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ノート:第一次上海事変

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終わり方ですが。 当初、上海の日本軍は3500人の海軍陸戦隊しかいなかったが、後に上海派遣軍が編制され、中国軍を上海から放逐。現地で停戦協定を結んで終結、満州から目線をそらす目的も果たした。 …ので、そこは一言書いておいた方が良いのではないでしょうか。202.32.149.98 2005年11月1日 (火) 17:44 (JST)

この編集で田中隆吉の証言が単なる謀略説のように扱われていますが、学術的に謀略であることが否定されているんでしょうか? johncapistrano 2006年3月14日 (火) 07:09 (UTC)[返信]

その編集を行った者です。最初にご質問の点にお答えしますと、「日本の謀略とする考え方」の正誤を断定する趣旨による加筆ではなかったことをまず申し上げます。その回の加筆の趣旨ですが、元々の文章では兵員数や重藤憲史・川島芳子の関わりなど必ずしも明確ではない情報も混じっておりましたので、「誰から見ても疑いのない客観的情報」と「田中隆吉証言などに基づく真相ではないかと考えられている情報」等とを、章として分けるのが適当と考えて処理しました(悪意の加筆者による誤情報の混入の危険を減らしたいという考えもあります)。章名としては一応「日本による謀略とする考え」としましたが、これについては私自身もあまり適切な命名ではないと思っております。より良い命名があれば是非ご修正ください。但し、分けること自体は今のところ適当と考えております。
なお、参考までに英語版においては日本の謀略と断定してはいますが個々の謀略首謀者とされる人物について記述はありません。また、中国語版においても基本的に淡々と軍事衝突の客観的事実について記述されているだけのように思います(読み誤りなどあれば申し訳ありません)。そこで、第19路軍の話や事件経過の日時などを加筆するとともに、章を分ける処置をとりました。また、「盧溝橋事件」の記事でも客観的情報と「事件の謎 ~1発目を誰が撃ったか?~」とは別の章として処理してあることも申し添えます。もっとも、私もこの方法が絶対に良いと思っている訳ではありませんので、ご意見があれば是非お聞かせください。Kawai 2006年3月14日 (火) 08:27 (UTC)[返信]

19路軍

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19路軍の最後ですが 「給与支払をめぐる暴動を起こし」ではなく、共産党と協力する新しい政府を作ろうとした武装蜂起でしょう。 また、蔡廷锴も殺されていませんでした、革命が失敗後に海外へ亡命、1935年に帰国、1968年まで生き延びました。詳細は中国版を参照してください http://zh-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E8%94%A1%E5%BB%B7%E9%8D%87&variant=zh-cn

エドウィン・パーマー・ホイト

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「歴史学者エドウィン・ホイトは、その5人が軍国主義を認め、特に事件を起こすために上海に行ったと記述している」という記述についてですが、誤訳ですよね。Edwin Hoyt, Japan's War: The Great Pacific Conflict の98頁には、(Later it was learned that these Japanese were ultranationalist priests who had come to Shanghai specifically to provoke an incident.) とカッコ付の文章が本文中に書かれています。翻訳すると、(後に、これら日本人が、専ら事件を画策する目的で上海に来たウルトラナショナリストの聖職者たちだと分かった。) という感じです。「ウルトラナショナリスト」という用語が英語版ウィキペディアにあるUltranationalistの意味で使用されているとすれば事実誤認です。上層部の人々にはアジア主義者が多かったようですが、「国家を超越した」という意味で「ウルトラ・ナショナル」なのかなぁとも思いましたが、そういう使いかたはないみたいです。もっとも、組織の末端までアジア主義が浸透していたのか否か分かりません。被害者の天崎啓山、水上秀雄 後藤芳平、黒岩浅次郎、藤村國吉のうち、天崎啓山は上海に不案内だったような感じはしますが、玻璃商の藤村國吉は既に商売をしていて、『紳士録』を見る限り、少なくとも1939年までは上海で同じ商売をしています。「専ら事件を画策する目的で上海に来た」というのも難しいです。そもそも、本人の主張であればカッコ内に入れる必要などなかったわけですから、括弧が付け加えられている以上、本人の主張でない可能性があります。編集者が加えたのかもしれませんが、このような初歩的な事実誤認はエドウィン・パーマー・ホイト氏にとって不名誉なことになってしまうわけです。次に、エドウィン・パーマー・ホイト氏は歴史学者ではありません。『新訂増補 西洋人名・著者名典拠録 1 A~K』日外アソシエーツ、2004年11月25日 第1刷発行、ISBN 4-8169-1867-1、1122頁では、「Hoyte Edwin P. アメリカのノンフィクション作家」となっています。また、エドウィン・ホイト著・樋口清之監訳『世界史の中の昭和天皇 「ヒロヒト」のどこが偉大だったのか』(クレスト社) の著者紹介では、「海外特派員として活躍後、文筆家に。戦史ものなど、著者多数。」となっています。幸いウィキペディアではWikipedia:信頼できる情報源から外れるようですので、除去しておきます。これで故人の名誉が守られたかどうかはわかりませんが。。。Takabeg会話2019年3月30日 (土) 12:40 (UTC)[返信]

愛新覚羅顕琦

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网易はポータルサイトであって、网易新闻の記事は、他からニュースを持ってきて配信していました。本記事の場合、中国网で2008年2月15日に配信された 我的姐姐川岛芳子の存在を確認しました。中国網は、政党直属ですのでWikipedia:信頼できる情報源とはみなせませんよね。オリジナルのものか、二次資料をもってこないと不味いです。金默玉が口述して、金宝山が撰文 (作文のこと) となっていますが、いつ証言をとったのかについては、興味が湧きます。15年の投獄生活中だったのでしょうか、それとも7年間の強制労働のときだったのでしょうか。いずれにしてもWikipedia:信頼できる情報源を捜さなくてはダメ。Takabeg会話2019年3月31日 (日) 12:25 (UTC)[返信]