と否定する人もききませんね。どうしても「明確なソース」を欲するのであれば、故人の中から適当にサンプルを挙げた方がよろしいでしょうか?--222.1.25.252 2006年7月29日 (土) 02:08 (UTC)[返信]

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「明確なソース」というのは多分文章として書かれ出版された物でしょう。それはありません。少なくとも見たことはありません。あるとすればそれは見えないしゃべり言葉と言うソースです。例え文章という物理的な物がなくともそれが理にかなって常識と判断されればWikipediaは受け入れる事が賢明でしょう。Wikipediaの欠点は余りにも規則・規則に縛られる事ではないでしょうか?Kanno,13.10.06,18:15分以上の署名の無いコメントは、195.93.60.3(会話履歴whois)氏が[2006年10月13日 (金) 16:22 (UTC)]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。[返信]
とぼけてらっしゃるのか、私の発言の趣旨を理解していただけてないのかわかりません。IPで書き込まれている方はすべて同一人物と理解してよろしいのでしょうか?すでにアカウントもお持ちなのでしょうから、そろそろログインされてはいかがですか。
理解していただけるまで、何度でも私の趣旨を説明します。Wikipedia:独自の調査というときに、音楽の書式が問題なのではなく、それについて論じている信頼できる文献(日本語その他の言語による文章、論説、論文)があるかということを問うているのです。音楽そのものの書式が存在していたとしても、それをどのようなものとして言語で記述するかについて、言語による典拠がなければ書き手の主観的な観点の大幅な混入を防げません。
もう少し言いましょう。たとえば、google で「芸大アカデミズム」と検索しても、これを音楽に対して適用しているものは数えるほどしか見られません。用例が乏しいようなを百科事典の項目名にすることは不適切だと思いますし、当然、記事内容について検証することは難しいと思いますので、Wikipedia:独自の調査の観点から不適切な記事だと申し上げているのです。事実、IP 211.126.98.169さんの7月18日の書き込みで「これを芸大和声だなんて明記する公式ソースはどこにもありません」と書いていらっしゃいますが、そのこと自体がこの記事の適切性への疑義の根拠なのです。おわかりいただけますか?--Pugnari 2006年7月30日 (日) 05:13 (UTC)[返信]
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もしそう言う文献が仮にあったとしても何を持って信頼と言えるに値するか疑問があります。ここでは複数の人でこの問題を論じているので単なる一人の人物の著書よりはより信頼できると思います。ちなみに222.1.25.252 の方はどこの誰であるかまったくこちらは存じておりません。偶然意見が一致しているだけです。Kanno,13.10.06,18:15,18分以上の署名の無いコメントは、195.93.60.3(会話履歴whois)氏が[2006年10月13日 (金) 16:22 (UTC)]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。[返信]

すみません、たまたま御両人の議論を拝見したものですが、・・・。 まず、「芸大アカデミズム」とは、音楽分野の用語なのか。? 或は、広範囲の藝術領域に適用でき得る用語なのか。? また或は、一般汎用領域にまで及んで適用できる用語なのか。?・・・という点について、了解しあった上で、議論をなされば如何でしょうか。? ただ、私見ですが、だだ今議論されている「芸大アカデミズム」というものについてコメントさせて頂くとするなら、 西洋に於けるにアカデミズムの成立の構造と、我が国の明治期以降の国策的な西洋文化の受容と、それに追従する形での「日本的なアカデミズム」」の形成の過程から言及しなければならないように思われます。我が国の場合、明治期以降の西洋文化の受容過程に於ける「アカデミズム」」と、それ以前の時期の学術的な権威の構造と区別すべきなのかどうかも、各分野や立場に依って議論の別れるところだと思いますが、 今、議論の対象となっている「芸大アカデミズム」というものについてもっと直接的なものを求めるのならば、 明治期以降の西洋文化の受容過程に於ける我が国の文化的な権威の形成あたりが起点となるのではないでしょうか。? 密接に関連するキーワードとしては、「洋画」や「洋楽」という概念と"ごとば"が挙げられると思われます。 これは私見ですが、「芸大アカデミズム」というものを考えるにあたって、重要なのは、その「用例」や、「論説文中での位置づけ」などの点ではなく、 我が国に於ける、外来藝術の受容、或は広くは、外来文化の受容と、 その過程に於ける芸術的、或は文化的な権威の形成とその問題点というような視点から取り扱うべきなのではないかと思われます。

私の記入が的外れなものであれば、御詫び申し上げます。以上の署名の無いコメントは、61.117.84.185(会話履歴whois)氏が[2006年10月4日 (水) 00:11 (UTC)]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。[返信]

コメント依頼

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コメント依頼に出しました。もう一度私の疑義のポイントをまとめさせてください。

  1. 「芸大アカデミズム」の語そのものの音楽に対する用例が web 上では数えるほどしかない。上記の議論で、紙媒体等の文献上でも音楽における「芸大アカデミズム」の用例はあるはずがない、との言及がある。
  2. アカデミズムは、かなり汎用的な単語であり、単に芸大アカデミズムといった場合、芸大におけるアカデミズム全般を指すと理解するのが妥当であるが、この語を、当該記事のような特殊な状況を指すものとして記述する場合は、その記述内容が十分に信用に足る論文、論説等ですでになされていなければならないが、そのような論文は存在しないのではないかと疑っており、この点に対しても、典拠は提示されていない。

この2点を鑑みるに、少なくとも項目名「芸大アカデミズム」は現在の記述内容に対して不適切であるため、東京芸術大学などの項目に統合すべきだと思います。さらに、記事の内容そのものがWikipedia:独自の調査にあたる疑いが強く、芸大作曲科の派閥に対するネガティブキャンペーンの様相をも呈しているので、本来は削除してしかるべき内容であると思います。--Pugnari 2006年7月30日 (日) 05:25 (UTC)[返信]

コメント依頼を読んで来ました。お二人で遣り合っている現状は余り進展が見込めませんので、傍観者の立場からご意見差し上げます。このような高度に専門的(使用者の母体が少数)な用語でしかも、隠語、俗語に近い物に対して検証可能性を追求することはかなり難題かと思います。しかし私が調べた限り、この分野の人々にはそれなりに通じている用語だという感触はあります。ただ、芸術の分野などでも使われているようではあります。是非「私はこの用語を知っている」という業界の方は名乗りを上げていただきたいと思います。この項目はアカデミズム批判という立場の方々が使用する用語ですので、その記述がある程度批判的であるのは致し方ないと思い(ただ、批判が一方的過ぎる気はしますが)、また、アカデミズム批判を標榜している人にたいして「検証可能性」を錦の御旗に実証主義的アカデミズムの観点から意見するのは、少々問題ありかと思います。これはウィキペディア全体に関わる問題となってくるとおもいますが、個人的には、この事典は「インターネットの事典」なのだから、専門用語や業界用語のような流動的で生成中の用語の類も存在してしかるべきだと考えます。勿論「秀逸な記事」には縁がない(この項目の記述者は思想上欲しいとは思わないでしょう)とは思いますが、いずれ加筆訂正校正され、「芸大アカデミズム」なる用語が世間周知と認識された頃には完全な記事になっていると思います。--Ipiranga 2006年8月6日 (日) 07:53 (UTC)[返信]

