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ノート:織田信長/過去ログ1

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岐阜「市」

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「配下の町である井ノ口を岐阜市と改めた。」当時から「市」だったのですか?誤解を招く表現のような気がします。 Kozawa 01:19 2003年10月23日 (UTC)

リンクミスです。修正しました。mameneko 01:25 2003年10月23日 (UTC)

森蘭丸との衆道関係について

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小姓森蘭丸衆道関係に有ったという事でも知られる。」の記述が消されたのですが何故でしょうか?いけない表現ではないはずなのですが・・・。--Nick_hihi 2005年2月7日 (月) 17:06 (UTC)[返信]

岐阜「町」

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「配下の町である井ノ口を岐阜と改めた。」城下町を指して岐阜町という表現はあまり無く、信長はただ城の名前を金華山稲葉山城から岐阜城に改名したのだと思いますが‥。いかがでしょう--221.191.205.122 2005年11月10日 (木) 04:47 (UTC)。-- 2005年11月10日[返信]

地名を改めたのだと思います。後に羽柴秀吉が真似て今浜を長浜に改めたように。岐阜の阜が丘を指しているのなら、稲葉山城を含めた山ごと、麓も町も含めてその一帯全部を岐阜と呼ぶことにしたのではないでしょうか。--60.237.119.249 2005年11月30日 (水) 03:01 (UTC)
家臣の四天王、七副将、九爪将などという分類は聞いたこともなく、全く一般的ではないと思いますが。--219.30.132.186 2005年12月26日 (月) 05:21 (UTC)

信長肖像画について

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外国人が描いた信長肖像の写真てひょっとしてこれですか?信長写真pdf画像

これは明治になって「忠臣」を顕彰して位を追贈した時に創られた肖像画ではないでしょうか。似た臭いので新田義貞を以前見たことがあります。探したのですが、それを元にして描いた像しかネット上にはありませんでした。新田義貞画像--怪蘇 2006年3月28日 (火) 10:13 (UTC)[返信]

そもそも義貞の画風とまったく異なる様に見えるのですが・・・詳細は外部リンクの通り、織田家、宮内庁、三宝寺に聞かないと分から無いですけど。--以上の署名のないコメントは、Ziong会話投稿記録)さんが 2006年5月15日 (月) 17:40(UTC) に投稿したものです。

信長没後すぐに作成された肖像が、木像などと似ていない。同時代絵画史料では髭が薄いのに明治時代の錦絵のように髭が濃く、近代の軍人肖像画を彷彿させる。これは明治に追贈された人の肖像画に共通する類似点ですが・・・

最も私も詳しい情報を持っていないのでそういう指摘もあるという注意書きを本文に記入させて貰いました。--怪蘇 2006年7月13日 (木) 13:56 (UTC)[返信]

ヨーロッパから来た画家という部分についても、はっきりしていない風に書かれていますが、もしそれについても、はっきりしていないのなら言及はあまり、意味のないものでは?
その画家の画法や技法についても、ですが、実際にどういった状況下で書かれていたのかも、分からないのでは、曖昧に過ぎます。上記のような可能性や、画家の想像だけで書かれた可能性も捨てきることは出来ません。--以上の署名のないコメントは、狂気の森会話投稿記録)さんが 2007年12月25日 (火) 15:06(UTC) に投稿したものです。

最強との表現

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最強と表現なさる方がおりますが、これは証明不能なのでとりました。信長が最強とか、いや信玄の方が強いとか言われましても、比較検証が不能のため、最強の称号は使用不能と思います。--Los688 2006年5月6日 (土) 14:40 (UTC)[返信]

こんにちは、Koba-chanです。
そろそろ、3RRが適用でしょうか。というのは牽制として、最強については色々なご意見もあるかと思いますので、敢えて否定せずに、こちらのノートで何がどういう根拠で最強になるのかを教えていただければ、と思います。Koba-chan 2006年5月6日 (土) 17:46 (UTC)[返信]

当該IPユーザーへのメッセージを送信しました。これで対話拒否などの姿勢をとられれば、投稿ブロックや保護・半保護が適用できるかと。タイガ 2006年5月7日 (日) 15:38 (UTC)[返信]

