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ノート:羽田事件

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誤謬もあり。近日編集

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ウイキペディアでは、出典のある記述が求められているはずなのだが、本項には出典がないに等しい。私は、本項を12年3月に編集した(Mountainlifeの名で手持ちの写真も出した。他にもあるはず)。私は第一次羽田闘争を穴守橋で体験しているので、体験記憶に頼り、12年3月の編集時には出典を出していない。だが、今、本項を見て、「見てきたような」記述ながら、実は誤りと思えるものが跋扈していると思わざるを得ない。「ヘルメットに角材・・・というスタイルが確立した」「新左翼各派はそれぞれの拠点校から出撃」「投石や角材による殴打」は本当だろうか。羽田闘争(穴守橋)では、私は角材を見ていない。第一次羽田闘争の橋の攻防戦は、信じられない警察側の失態があった。学生は橋の西側から、橋を渡って東に向かうだろう。そこで、3つの橋のそれぞれの西端側に写真のように装甲車数台を置いて障害物にして、機動隊は反対側の橋の東側の岸にいたのである。この限りでは直接の衝突はなく、角材の出番もなかった(同日これ以前にも別な場所での衝突はあったが、学生側が簡単に制圧されている)。私も装甲車の中に入ったが、すべてが鉄板で覆われ、強力なスパナを準備していないと破壊はできなかった。諦めて外に出た。その後、誰かが装甲車に火をつけて炎上した。私は腹いせの破壊に失敗して諦めたのだが、誰かが火をつけるというこの成り行きは必然の警備配置だった。ただその後、機動隊が大挙して橋の西側に現れた。これにより、私が知る限り、穴守橋では、学生部隊は蹴散らされるという風情で、その日の結束を失って行く。「新左翼各派はそれぞれの拠点校から出撃」したかも知れぬが、私はそうでもなかった。拠点ではない自分の大学から向かった者も多かったはず。「羽田事件から翌年4月・・・激動の七ヶ月と呼ばれる」は初耳である。確かに、佐世保の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争王子野戦病院反対闘争と、激しい街頭闘争が続いたが、「激動」ということでは、その直後の1968年の各大学における大学闘争の方がもっと大きな激動であった。それに、そういう呼称は当時は聞くことがなかった。羽田闘争については、直後に作られ、その後復刻されて今でも入手可能な資料が手元にあります。これを出典として、いずれ時間を見つけて、当日の動きを多少詳しく編集しましょう。「細かすぎる」とは言わないでくださいね。

もっとも、すでにある。「ヘルメットに角材・・・というスタイルが確立した」「新左翼各派はそれぞれの拠点校から出撃」「投石や角材による殴打」「羽田事件から翌年4月・・・激動の七ヶ月と呼ばれる」について、私にはそれを否定する根拠もないので、手をつけないでおきます。「本当だろうか」という疑問を提起しておくだけにします。--ジガンザン8108会話2014年12月22日 (月) 07:54 (UTC)[返信]

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当時を生で知らない人間にとって、貴重な証言をありがとうございます。全共闘時代を扱った現在の著書ではこの事件をターニングポイントとするものが多数見受けられます(小熊英二の『1968』など)。後世の者としては記録をたどるしかありませんが、拠点校からの出撃や警察側での相当数の負傷者発生は公式記録に残っており、当時の後藤田正晴はじめ警察官僚や政治家が重く受け止めている様相が議事録から読み取れますし、マスコミもかなりショックを受けて報じていたようです(http://www.econfn.com/iwadare/page168.html )。
また、外部リンクにつけたNHKの映像では角材・ヘルメットを装着した学生・投石行為・暴走する車両が確かに収められています。武闘派の中核派・革マル派がいた他の橋と穴守橋では様相が違っていたのかもしれませんね。
「激動の七ヶ月」は自分が読んだ書籍では見当たらなかったと思いましたが、一応ネット上では見受けられた言葉であり、否定する根拠もないので当方もそのままにしております。--4th protocol会話2017年1月13日 (金) 11:24 (UTC)[返信]
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>強力なスパナを準備していないと破壊はできなかった。
警備車両を燃やすガソリンを調達しに学生がスタンドに押し入った際、自動車修理用のバールも持っていったと国会会議録に残ってました。--4th protocol会話2017年1月13日 (金) 12:05 (UTC)[返信]
とりあえず「激動の七ヶ月」の出典を追記しました[1]。より良い出典があれば、置き換えてください。--Rabit gti会話2017年1月14日 (土) 06:24 (UTC)[返信]