ノート:科学的方法/過去ログ1
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英語版を参考に簡潔に記述。Jedi 12:25 2003年10月7日 (UTC)
既に加筆依頼が出ているため、のぞいてみましたが、この記事は全面改定をしたほうがよいのではないかと思います。 僕は、ある程度研究のやりかたとかについて知っているつもりですが、 この記事は、その僕にとっても何を言っているのかよくわからないものとなっています。
また、個々の論点掘り下げ方が甘すぎるため、到底調べものの役に立つ内容に
なっているとは思えません。また、項目レベルにも不統一感が否めません。
ここで個々の論点掘り下げ方が甘すぎるというのは具体的には下記のことを意味します。
- ベーコンだなんだといった思想がらみに手をつっこんだはいいものの、その内容を十分論じきれていないため、辞書で食ってきた言葉を適当に並べただけの文章と大差ないものになっている。
- いろいろな判断を述べているが、その根拠となる出典が全くない。(独自研究を疑ったほうがよいかもしれない程に)
また、英語版も参照してみましたが、現時点においては分量、内容とも全く別のものです。
以上を踏まえスダブへの降格が相応しいと考えます。
尚、個人的な印象ではありますが、論文もろくに書かずにえらそうなことばかり言っている”研究者”が 何人かいます。こういった連中が科学を”啓蒙”することに僕は疑問をもっています。 この記事の内容は、どうもそういった連中のものの考え方に近いようにみえます。 彼らは、なんだかよくわからん「○○主義」というのを持ち上げ、今の研究者を嘆いてみせますが 「どうすれば人並に論文ぐらいはかけるようになれるか」という視点が完全に欠落しています。
夜仮面様 2008年5月10日 (土) 13:36 (UTC)
少し言い過ぎました。ごめんなさい。ノート上の言い過ぎた部分を削除します。--夜仮面様 2008年5月11日 (日) 11:45 (UTC)
独自研究について
科学的、非科学的という言葉というのは、問題が広すぎて、それゆえに 不毛な議論が巻き起こるわけです。不毛かどうかは哲学以外の一流の研究者が ベーコンだヘーゲルだといったことに蘊蓄をたれることは ないことと、この手の話題をこのんでする哲学以外の 連中のあまりに短い業績リストが雄弁に物語っています。
今回の僕の加筆はすでにご覧に なられているとは思いますが、文献1の諸外国の 科学リテラシーに関する教育方針をベースに書いています。 この文献は、特定領域という大型のグラントの研究成果報告書 なので、その分野では当代一流とみなされている人間が 書いているという点においては十分権威ある内容です。
この内容は、基本的には ファインマンの見解や、ある程度の名の通った 研究者の手による研究方法に関する本(いわゆるアカデミックスキル に関する本)そして、 実験計画法や疫学などの知見とも反していない ものと認識しています。ただし、報告書の著者を含めて彼らは 科学全般に対して論じようとしないほどには賢く、話題を限定してその中で 最良の解を出す知恵ぐらいはあるものだから、 すぐに、自分の分野の優れた研究の流れという具体的な 話に入ってしまうため、これを1個1個解説するとなると おおごとになります。
現時点において、僕に出来ることは、現代において どうすれば、科学的と認められるのかということについて 「論文がアクセプトされれば科学的なんだよ」とか、 ような身も蓋もない言い方をせずに言うぐらいでしょうか?