レッテルを貼られた人物を明記するのに問題があれば、貼った人物の名前を載せてはいかがと思ったのですが、それさえ載せないのは貼った方の名誉を毀損するとでも思っているのかもしれませんね。やれやれ。日本の作曲家を集団的に、もしくは個人の名前を挙げて批判した文章は『音楽芸術』(音楽之友社)でたくさん見ることができますが、「芸大アカデミズム」という名前を目にしたことがありません。もちろんバックナンバーすべてに目を通しているわけではありませんし、私が忘れてしまった可能性もあります。
さて、現代音楽の項目では30rKs56MaEさんによって「芸大アカデミズム」と呼ばれている団体が明かされています。『日本の作曲家20世紀』(音楽之友社)に新声会や地人会のメンバーが明記されていますので、代表的な人物を紹介しておきましょう。ここで挙げた人は同書で詳しく記述されている方々です。
このうち、團、石桁、安部、高田は東京音楽学校(今の芸大)卒です。彼らの管弦楽のスコアを見ればこの項目で書かれていることが確かめられるかもしれません。また、この項目に出てきた池内友次郎の弟子には次のような作曲家がいます。★印は東京音楽学校もしくは芸大に在籍した方です。
池辺晋一郎★、石井眞木一柳慧小倉朗北爪道夫★、佐藤眞★、篠原眞★、平義久★、丹波明★、西村朗★、野田暉行★、林光★、原嘉壽子★、廣瀬量平★、福士則夫★、別宮貞雄松村禎三間宮芳生★、黛敏郎★、三木稔★、三善晃諸井誠★、矢代秋雄
くどくど列挙しましたがようするに、戦後日本の代表的な作曲家の多くが池内門下です。芸大アカデミズムの「典拠」が「豊富にある」のなら、彼らのスコアにも現れていることでしょう。「音色的に鈍い」(Noda,Kentaroさんによる)だの、「原則的に19世紀後半から20世紀前半までのリズム法しか使えない」(222.1.24.16さんによる)という指摘への反例もまた、彼らのスコアから得られるかもしれません。--Nattilv1 2006年8月17日 (木) 14:33 (UTC)[返信]
追記。私もPugnariさんの主張に同じです。「芸大アカデミズム継承者の1人は……こんな人でも就職できてしまったのです」と書くような人に記事内容の中立性を期待することはできません。ところで、この項目を作り、現在の文章の多くに貢献したNoda,Kentaroさんは野田憲太郎という作曲家です。--Nattilv1 2006年8月17日 (木) 15:20 (UTC)[返信]
Ipirangaさんの指摘されるように、Wikipediaが現在進行形の事柄や「隠語、俗語」的な事柄を取り上げるのはとても大事なことですし、その場合の「検証可能性」や記事の中立性をいかにして確保するかは難しい問題ではあると思います。ですが、だからといって、これら新しい事柄に関して「何でもアリ」の状況を黙認するのはWikipediaにとって有益なことではないと思います。私にとって最も大事であると思われる論点は、Wikipediaは生成中の言説を反映することはあっても特定の言説の生成に加担してはならないという点だと思います。これこそがWikipediaの重要な指針であるWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自の調査の依拠する精神であり原理ではないでしょうか。いわば「非公式の」言論空間で現行記事のような言説が頻繁に行われていたとしても、IP211.126.98.169さんやNattilv1さんの仰るように印刷物やネット空間で参照可能な言説など、「公式の」言論空間で「芸大アカデミズム」の語を当該記事のように使用した例が見られないのであれば、この記事こそが公式の言論空間で「芸大アカデミズム」という語にある種の思想や価値判断を付加する言説を生成し、内容が専門的かつテクニカルであるがゆえに、門外漢の目から見ればなし崩し的にそれがあらかじめ公式のものであったかのように受け取られてしまう危険性があるわけです。記事の作成、編集にかかわっているのが現代音楽の専門家であれば、この記事の内容が「どの程度検証可能であるか」を開示することはいともたやすいことのはずで、誰が何処でそのようなことを最初に言ったかを本文中に書けばいいだけのことです。記事の著者が新たな言説を生成したいならば、Wikipediaでない他の場所で行うべきだとおもいます。--Pugnari 2006年8月31日 (木) 15:01 (UTC)[返信]

統合案も出されているようですが、この記事は削除すべきです。野田憲太郎氏(もしくはそのIP,または野田氏の信奉者のIP)は、ジュリアード音楽院王立音楽院にもアカデミズム批判を書き込んでいましたが(見苦しいので該当部分は削除させていただきましたが)、いみじくも野田氏がノート:現代音楽で吐露してしまった、日本国内のアカデミズムへの反感や嫌悪感を、このようなかたちで「昇華」させてしまったのが本稿のように見受けられます。まず、芸大へのネガティヴキャンペーンという指摘はその通りですし、それを公的に認知されたものであるかのように記事化するのが問題というのもそのとおりです。それにそもそも、芸大アカデミズムが問題だ(あるいは記事化すべきだ)というのであれば、それはクラシック音楽のポータルで扱うべき事象ではないでしょう。そこで、ほかの大学についてはどうか・・・・・・と調べてみたのですが、日本語版ウィキペディアでは、「○○大学アカデミズム」なる記事は、これ以外には存在していません(社会的意義からするなら、「旧帝大アカデミズム」や「早慶アカデミズム」etc. とかのほうがはるかに必要なはずですが)。しかも、「ニュー・アカデミズム」はあっても、「アカデミズム」なる記事自体が存在していないのです。(ついでに言うと、英語版でAcademismで検索にかけると[[:en:Academic art]]という記事にたどり着いてしまいますね。)

いずれにせよ、この記事は客観的でなく、公共性もないものとして、削除してよいと思います。---間久部緑郎 2006年10月4日 (水) 14:08 (UTC)[返信]

そうではなく、もし「芸大アカデミズム」を削除した場合、逆に芸大の正当性・宣伝性に荷担しているのではないかと言う問題が残ります。上記のようなものの言い方は良く共産国にありましたが、真に自由な発想や意見を保持するのであれば多少の批判的内容であっても保持するのが正道というものではないでしょうか?確かにあの大学の影響は日本全国を巻き込むのは疑問の余地はないです。
Kanno, 13.10.06,18:28以上の署名の無いコメントは、195.93.60.3(会話履歴whois)氏が[2006年10月13日 (金) 16:30 (UTC)]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。[返信]
この記事を削除することが、すなわち東京藝術大学の「正当性・宣伝性に荷担すること」につながるというのなら、すべての学術機関について「正当性・宣伝性に荷担すること」にならないように、同様の批判記事を続々と作成すべきでしょうね。しかし、百科事典というものは、ことさら「批判記事のみ」を書く場なのですか?(少なくとも現状の「芸大アカデミズム」の記事は、対象についての長所と短所の両面を見ているようには、とても見受けられないのですが。)また、百科事典というものが、「自由な意見」をどこまでも書きうるものであるかどうかは、ウィキペディアの規約をよく読めば分かるはずですが。(菅野茂さん、署名のしかたは以前にお知らせしたはずです。あなたの「盟友」の言い方を借りて言うなら、菅野さんは日本人のくせに日本語が不自由で、そのくせ他人の日本語には平気でケチをつけるというのですね。)---間久部緑郎 2006年10月24日 (火) 11:23 (UTC)[返信]

議論の続き

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確かにこれは俗語や隠語の部類ですが、Wikipediaでは他の部門でも俗語や隠語の項はあり特に問題なっておりません。なぜ特に「芸大アカデミズム」というかと言うと多分入学試験などが世界で一番難解ででしょう。それを通すために受験者はまずそれに合う様式を見につけなければなりませんが、例えば和声楽で二年、対位法で二年ととてつもなく厳しい理論を身に付けることになります。こうやって身に付けた理論は例えば海外の作曲講習会などで2週間ぐらいやっても容易には脱出できない事は明白でしょう。芸大は日本でただ一校の国立大学です。それ自体が異常ですが、従って東大のように自然に最も優れた学生が集まってきます。しかしその入学に絶対的な条件がある場合、またそこの卒業生が日本の下級音大や学校などを指導する時、とてつもない影響力を国内に発揮しますので無視は到底出来ないのです。

