ノート:管仲
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挙げられた3つの書籍が保証しているのは「当時が都市国家の集合体」であるということであって「この話は後世の偽作であると考えられる」は保証していません。これでは出典になっていません。「この話は後世の偽作である」と考えている出典を提示してください。ついでにいうと春秋時代は点の集まり、戦国時代は面の領土というのはあくまで傾向であって全部が全部そうだというわけではありません。春秋から戦国に切り替わった途端に点の支配から面の支配に切り替わるというわけではなく、春秋から戦国にかけて徐々に時間をかけて地域偏差を持ちながら移行していったということです。春秋時代が点の支配であったという傾向があったとしてもこの話が虚偽であるとはいえないということです。らりた 2009年4月28日 (火) 12:01 (UTC)
- そうですね。同様に真実とも言えません。史記は間違いも多く指摘されており史記にあると言うだけでそのまま信用はできません。この部分は削除が望ましいと考えます。点と面については戦国時代に於いても領土的思考による戦略は范雎の遠交近攻策まで待てねばなりません。春秋の前期に於いて「見送りは慣わしで国境まで」は、逆にそれを補足する資料が必要でしょう。--Shisan 2009年5月7日 (木) 05:46 (UTC)
「没後」の節について
[編集]ノート:荀イク#「王佐の才」についてで述べさせて頂いたように、管仲は最高の臣として評価されたとはいい難いように思われます。諸葛亮が管仲にあこがれ、陳寿が諸葛亮を管仲に比したのは管仲の法家的姿勢に着目してのことではないでしょうか(諸葛亮や陳寿の真意を忖度するのがここでの目的ではないので、これ以上は深入りしませんが)。ともかく、両人が管仲に言及したことを根拠として管仲を「最上級の内政の才、最高の臣の代名詞」とすることは難しいでしょう。--Fish40 2011年9月4日 (日) 17:38 (UTC)