ノート:舜天
この「舜天」は、下記のような選考・審査を経て良質な記事に選出されています。さらなる加筆と改善によって、秀逸な記事となるような編集を歓迎します。 |
日付 | 選考・審査 | 結果 | |
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1. | 2017年11月11日 | 良質な記事の選考 | 通過 |
舜天的祖母是日本妓女?
[編集]據琉球史書《中山世鑑》記載,舜天是日本皇室分支清和源氏的源為朝之子,這當然是「吹噓」的笑話。如果舜天真的是源為朝逃亡琉球與當地女性所生之子,那麼《中山世鑑》的編撰者就要接受一件「殘酷」的事情——就是舜天竟然是日本妓女的孫子!因為他的「生父」源為朝乃是其父源為義和一名「遊女」所生之子,而「遊女」的意思就是賣淫為生的女性。《中山世鑑》的編撰者如此對其「開國君主」舜天的身世這麼「吹噓」,那還真是弄錯對象哩!--陳魔扁 2007年2月10日 (土) 06:29 (UTC)
- そうですか。―sketch(話/履) 2007年2月15日 (木) 10:59 (UTC)
系譜
[編集]- 父:伝承では源為朝・鎮西八郎(1138~?)
- 母:母は大里按司の妹
- 兄:大舜(今帰仁城主)
- 男子:今帰仁城主(母は今帰仁間切勢理客村のノロ)
- 男子:永良部世主(永良部美豆之比屋の元祖)
- 男子:實久三次郎(母は加計呂麻島の女)
- 妃:不詳
- 世子:舜馬順煕(第二代国王)
- 次男:羽地王子
- 男子:中城世主
上記の系譜ですが、父母や世子については、史書に記述がありますが、それ以外は記述がありません。もしよろしければ出典を示していただけますでしょうか。民話や言い伝えのような話でしたら、載せない方がいいと思います。--ウィキナ 2012年1月29日 (日) 03:12 (UTC)
舜天王統について
[編集]喜舎場一隆琉球大学教授は、舜天王統は実在したと言っている。
「沖縄史の歴代王統は天孫氏時代の二五代を除くと舜天・英祖・察度・尚王統(第一尚王統・第二尚王統)の四つに大別される。なかでも舜天王統はそれ以前までの伝説的世界とは異なり、少なくとも実在した王統の祖といわれ、これが実はわが保元の乱に敗れて、保元元(一一五六)年に伊豆大島に都落ちした為朝の子孫といわれる。すなわち為朝は九年後の長寛三年三月に大島を脱出して鬼が島に渡り、付近七島を征服したといわれるのに、どういうわけか沖縄本島北部の運天港に上陸し、のち南部の豪族大里按司の妹と通じ、一子尊敦(そんとん)を生み、これが長じて琉球国を統一した最初の国王すなわち舜天王である。伝説は鬼が島を琉球とする説から出発している。この為朝渡来に関連した琉球国の王統の樹立は、沖縄最初の史書たる向象賢の『中山世鑑』(一六五〇年編纂)に明記され、その他内外の歴史もみなこれを継承している。ところがこの大和為朝の伝承は慶長十四(一六〇九)年の薩摩の琉球侵入以前からすでに琉球国にはあって、袋中上人の『琉球神道記』はもちろんのこと、明・嘉靖二十二(一五四三・天文十二)年の『かたのはなの碑』や嘉靖二十五(一五四六)年一二月三十日の『漆継御門北之碑』などの碑文記にも記されており、『中山世鑑』を溯ること百年以前には少なくとも舜天を中山国の始祖とみなす説は存在し、またその時期はさらに溯るであろうことが推知される。ゆえにただただ慶長後に日琉同祖論などを提唱した日本思想の理解者たる向象賢の作為ともあながち断定しかねる問題である。いずれにせよこの為朝の渡来はさておき、舜天の実在についてもっとも疑問な点は、彼の活動期がちょうどオモロの盛行期にさしかかった十三世紀の初頭にありながら、他の四王統の始祖がすべてこのオモロで聖王として謡われているにもかかわらず、ひとり舜天のみが脱落していることである。しかもオモロでは次代の英祖こそ後世の琉球国王の祖としてたたえられるがごとく謡われている事実などを考えると、むしろその実在はオモロからみて否定的といわざるを得ない。が、しかし一五四三年の碑文記に『大琉球国中山王尚清は、そんとんよりこのかた二十一代の王の御くらいを、つぎめしよわちへ』と明記されている以上、まったく否定もできないが、この舜天を源氏の苗裔たる為朝に結びつけ、王統の始祖としていることのみは、やはり現状のところ伝説的粉飾の濃いものとしかいいようがない。」--133.137.212.51 2017年11月29日 (水) 17:16 (UTC)
与並岳生『新 琉球王統史』のシリーズ
[編集]与並岳生『新 琉球王統史』のシリーズは小説です。出典・参考文献に用いないで下さい。--Krkrkrme(会話) 2018年6月27日 (水) 13:30 (UTC)