Wikipediaの決まりについてですが、憲法でさえもそうなようにどんな規則にも欠陥はあります。もしある絶対的な事情でそういう「特例」等が認められない場合、Wikipediaそのものが欠陥百科事典であり自動的にその権威はなくなるものでしょう。これは他でも書きましたが管理人のあり方にも同様です。何回も書きますが、情報が明らかにでたらめな場合には誰でもきちんとチェックします。特に会話や放送は証拠が提示できません。しかしながら放送されるにはちゃんとそこでの放送局の厳しいチェックが入っているはずです。新聞記事や雑誌の論文も然りですから何時までも図書館などで検索できる物ではありません。言って置きますがインターネットですべてが検索できる物と思っていられましたらそれは完全な間違いです。特に海外では特に重要な文章はネットに乗っけないで前門店で売っている物です。この辺をお忘れなく。

しかしながらここのノートは誰が書いたか容易にはわからないようですから、一応きちんと署名しておきましょう。Kanno,0時7分、2006年11月6日(月)以上の署名の無いコメントは、195.93.60.3(会話履歴whois)氏が[2006年11月5日 (日) 23:16 (UTC)]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。[返信]

演奏についてはどこの学校も難易度が落ちてますが、芸大の作曲科の受験は現在も非常に難しいことが毎年出版される問題集などで確認できます。それらの課題をクリアすることが先決で、個性を確立することは二の次なのです。この証言は50年前から言われていますが、一向に改善の兆しが見えません。近年では「学者二世」や「教師二世」が地方に下ることが多いので、このアカデミズムの弊害がクリアに浮かび上がってきたのです。アカデミズムに罪はありませんが、悪用している者は断罪されるべきでしょう。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 03:02 (UTC)[返信]

久しぶりに再読しましたが、やはり観点が極端に偏っている(と思わせる表現が多すぎる)ために、修正依頼をはりました。一部の芸大に近い作曲家たちの音楽語法に当該記事に書かれているような特徴はあるのかもしれませんが、それを「芸大アカデミズム」と名付けること自体が独自の研究でしかあり得ないと思います。「アカデミズム」というのは学究的な指向方向性全般を指す語であり、それを特定の現象、潮流を指す後として用いるには確固たる出典が必要です。参考文献の節を作って出展を明記すべきでしょう(Wikipedia:出典を明記するに乗っ取った形式でお願いします)。専門家の方たちが、「自分がそういうのだから間違いない」と主張されることほど一般人からキナクサくみえることはないので、なおさら出典の明記が重要です。状況が改善されなければ削除依頼への提出を検討したいと思います。
なお、最近書き加えられた「査読できる教授が存在しない」についてですが、大学紀要であっても査読は外部に依頼することが多いので、かくかくしかしかの論文が掲載されないことをもって「芸大に査読できる教授がいない」とは結論付けられないとおもいますが。修正を求めます。--Pugnari 2006年11月7日 (火) 05:17 (UTC)[返信]

学内で査読が(もしも)無理なら、外部の人間なら余計無理ですな、、。在野主義は、あんまり意味ないです。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 06:06 (UTC)[返信]

違いますよ。海外の大学に在籍する音楽学者を含めての意味です。--Pugnari 2006年11月7日 (火) 06:15 (UTC)[返信]

たとえば、本文中に出典が山ほどのってるのに、なんでそれを無視して出展タグが貼られるのか、なんの説明もない。タグを貼ることでなんらかのポイントが計上されるシステムだから、仕方がないのかもしれないけれど。レコード芸術ではたしか船山さんがある作曲家を評した際「、、、この性質を丹念に楽譜化してゆくあたりが、芸大仕込みの性なのだろうか、、、」と評していますけど、これも出典の一部です。(作曲者名は伏せますよ)--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 06:18 (UTC)[返信]

たとえば、ミキモトタッチについて触れた文章なら、中村紘子著「チャイコフスキーコンクール」にその一部始終が詳しく述べられており、なぜこのタッチがアウトなのかという論考もありますよ?--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 06:26 (UTC)[返信]

(書き込み競合)「芸大仕込み」と「芸大アカデミズム」ではニュアンスが違いますよ。それなら「芸大仕込み」という項目名に移動すべきだし、当該記事の掲載されたレコード芸術の号数と掲載ページを参考文献欄に掲げるべきです。まず第一に何ヶ月も前から申し上げていますが、「芸大アカデミズム」という言葉そのものが、すくなくとも音楽業界で(隠語的にせよ)流通している証拠となる出典をあげてくださいと言っているのです。それができないなら、たとえば東京芸術大学に適当な節をつくって、そこに移動すべきだとも申し上げています。Noda,Kentaroさんの意図がどのようなものであるかは存じませんが、この記事が世間に「芸大アカデミズム」なる語にこのような意味を割り当てて流通させる震源地になってはならないのです。
なお、出典というのは本文中に埋め込むのではなく、参考文献の節を作って、出典とする記事の所在を明らかにする(書籍なら本の名前、出版社、出版年、雑誌ならば雑誌の名前、号数、ページ数など、webページであればそれへのリンク)のが推奨されているやりかたです。「Wikipedia:出典を明記するに乗っ取った形式で」というのはそういう意味です。--Pugnari 2006年11月7日 (火) 06:30 (UTC)[返信]

だから、そこに穴があるんだよね。本の名前までは突き止めることは容易だが、ページまで出せといわれるとほとんどの人は答えられないでしょう。で、ページに該当している箇所を(うっかり)引用すると、著作権違反を使うんでしょう?まぁ両刀という奴だな。それはね、「揚げ足取り」というんですよ。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 06:34 (UTC)[返信]

だから、引用ではなく、
  • 著者 本のタイトル 出版社(出版年) ISBN
のように書くのです。そして、どこに書いてあるかに関しては、本文中に埋め込んでも構いませんので、「参考文献『なにがし』のxxページ参照、などと記述すればよい話です。
それで、「青春の音楽 : 原田力男の仕事」の何ページに「芸大アカデミズム」という語が登場していますか?国会図書館に請求番号KD262-H6で収蔵されているようですので、その気になれば確認できそうですね。なお、このような非売品の著書は、個人の伝記や地域の歴史のたぐいなどならまだしも、そこに掲載されている評論が信頼のおける出典であるかどうかはなお疑問が残るところですけれども、ないよりはずっといいでしょう。
また、ミキモト・タッチに関しては、中村紘子氏の著作に明確に記述されているのでしたら、出典の一つにはなるのでしょう。ただし、それが「芸大アカデミズム」という包括的な論調とリンクされて記述されているのですか?--Pugnari 2006年11月7日 (火) 06:42 (UTC)[返信]

今思い出した。「ユリイカ」のブーレーズ特集の号は現代音楽についての論考がかなりたくさん載っていて、その中に松平さんの文章があります。かなり厳しいコメントで、ピエール・ブーレーズを指揮者としてしか知らない作曲科の学生の存在について、詳細なリサーチを試まれました。「そんなんは芸大生を名指していない!」とまた揚げ足を取るのがここの人たちの仕事なのでしょうが、文章全体は芸大アカデミズムに屈した作曲家へ向けられているのが明らかで、有効な出典であるはずです。非売品の原田さん関係の本は、この際いいです。なにも芸大以外でも、芸大アカデミズムの書式で作曲していた作曲科学生は、かなりいますよ。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 06:46 (UTC)[返信]

ですから、まず必要だと思われるのは「芸大アカデミズム」という語の用例です。自分でもおっしゃっていますが、日本の現代音楽の現状の批判が、芸大のアカデミズムの影響であると明確に批判していない限り(つまり、批判の対象が芸大の音楽教育や、楽派形成に向けられていない限り)十分な出典とはなりえません。そのような出典が明示されない限り、当該項目の定義はNoda,Kentaroさんの独自の研究でしかないです。
蛇足ながら、記事に関しても、ノートページへの書き込みに関しても、誤字脱字の修正など以外は「細部の編集」にしないでください。あと、合意が形成される以前のテンプレート剥がしは立派な荒らしだと思いますので、一応。--Pugnari 2006年11月7日 (火) 07:02 (UTC)[返信]

