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ノート:舜天王統

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舜天王統について

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喜舎場一隆琉球大学教授は、舜天王統は実在したと言っている。

「沖縄史の歴代王統は天孫氏時代の二五代を除くと舜天・英祖・察度・尚王統(第一尚王統・第二尚王統)の四つに大別される。なかでも舜天王統はそれ以前までの伝説的世界とは異なり、少なくとも実在した王統の祖といわれ、これが実はわが保元の乱に敗れて、保元元(一一五六)年に伊豆大島に都落ちした為朝の子孫といわれる。すなわち為朝は九年後の長寛三年三月に大島を脱出して鬼が島に渡り、付近七島を征服したといわれるのに、どういうわけか沖縄本島北部の運天港に上陸し、のち南部の豪族大里按司の妹と通じ、一子尊敦(そんとん)を生み、これが長じて琉球国を統一した最初の国王すなわち舜天王である。伝説は鬼が島を琉球とする説から出発している。この為朝渡来に関連した琉球国の王統の樹立は、沖縄最初の史書たる向象賢の『中山世鑑』(一六五〇年編纂)に明記され、その他内外の歴史もみなこれを継承している。ところがこの大和為朝の伝承は慶長十四(一六〇九)年の薩摩の琉球侵入以前からすでに琉球国にはあって、袋中上人の『琉球神道記』はもちろんのこと、明・嘉靖二十二(一五四三・天文十二)年の『かたのはなの碑』や嘉靖二十五(一五四六)年一二月三十日の『漆継御門北之碑』などの碑文記にも記されており、『中山世鑑』を溯ること百年以前には少なくとも舜天を中山国の始祖とみなす説は存在し、またその時期はさらに溯るであろうことが推知される。ゆえにただただ慶長後に日琉同祖論などを提唱した日本思想の理解者たる向象賢の作為ともあながち断定しかねる問題である。いずれにせよこの為朝の渡来はさておき、舜天の実在についてもっとも疑問な点は、彼の活動期がちょうどオモロの盛行期にさしかかった十三世紀の初頭にありながら、他の四王統の始祖がすべてこのオモロで聖王として謡われているにもかかわらず、ひとり舜天のみが脱落していることである。しかもオモロでは次代の英祖こそ後世の琉球国王の祖としてたたえられるがごとく謡われている事実などを考えると、むしろその実在はオモロからみて否定的といわざるを得ない。が、しかし一五四三年の碑文記に『大琉球国中山王尚清は、そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいを、つぎめしよわちへ』と明記されている以上、まったく否定もできないが、この舜天を源氏の苗裔たる為朝に結びつけ、王統の始祖としていることのみは、やはり現状のところ伝説的粉飾の濃いものとしかいいようがない。」--133.137.212.51 2017年11月29日 (水) 17:18 (UTC)[返信]

与並岳生『新 琉球王統史』のシリーズ

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与並岳生『新 琉球王統史』のシリーズは小説です。出典・参考文献に用いないで下さい。--Krkrkrme会話2018年6月27日 (水) 13:30 (UTC)[返信]

「小説」という根拠は何ですか?そういった書評があるのですか?--Caeshi209会話2018年6月29日 (金) 05:57 (UTC)[返信]

(長文のためインデント戻します)

分かりやすく『・・・は小説』と言う表現を使ったのですが、貴氏には適当ではなかったようですので、それでは以下のように逆に申しましょう。

  • 2018年6月30日 (土) 02:51 UTCの版において参考文献に列挙されている文献の執筆者は、安里進、井上秀雄、森克己、田中健夫、岩生成一の各氏(敬称略)や各方面団体で、いずれも南島歴史分野で一定の評価を受けている人々、団体だと推定されます。
  • いっぽう与並岳生 氏と言う方はどのようなお方ですか?多少調べると、南島歴史に関して様々な歴史小説を執筆されたり、また、琉球新報でもコラム的小説を連載なされていますが、推測するに著述業のかたではありませんか?
  • 正当な(Wikipedia的に言えば「信頼の置ける《情報源として》)」)歴史研究文献等であれば、当然の如く、当該研究文献等にとっての参考文献としての一次資料が当該文献等に列挙されているはずです。2018年6月30日 (土) 02:51 UTCの版に挙げられた与並氏の文献はそのようになっているでしょうか?

これらの点に関し、いささかでも不利となる疑問符が付くようであれば、Wikipedia:信頼できる情報源#歴史に基づいて判断すると、いささか疑問符が付く情報源であると言わざるを得ません(そのように判断する論拠は、Wikipedia:検証可能性の『とくに歴史・医学・科学分野のときは、学術的で査読を経た出版物が存在する場合、それが最も信頼できる情報源です』と言う記述にも求める事ができます)。

いっぽう翻って考えるに、琉球の王統でも特に舜天とそれ以前はほぼ伝説時代とすら言えるので(大和で言えば継体皇よりも前)、与並氏の解釈が例え独自の解釈と評価されるものであったとしても、Wikipedia:検証可能性を持ち出して一方的に排除するものではありません。しかし、2018年6月30日 (土) 02:51 UTCの記載のように、あたかも歴史研究上確定した評価とその出典であるかのように記載されてしまうようでは、「{{精度]}}」のテンプレートを貼らざるを得ません。

-Krkrkrme会話2018年7月1日 (日) 15:13 (UTC)[返信]

なるほどわかりました。どういう意図で「小説」と断言したのか、お伺いしたまでです。文献について、今後は気をつけたいと思います。ご指摘ありがとうございました。--Caeshi209会話2018年7月3日 (火) 04:40 (UTC)[返信]