最強という表現がどこから出てきたのか疑問ですし、表現も適当ではないですね。怪獣じゃあるまいし。--130.54.130.67 2006年5月8日 (月) 05:31 (UTC)[返信]

同じIPユーザが、句点を除去するという意味不明の行動を取っていますね。ノートは読んでいないのかもしれません、--Lonicera 2006年5月8日 (月) 17:14 (UTC)[返信]

(報告):只今、当該IPユーザーの投稿ブロックを依頼しました。タイガ 2006年5月9日 (火) 01:51 (UTC)[返信]

少なくとも、上杉謙信に1度負け。ただ、負けたのはこの戦いのみですが・・・ --以上の署名のないコメントは、219.67.3.60会話)さんが 2008年8月12日 (火) 05:59(UTC) に投稿したものです。

血液型

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>血液型はA型だったらしい。

と加筆がありましたが、根拠不明のため削らせていただきます。再掲をご希望の方は、検証可能な根拠の提示をお願いします。なお、個人サイト、ブログ、電子掲示板などの情報は百科事典の典拠とはなりませんのでご注意ください。--miya 2006年5月10日 (水) 04:30 (UTC)[返信]

血液型の推定の多くは、起請文の血判からでしょう。まあ、その血判が確実に本人の物とは断定出来ないでしょうが.

信長の毛髪が遺されていて、それをDNA鑑定して血液型がA型であると判明した、と聞いたことがありますが……

--以上の署名のないコメントは、Ziong会話投稿記録)さんが 2006年5月15日 (月) 17:48(UTC) に投稿したものです。

>一般的にはB型だと言われている。

と記載してありますが、客観性に欠けているため、必要のない一文ではないかと思われます。それから、戦国武将ものしり事典(主婦と生活社)にははっきりとA型と記載されています。--以上の署名のないコメントは、Badge会話投稿記録)さんが 2008年6月24日 (火) 12:12(UTC) に投稿したものです。

猿楽について

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「猿楽(能)を嫌った。」とありますが、根拠はなんでしょう? 丹波猿楽の梅若大夫を折檻したという記録はありますが、むしろ普段から後援していたからこそ、かえって折檻したと取れる感じを受けるのですが。--138.243.129.7 2006年11月18日 (土) 15:25 (UTC)

Toki-hoと申します。当該部分は『信長公記』第15巻「幸若大夫・梅若大夫の事」に所載の、大正10年5月19日の安土総見院における、幸若舞と丹波猿楽の共演についての記述などがもとになっているのだと思います( 原文はこちらから )。当日は幸若の上出来に対して、丹波猿楽の梅若大夫が不出来で、信長が機嫌をそこねたことは事実ですが、それだけをもって「信長が猿楽の能を(積極的に)嫌った」とまではいいがたいと思います。上でIPさんがおっしゃるように「永禄11年の信長上洛のおりには、観世小次郎元頼や観世彦右衛門に領地安堵し、また梅若大夫を後援(cf『能・狂言事典』 平凡社1987 p471/Toki-hoによる要旨引用)」などの記載にみられるように、信長は能を後援していたのですから。ですので、項目中の「猿楽(能)を嫌った」を編集で除去してはいかがでしょうか。なお1週間ほど待ってご異論なければ作業いたします。よろしくお願いいたします。Toki-ho 2006年11月20日 (月) 04:16 (UTC)[返信]

整理について

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いろいろな人がいろいろな情報を継ぎ足しているうちにだいぶまとまりのない状態になっているように思います。思い切った文章の削除も含めてそろそろ整理していったほうが良さそうな。--Hotsuregua 2007年1月13日 (土) 16:56 (UTC)[返信]

整理に賛成します。他の記事で説明されていることまでここで説明していたり、枝葉末節なものまで書いてあったりしてきりがないです。他記事との重複を削るだけで半分ぐらいにはできるんじゃないでしょうか。--Kangoshiyouichi 2007年10月21日 (日) 03:54 (UTC)[返信]