ちょっとまってね。テンプレはがしが荒らしだって言うのはある意味わかるが、「テンプレを勝手に貼る」のは荒らしにならないの?出典はある。明示もした。で、なんで貼られるのよ?貼るぐらいなら、自分で修正したらいかがか。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 07:09 (UTC)[返信]

間久部緑郎 さんによって修正依頼が公式に出されているのに、{{修正}}を剥がしたらルール違反ですよね。それに、記事の内容にある程度論理的に疑義を唱えて、ノートページで議論を行っているのですから、そのことを告知する意味でテンプレートを貼ることは記事やWikipediaの改善を目指すポジティブな行為ですよ。出典をあげたとはおっしゃいますが、その出典の妥当性にも、出典の参照方法にも疑義が提出されているので、テンプレートを貼ってしかるべき状況ではないですか?
あと、Noda,Kentaroさんがよくおっしゃる「自分で直したら」というのは的外れです。それほどの体系的な知識があればとっくに私が自分で直しています。記事を書くほどの知識がなくても、記事の妥当性に疑義を唱えることができるし、そのことで記事の質が向上するというのがウィキペディアの基本的な考えです。--Pugnari 2006年11月7日 (火) 07:26 (UTC)[返信]

実際修正依頼なんてだしても、このアカデミズムで被害をこうむった人間がいる限り誰も修正できないんじゃない?「このアカデミズムでよかった!」という信者が書き直す可能性も否定は出来ませんが、そうなるともはやカルトのレヴェルです。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 07:35 (UTC)[返信]

語るに落ちましたね。野田さん、「このアカデミズムで被害をこうむった人間」とは、結局あなたと菅野さんのことだったのですね。東京芸大には「信者」がいるそうだけど、「このアカデミズムで迷惑した!」と言ってるあなたたちは、さしずめ芸大アカデミズム論「信者」といったところですかね。---間久部緑郎 2006年11月7日 (火) 16:23 (UTC)[返信]
私は以前「日本の作曲家を集団的に……「芸大アカデミズム」という名前を目にしたことがありません」と書きました。その際、意図的に触れなかったのですが、「日本の音楽界におけるアカデミズム」について述べられた文章ならば、音楽雑誌や書籍で何回も見たことがあります。黛敏郎が50年ぐらい前に、『音楽芸術』上で、伝統とアカデミズムについての文章を発表したことがありますし、『音楽の世界』で「アカデミズムの系譜」とかいう文章を見たこともあります。作曲家の対談、鼎談の中で、芸大時代の教育に対する不満がつらつら述べられるのを見たのも2、3回どころではありません。
野田さんの言う「アカデミズムで被害をこうむった人間」が、芸大教育に不満を漏らした人たちのことを指すのかについては、私にはよくわかりませんが、今までの議論を見る限り、野田さんが、過去の「資料」をろくに調べもせずに書いているということだけはよくわかりました(きちんと調べていれば、議論の中であれこれ挙げていたはずですからね)。特にアカデミズムについて調べているわけではない私でさえも、何度と出会った用語なだけに、この項目について(改名もしくは移転する必要はあると思いますが)執筆するための資料をそろえるのは、それほど難しくないはずです。
作曲家の不勉強を常日頃から批判するあなたの態度には一定の評価を下していただけに、本当に残念です。Nattilv1 2006年11月7日 (火) 16:49 (UTC)[返信]

移動の提案

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私見ながら、当初の記事よりもだいぶ論旨が明確化されてきているとも言えなくもないので、削除依頼は当分見合わせることにします。私が最も問題だと思うのは「芸大アカデミズム」という項目名であり、これは不適切であると思いますので、特に反対意見がなければ「芸大の音楽教育」に移動し、東京芸術大学に関連項目リンクを張りたいと思います。記事の書き出しも「東京芸術大学(芸大)における音楽教育と楽派形成は日本の音楽界に大きな影響を与えている、云々」とすれば、百科事典の記事らしくなると思いますが。NPOVの問題はありますが、それは後回しということで。--Pugnari 2006年11月7日 (火) 07:18 (UTC)[返信]

芸大一般への移動は不味いと思う。他に移動できる項目があるかもしれません。一連のやり取りを見ると、タグを貼っているほうが荒らしているとしか思えない。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 07:33 (UTC)[返信]

なぜマズいのですか?--Pugnari 2006年11月7日 (火) 07:38 (UTC)[返信]

今の芸大生にとっての問題ではなく、過去の芸大生にとっての問題なので。あ、そだそだ。中立的な観点ってのがあるんだけど、どうすれば中立的に出来るのか教えてほしいくらいだ。たとえば政治で右翼よりか左翼よりかというのは、「中立性」が問われる。けどね、芸大アカデミズムの特徴を例示して、別に誹謗も中傷も何にもないのに、なにが問題?「トータルセリエルを通過していないから、音程の跳躍に制限がある。」これを、どう書き換えると中立的になるのか、教えてほしい。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 07:42 (UTC)[返信]

過去の芸大の音楽教育に関することであっても、それは東京芸術大学に関連する事項なのですから、今現在だってあなたが東京芸術大学にリンクをはってらっしゃらないことが不思議なぐらいです。なにか政治的な問題でもあるのですか。過去のことを論じてはならない、というルールがあるのなら教えてください。
NPOVについてですが、「トータルセリエルを通過していないから、音程の跳躍に制限がある。」というimplicationが論理的に妥当なものなのかという問題はありますが、まあこれはNPOV違反にはならないでしょう。問題になるとすれば出典の方です。僕が言っているのはたとえば、
  • このアカデミズムで個性を粉砕されるのが日本の慣例となっていた。
  • 替わって超グローバルなダルムシュタット・ショック等が
  • アカデミズムが現地で猛威を振るう
  • 1980年代生まれの若手にまで、悪影響が微かに及んでおり
のあたりです。「当然の話だが、このアカデミズムを駆使して質の高い作品を残している作曲家がいないわけではない。」とは書いてあっても、これらの要となる表現や、全体の論理構成(論旨)によって、あなたが「芸大アカデミズム」と名付けた潮流を、この記事では悪いもの、ダメなものだと価値判断を下していることになります。これがNPOV違反です。上記表現に関しては少なくとも「没個性的な作品を生み出す」「世界的に認知された」「芸大アカデミズム的書法がこの講習会で見られることはない」「その影響が及んでおり」等に修正されるべきでしょう。
NPOVは個々の表現だけでなく、記事の論旨全体にも及ぶルールです。ここに書かれた文章を読んだとき、それが正しいか否かは別として、そこで下されている価値判断が筆者自身のものであると疑われてしまう限り、それはNPOV違反にあたると言えます。NPOVは文章力と論理力を要求するといういみで、すべての執筆者にとって難しいルールだとは思いますよ。WP:NPOVをもう一度読まれてはいかがですか。--Pugnari 2006年11月7日 (火) 08:02 (UTC)[返信]

芸大の音楽教育、って項目名はどうかと思うが100年以上の歴史を全て網羅する項目にするのなら、そっちに統合したほうが良いかとも思う(削除じゃないよ)。言語表現くらいは直しても良いと思う。でも、それは瑣末な問題であって、この記事の主張を修正する云々とはあまり関係がない。そちらでも直せる範囲内。で、修正依頼を勝手に出すのはOKなんですか?しかも、楽理科への批判なんて一切ないのに、「あった」ときめつけるのもOK?--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 08:09 (UTC)[返信]