それで適任かどうかはわかりませんが。 --夜仮面様 2008年5月11日 (日) 12:19 (UTC)
「科学的な方法とは○○である」という書き方自体は、普通はしないので、多少難しかった面があり、また、僕は多少物事をフランクに書きすぎるきらいや、「ピアレビューは絶対だ」だとか「科学なんだから正しい」だとか「正しけりゃプロセスなんて」といった次元の低いことを考えている連中を対象として 書いいますので、まぁ、「少し変」に見えるのでしょう。今回は少し「フランクに書きすぎた」という意味で、独自研究を貼られたことについてはしょうがなかったと思っています。
現時点で、一通り、「物理の推論には飛躍がある」といった極めて当たり前の話も含め、誠意を持って出典を示し、出典を示しにくいものについては当たり前のことであっても、記載しないことにしました。また、文章も比較的フォーマルに直しました。以上を踏まえ、 「歴史」以外の部分の独自研究タグ消去を提案します。1週間後までに異論がなければ、合意形成とみなします。
尚、文献の書式等については、こちらも暇な時に直すようにしますが、出典要求された方が中心となって、整合するようおねがいします。 --夜仮面様 2008年5月24日 (土) 06:46 (UTC)
僕の加筆当初の内容は、実は、極めて有名な「すべてのアメリカ人のための科学」の影響を強く受けていたのですが、 「信頼できる日本語訳」の存在を僕は知らなかったので、変にこれを押して、 英文読解力にとやかく言われる事態を避けたかったので、あまりこれを表に出すことはしませんでした。 解釈の間違いが出ると怖いので。そういう意味では不誠実な出典のしかたをしていたのでしょう。ごめんなさい。
この書物について再度探してみると文部科学省訳があったので、全面的にこれを押します。英語版については1章については過去に熟読し、その他についてはざっと斜め読みしています。日本語版については さきほど斜め読みした限りでは、「僕の英語読解力もまんざらではない」といったところです。
関係する箇所は、[1]の 15ページから17ページぐらいです。
また、僕がさっき消したぼくの記述、つまり「だからどうした」が重要だという話も、 ニュアンスを変えれば復活できるかもしれません。 この辺は、元の英語版を読むときに、良くわからなかった点を勝手に補ってしまっていた 部分だとかあるいは若干ニュアンスに誤解があったと思われる場所ですが、 僕自身の経験によると「それに相当するものを正しく理解すること」は 重要だと思うことです。
(英語版を熟読した者ならば)斜め読みでも十分な個所については手を加えましたが 日本語版を再度熟読したほうが良い気がするので、今週はこの辺にしておこうと思います。 この書物は、とても有益な示唆に富んでいるので、今回の議論にかかわった人たち諸賢 にも一度読んでもらいたいと思っています。(日本語版の1章だけでよいので)
尚、この書物の権威については、出所がサイエンスを発刊しているところだの一言で十分でしょう。 これで、一次資料として十分な要件をみたしているかどうかわからない人は、 科学に関しては経験がほとんど無いわけで、少なくとも現実の科学についてとやかく言うのは よしといたほうがよいでしょう。
--夜仮面様 2008年5月24日 (土) 07:54 (UTC)
- こんにちは。初めまして。節「科学的な論証方法」における以下の一文『例えば、現実の問題として、ニュートンの運動方程式ですら一般には解けないどころか、近似もあてにならないことが数学的に証明されてしまっている(ポアンカレの幾何化定理)。』のところが突然で、また例として何のことを意味しているのかさっぱり理解できない(恐らく私の個人的な数学の勉強不足に起因するものとは思えません><;)ため、もう少し噛み砕いて(ないしは別の例で)解説いただけませんでしょうか。--ネコバット 2008年5月24日 (土) 07:59 (UTC)--ネコバット 2008年5月24日 (土) 08:00 (UTC)
すみません。ポアンカレの幾何化定理は、単連結性の問題です。訂正しました。ご指摘ありがとうございます。--夜仮面様 2008年5月24日 (土) 08:19 (UTC)
ネコバット様、ご指摘のように、 全般的に「グダグダ感」があることをご容赦ください。極力誠意を持って早急に直すようつとめます。 少しエッセー的かもしれません。いずれ誰かが指摘するでしょうが。
世の中には大学のサーバーに掲示板を作ってそこで 不毛な議論をしているだけの「職業研究者」がおりまして、これは情けない限りなのですが、 「後進がこうならないですむように」というせめてもの親心から、 「あまり資料がないし、若年者に対する信頼に足る明確な指針がない」「研究の仕方」に関して 変に哲学やトンデモに嵌らないよう記事を書いています。「世間の常識」とは 若干異なることもあり、また、諸説あるものをまとめたりする過程で いろいろな問題が生じることが多々あります。また、 日本語の癖とかは、時間がたつにつれ改善されますが、 初版に近いものにおいてはよくあります。