主君:足利義昭との記載について

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主君の項目に足利義昭と書かれていますが、削除したほうがいいのではないでしょうか?もし信長の主君が義昭なら上杉謙信や武田信玄の主君も足利義昭(義輝も)でしょうし、三好長慶の主君は足利義栄になってしまいます。--河童が喇叭 2007年1月27日 (土) 15:55 (UTC)[返信]

確かに削除がよさそうです。誰かの家臣団に属するのではないでしょうから。他の戦国大名を少し見てみましたが、大名クラスはあえて主君を書いていないようですね。--Hotsuregua 2007年1月27日 (土) 16:31 (UTC)[返信]

ボードゲーム

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  • コマンドマガジン日本語版 第69号 付録ゲーム:「真本信長公記」国際通信社
  • ゲームジャーナル第14号 『信長包囲網』 『信長包囲網』シミュレーションジャーナル

以上の署名の無いコメントは、219.162.185.136会話/Whois)さんが 2007年4月1日 (日) 08:00(UTC) に投稿したものです。

TRPG

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以上の署名の無いコメントは、125.14.83.30会話/Whois)さんが 2007年4月10日 (火) 10:58(UTC) に投稿したものです。

言い回し

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文中の「信長の敵勢力に対する行為の大半について当時から現代の史家における評価は、当時の常識で言うと残虐とまではいかない、むしろ普通といえる事件もあり、また信長のような者が現れなければ、戦国時代の争乱はまだまだ続いたとされ、戦国時代を早く終わらせるためにはやむを得ない行為というものである。」この言い回しもっと適切なものはないでしょうか。--明智莞爾 2007年4月3日 (火) 11:09 (UTC)

事実と評価の混在

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「政策」の節にある

「(前略)それを改め新しいものを創造する能力については群を抜いている」
「(前略)中世の枠を超えた人物であると評価される。 」
「(前略)先見のある選択だったとされている。」
「(前略)戦国時代を事実上終焉に導いたのは、信長であるという評価が現在では高い。」

等等、は後世から見た後付の評価で、政策とは言いがたい記述です。見出しを分けるなど、事実は簡潔に・評価は中立に再構成する必要があるのではないでしょうか?--史跡めぐり 2007年4月6日 (金) 20:21 (UTC)[返信]

賛成です。偏った評価を整理していけば簡潔でもっと読みやすい記事になると思います。現状での量が膨大なのと、評価を変えまいとするユーザーもいることが、これからのストレスを予期させるところではありますが。--Hotsuregua 2007年4月6日 (金) 23:54 (UTC)[返信]
私も賛成です。Wikipediaにおける評価は、多数の利用者がいることから考えてもあくまでも中立でなくてはなりません。なので、そのように偏っていると思われる評価を変えていくことに賛成です。しかし、Hotsureguaさんも仰っているように評価を変えまいとする人もいるのでその辺りが懸念されるところです。--明智莞爾 2007年4月7日 (土) 14:40 (UTC)

人物評、等

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久しぶりに記事を読み、批判的な文章がかなり削除されていることに気が付きました。

信長への批判は、時代背景を理解していないものが多いという指摘もありますが、例えば

  • 「善住坊の首から下を土に生き埋めにし、切れ味の極度に悪い竹製のノコギリで首を引かせ、長期間激痛を与え続ける拷問を科し、なぶり殺しにした。」
  • 「小野殿(阿古御料人)の指を一日一本ずつ切り落とし、その後、惨殺した。 」

等も、当時としては常識的なことだったのでしょうか。それとも事実かどうか疑わしいということでしょうか。

また、信長に好意的な書き込みが増えている一方で、他の武将が悪く書かれている箇所が目に付きますが、

  • 「半兵衛自身は信長を性格的に嫌っていたようだが、」→「半兵衛自身は信長を嫉妬していたようだが、」
  • 「如水の場合は信長の実力を高く認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないとして、あえてその下で台頭していた秀吉を選んだのだとされているのが有力である。」→「如水の場合は信長の実力を高く認めながらも、信長に仕えても軍師として活躍の場が与えられないと欲をだし、その下で台頭していた秀吉に付け込まれたという説が有力である。」

の書き換えには根拠があるのでしょうか。

信長の批判をしたいわけではありませんが、かえって中立性が失われていないかと思いましたので。FOREST 2007年4月16日 (月) 09:29 (UTC)[返信]

