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ノート:自由主義神学

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2004年6月

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 リッチュルもシュライエルマッハも登場させないでリベラリズムが語れるか、という観があるが、それはおいおい。得意な方お願いします。LR 13:43 2004年6月14日 (UTC)

2007年10月17日

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批判は受け入れないということでしょうか?これは私見ではなく、福音主義の立場からの見解、批判ですが、、、。--河内景隆 2007年10月17日 (水) 21:27 (UTC)[返信]

お待ちしておりました。まず、福音主義の百科事典上で使える正しい使い方を覚えてください。たとえば、日本基督教団のなかに福音主義教会連合という組織内組織があって、教団総会で派閥争いしてるわけですよ。福音主義と自由主義は対立概念だと考えるなら、それは多分両方の理解が原義から外れている、狭い世界でしか通用しない慣用です。お次に、あれは客観化が全く不十分で「福音主義の立場からの」でもなんでもなく「貴方の意見」に過ぎなかった。たとえ、それが正しくて、多数派意見と同じでも「貴方が」言ってはだめなんです、今のウィキペディアでは。ですから「貴方でない誰か」に言わせてください。つまり、保守派の神学者が著作で述べた事柄を出展付きで引っ張ってきてください。正確な引用でなく要約して下さっても結構ですから、自由主義神学に対して、シェーファーが、カイパーが、メイチェンがどういった、そういう事例を挙げてくだされば完璧です。悪態でももちろん結構です。でも、たとえ内容が同じであっても、誰がどこで言ったかを記さないと、そしてそれが記載に値する程度の有名人でないと(たとえば「ある牧師によると」ではNG)、それは検証可能性を満たさない貴方の私見になってしまって、私がやらなくても誰かに消されます。LR 2007年10月17日 (水) 22:46 (UTC)[返信]

了解しました。学者の権威ある意見を引用するなり、まとめて紹介しましょう。--河内景隆 2007年10月18日 (木) 01:37 (UTC)[返信]

参考までにテイラー、リチャード監修「ウエスレアン神学事典」、福音文書刊行会、1983、P.272の「自由主義(Leberalism)」の項をあげておきましょう。ここには「神学では、自由主義は近代主義と同義語である。保守的、伝統的なキリスト教の教えと対照的に、その信念は聖書的と言うより理性的で、人間主義的である。」とされています。論争するつもりはありません。それぞれの立場がありますから、、、。ただ「自由主義神学への批判」と言う項目があったので、一筆記したまでです。悪しからず御了承ください。--河内景隆 2007年10月18日 (木) 01:50 (UTC)[返信]

はい、「テイラー、リチャード監修「ウエスレアン神学事典」によれば、「自由主義は近代主義と同義語である。保守的、伝統的なキリスト教の教えと対照的に、その信念は聖書的と言うより理性的で、人間主義的である。」とされる」という文体なら何処からも文句は出ません。逆に消そうという動きがあれば、私が戻します。記述よろしく。LR 2007年10月18日 (木) 03:17 (UTC)[返信]

「歴史」節の大幅加筆報告

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この編集にて、「歴史」節を大幅に拡充し、「批判」節を後ろに配置しました。正教、ローマカトリックからの自由主義神学に対する批判的見解も拡充したいところですが、取り敢えずまずは自由主義神学側の歴史の概略の紹介が必要かと考えたためです。

R.メールという、あまり知られていないフランスの神学者、しかもかなり古い文献(1979年)を使ったのには幾つか理由があります。一つには、私の利用している図書室にあったことがありますが、一番大きな理由は、福音主義との関連について、まだしも中立性に考慮を払っていると思われたためです。この著作では、自由主義と福音主義の対話の可能性を捨てていません(年代的な背景もあるでしょうが)。両者が互いに自分の系譜のみを強調言及する著作が一般的な昨今では、なかなかこういう著作は得難いです(あるところにはあるでしょうけれど、西方について素人に毛が生えた程度の私には限界があるということです)。

全体的にいってR.メールの著作は、新正統主義に(今日からみれば)過大な期待と評価を与えていると思える部分もあるのですが、自由主義神学の概略について述べたところは、大変よく分かり易くまとまっていると感じました。

以上、参考文献選定の根拠と背景を中心とした加筆報告まで。--Kinno Angel 2010年12月25日 (土) 15:00 (UTC)[返信]