NPOVは全体の論旨にもかかわりますから、個々の表現のみならず、記事の主張、論旨が一方的な批判であれば、これを改めなければなりません。客観的な事実の積み重ねであっても、そのつなぎ合わせ方によってはWP:ORになりますし、WP:NPOV違反にもなります。もちろん個別的な表現を直せばよりNPOVに近づくのでしょうが、私が見るところNoda,Kentaro氏が「芸大アカデミズム」と名付けるものを一方的な批判を意図してこの項目を作成されたように解釈できます。もしそうならば、私はその論旨に同意していないので、私自身が積極的にこれら表現をNPOVに改めることはありません。そして最大のNPOV違反が「芸大アカデミズム」という項目名だと思っていますので、まずは移動を提案しているわけです。
芸大の音楽教育、楽派形成とその影響について批判だけでなく正しく論じるのであれば、「100年以上の歴史を全て網羅」して、その影響についてさまざまな視点から記述していくのが正道なのでしょうから、ぜひそうしてください(私自身はあまり興味はありませんが。言い回しの修正とか書式なんかに関してなら助言できます)。削除依頼に関しては、私の会話ページでも返答いたしましたが、対話によって間久部緑郎さんを納得させるのが筋道だと思います。--Pugnari 2006年11月7日 (火) 08:22 (UTC)[返信]

野田先生とのやりとり

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  • 利用者ページにおいて、野田憲太郎さんから次のようなご高説を承りましたので、さっそく管見をまとめておいたところ、当方の指摘を受け入れたのか、「音楽学」の節をまるごと無き物になさったようです。間久部緑郎 2006年11月7日 (火) 16:45 (UTC)(Noda,Kentaro2006年11月7日 (火) 20:13 (UTC)の発言が割り込んだため署名付記。Aotake[返信]

まるごと消したのは「別人です」。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 20:13 (UTC)[返信]

他人の批判を受け入れるという姿勢は、確かに感心させられましたが、そもそも、後になって証拠隠滅を図るようなことがらなのであれば、最初から書くべきではなかったのです。このエピソード自体、いかに野田さんが冷静さを欠いた状態で「芸大アカデミズム」というページに書き込みを続けているか、そしていかにタップリの思い入れで執筆しているかが明らかでしょう。わたくしはPugnariさんほど人間が出来ていないので、野田さんの書き込みをここに移動し、(野田さんの好きな言葉を使うなら)「晒し」ておこうと思います。ついでに言うと、注目すべきことに、この記事に東京芸大への攻撃文が含まれていることを、図らずも自分で認めてしまっています。面白いですね。---間久部緑郎 2006年11月7日 (火) 16:45 (UTC)誤字修正---間久部緑郎 2006年11月7日 (火) 16:48 (UTC)[返信]

これは芸大への攻撃じゃないし、あんまり言いたくないですが母校の作曲科でもおおむねこうでした。だから検証する目的があるのです。多くの先生方の退官により、このアカデミズムがそろそろ消えようとしているからこそ、記録に残すべきと考えます。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 20:16 (UTC)[返信]

== 楽理科への ==

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攻撃だけひとまず消します。芸大アカデミズムは現時点でも、主に「作曲」の話題です。演奏に関しては、最近マスタークラスや公開レッスンで正しい演奏法を聴講することが多いゆえか、あまりひところより聞かれなくなりました。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 02:24 (UTC)[返信]

根拠云々ですが、ユリイカのブーレーズ特集号と中村紘子著「チャイコフスキー・コンクール」に作曲とピアノ演奏の実態が事細かに述べられております。出典を再三にわたって出しているにもかかわらず、独自の研究と決め付けるそちらに悪意を感じますが。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 08:20 (UTC)[返信]

残念ですが、『チャイコフスキー・コンクール』に限らず、中村紘子の著作が、学術論文の参考文献として通用するかどうか、確認することをお勧めします。中村紘子に限らず、吉田秀和宇野功芳(あるいは以前なら矢野暢)など、斯界で著名人とか一流とされる人の評論文を、(研究や調査の対象としてではなく、)楽書として用いた研究で、まともな研究だと認められた例があるかどうか、確認なさってはいかがでしょう。論文の執筆で大事なのは、出典や文献があるかどうかではなく、「どのような文献を用いたか」なのです。ふつう、研究書や論文ではなく、エッセイや読み物を文献や判断の補強材料に用いることは、学問の世界でなら笑いものになっても致し方ないものですが。辞書の記事や項目も、一種の論文のようなものという意識が野田さんには足らないのではありませんか。(そもそも、芸大アカデミズムという項目のある音楽辞典があるかどうか、そこから話を出発して欲しいものですね。それから、中村紘子が他人のピアニズムを云々できるほど、国際的に通用するピアニストかどうかというのもありますが、ま、それはPOVになりそうですから止めときましょう。)---間久部緑郎 2006年11月7日 (火) 09:59 (UTC) ---一部修正しました間久部緑郎 2006年11月7日 (火) 10:07 (UTC)[返信]

もちろん、彼女の著作が全て善だとは言い切れません。しかし、あの井口門下生辺りの奏法の批判は、明らかに芸大生の弾き方を指しており、長らくタブーであったことは明らかです。ぜんぜん、答えになってないね。楽理科への攻撃なんてやってないのに、やったことにするなんて。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 20:08 (UTC)[返信]

もし「悪意がある」というなら、今の今まで東京藝術大学に攻撃を加え続けてきた野田さんの執念こそ、「悪意がある」と言わざるを得ません(だいたい「芸大」って東京藝術大学だけのことですか。その定義もありませんね)。繰り返しますが、東京藝術大学の欠点ばかりを殊更にあげつらうのは、明らかに偏っており、公平性を欠いています。また、東京藝術大学だけを問題視するなら、ほかの(少なくとも芸術系)大学の「アカデミズム」や「象牙の塔」ぶりについても記事を立てるべきでしょう。それが出来ないのなら、野田さんの芸大への個人的な偏見や先入観があのような記事を書かせたのだと言われても、まったく仕方ありません(『ユリイカ』の執筆者もそう言っているというのは、単なる強弁にすぎません)。それから、他国語版に芸大アカデミズムに該当する記事があるかどうか、もしあるならば、日本語版のような偏った内容になっているかどうか、それも確認すべきです。野田さんの執筆した記事や項目に「論拠」や「出典」を要求する(人がいる)のは、それは野田さんの記事を改善して欲しいから、そのように提案しているだけのことであって、それにいちいち目くじらを立てて「悪意を感じた」というのであれば、今後は野田さんがおかしな記事を立てたり執筆したら、そのつど削除要求をしたり、大幅に(なおかつ野田さんの意図に反するかたちで)書き換えるしかないですね。---間久部緑郎 2006年11月7日 (火) 09:59 (UTC)[返信]
さらに一言。「攻撃はひとまず消す」とありますが、この一文は攻撃ではないのでしょうか。「芸大の音楽学の教授には、査読できる人間がいない」というのは、たとえウィキペディアに東京藝術大学の教授名の一覧が書かれていないとしても、誰がそこの教官なのかは調べれば明らかなことなのですから、立派な誹謗中傷罵詈讒謗になり得ます。心得ておいたほうがいいですね。問題は「出典」だけではありません。「中立性を欠いていること」もあの項目の問題なのです。---間久部緑郎 2006年11月7日 (火) 09:59 (UTC)[返信]

攻撃じゃないです。おかしいと思うのなら、芸大の紀要に、ヒュー・デイビス、マレク・ホニェフスキ、ゴードン・モナハン、マイケル・ピサロらの名前を調べて御覧なさい。誰一人載ってないから。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 20:08 (UTC)[返信]

これだけ多弁になるということは、不当に攻撃したということだよね。うそつきや犯罪者ほど多弁になる。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 20:08 (UTC)[返信]


== 音楽学 ==

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現時点で芸大の紀要には、ヴァンデルヴァイザー楽派Audio-Artについての積極的な論考が一切掲載されていない。それは、「査読できる教授が存在しない」からである。

