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ノート:精神分析学

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文化的影響度、というのはもしかすると僕が追記した人文諸学での影響力と同じものでしょうか? よくわからないので一応残しておきました。Tomos

フロイトの思想そのものが、20世紀の文化にとってはトラウマかもしれませんね。Jedi 19:27 2003年10月11日 (UTC)

現在の本文の内容では、精神分析に対する批判色が強く、ウィキペディアに求められる中立性からははずれてしまうように思うのですが、いかがでしょう?もちろん、批判自体が悪いわけでは決してありませんが、辞典という性質をもつウィキペディアにおいては、極力、価値判断は最小限にとどめたほうがよいと思われます。異論がなければ、もう少し批判色を抜いた内容に書き換えたいと思います。

「精神分析への批判」の部分を具体性を持たせるように補足しました。精神分析の価値の半分は、すでに歴史的な意義としてのものなのかもしれませんが、現代でもある程度、役に立っているのではないでしょうか?反面、精神分析の科学性や費用対効果について多くの疑問が出されています。日本でも厚労省が「こころの健康科学」などのプロジェクトでこの分野の研究をすすめていますので、これから様々な客観的なエビデンスが出てくると思います。
またさまざまな批判が、なぜか精神分析そのものの否定に向かう傾向がありますが、同じ批判が精神分析の手法の改善につながる方向もあるのではないかとも思います。現在精神分析的な治療をうけている途中で、生き死にの境を出入りしている患者さまもいると思います。愛のない(≒あまりにも中立性を欠いている)批判は控えるべきと思います。--Mexicanhat 2004年9月18日 (土) 14:01 (UTC)[返信]


費用対効果を復活させました。

精神分析への批判のひとつに、「費用対効果が充分なのか?」というものがあります。通常、認知行動療法などに比べて精神分析療法は長期間を要し、治療期間中に行動化を起こしたりして救急医療を利用したりします。それゆえ、たとえ有効性があったとしても、ほかに比べて格段に高い治療法だということになればよくない治療法ということになります。コストも勘案した臨床研究がなされなければいけません。よって、そこの一文を復活しました。

また、「現在も精神分析は行われているという記載は本当かどうか?」という疑問もありましたが、もちろん事実です。フロイト流そのものの古典的精神療法を行う人はほとんどいないと思いますが、新しい理論に基づいたものは、全国の精神科病院、クリニックなどで保険診療によって、あるいは自費診療で臨床心理士によって行われています。そもそも保険医療で「標準型精神分析療法」という点数が取れるくらいです。もっとも、イコール有効、かどうかは別の問題ですけど。--Mexicanhat 2004年9月19日 (日) 09:08 (UTC)[返信]

独立した記事

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「精神分析学批判」というタイトルで独立した記事を書いてはどうでしょうか?

本文中ではすべて「精神分析」なのに、項目名だけが「精神分析学」なのは変ではありませんか?

カテゴリ整理

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Category‐ノート:精神医学の議論の従い、この記事を一端Category:精神医学から外してCategory:医学に集めた後、どのように再分類すれば整合性が良いか考えて参りたいと存じます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。--Tanadesuka 2005年1月17日 (月) 10:31 (UTC)[返信]



全体的に、奇妙な文章を省き、中立的な表現(精神医学や精神療法全体への批判を精神分析単体にかぶせすぎない)を増やし、的外れな批判(文献による有効/無効の判断)、ある特定の科学哲学への過度の傾倒(科学哲学は科学そのものではありません)を省き、批判をテーマ別に分割するようにしました。--58.70.86.164 2007年5月24日 (木) 20:54 (UTC)[返信]

科学哲学からの批判の項で「精神分析も科学ではない」と言い切っていますがこれは大丈夫なのでしょうか。科学でないのに学問を名乗ることはまさに疑似科学批判が最も問題視する点ですし、開き直りに聞こえてしまいます。表現を変えるとかして何とかした方が良いのではないかと思います・・・。--124.211.118.91 2008年5月8日 (木) 17:40 (UTC)[返信]
国語学が学問なのか学問でないかが疑問にならないように、科学である事と学問である事は別です。--Yamanva 2009年5月16日 (土) 09:27 (UTC)[返信]
(追記)それとそのあとで反証可能性に対しての批判というか疑問(デュエム、クワインからの)が挙げられていますが、たしかに反証可能性が確実に疑似科学を見分ける基準にはなり得ないとしても、有力な基準にかわりはなく、そして精神分析が反証可能性を持たないという弱点が消えるわけではありませんよね。ですからむしろ、デュエムクワインのくだりは論点すり替えに見えてしまいます。消すともめそうなので手を出しづらいのですが。--124.211.118.91 2008年5月8日 (木) 17:47 (UTC)[返信]
私の理解ではデュエムクワインのくだりは「全体として科学である事を全うしている真の科学が存在するというのは幻想である」ということを示していると思います。つまり物理学ですら比較的に科学だということです。「(前略)有力な基準にかわりはなく、そして精神分析が反証可能性を持たないという弱点」はポパーの科学哲学の定義上はそうなるだけです。--Yamanva 2009年5月16日 (土) 09:27 (UTC)[返信]

編集に際してのお願い

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ウィキペディアの精神分析学に関する記事の内容は全体的に適切なものが多いです。しかし所々に「精神分析=疑似科学である」もしくは「科学的ではない」という言葉がもぐりこんでいます。人物や物事や学問など他の記事はみなそうですが、まずは「精神分析とは何か?」を中立的に説明・記述する事を第一とすべきではないでしょうか?

実際に精神分析学はその科学的妥当性に問題が提起されていて、それは昔も現代も変わりません。ただしウィキペディアはその科学的妥当性の批判を討論する場ではありません。それらの非難については記事の後半にまとめた方が良いと思います。前半はまずは中立的に一般的な精神分析学の説明をすべきだと思います。

この事はウィキペディアの編集方針からして妥当だと思われます。世間的に精神分析は非常に科学とは見られてはいないという意見が強いのは確かですが、批判と説明は分けるべきです。これは学問において理論と主義を分けるのと似ています。個人的過ぎる精神分析学への科学的批判を避けるために、このような処置を行う事を私は提案します。

まず精神分析学の記事の説明と批判をしっかり分けて書く事が編集者には望まれます。まだ現時点では精神分析学の記事の多くは中途半端に説明が終わっています。これから精神分析学の記事を編集する方には、説明と批判を分けて記述するようにお願いします。つまり前半は説明のみを出来るだけ書き、後半に批判を書くという事です。

この問題は「精神分析」という記事特有の問題だと考えられますが、その事を考慮して、これから記事を編集する方にはこの問題を出来るだけ配慮して頂きたいと私は提案する次第です。 --Scorecode 2009年11月26日 (木) 13:35 (UTC)[返信]

前半には説明を書き、後半には批判を書くと言いましたが、これは説明の章と批判の章を分けるという事です。科学的妥当性への批判においての中立的な記事は、精神分析学の説明とは別に、新たな章を設けてその中に出来るだけまとめようという事です。既にそれなりに、批判に関しての独立した章が設立されて内容はまとめられていますから、批判についての文章は出来るだけそちらに書いて頂くのが良いと思います。--Scorecode 2009年11月26日 (木) 15:02 (UTC)[返信]