ノート:花窟神社
Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない --Hiyotchi(会話) 2021年2月25日 (木) 11:21 (UTC)
記事について
[編集]歴史や神の記事と異なり、現在も地域に根差す神社については、(一部を除き)由来、祭神、現在の様子等を簡潔にまとめる記事が多く、当記事もそれに倣うのが望ましい。
Wikipedia:過剰な内容の整理より、「特に検証不可能であったり、事典的ではない記述が文章を冗長にする場合」について不要な記述を削った上で文章を繋ぐべきとある。
また、花窟神社の記事については神社に関連する内容を中心に記述されるべきであると、こちらは考える。(閲覧者のため)
(例) 1.祭神伊邪那美についての「花の窟とならんで陵墓とされる比婆山の比定地」の記述があるが、伊邪那美や比婆山が中心になり過ぎている。(当記事の概要に記述するべきではない。元のように付け加え程度の記述が妥当ではないか)
2.巨石等について地質年代、岩類を記述するが、これらについては元記事の記述を変更しなくても簡潔に付加すれば良い。(これについては花窟の境内の植生についても同様である)
3.「中期の僧増基の紀行『いほぬし』(「草庵|庵(いほ)の主(ぬし)」の意」とあるが人物についてや、中世以後の仏教的方面の記述、『熊野独参記』『其浜ゆふ』『熊野詣』『紀伊続風土記』の例は『日本書紀』の記述と重複しており内容を一つ一つ記述するのは冗長である。(花窟が上記の司書に現れる旨を記述する方が簡潔ではないだろうか)
4.複数出典がある内、 桐村英一郎、株式会社 七月社HP「海の熊野」から「山の熊野」へ/桐村英一郎 Posted on 2020年6月2日より、「定年後は生まれ育った東京を離れ、関西で古代史に挑戦しよう」とあるように本来は専門分野ではない。 谷口智行、俳人協会会員 日本文藝家協会会員 大阪俳人クラブ会員であり、著書も句集 エッセイ集が多く、エッセイ集『熊野、魂の系譜』(H26)評論集『熊野概論 熊野、魂の系譜Ⅱ』(H30)である。 扶桑社新書 熊野から読み解く記紀神話―日本書紀一三〇〇年紀についても、著者は上記の様な人物の著書であり、学術的というよりは市販の書籍(娯楽、エッセイ的)である。
細かく指摘すればもっとあるが、これらの出典は2での『日本地質学会「県の石」』等の文献等とは全く異なり、個人的見解を多分に含む。無批判でこれらを用いる事はウィキペディアの「中立的な観点」にそぐわない。冗長な文は概ね上記を参考文献にするところが多い。 「花窟神社」の記述にあまり関係のない信仰の解釈や祭神についての記述でもあること(あくまでも神社の記事であり、祭神等についてはそれぞれの記事で既に詳しく述べられているという場合もある)、 中立的でない文献(特定の著書)でもあり、学術論文等と異なり複数の立場からの意見がそもそもなく、多方面からのバランスも正確にとれないため、独自解釈は省くのが望ましいと考えられる。
Hiyotchi氏に対し、こちらは元記事に付加する形が望ましい記述であるとした上で、差し戻しをしたが、要約欄にその都度、理由を説明したつもりであるが、Hiyotchi氏は乱暴や理解不能等と一切対話を拒否しているようである。
Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない 「この文書の要旨: 自分の意見が正しいと思っても、その意見を通すために何か別の問題を起こしてはいけません。自分の意見を率直に述べて議論するなど誠実に行動してください」 とある。こちらは要約欄において差し戻し理由を説明しており、不満があれば議論にも応じるとしたが、特にHiyotchi氏から反応はない。
合意形成のための議論でもあるため、当方としてはあまり神社記事に現状加筆が必要とは思わないが、中立的な出典のある岩類、植生等の記述や文献名を簡潔に元の記事に付け加える形にする事は否定しない。これは既に要約欄でも述べている。 Guru4871(会話) 2021年2月25日 (木) 14:25 (UTC)
- Wikipedia:過剰な内容の整理より、「特に検証不可能であったり、事典的ではない記述が文章を冗長にする場合」について不要な記述を削った上で文章を繋ぐべきとある。と、それを引用しているが、それを理由に全部ばっさりいきなり差し戻して、部分・個所を判断せずにすべて消去する。その上で自分が良いと判断できるものならまた加筆を認めてあげてもいいといった内容が記されている。これは乱暴で当方には理解できない。内容個所などを編集すれば良い。その能力がないのか全て不要な記述として消し去ることを正しいことだとして、その理由を長々と言って正当化するような人とどう議論するというのか。--Hiyotchi(会話) 2021年2月25日 (木) 21:27 (UTC)