これは楽理科への批判ではなく、「査読可能かどうか」といった事項への客観的事実である。にもかかわらず、この「芸大アカデミズム」という記事全体に事実誤認の修正依頼を出しているユーザーが一名存在している。それはなんらかの公的な圧力が働き、誤認してまでもこの記事を修正することを義務付けられている可能性がある。証拠に、そのユーザーの誤りを正すユーザーが誰一人存在していないばかりか、誤りを正そうという気配すらない。間久部緑郎 2006年11月7日 (火) 16:45 (UTC)の投稿による転載ここまで。Aotakeによる付記。[返信]

  • 野田さん、『この「芸大アカデミズム」という記事全体に事実誤認の修正依頼を出しているユーザーが一名存在している。』というのが、もしわたくしに対する当て付けなのだとすれば、勘違いも甚だしいですよ。あまりにバカバカしいので、思わず失笑してしまいました。その後の文面も含めて、野田さん(とオマケの菅野さん)が「言論の自由」を、「妄想の自由」「責任放棄の自由」とはき違えている連中なのだということは、これでよく理解できました。--間久部緑郎 2006年11月7日 (火) 17:00 (UTC)[返信]

もう一回

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  1. 聞くけどさ、私が示したユリイカなどの文献はお読みになられました?それが「出典」です。読んでないのに、「出典がないから修正しろ」「独自の研究」と言い張るのは、何か理由でもあるのですか?--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 20:18 (UTC)[返信]
  2. 中立性という点も、アカデミズムの特徴を列挙しているだけなので、誹謗や差別ではない。商品の欠陥を指摘するのと、一緒。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 20:42 (UTC)[返信]
  3. あと修正依頼。何度も断るが楽理科への攻撃はない。しかも、「攻撃があった」と間久部氏が証言した時点で、音楽学の項目はない。あとで、間久部氏の意向に沿うように音楽学の項目を補足している。依頼の仕方だけは変えてほしい。事実誤認なんだから。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 20:42 (UTC)[返信]
  4. もっと酷い事をばらすか。野平さんのコメントは秋吉台のセミナーで発されたものだったのですが、そのコメントを聞きに来た管理側住人は果たして何人いらっしゃるのですか?もし一人でもいれば、「検証可能」ですな。--Noda,Kentaro 2006年11月7日 (火) 22:10 (UTC)[返信]
  5. 今回は前回と違い、「出典に目を通していないものが、定期的にタグ貼りを行うという悪質な荒らし」です。場合によっては管理権限の剥奪を要求します。--Noda,Kentaro 2006年11月8日 (水) 04:59 (UTC)[返信]

まず最初に、私が主張しているのは、

  1. (出典問題)「芸大アカデミズム」という語を当該記事のような文脈で用いた例が文献上に存在しているのか、という問題。目下議論になっている「ユリイカ」の記事などに「芸大アカデミズム」という言葉が登場しているか否かという問いに対しては、「はい」か「いいえ」かどちらかで答えることができるはずです。それができないのなら、「芸大アカデミズム」を芸大の音楽教育の批判のために用いていることが検証できないので出典を明示したとはいえません。出典の問題については、あくまでもその記述を保持しようとする側に証明の責任があるのだから、自分が「出典」としてあげている文章を読んでいないのに発言するな、というのは本末転倒な発言ではないですか。
  2. (中立性問題)「芸大アカデミズム」という項目の立て方そのものが芸大の音楽教育批判のPOVに基づいており、NPOV違反であるとかんがえています。芸大で教えられている作曲語法が保守的であろうが非前衛的であろうが、それを前衛主義なり何なりのある一定の批判的な観点から記述するならば、それはWP:NPOVに違反しています。もし、この記事を残したいのであれば、記事を中立的な立場に置かねばなりません。たとえば、「芸大和声」には前衛主義の立場からは批判もあるのでしょうが、芸大和声による教育のもたらした利益も十分に記述すべきでしょう。--Pugnari 2006年11月8日 (水) 06:14 (UTC)(Noda,Kentaro2006年11月8日 (水) 06:44 (UTC)の発言が割り込んだため署名付記。Aotake[返信]
芸大和声は、前衛主義の立場でない人からも、多くの苦情が寄せられております。AMAZONのレビューにも、問題点が書かれていますが、お読みになられましたか?単純に、芸大和声の文献に目を通していない人がいらないことを言わない。--Noda,Kentaro 2006年11月8日 (水) 06:44 (UTC)[返信]
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大雑把に言えば芸大和声に利点は完全に勝つ隅々まで「独学」できる最良の教科書でしょう。欠点は余りにも詳しく厳しい為にその語法が身の隅々まで行き渡り、真の自由な現代音楽が書けなくなるという事でしょう。これは何回か海外の講習会に出席したぐらいで治らないのは自分で散々経験しています。それぐらい強力な作曲書法かつ音楽理論であった事はここで言っても良いと思います。その原因はそれを教える教官の責任ではなくて、日本国そのものが昔から一種の鎖国状態である事、それに同時に外国語の習得の未熟さにより、池内氏以降の欧米音楽の語法並びに理論の輸入が事実上途絶えた事でしょう。日本人のイサン・ユンのベルリン学派は10人もまとめて出てきたのは、その師がドイツ語より流暢に日本語でレッスンできたせいである事を、名前は出しませんが当時の留学生は告白しています。
Kanno,10.11.06, 23:50以上の署名の無いコメントは、195.93.60.3(会話履歴whois)氏が[2006年11月10日 (金) 22:50 (UTC)]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。[返信]

たとえば、東大や京大が腐敗完了を多数輩出したから、東大や教大の教育は悪いものだ、と主張する百科事典がどこにありますか?笑止千万です。芸大和声なんて百害あって一利なしだ、との主張、あるいはそのような観点から記事を執筆すればその辞典で明々白々たるNPOV違反なのです。ですから、このNPOV違反を正すためにまずは記事の移動を提案しているのです。--Pugnari 2006年11月8日 (水) 06:14 (UTC)(Noda,Kentaro2006年11月8日 (水) 06:44 (UTC)の発言が割り込んだため署名付記。Aotake[返信]

私はアカデミズムが悪いとは一言も言ってません。ただ「特徴を呈した」だけです。--Noda,Kentaro 2006年11月8日 (水) 06:44 (UTC)[返信]

の2点を是正することです。これらに対して明確な結論が得られるまでは、少なくとも私が記事の中立性、出典問題に疑義を提出していますので、それにふさわしいテンプレートを貼付します。ノートページで合意が形成される前にテンプレートを剥がすことはここにも記載されているように荒らしと見なされます。修正依頼に関しても、Wikipedia:修正依頼が取り下げられない限りテンプレートを剥がすのは不当だといえます。--Pugnari 2006年11月8日 (水) 06:14 (UTC)(Noda,Kentaroの2006年11月8日 (水) 06:44 (UTC)の発言などが割り込んだため署名付記。Aotake 2006年11月11日 (土) 07:00 (UTC)[返信]

テンプレを貼る事で管理側に近づくポイントが上がることは知ってますが、貼る根拠が薄弱。前回の削除テンプレRVと違って、「出典になんら目を通していない」人々がタグを貼るのは不公平では?まぁ一部の人々からは「出典を読まない奴らと関わるな」という声も上がっていますが、一応素人連中にも同じ態度で接するのが私のやり方。--Noda,Kentaro 2006年11月8日 (水) 06:44 (UTC)[返信]

次に、Noda,Kentaroさんが往々にして口にされる「管理側」とはだれのことですか?なにを根拠になにをさして言っていらっしゃるのかわかりかねますので平易かつ明確に回答願います。さらに、「出典に目を通していないものが、タグ貼りを行う」ことが荒らしに相当するというのは何を根拠に言ってらっしゃるのかわかりかねますので、その根拠となるガイドラインもしくは公式方針などを提示していただけますでしょうか。さらに、私のこの記事項目名、記事内容に対する疑義の2番目は出典になるとおっしゃっているユリイカの記事に目を通そうと通すまいと関係のない事項であることをリマークしておきます。--Pugnari 2006年11月8日 (水) 06:14 (UTC)←ほらね。読んでないからこんなことがいえる。--Noda,Kentaro 2006年11月8日 (水) 06:44 (UTC)[返信]

