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ノート:織田勝長

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検証可能性を満たすということについて

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簡単に言えば、タブの利用法を間違えているということなのですが、検証可能性を満たし、精度・正確性に問題のないものに付けるべきものではありません。そもそも利用者:でここ会話 / 投稿記録 / 記録氏が挙げている三次ないし四次史料である『武田氏家臣団人名辞典』が出典としている元史料を、国立国会図書館デジタルコレクションを経由して閲覧可能な方法で開示しているのであって、問題があるはずがない。検証可能性も正確性もむしろ向上しているのです。それよりも、でここ氏が、『武田氏家臣団人名辞典』という単一の出典に非常に不安を感じます。702ページの大著とはいえ、人物2500人が載っていると書いてありますから、1ページに3人ぐらい載ってるという計算・・・・タグを付ける前に各種方針、特にWikipedia:信頼できる情報源について熟読をお願いします。--Quark Logo会話2015年10月11日 (日) 06:31 (UTC)[返信]

あと、言い忘れましたが、『三河物語』『信長公記』『寛永諸家系図伝』とかは一次史料ではありません。あれも二次史料以下です。それも間違えていると思います。--Quark Logo会話2015年10月11日 (日) 06:55 (UTC)[返信]
タブの用い方に不手際がありましたら、申し訳ありません。本来は最初にノートで提起するべき問題でした。しかし、私が思うのは史料を直接出典としてしまってはまずいという点です。Wikipedia:独自研究は載せないの「一次史料は載せない」にあります通り、『甲陽軍鑑』にしても『三河物語』にしても、これら編さん史料は原典でありますし、史料性についてはいずれも議論があります。ですから歴史に関して著述する記事においては、「史料+その史料を用いて判断した専門家による文献」を掲示しておくことが大事であろうと思います。
「単一の出典」に関してましては、私も少しずつ加筆をしてますので、いずれ入手が可能であれば、他の文献を用いて出典を補強していくつもりはあります。しかし、武田の家臣などではそうですが、個々の家臣に関して必ずしも複数の出典を確保することは難しいこともご理解ください。私は取り敢えず、無出典からひとつでも出典を確保することを当面の目標にしております。
ここからが本題なのですが、「おつやの方」問題です。実は私も以前から「おつやの方」に関する逸話の整理には頭を抱えていました。たとえば平山優氏の『新編武田信玄のすべて』(2008年)の巻末人名録の「秋山虎繁」や同じく平山氏の『新編武田二十四将正伝』(2009年)の「秋山虎繁」などを読むと、「おつやの方の逸話は近年誤りであることが指摘された」とあるのですが、どの論考において指摘されたのか明記されていない問題点があります。おそらく2007年に柴裕之が『武田氏研究 37号』に発表した論文ではないかと思うのですが、この論文を読むと「おつやの方」の逸話に関係する、元亀3年末に秋山虎繁が「西上作戦」において東美濃攻めの別働隊を率いたのは誤りで、虎繁は山県昌景とともに遠江で活動している、とあります。
こういう事情があるのものですから、私は「おつやの方」問題はきちんと検証する必要があるなと感じるわけです。この逸話がまったくの誤りであるのか、あるいは年次が違うだけなのかわかりませんけど、私も柴論考をはじめ様々な文献に目を通して、この問題を把握しておかないときちんと著述できないのです。ただ、編纂物である史料に記されているからといって、専門家の知見を通さずに出典として示して、それで良しとしてしまうのは危険ではないか、と思います。--でここ会話2015年10月11日 (日) 06:58 (UTC)[返信]
(追記)追記部分への回答ですが、『三河物語』以下の編さん史料は、歴史学においては二次史料で間違いないでしょうが、wikipediaの指針においては必ずしもそうではないのではないでしょうか?Wikipedia:独自研究は載せないの「一次史料は載せない」にある資料が一次資料であるか二次資料であるかは、文脈によって変わります。軍事歴史家によって著された第二次世界大戦についての本は、この戦争についての二次資料となるかもしれませんが、もし著者の戦争体験が含まれているのであれば、その体験についての一次資料となるでしょう。」と例示されています。これらの編さん史料は同時代の成立ではありませんが、関係者が編さんに携わっていますし、「一次史料性」はあります。『甲陽軍鑑』などがそうですが、明らかな誤りのある部分と、近年の再評価で価値ある部分と判断されている箇所が混在しています。これを「二次資料」だから一律に許容してしまっては、危険なことになるのではないでしょうか。やはり「専門家による史料を用いた判断」を文献から確保していくことは必要ではないかと思います。--でここ会話2015年10月11日 (日) 07:04 (UTC)[返信]