差し戻しでずいぶんご立腹のようで。 まず内容個所などを編集すれば良い。とあるが、 Wikipedia:信頼できる情報源には、 「情報源のないまま、あるいは不適切な情報源に基づいた編集を行うと、異議を申し立てられたり除去されたりすることがあります。ときには、情報源のないことを書くよりも、何も書かない方がいい場合もあります」 ともあり、場合によっては除去されることもあるだろうから、「全て不要な記述として消し去ること」は各々の編集者の判断である。 まず、こちらは差し戻しの前にHiyotch氏の出典を確認し、より中立的な文献はないか探したが確認できなかった。また加筆部が冗長であり時系列や項目に統一性がなく「花窟神社」の記事としては、元記事の方が良いと個人的には考えた。(既に要約欄でも述べているが)
しかし、加筆者にはそうでない情報でもあろうと、どうしても必要ならば(あるいは加筆がしたい場合)元記事に付け加える形に変更するのが望ましいとしたが、Hiyotch氏は同じ記述を繰り返した。
「その上で自分が良いと判断できるものならまた加筆を認めてあげてもいい」 こちらはあくまでも中立的な文献の記述を求めているだけであり、中立的であることをHiyotch氏が示すことが出来れば特に問題ない事のはずである。(現在の所、こちらの疑問や指摘に対して一切の反応がなくHiyotch氏自身の印象論(乱暴である等)のみである) 文献の著者の経歴を一部提示し、他の文献と同一には扱えないというこちらの指摘を乱暴の一言で返す姿勢こそ「腕ずくで解決」しようとしている様に思える。
「内容個所などを編集すれば良い」とあるが、こちらは元記事の方が形として相応しいと考えた故の差し戻しであり、編集合戦の前に要約欄でHiyotch氏が加筆部の有用性を示せば、こちらも一部を修正する形で十分と考えたかも知れないが、一切そうした発言はない。
Wikipedia:腕ずくで解決しようとしないにて、 「自分の意見を率直に述べて議論する」とあるので資料批判と差し戻しの理由を提示したが、その返答が「その理由を長々と言って正当化するような人とどう議論するというのか」というのは、Hiyotch氏自身が加筆部の有用性を示す事が出来ないのかという話にもなる。
どちらにせよ、大きな加筆→差し戻し→乱暴だからの繰り返しでは議論にならないだろう。
自身の資料の有用性について提示せず、同様の記述を繰り返す姿勢は、Wikipediaの記事を充実させたいというより、自身の思想に合致した文献や記述を認めさせたい様に思える。こちらは、Hiyotch氏自身による加筆の形への変更を促したのであり、こちらが「加筆を認めてあげてもいい」(そも、そんな考えはこちらにはない)等という理解は誤りである。またこちらは、要約欄で繰り返すのであればこちらから修正の形をとると述べているが一切反応がなく、どの様な編集の形が良いか(希望している編集の形)不明でもあった。
納得いかないのは分かるが、そこで議論を放り投げる様な記述をするのは如何なものか。(理由なしの差し戻しに対してなら理解できなくはないが、要約欄の説明に対して納得いかないからとの理由で同じ記述の繰り返しが正しい編集とは言えないだろう。
Guru4871(会話) 2021年2月25日 (木) 23:01 (UTC)
- 相変わらずで、「自身の思想に合致した文献や記述を認めさせたい様に思える。」とか何を言ってるのか訳が分からない。当方暇でなく本来の仕事に気分的に支障があってはならないので、あなたのようなややこしい人とは今後一切のお付き合いを辞退します。悪しからず。--Hiyotchi(会話) 2021年2月26日 (金) 02:46 (UTC)
了解致しました。 こちらとしては、あなたの記述について問題点を指摘し差し戻しの意図を説明したつもりでしたが、乱暴、理解できない、ややこしい人等、記述についてではなく単なる人格攻撃に終止したのは残念です。
こちらの指摘に明確な反論等はない様ですので、保護期間以後につきましても、「神社」という記事の特性も考え、中立的で簡潔な記述を保持するべきと考えますので、無批判に同じ記述を繰り返す点はお控えください。 Guru4871(会話) 2021年2月26日 (金) 11:27 (UTC)