真上にある「事実と評価の混在」を見ても分かるように、ここは熱烈な信長ファンが編集してますからね。そして彼らは「他の大名を信長より下に見たい」という大きな特徴もあります。中立性を保つ編集にするのには相当手間がかかりそうです。--61.209.175.195 2007年4月16日 (月) 21:00 (UTC)[返信]

スプライトさんが本文を修正して下さったようです。ただ、私の書き方が悪かったのですが、上で挙げた例は抜粋であり、この文章だけではわかりにくいと思います。元に戻すこと自体に問題がなければ、もう少し待ってから修正させていただきたいと思います。--FOREST 2007年4月19日 (木) 09:09 (UTC)[返信]

修正しました。--FOREST 2007年4月23日 (月) 09:23 (UTC)[返信]

5月14日のFORESTさんの修正により個人的な感想や意見陳述がだいぶ整理され、いい感じになりましたね。私もなるだけ協力していきたいです。さてさらなる修正案ですが、総論にあるような評価は、全部いらないのではないかというのが私の意見です。評価は結局個人的な意見と結びついてしまうからです。もしあえてこの節を残すなら、出展付きの客観的な事実のみを記すことにしてはどうでしょう。例えば次のように。赤鬼大学鈴木某教授は著書『』の中で「私は信長を、と評価する」と述べている。一方歴史学者田中某は著書『』において「信長の時代的意味は、であろう」と述べている。てな具合に。皆さんのご意見はどうでしょう。--Hotsuregua 2007年5月14日 (月) 15:21 (UTC)[返信]

全て削除するのはためらわれたので、整理にとどめておきましたが、削除でも構わないと思います。--FOREST 2007年5月15日 (火) 09:58 (UTC)[返信]
検証可能性がないものすなわち客観的事実が記されていないものとして削除しました。--Hotsuregua 2007年5月17日 (木) 11:35 (UTC)[返信]

以下の部分について書き戻している方がいるようですが詳細情報(ソース)を明確にするため要出典を付しました。

  • 退避勧告を何度も出した後、尚も抵抗し続けた
  • 信長は、人間を巨視的に捉え社会を指導する技量には優れていたが、自分自身について他者からの理解や共感を得ることには、さほど関心がなかったのかもしれない
この箇所について個人的評論を排除し事実のみ坦々と記す文章に変更しました。--Hotsuregua 2007年5月24日 (木) 10:44 (UTC)[返信]

上の「善住坊」「小野殿」の件は私の書き込みがもとで差し戻し(復帰)が行われたのですが、中立性の問題とは別に、小中学生も読む百科事典にあまり残酷で生々しい記述をすべきでなかったかと、今さらですが少し気になっています。皆さんのご意見はいかがでしょうか。--FOREST 2007年5月21日 (月) 09:05 (UTC)[返信]

検証可能な客観的事実(歴史的資料がある)なら記述しても問題ないと思います。--Hotsuregua 2007年5月24日 (木) 10:49 (UTC)[返信]
ご意見ありがとうございます。事実かどうかとは別に、不快になるような文章かと少し気になりました。私が神経質すぎるのでしょうか。といっても、はっきりと、今のままではまずいと思っているわけでもありません。反対意見がなければ、とりあえず、このままにしておこうかと思います。--FOREST 2007年5月30日 (水) 09:15 (UTC

信長の家臣である、佐久間親子・林の追放についての記述で、信長の考えが革新的に過ぎ周囲のものに理解されなかったとの記述がありましたが、本当に理解されないようなものだったのでしょうか?