もっともそのレベルならば、今や僕は「信頼に足る日本語訳」を見つけた http://www.project2061.org/publications/sfaa/online/sfaatoc.htm と、初等教育向けの報告書 http://www.nier.go.jp/ogura/TokuteiRep0602.pdf の科学リテラシーの項目を見れば十分な気もしますが、
部分的にはそのレベルを超えたことにも言及しています。概して、 「科学が建設される現場」 もっと言えば、査読の応酬の現場や、主要論文 に関するクロスリファレンスのあり方のようなものまで 比較的正確なイメージを(この点については、独自研究を指摘されるまでは 僕自身も個人的な経験と、自分で読んだ論文の数々 からの推察しかないので、記事を書く過程でまさにここだよというところをえぐりだしてくれている記事 http://as2.c.u-tokyo.ac.jp/~shmz/zakkifiles/02-08-05.html が見つかってよかった。)
根本的な加筆方針は
- 科学的方法の対象の議論からは、速やかに離脱する。なぜならば絶対に話がまとまらず、不毛だから
- 代わりに「方法論」、つまり「どうすれば科学的と認められるのか」については、手厚く述べる。これは研究者レベルではある程度まとまるから。
- 「査読」とか「科学的方法」とか「再現性」という言葉を無意味に神格化しない。
- 論理的に飛躍を認めざるを得ない合理的な理由と、論理的な飛躍の限度についての判断について、「科学が建設される現場」が見えるよう、解説する。これは研究者にとってですら難しく、査読というのはこれをどう勘弁してもらうか、勘弁ならんと突き返すかの戦いなのですが…。
- データの取得、統計的な検定のありかたについて、これも「節度の問題」でエグイ方法がたくさんあり、なにせ、「善悪の判断」といいますと、みんな尻ごみしてしまい、「どこからを有意とするか」については、”禁則事項”なわけですから。査読というのはこの点の戦いでもあるのですが、その善悪の基準となる考え方が一応はあることを説明する。個人的には疫学をもう一段進化させた、スポーツ統計というのが、かなり面白いと思っているのですが…。
- 科学が建設される現場の大局像を解説する。これは、前期量子力学の歴史でも解説すれば、概ねよいと思っていて、独自に作ったフィジカルレビューのリストなんかがありますが、英語や物理の誤解を言われるのも嫌なのでどうしたものか。これについては、いくつか総評的な本の候補があります。
です。「すべてのアメリカ人のための科学」というのは、多少曖昧な書き方をしている部分もありますが、 関連する箇所は1章に限定されると思うので、読まれた上で、記事を修正したほうが良い部分(実は僕は 日本語版は斜め読みしかしていない)については、勝手に直すもよし、指摘するもよしと思っています。 --夜仮面様 2008年5月24日 (土) 13:55 (UTC)
既に多数の方からさまざまなご指摘をいただいておりますが、
以前にここで提案した「独自研究テンプレートの除去」に関しまして、
ここで予告した期間(1週間)がたち、特段の異論もないので
合意形成済みと判断し、テンプレートを除去します。--夜仮面様 2008年5月31日 (土) 05:22 (UTC)
例とか
このことは、神がかり的なカリスマ経営者が一代で巨万の富をなし、その後も尊敬され続けることがある一方で、経済学を駆使して立案した精密な投資計画が大損を招く可能性があることからもよく分かる
科学の例で投資の話を持ってくるのは違うと思います。
また、「科学的であるか否か」と「正しいか否か」とは、別問題である
このくだりを、「現実的に"正しい"か否か」に直すか、 「科学的に正しいか否か」と「現実的に役立つか否か」は別だ、とかにしたほうがいいと思います。<参考:科学の方法 中谷宇吉郎>
--Yesterdayforthem 2008年5月14日 (水) 07:06 (UTC)
ご迷惑をおかけしています。
力量に見合わず手を入れすぎました。
投資については、投資は経済学、数学に基づいて
いるいわゆる投資信託のようなものをさしているので
これは科学にしてよいのではないかとおもいます。
正しいか否かについては、僕自身もそのようにしたがよいとおもいます。 土日に直すつもりです。--夜仮面様 2008年5月15日 (木) 11:00 (UTC)
デカルトは古すぎる
>概して言えば、より一般に、「適切な証拠(測定方法を含む)の存在」、「適切な推論過程の存在」が科学的方法を特徴づけている[1][3]。つまり、科学的な方法においてはこれらの特徴が認められる。 デカルトの指標が科学的か否かの最良の指標であるかのようにかかれていますが、「科学的な方法においてはこれらの特徴が認められる」というのはいいすぎです。実際、直後にファインマンの文献を引用していますが、ファインマンの考え方は、デカルトの考え方と全く一致していません。
>科学的な方法においては、ある現象を説明する場合に、「なぜそうなるのか」という哲学的な問題を棚上げした上で、「その現象がどのようにふるまうのか」に着眼する傾向がある[5]。