まぁそんなに多弁を労する暇があれば、該当文献を読破して来い。--Noda,Kentaro 2006年11月8日 (水) 06:29 (UTC)[返信]

あと

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合意が必要とかいうが、出典に目を通さないものが勝手にグループを組み、合意を要求することが出来るのか?誤った修正依頼を出すユーザーになんら反省の色が見られないのはOKなのか?あと、野田先生とかいう名称もやめてよね。管理側は利用者に向かってかってに呼称を変更することも出来るのか。--Noda,Kentaro 2006年11月8日 (水) 06:39 (UTC)[返信]

あなたが他のユーザーに命令口調で物を言われるので「先生」となってしまうのではないですか。その大上段で不遜な態度が記事本文にも表れているから問題なのです。「芸大和声」に苦情がある事はとっくの昔から、存じています。その点には私は異論を唱えていません。しかし、この項目はあなたが「特徴をあげている」と仰いますが、実情は「悪い特徴をあげている」のですから、これはNPOV違反なのです。あなたがあげた出典とやらにも時間が出来たら目を通すと言っているじゃないですか。問題にしているのはその出典だけではないのです。出典出典と連すればいいというものではないのはNoda,Kentaroさんもご存知でしょう?--Pugnari 2006年11月8日 (水) 10:51 (UTC)[返信]

両者ともにWikipedia:議論が白熱しても冷静にWikipedia:個人攻撃はしないを熟読し冷静になって話し合ってくださいますようお願い致します。--Snow steed 2006年11月8日 (水) 10:57 (UTC)[返信]

僕が思うには正確に言うと「芸大アカデミズム」そのものの語句はほとんど存在しなかったというのが事実でしょう。しかしそれに相当する語句が昔からあったのは確かで、「芸大様式」とか「芸大方式」・「芸大メソード」などがそれに当るでしょう。今は誰でもここに書き込めるインターネット時代になったからこそ出てきたまたは「造語」された言葉だと思います。ここの項は誰かがそう名づけて書いてしまったものだから支持したまでですが、もちろん「芸大アカデミズム」賞賛もしませんが攻撃する意図もないです。現実にあると言いたいだけです。しかし僕は野田君とは完全に独立して書いています。証明は不可能ではないですが楽譜などがどうしても必要になり証拠が膨大な数になる可能性はあります。また途中に誰かが「卒業できなかった」と言う部分がありますが、多分言いすぎかもしれません。作曲家ならば誰かしら芸大を祖先とする作曲の先生に習っているはずで、自分の経験ではそのスタイルは確かに存在するが強制の領域までは行ってなかったのが本音です。ただし卒業試験の採点などはどうしてるのかはわかりません。議論は何時までも歓迎です。特に締め切りはないのだからみんなが完全に納得するまで続けるといいです。 Kanno, 2006.11.10,23:36以上の署名の無いコメントは、195.93.60.3(会話履歴whois)氏が[2006年11月10日 (金) 22:36 (UTC)]に投稿したものです(Aotakeによる付記)。[返信]

中立性や、文献の渉猟不足などこれまでに出た問題点を抜きにしてもなお、この項目には大きな問題点がいくつかあります。一つだけ書きましょう。執筆者は「東京藝術大学(芸大)の音楽学部の卒業者の演奏及び作品の傾向」を芸大アカデミズムととらえているようですが、にしては、非芸大卒の演奏や作品とを比較して論じることもないし、後の記述からは、最初に書いた定義を自ら反故にしているものとしか解釈できません。
>日本の楽譜と海外の楽譜を分析し比較
>全国の音楽大学や音楽教育大学においても芸大の教科書が部分的に用いられていたので、どこの地方でも結果は同じであった。
>ミキモト・タッチとよばれる奏法がピアノ業界を多い尽くしていた
本文を読むかぎり、私としては「日本の音楽家に一般的に見られる演奏および作品の傾向」と定義しなおすのが妥当だろうと思いますが、執筆者にとっては、芸大卒に限ることに何らかの意味を見出しているのかもしれません。ちなみに、最初の定義を日本の著名な作曲家にあてはめた場合、たとえば伊福部昭は「芸大アカデミズム」に該当しないことになります。東京音楽学校で教鞭をとったこともあれば、『管弦楽法』を出版し、それが日本の音楽界で長く使われた。そして、彼は黛敏郎、矢代秋雄、三木稔など多くの作曲家を育てた(「伊福部楽派」と呼ばれることもある)にもかかわらず、伊福部は北大卒だからです。Nattilv1 2006年11月13日 (月) 03:21 (UTC)[返信]

もちろん伊福部は北大卒です。しかしながらこの日本で育った限り似たような和声学や対位法を仕込まれ、ほぼ毎週のように日本の同僚・先輩達の音楽を聴き楽譜をアナリーゼしてて育ったことでしょう。当時は西洋音楽のほとんどの輸入元は日本で一番古い音大の芸大もしくはそこの先生ですね。このような中央集権社会の国で何らかの形で芸大またはその先生のフィルターを通さないで育った作曲家は皆無でしょう。独学の作曲家に武満がいますが特に現代アカデミズムとはいいませんが、でもそれに近い意味でも日本的ですよね。彼でも当時は諸先輩の楽譜を研究して自分の語法に取り入れた物と思われます。従って日本のの誰でも多かれ少なかれ何らかの形で(言葉は悪いけど)「芸大的な」感化を受けてしまうと言う事です。もちろん影響はそれだけではないのですが、例えばNHKという放送局。日本でたった一つの公共放送であり、現代音楽を流す事のできるこれまたたった一つの放送局であるわけです。マイコンや現音などのライヴ放送はほとんどこの放送局からのみ聞くことが出来ます。これを「芸大アカデミズム」と決して呼ばせないとしても、日本で現代音楽を学ぼうとしている作曲家たちはある意味で画一的にその情報を享受し勉強させられると言っても過言ではないでしょう。同じような事は音友や全音などの出版社などにもいえますが、ここでは「芸大アカデミズム」の本来の主旨からは遠くなるので割愛しますが、要は作曲科生の日本で受ける情報がどうしても一様に限られていると言う事です。Kanno,14.11.06, 23:30

伊福部先生が、東音パルス楽派の、祖です。--125.205.219.20 2006年11月17日 (金) 08:16 (UTC)[返信]

日本で育った作曲家全員が「芸大アカデミズム」に影響されているのだ、という見方はこれはこれで一つの視点なのですが、音楽界に存在するいろいろな「主義」(イズム)の中で、この用語だけを過大に持ち上げているようにも見えます。芸大に行かなかった作曲家でも、ロマン主義に分類される作曲家および作品に数多く接してきているはずですし、それらに強く影響された作曲家に学んだ人たちも多いことでしょう。だからといって「日本のほとんどの作曲家がロマン主義に毒されている」などという言い方が成り立つかどうか。もし成り立つとして、ロマン主義を「古典主義」「印象主義」「民族主義」など音楽史を飾るさまざまな用語に言い換えて、同じ言い方が成り立つかどうか――。これらがみな成り立つとすれば、芸大アカデミズムという用語で日本の音楽界を語ることの限界が見えてきそうです。ともあれ、執筆者と菅野さんとの間で「芸大アカデミズム」という言葉の指すところは異なっているようです。Nattilv1 2006年11月17日 (金) 09:30 (UTC)[返信]

異なるのは当たり前でしょう。--125.205.219.20 2006年11月17日 (金) 15:23 (UTC)[返信]