信長は、人材を活用する点で、給料分の働きをしなかった者に対して、「追放」という形の見せしめを行なったに過ぎないと思いますが? 古参の織田家重臣であった、佐久間・林はそれに最適であったのではないかと。。

この当時は、下克上の風が強く、下からの追い風がかなりあった時期です。理解できなかったということは、なかったと思います。信長は、神でも魔王でもなく人間ですから、神格化してみすぎるのは、信長自身を理解するうえで本質を見誤る原因になってしまうと、考えます。--狂気の森 2008年2月6日 (水) 14:22 (UTC)[返信]

秀吉の情報操作に付いて

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あたかも確定的な事柄であるかのように概要に書いてますが、どうなのですか?それに言及している研究論文はありますか?仮に研究論文があったとしてもそれが定説化していない限りは概要に書くべきこととは思えませんが。らりた 2007年5月24日 (木) 09:15 (UTC)[返信]

たしかに情報操作、ていうのは概要には不要でしょうね。--Hotsuregua 2007年5月24日 (木) 23:58 ) (UTC)

半保護について

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もう約半年半保護になっているので半保護を解除してもいいんじゃないでしょうか。利用者:うぃー2007年8月15日 (水) 9:22 ) (UTC)

私個人も、半保護状態が長いと思います。けれども、信長は人気が高いので半保護のままでも特に問題はないと思いますが?どうでしょう?
-- 2008年2月6日 (水) 14:56 (UTC)[返信]

信長の生年月日について

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無知で申し訳ないのですが、信長の生まれた日についてですが、これは、太陰暦でよいのでしょうか?

また、その他も同様に、日付については太陰暦の日付なのでしょうか?

英文のほうと異なっていたので、疑問に思ったのですが、、、

June 23 となっていたので。

--以上の署名のないコメントは、狂気の森会話投稿記録)さんが 2007年12月25日 (火) 14:54(UTC) に投稿したものです。

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Hi everyone! Could any administrator add the interwiki link to the catalan wikipedia. It's the following link:

ca:Oda Nobunaga

Thanks!to be conteniued(*:*) Gangleri20015465551154678797

以上の署名の無いコメントは、87.221.26.245会話/Whois)さんが 2007年6月17日 (日) 22:39(UTC) に投稿したものです。

信長の死体が見つからなかった理由(追加)

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最近の研究では、信長は、本能寺の変で明智光秀の家臣、安田作兵衛らの槍や銃で重傷を負い、地下の火薬庫を爆破させて死んだため、遺体が跡形も見つからなかったのではないかとも言われている。

お聞きしたいのです、あなたではないかもわかりませんが「本能寺の変」でも同様のことをが書かれてあるのですが、この出典はどこでしょう。状況からいって爆破されていたらイエズス会の教会(200mの近距離)の宣教師や信長の指示で最後に逃がした女衆がわかるはずなので『日本史』や『信長公記』に掲載されるはずなのです。また本能寺は12年の内に3回しか利用していません。普段は寺なので火薬庫を作り爆薬を置くとは思えないのですが。--奈良たかし 2007年9月27日(木)

信長の死体が見付からなかったのは、誰かが持っていったというのが一番可能性が高いと、思うのですが、皆さんはどうなのですか?
『爆死』は、当時としては先進的(こういっては不快かもしれないが)であったので、信長が『爆死』という死に方を
選んだと考えられているのではないでしょうか? おそらく誤りではないかと思うのですが。
私の知る上では、日本で(もしくは世界で?)初めて爆死という自殺方法をとったのが、松永久秀だったはずです。
古い昔からの考えやしきたり等を嫌い、新規なものに目がないと、思われていた信長がとった方法として考えられても不思議ではないと思います。
--狂気の森 2008年2月6日 (水) 15:10 (UTC)[返信]
持っていったというのは、阿弥陀寺の清玉上人のことですか。何しろ講談社版日本史15「織豊政権と江戸幕府」池上 裕子著にも史実として登場しますがかなり怪しい話です。土居と堀のある本能寺に生け垣を割り入ってはいるのですよ。
「本能寺の変」の項目で引用したのですが『信長は謀略で殺されたのか』鈴木眞哉、藤本正行著に「未発見の原因は、大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中に当時の調査能力で遺骸は見つけられない」とあります。例えば大阪城の天守閣で焼け死んだ淀殿と秀頼も探したという記録もありません。当時は建物が焼けその中で死ぬと見つからないのが常識ではなかったのでしょうか。--奈良たかし 2008年2月9日 (土) 08:10 (UTC)[返信]

