ノート:筑前内野駅
設置の経緯が出典元とされる書籍に書いてある内容と異なる
[編集]2024/10/03時点では"日鉄嘉穂鉱業史より"として下記があった(初出 2008年5月17日 (土) 01:19時点における版 Kotaro83/Deappel)
1928年の長尾 - 筑前内野間開業は、本来は手前の上穂波までの延伸予定だったが、当駅が終点になることで、内野の地名をアピールでき、町おこしにつながる、と住民運動が起こり、筑前内野まで延伸された経緯がある。しかしわずか一年後の1929年には原田まで延伸され、住民の思惑は外れることとなる
該当すると思われる"嘉穂炭鉱史"を確認すると "一方、内村村には、今回の長原線建設を内野どまりにしてもらおうとする動きもあった。鉄道の終点になれば、その土地が有名となり、何かにつけて利益が多いというのである。内野村民にしてみれば、そんなことのほかに、阿恵に上穂波駅ができれば、内野駅が将来廃止になるのではないかとの杞憂もうまれたのであった。"「第一章.上穂波開坑 第二節.開坑準備 新駅設置決定の遅延」『嘉穂炭鉱史』日鉄鉱業嘉穂鉱業所、1967年、116頁。doi:10.11501/3444910 。 というそれらしき記載はあるが、その前段では下記のように述べている。 "新会社の設立は 長尾-内野間の鉄道開通をめどとしていた。設立時、その開通はもはや時間の問題ではあつたが、上穂波駅設置はもともと鉄道省の計画にはなかつたので、先ず、新会社が取り組まなければならない大きな問題であつた。"「第一章.上穂波開坑 第二節.開坑準備 開坑をめざして」『嘉穂炭鉱史』日鉄鉱業嘉穂鉱業所、1967年、107頁。doi:10.11501/3444910 。
つまり、元々、内野駅は最初から設置される予定で、炭礦への利便性向上のため上穂波駅を設置するという動きがあったが、そうすると利用者数が少なくなる内野駅は将来廃止されるのでは?という危惧があった、というのが主であり、町おこしのための住民運動なるものの存在はない、と思われる。--Osakanataro(会話) 2024年10月3日 (木) 00:57 (UTC)