たとえば、ニュートンが万有引力の法則を説明するとき、『2つの物体の間には、物体の質量に比例し、2物体間の距離の2乗に反比例する引力が作用する』と説明するが、なぜ引力が作用するのかという問題は解決されない。ニュートン以後の物理は「適切な証拠(測定方法を含む)の存在」がなくても「モデルを作って、それが普遍的だと仮定して推論を行う」という立場にありますし、ファインマンの時代にはすでに、ニュートン力学は普遍的ではなかったと知らしめられた後ですから、基礎理論の普遍性という考え方は消えていて「モデルを作って、それが成り立つ限りどのような現象が起こるのか推論を行う」になっています。
そもそもデカルトは、ニュートンが生まれる前(科学革命が完成する以前)の人物で、現代的な科学的方法を全く知らないのですから当然この不一致は発生します。デカルトの条件が、「古典的な科学的方法」を表していると示すなら、「現代的な科学的方法」を対比して明示するか、まるごと省略するのがよいとおもいます。
--H335 2008年9月2日 (火) 05:43 (UTC)
全体的に無駄な説明が多いように思いますし、文献の引用の仕方も中立的で誤った解釈を勝手に付加している部分が多いです。(たとえば、「例外があるがほとんどの研究者が一致している」という書き方は、どの程度一致しているのか不明瞭ですし、どのような反対意見があるのかわかりません。文献もひとつの文献に依存しすぎていて実質的にコピーペーストに近い状態になってる部分もあります。ところどこある実務者にとっては~というのは科学的な方法の解釈とはまったく関係ない解釈であることが多いです。
科学的な方法が歴史的にどう確立されたのか、どのような広がりをもっているのか、どのような方法を科学的な方法と呼ぶのかを説明すべきで そうだとすると大分冗長です。
大胆が編集を試みようとおもったのですが、積極的に参加されてる方がいるようなので、一旦停止しました。 --H335 2008年9月2日 (火) 07:01 (UTC)
>デカルトの指標が科学的か否かの最良の指標であるかのようにかかれていますが
そのような解釈を与えるとしたら申し訳ありませんが、そうは書いていません。 まず最初にデカルトを挙げた理由は、本文に明記したように、古典的であるにもかかわらず、 現在でも通用する面が多いと判断したからです。その根拠としては、 比較的最近の、放送大学の教材である濱田嘉昭「科学的な見方・考え方」(これは少し大きな本屋ならばどこにでも置いてある)に、そのような記述が明示されていたことによります。逆に、 デカルトは古すぎるとした根拠を、文献を挙げて説明してもらえれば、「デカルトは 古すぎるという意見もある」という書き方に修正する根拠となりますが。
>ニュートン力学は普遍的ではなかったと知らしめられた後ですから、
余談ですが、こういう考え方は、あまりしませんね。少なくともプロならば。
>(たとえば、「例外があるがほとんどの研究者が一致している」という書き方は、どの程度一致しているのか不明瞭ですし、
既に確認されておられると思いますが参考文献のトップに挙げた <http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf> にそのように明示されています。どの程度なのかは、参考文献そのものに目を通していただければ 概ねわかるのではないでしょうか?批判をする前に参考文献を全部読めとはいいませんが、 最初に引いた文献の最初の部分にでも目を通していただいていれば、そのような見当違いな お話は出てこないのではないでしょうか?
そういうことで、「文献の引用の仕方も中立的で誤った解釈を勝手に付加している部分が多いです。」の
例として挙げられている内容というのは、何度も繰り返し <http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf> に書かれていることで、権威ある文献に何度も繰り返し書かれていることを 書くことが中立的で誤ったというのでしょうか? 僕にはご指摘の内容が理解できません。
例えば、第一章のいっちばん最初に
「科学者は,その活動と活動の見方に関し,一定の基本的な考え方と態度を共有してい る。これらは,世界の本質とそこから学ぶ事柄に関係している。」と明記してありますね。
より詳しくみると、17ページに
「基本的に,さまざまな科学的学問は,証拠への依存,仮説と理論の使用,用いられる
論理の種類等において共通している。それにもかかわらず,科学者はその研究する現象,
活動に取り組む姿勢,歴史的データや実験的所見,定性的又は定量的手法,基本原則へ
の依拠,他の科学の所見を重視する程度において大きく異なっている。それでもなお,
技術,情報,概念の交換は科学者間で常に行われており,科学者の間では,科学的正当
性を持つ研究調査がどういったものであるかに関する共通の理解が存在している。
科学的探究は,特定の研究調査の手順を抜きにしては論じにくいものである。」
等と書いてあります。このように、「科学者の間では,科学的正当 性を持つ研究調査がどういったものであるかに関する共通の理解が存在している。」 と何度も繰り返し明記してあります。一方で、「活動に取り組む姿勢,歴史的データや実験的所見,定性的又は定量的手法,基本原則への依拠,他の科学の所見を重視する程度において大きく異なっている」とも書いてあり、 これを若干の相違としたことがよいかどうかはわかりませんが、前者に対しては 相対的に小さいという意味では間違っていないでしょう。これは、要約すれば「総論では一致するが、 各論では不一致もあるよ」といった程度でしょう。