第六天魔王という呼称について

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「第六天魔王と呼ばれた」は事実ですか?誰から呼ばれたのでしょうか?私が学んだ限りでは、自らが署名に使ったのみなので「自称」だと思いますが、間違いでしょうか?--Samanosuke 2008年1月22日 (火) 11:45 (UTC)[返信]

政策-内政について・・・

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本文の内政の部分で、楽市楽座を最初に行ったのが六角定頼となっていますが、定頼が行なったのは楽市のみで楽座は行なわれていません。

織田信長も全ての支配地に、楽座を行ったわけではないです。

(私的意見)

『座』は当時、商売上 重要な組織で、欧州のギルド・ツンフトにあたると思われる。
今では、[[カルテル]]行為にあたるとも考えられるが、この当時は、そこまでの思想が発展しておらず、また、その必要性もあまりなかったものと考えられる。
信長も、『座』という組織が、自身の支配に悪影響をもたらしてしまう場合のみに、楽座を行なったのではないかと考えられる。現に、堺における『座』会合衆(座と同一視していいのかはわからないが・・)は残っている。
『'''楽市楽座'''』が最初に行われたのは、柴田勝家の管理地であった北陸が最初であったはずで、このとき初めて楽市楽座が行なわれた。

私的意見:楽市と楽座を同一視する考えは、学校の歴史教育にあると考えている。各学校での教科書では、楽市と楽座を別々のものとしてでなく、同一のものとして書いている。また、教師もその教科書にあわせ授業を行なっているため、楽市楽座は一個の言葉として定着してしまった。これは、はなはだ問題である。--狂気の森 2008年2月21日 (木) 11:50 (UTC)[返信]

家臣と同盟者

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本文の家臣の欄に「徳川家康」が有るのですが、実質は家臣であったとしても体裁としては同盟者になるのではないでしょうか?--皐月えいの 2008年4月24日 (木) 06:44 (UTC)[返信]

  • 家康の家臣の日記に信長が「上様」と書かれているので、体裁は同盟者としても実質家臣であったことは間違いないと思われます。--彩華1226 2008年6月9日 (月) 18:41 (UTC)[返信]
  • 抵抗を考えない従属意識を持っていた事と、帰属意識を有した主従関係が公然のものだった事の二者は異なると思います。徳川家康が「事実上の/実質的な」織田信長の「家臣」であった、とした場合、連体詞も問題ですが、述語である「家臣」の意味内容によって真偽が揺れ動いてしまいます。清洲同盟の項目にも「実質的に家康は信長の臣下という立場になり」という記述がなされていますが、家人家来家臣団郎党家子の項目はあっても、肝心の「家臣」とは何であるのか?という点についてwikipediaでは定義がないようです><; 一応、大辞林には「家に仕える家来。家人。」とありますが、山川の日本史広辞典には「家臣」「家臣団」ともに項目が立てられていません。私は歴史学はまるで無知なので、学問的な定義があるのであればwikipediaにも紹介して欲しいです。「事実上、徳川家康は織田信長に仕えていた」と言うためには、先に信長の家臣団の構造を記述して、形式的には盟約関係にあったけれども、織田家にとって徳川家がこれこれの機能において信長から知行を受けていた者たちと同様の役割を果たし、徳川家はこれこれの点において織田家と併置されうる戦国大名としての性格が失われていた、といった説明を入れておいて欲しい所です。徳川家の家臣が「上様」と呼んでいたから、という理由は、家臣でない者は信長を「上様」と呼ばないとは言えない以上、証因として成立しません。--218.110.119.160 2008年7月6日 (日) 19:22 (UTC)[返信]
    • 「上様」だけで家臣と断定するのは、どう考えても暴論ですね。上様と書いても、辞書的には「身分の高い人の敬称」にも取れる言葉。主従関係は証明されない。そもそも徳川家を家臣とする出典があるのだろうか? 無ければ、要出典を貼るとか、さもなければ削除して構わない記述だと思います。--カイの迷宮 2008年7月7日 (月) 12:08 (UTC)[返信]

朝廷政策の章について

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谷口克広「検証本能寺の変」で、信長と朝廷の関係についての論点とこれまでの学説がまとめられていたので、それに基づき加筆修正を行いました。--彩華1226 2008年6月9日 (月) 18:41 (UTC)[返信]