そのとおりちょっと概念が違います。完全に独立してますから。彼とはまだ一回も合った事は無いですが、野田君は私とは恐らく全く別な人間でしょう。自分の場合はちょっとぐらいの意見の相違があっても大方納得ができればそれでOKします。Kanno,3.12.06, 0:33

Noda,Kentaroさんの指摘されたユリイカ27-7号(1995)の記事を見てきました。どれほど出典としてふさわしい記事かと期待していましたが、この松平頼暁氏の記事は54ページから55ページの見開きの短い記事で、読破もなにもないエッセー的な文章でした。日本において「前衛」が普及していない状況を嘆いているような内容に読めますが、文章のどこをどう見ても「芸大」のゲの字も出てこないし、「前衛」が軽んじられていることを芸大の和声・作曲の教育と結びつけて論じているわけでも、当然、ないわけです。そういう記事を「出典」だと主張されることから、この記事におけるNoda,Kentaroさんの論拠がやはり非常に乏しいのではないかとますます疑ってしまいます。
やはりそもそもこの「芸大アカデミズム」という名の下に書き起こされた記事でやりたいことが何なのか、文章を読んでも理解できません。Nattilv1さんがおっしゃるように「『日本の音楽家に一般的に見られる演奏および作品の傾向』と定義しなおすのが妥当」なのですが、そうするとこれは百科事典の一項目としてふさわしいものなのかはなはだ疑問です。もし「芸大アカデミズム」という項目名の下に「日本の音楽家に一般的に見られる演奏および作品の傾向」を論評したいのであれば、それはWikipediaでするべき仕事ではありません。検証可能な内容であればWikibooksにでも、また、現在の当該項目のようにある種の検証可能な事実を交えているとしても結局は主観的な意見表明をされたいのであれば、どこかにウェブサイトなりブログなりを立ち上げてそこに書かれたほうがよいのではないかと思えてなりません。--Pugnari 2006年11月18日 (土) 05:13 (UTC)[返信]

あれは、短いエッセーではありません。短い警句といっても良いくらいの、優れた指摘であったと思います。何とかかれていましたか?「前衛の真理は永遠ではないと決め付ける」人々について、批判がなされていたことを読み飛ばされたのですか?--125.205.219.20 2006年11月18日 (土) 08:49 (UTC)[返信]

「前衛の真理は永遠ではないと決め付ける」といった短絡的な書きかたはされてないような気がします。それはよいとして、「前衛の真理は永遠ではないと決め付ける」ことに対する警鐘が、「芸大アカデミズム」のどのような意味での出典であると主張されるのですか?まったく理解に苦しみます。WP:Vをもう一度だけゆっくりと一字一句読まれてはいかがですか。--Pugnari 2006年11月18日 (土) 09:28 (UTC)[返信]

「芸大アカデミズム」は俗語の一種です。従って本などの根拠はありません。しかしこの語句をWikipediaに載せるのは賛成です。この百科事典では「性器」の項などにこういう俗語の項目がありそれぞれ認められているからです。命名が正しくないのかもしれませんが、言おうとしていることは問題なく理解できます。Kanno,18.11.06,22:46:33

俗語」ではなく「隠語」でしょう。たぶん、「東京芸術大学で見られる芸術活動の保守的傾向を揶揄していう言葉」とでもして、ウィクショナリーにでも載せて、ここの本文はそっくりそのまま、Pugnariさんの言うように、個人のホームページにでも移動させたら良いのではないでしょうか? --Basilico 2006年11月18日 (土) 23:34 (UTC)[返信]
Pugnariさん、文献の確認ご苦労様でした。論文ではなく、中村紘子の読み物を「参考文献」や「出典」として挙げている時点で、なんだか怪しいなと思っていたのですが、またしてもそちらの出典も短い散文とのことでしたので、やれやれといった感想を抱いています(雑誌論文でさえなかったとはね)。「芸大アカデミズム」が俗語でも隠語でもどちらでも構いませんが、もしこの調子で項目の恣意的な濫立が許されるなら、メンコンやショスタコ、マラ9といった項目もさぞかし必要であるに違いありません。---間久部緑郎 2006年11月19日 (日) 13:11 (UTC)[返信]
俗語でもい隠語でも良いです。メンコンやショスタコ、マラ9と言うようは略語はまだ定着してないように思えます。例えばショスタコを単にショスタとかタコとかタコちゃんという人もいるからです。もしこういう項目を作っても本来の正式な名称を書き込むだけで良いでしょう。流行語等を書くべきかどうかはまた別問題の事に思えます。Kanno, 2,12,06, 17:31

結局

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はっきりしたことは次の2点。「芸大アカデミズム」という項目の必要性を訴えているのが野田氏と、それを支持しているのが菅野氏。どちらも作曲家であると公言している人物であるということ。それに対して、「芸大アカデミズム」の必要性に疑念を差し挟んでいるうち、自分が職業音楽家であると公言している人は一人もいないということです。

つまり、「芸大アカデミズム」の問題が作曲界の問題だと作曲家の野田氏が言い切って、それを作曲家である菅野氏が支持している以上、「芸大アカデミズム」という項目そのものが、きわめて党派的・楽壇政治的な性格を帯びたアジテーションになっているのであって、中立性や客観性を担保する努力は最初からなされていないし、(執筆者が固定化されつつある現状においては)なされようもないということは自明の理であります。であるからには、この項目は、明らかにウィキペディアにおいて不要であり、即刻削除の上で、白紙保護にすべきでありましょう。 ---間久部緑郎 2006年11月19日 (日) 12:55 (UTC)[返信]

追記:反芸大の怨念をここまで貫くエネルギーというのは凄まじいものですね。東京で主流になることの出来なかった田舎者の僻みだと言ってしまえばそれまでのことかもしれませんが。(野田先生がえげつない表現を使っても、「管理側」が放置するので、このような言い回しもOKであり、POVにならないと思ってこのように書きました。)---間久部緑郎 2006年11月19日 (日) 13:01 (UTC)[返信]

「芸大への怨念」じゃないですね、そうじゃなくて日本作曲界への一般的な特徴でしょう。先にも書いたとおりに「芸大アカデミズム」じゃなくで他の言葉に変更するのをためらうの事はないです。例えば「日本アカデミズム」でも良いです。彼(野田君)の命名の仕方がいつも不自然であるのは認めます。しかし項目の豊富さは彼のを買っています。要するにこちらは間違いだけを直すのに関心があります。彼(野田君)の記述も完全であるとは思いませんが完全ブロックは残念です。Kanno 1.12.06、18:02

追記:何度も書きますが、例えば私は野田君のコンクールの記事や作曲家の時代区分・命名の仕方などについてはほぼ反対しております。同じ意見もありますが反対意見のときもあります。これを「独立した思考」と呼びます。また芸大とはもともと何の関係もありません。同じ意見の場合は場所は違いますが同じ海外で勉強したからでしょう。国内だけで勉強した場合とちょっと違って見え、偶然に一致する事があるのは確かです。Kanno,3.12.06,0:18

保護解除について

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修正依頼されており、削除依頼すべきとの意見もあることから、Wikipedia:保護解除依頼しておきました。--Lemon pie 2006年11月19日 (日) 13:33 (UTC)[返信]

削除依頼であれば、保護解除しなくても提出できます。依頼サブページを作ってからWikipedia:管理者伝言板で依頼タグの貼付を依頼すればOKです。--hashikure 2006年11月19日 (日) 13:49 (UTC)[返信]

消すのはもったいない『芸大』で嫌なら「日本アカデミズム」にでも変えて残しておいた方が良い。Kanno,3.12.06,21:22

好き嫌いといった感情的な問題ではなく、道義的・倫理的に許されるかどうかの問題なのです。「日本アカデミズム」という項目名でことさら日本の作曲界のことだけ取り上げるというのもどういうものでしょうかね?--間久部緑郎 2007年1月11日 (木) 13:33 (UTC)[返信]