この点をどのように読解されたのかは知りませんが、読解の在り方が僕と貴殿では大きく違うのでしょうか?だとしたら、その辺からつめなきゃいけませんね。どっちが正しいかどうかは別として。
尚、この文献は、この文献ivにあるように、各方面のそうそうたるメンバーによる起草により、 169ページ以降に記載されているようなそうそうたるメンバーの査読を経て、最終的に 全米科学振興協会の承認を得て出されたもので、現時点でこの文献以上に 多くの科学者の承認を得た証拠がある文献は、存在しないでしょう。もしあるとおっしゃり、 それと、この報告書の内容が大きく違うなら、承認者の一覧も含めた資料を提示いただきたい。 この文献のいいところは、査読者まで氏名が明記されているところです。
>ファインマンの考え方は、デカルトの考え方と全く一致していません。
そのような判断を安易に行うことこそ、独自研究です。 私は、一致しているか一致していないかを判断する根拠となる文献を持っていないので、 一切そのような判断をしていない建前で書いているつもりでしたが、読解の在り方にかなりの相違があるようなので そう取れたのかもしれません。
無論、完全な一致があるはずもなく、僕の記述でも 文脈としては、デカルトの考えとして提示した考え方から、「定量性、再現性に多少の問題が生じる分野についても、それに代替しうる論があれば、科学的な方法論の対象とする」という考え方、そして、市民権を得ているかどうかは別として、「論理的な整合性を維持しながら、適切な証拠を集めて議論をするならば科学的である」という立場への変遷を紹介したつもりだったんですが…。
なお、デカルトの考え方が古典的基礎という説明の仕方は、少なくとも権威ある文献の一つには明示されていますが、 「科学は,体系的で注意深い研究を通して,宇宙や世界の物事と出来事は理解可能な一 貫したパターンで起こることを前提としている。科学者は,知性を活用することにより, また感覚器官の延長としての道具の助けを得ることによって,自然界のすべての物事を 発見できると考えている。」 という記述が、<http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf> にあり、16ページにはより具体的な記述があります。この考え方は明示されてはいないものの デカルトの考え方として挙げられているものと、比較的近いように思います。 ただ、同時に、「理念通りにいかないことも多々あるよ」ということもいっていて、 結局のところ、17ページ、18ページのあたりにあることが、現実だということになっています。
また、コピペと言われると、いやなんで、例は全面的に別のソースから取ってきています。これはどうなんでしょうね。
また、件の文献中の「一定規準」とか、「証拠と想定を結論に結びつけるための論理的推論の原則」 については、その具体的な方法については、明示がなかったので、そういった類のことを比較的 正確に論じていると思われる文献を挙げて、補足しました。このうち、三角ロジックを論理の原則 として持ち出したあたりは、若干強引でしょうが、この点については、「論理」を扱った権威ある 文献に明記のあることをベースとして書いたので、問題はないと認識しています。
反証可能性のくだりについては、言いすぎがあるかもしれません。修正しました。 ただ、この考え方は、研究者の中でキワモノ的な人はよく引き合いに出すんですけども そこまでコンセンサスを得ている考え方とは思えません。科学哲学の世界ではどうか知りませんが。
>『2つの物体の間には、物体の質量に比例し、2物体間の距離の2乗に反比例する引力が作用する』と説明するが
逆二乗の法則と、万有引力って同じなんですか?ここは、常識で判断すべきなのでしょうか? あと、ニュートンがと言ってますが、主語をニュートンがとした根拠の出典を出してください。
>科学的な方法が歴史的にどう確立されたのか、どのような広がりをもっているのか、どのような方法を科学的な方法と呼ぶのかを説明すべきで
そうだとすると
これも判断が分かれるでしょうね。現時点での「科学的方法」を理解する上で あまり重要でないものについては だらだらと書くのは、いかがなものかと。それにデカルトが該当するかは、 少なくとも先の文献を見る限りにおいてはNOですが…。
>文献もひとつの文献に依存しすぎていて実質的にコピーペーストに近い状態になってる部分もあります。
最も中立性が高いと思われるものに依拠したつもりです。だから、一つの文献に依存している というのは、はずれていません。
ただし、主に依拠している <http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf> は、全米科学振興協会のプロジェクトとして各方面の権威が討論した上で出てきたものであり、 これ以上に中立性の高い文献はないでしょう。その意味で、これに比肩するものがあれば、 それに対しても同等の配慮すべきでしょうが…。