『甲陽軍鑑』『三河物語』は一次史料ではありません。間違いないです。甲陽軍鑑、三河物語の該当箇所は明らかに体験したものではありません。原典を丸写しするのはウィキでは禁止されてウィキソース行きするようにされてますが、原典と一次史料も意味が異なります。これを混同しないでください。でここ氏は、一次史料とは何かというものを読み違えていると思います。もうちょっと熟読をお願いします。歴史学で一次史料といえば、書状とか古文書そのものです。江戸時代にそれらや他の史料をもとに刊行された著作物は、どう考えても、二次史料です。古いでだけで、一次になるわけではありません。リンク先に原書が読めるようにしたわけですから、読んでみたらどうですか? 『甲陽軍鑑』の中には一次史料と思われるものも含まれますが、書状等は、二次史料以下の出典にしてます。

また該当の箇所を抜き出したり、出典として示し、開示可能な方法で示すのは全く問題ないというよりも、推奨されます。正確性については、そのあなたのいう「専門家による文献」がまさに該当する原典にある記述を出典としている以上、内容についての正確性は又聞きより良いのは疑いの余地はありません。結局、書かれていたことは、ある史料によればこういうことだったということでしから、どんなことが書いてあるか明示しただけです。書かれていること自体の史実性はウィキペディアでは証明等をすることはありませんし、できません。出典の明記によるだけでいいとされています。だから多説併記とされ、その出典も閲覧できるのですから、問題ないのです。

あと、掲示された辞典に、何らかの専門家の”見解”があるならば、それを書く際には、出所を明らかにする必要があり、○○(氏)は~~と云うという書き方が必要です。ただ明示できる見解のようなものは私が見る限りなかったと思います。あるならば追加ください。

おつやの方については、この項目の主題から外れますので外しました。現在下書を作成中ですが、出来上がったらおつやの方のページで記述する予定です。ここで議論する必要はないでしょう。--Quark Logo会話2015年10月11日 (日) 07:30 (UTC)[返信]

