ノート:細川勝久
蔭凉軒日録(の転記)によると延徳三年の1月 足利義視死去。 6月に細川之勝は幕府に出仕し、将軍義材より一字を与えられて「義春」と名乗る。 10月に川辺で争乱が生じた。と言う流れのようです。 となると、備中大合戦のあたりの記述がやや時間軸のねじれを生じた文章になるような気がするのですがいかがでしょうか?
これで質問になりますかね...
--8888aa8888 2009年2月20日 (金) 20:46 (UTC)
- 『中世備中の歴史』で勝久の死後の備中守護として登場する「細川駿河守」の人物比定について論じた部分があるのですが、時系列が明示されていなかったので誤読してしまったようです。もう一度読み直してみると、備中大合戦の結末として、庄氏が推す文亀2年に細川之持(之勝(義春)の子)が守護となったのではないか、との結論になっていましたので、暫定的にそのように修正しておきます。混乱させてすみませんでした。--Kangoshiyouichi 2009年2月22日 (日) 15:58 (UTC)
拝復いたしました。
『中世備中の歴史』を読んでみましたが、駿河守に相当する細川氏一門を探すとなると、義春の孫に昌勝(政勝):駿河と言う人物が見受けられます。
家系図では(自分でも分からなくなるので書かせて頂きます。)
義春→氏久:下総→昌勝(政勝):駿河→元定1537~1595→全隆1570~1658
また周囲の人物の活動年代は
成之(義春の父)1434~1511 政之(義春の兄)1455~1488
義春~1497 之持(義春の子) 持隆(之持の子:昌勝(政勝)の同世代では?)1497~1553
澄元(義春の子)1496~1520
となりますので、1500年付近では、この昌勝(政勝)あたりが後継に挙げられるのは不自然ではないと思います。 となると名が違うと言うことになりますか…。
個人的には、与党(この場合は実家)を守護職に押すのは自然なことだと思います。高国が政春を守護に補任したと言うのもそういう事だと思います。
ただ細川之持が、備中守護に任命されたのは1511年となっていますから、(ところが澄元が京兆家の家督を追われるのが1508年です)、少し微妙な感じがしませんか。
澄元→之持を、高国→政春をと言うのは、まとまりも良く対の形も美しいのですが、そのままでは少し無理があるような気がします。 (意外にも澄元→氏久、高国→之持とかの構図があったかもしれません。空想ですが。)
加筆を楽しみにしております。
さて細川通薫が備中守護家の後裔と言うのはどう思われますか?
これらは「長府細川氏文書」に書かれている内容では、と類推しているのですが、備中守護家はその勝久の代で事実上消滅したと思って居ます。彼の郎党も離散、吸収されたはずでそれを追ってはみているのですが、勝久の在国守護所でさえ不詳です。当時の中心地である総社市近郊とは思うのですが、ご存じですか?
与党の石川某はその南側に城を構えています。高梁川の西向こうは庄氏の勢力範囲のようです。ちなみに当時の浅口郡は、陸伝いでは街道から外れた辺境の地です。
話しがそれましたが、「長府細川氏文書」では通薫が家督を継ぐ前までに、備中国の浅口・小田、伊予国宇摩・温泉の都合21万石余を領知したような記載があるとのことですが、これは江戸時代の検地の後の話しでしょうし、その感覚で自家を誇ったのではないでしょうか。それ以前は備中守護であったという感じで、言葉は悪いですが同じ守護の家柄でしょうと言う乗りではないかと思っています。 --8888aa8888 2009年2月25日 (水) 03:30 (UTC)
- あまり難しい話を振られると困ってしまいますが(笑)、之持については、確実に備中守護であったことが確認できるのが1511年というだけのことであって、任命時期はそれより前だという趣旨の推論を『中世備中の歴史』の筆者氏はとっているようです。通薫が備中守護家の後裔と呼んでいいかどうかは、学者の解釈があればそれに従えばいいとは思いますし、それが見つからなければ「備中細川氏」ぐらいの曖昧な表現にしておけばいいかなと思います。--Kangoshiyouichi 2009年3月28日 (土) 05:01 (UTC)
お便り?有り難うございます。 年代はなるほどと思わせます。Wikipediaの守護家の記載は微妙な(学者の解釈と言うよりも伝聞を記載しているような気がします。)印象です。まあ私もにわか歴史家なので知らないことの方が多いですから、ほとんどうけうりですが(笑)。また教授賜れば幸いです。 追伸 通薫 通政の通は誰の通でしょうかねぇ.....。--8888aa8888 2009年4月8日 (水) 04:26 (UTC)