ところで、Wikipedia:独自研究は載せないにおいて定義されているのは「(wikipediaにおける)一次資料」であって、「歴史学における一次史料・二次史料」ではありませんよね?wikipediaには歴史学以外の記事もあるわけですから。ここで定義されているのは、記事の主題に関して「直接参加した人によって作成されたもの」とありますから、歴史学における史料論とは意味が異なります。『甲陽軍鑑』は歴史学においては一次史料でないことに間違いはありません(一次史料だとは言っていないのですが)。しかし、武田家に関わった遺臣が編さんに携わっており、今日では知り得ない情報や亡失した史料にもとづいて記述された部分も含まれているとみなされているから、近年において再評価されているわけです。しかし、同時に数多くの誤りとみなされる部分もありますから、利用においては古文書・同時代の古記録など「歴史学における一次史料」とつきあわせて、事実である、事実ではない、傍証はあるので可能性として考えられる、などの判断を加えることになります。それは専門家でないとできません。
史料を出典として示し、それで正確性が確保されるという部分は、どうでしょうか。確かにwikipediaには何かを記述したからと言ってそれを肯定する立場だとは示されていませんが、何かを記述する以上は、その情報に対する客観的な評価が加わっていないと、利用者は判断に苦しむだろうと思うのですが。例えば出典が『甲陽軍鑑』だけであるのなら、その部分を信頼してよいのかどうか、私にはわかりません。--でここ会話2015年10月11日 (日) 08:06 (UTC)[返信]
(追記)「甲江和与」については武田勝頼と信長の直接和睦を意味する史料上の用語です。いまはまだ未作成ですが、将来的に作成するつもりでいます。「信玄は信濃川中島において上杉謙信と戦った(川中島の戦い)」あるいは「元亀年間に信玄は三河・遠江方面で軍事同校を行った(西上作戦)」と著述するようなものです。甲江和与とは織田信房を信長に返還し、信房をパイプとすることで信長との和睦を試みた出来事ですから、信房とはおおいに関係のある用語です。
それと、「おつやの方問題」を主題から外れると言われましても、私が問題に感じたのは、まさに出典として示された史料と、近年の研究における「おつやの方問題」との乖離なのですが・・--でここ会話2015年10月11日 (日) 08:11 (UTC)[返信]
まずこの記事の中で誰も『甲陽軍鑑』を直接の出典として書いてないので、例示として不適切かもしれませんが、仮にですが、『甲陽軍鑑』から引用するのも別に問題はないのです。一次資料の扱いについては、それだけに基づいて全体を書くなということだけで、一次資料のどうこういう話があることを出典付きで明示することは別に問題ないのです。「項目全体を一次資料に依拠してはいけません」と言うことは、話が一方的になるという懸念であって、一次資料を使うなと云うようなことは全くありませんので、誤解ないように確認しておきます。もしそう考えているなら、完全にガイドラインの把握してません。
次ぎに「誤り」についてですが、ある著者がこれこれが誤りだと書いてるならそう書いていいですが、その部分がどこかにあるかもしれないというあなたの判断はそれこそが独自研究ですから、それを元に加筆したり削除したりするのは違反行為です。だから出典主義がとられているわけで、ある資料にこういう話がありますという紹介だけなんです。書いているのはそれが真実だからではなく、資料にそう書いてあるからなのであって、それが正しいかどうかは本質的には編集者が扱うことではありません。他の史料と整合性がない場合も、整合性がないことを指摘するので十分なのです。多説併記でいいのです。だから重要なのは出典を明示することなのです。
あなたの云う、”客観的評価”を編集者が行うのはまさに独自研究です。著作物にある評価しか書くことはできませんし、そもそもですがこの種の過去の歴史を扱うことにおいて、評価なんかしなくて云いというか、できるはずがないのです。ある資料しかなく、そこに書いてあることしかわかりません。新しい真実なんて都合良くわかるわけはないのです。まともな専門家は一次史料に基づかない新説なんて唱えないし、一次史料が新しく見つかるなんてこともないわけなんで、そうそう新説なんて生まれません。
結論としては、AにBと書いてあるという紹介でいいということです。でここ氏が言っているような評価とか判断とかは踏み込みすぎです。必要ないというよりも、独自研究に進もうとしているだけです。ウィキペディアの中立性とか客観性とかは、そういうことではありません。書籍出典に立脚するということです。
近年の研究についても、近年の書籍から話を紹介すれば良いだけです。その場合も、過去の話を否定する必要は無くて、CやDという話もありE氏はFと主張すると紹介する程度。そのような問題は解決しようとしなくて良いです。ウィキペディアは百科事典ですので。--Quark Logo会話2015年10月11日 (日) 12:17 (UTC)[返信]

大体わかりました。しかし、誤解があると思うのは、史料を基にした「客観的評価を編集者が行う」とは私はまったく言っておりません。史料を基にした記述は、「専門家による二次文献で補強しなければならない」ということを再三申し上げております。独自研究というのは我々執筆者の「評価」が介在することであって、私はそういうことはまったく意図しておりません。

「元亀3年に秋山虎繁が別働隊を率いて東美濃を攻略し、岩村城で「おつやの方」に関する逸話の出来事があった」。このことを記すためには、史料のほかに、史料を用いて記述した文献が必要であると、単純にそういうことを言っているだけです。

「おつやの方問題」は前述の平山氏・柴二氏による異説があるわけですから、まったく私の「独自研究」ではないかと思います。そういう異説がある以上、きちんと調査して記述しておく必要があると思うだけですし、また私は異説を支持しているわけではありません。新説であるとか、複数の説がある問題に優劣をつけたことも(記憶の限りでは)ありません。その点は普段から気をつけています。このことも誤解であろうと思います。

しかしながら、柴氏の論文を読むと、「秋山虎繁は別働隊を率いて東美濃を攻略したことが通説とされる」とありますから、詳しく調査すれば「通説」を記した文献が見つかるだろうと思います。おそらく高柳光寿氏の著作などで確保できるであろうと思います。

Quark Logo様も、おそらく私が文献を調査して出典を補強し、「おつやの方」に関する通説があって、それに対する異説があるという両論併記の形に編集することに関してご異論はなかろうと思いますから、この議論はこのくらいできりにしておきたいと思います。ありがとうございました。--でここ会話2015年10月11日 (日) 13:18 (UTC)[返信]