>大胆が編集を試みようとおもったのですが、積極的に参加されてる方がいるようなので、一旦停止しました
特に編集を制限する規定はないと思いますよ。
ただ、前に「物事を調査し、調査結果を整理し、新たな知見を導き出し、知見の正しさを立証するまでの手続きであり、かつそれがある一定の基準を満たしているもののことである 」 に要出典をつけてきた人がいて、そのときには、僕の記憶が正しければ http://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf を既に出典していて…。読まなくてもいいから、せめて見てよ。
夜仮面様 2008年9月4日 (木) 14:23 (UTC)
(1)ニュートンの万有引力の法則は、自然哲学の数学的諸原理にあります。また、多くの力学の教科書にも書かれていることなので例示する場合に、引用文献が出典が必要とは思いませんでした。出典が必要だとすれば、万有引力の法則の記事にあるべきでしょう。
Philosophiae Naturalis Principia Mathematica, first published on July 5, 1687. In modern language it states the following:
Every point mass attracts every other point mass by a force pointing along the line intersecting both points.
The force is proportional to the product of the two masses and inversely proportional to the square of the distance between the point masses
- ○○がこういったという言い方をするときには、出典しようよ。もしくは、もう少し曖昧な書き方にするとかさ。「ニュートンが林檎が落ちるのをみて引力を発見した」というセリフもよく言われるけど、あれはどうなのさ?そんな
話。 夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13:03 (UTC) (2)
- 科学的であるか否かの古典的な基本は、17世紀にデカルトによって示された以下の原則である
- 現在の科学的方法を論じる上ではこの考え方に若干の修正や適用範囲の制限を行わねばならない点があるが、
- それでも 科学的な考え方に対する基本的な枠組みを与えている[3]。
じゃあ、もどせば夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13:10 (UTC)
この文章は、「科学的方法はデカルトの条件にあてはまるものを言うが、それにわずかな修正や制限をすれば 現代での科学的方法を説明できる」と主張することになります。これは、百科事典的な表現とはいえません。
- そうなの?「科学的方法はデカルトの条件にあてはまるものを言うが」という言い方はしていず、「古典的な基本」と言ってるでしょ?古典的な基本は古典的な基本なんだよ。今では全く通用しないということは決してない。夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13
- 03 (UTC)
- 「何を以て科学的とするか」は、研究者によって若干の見解の相違があるが、科学的な方法の特徴付けについては、
- 研究者レベルではある程度の一致が見られる[1]。
↓
- 基本的に,さまざまな科学的学問は,証拠への依存,仮説と理論の使用,用いられる
- 論理の種類等において共通している。それにもかかわらず,科学者はその研究する現象,
- 活動に取り組む姿勢,歴史的データや実験的所見,定性的又は定量的手法,基本原則へ
- の依拠,他の科学の所見を重視する程度において大きく異なっている。それでもなお,
- 技術,情報,概念の交換は科学者間で常に行われており,科学者の間では,科学的正当
- 性を持つ研究調査がどういったものであるかに関する共通の理解が存在している。
本文はまったく正しく要約できていないことになります。
- 「証拠への依存,仮説と理論の使用,用いられる論理の種類等」が科学的方法
- 「その研究する現象~他の科学の所見を重視する程度」が研究範囲や研究分野and/or科学者ごとの態度
- 「科学的正当性を持つ研究調査がどういったものであるか」
文献1の筆者は、科学的方法はおおよそ共通で、科学者にはバリエーションがあるが、科学的正当性を判断 する基準はおおむね一致しているといってるのです。正しく要約されていないと読者が誤解するだけでなく、 出典を明示されても書いた本人以外の執筆者はどこを指したつもりなのか断定することができないです。
- 文献1の筆者らはね。こういうの、間違うと、結構怒られるでしょ?
まあそれはいいとして、大きな違いはないでしょう。よりよい表現があれば直せばよい。ってゆうか 「科学的方法はおおよそ共通で、科学者にはバリエーションがあるが、科学的正当性を判断 する基準はおおむね一致しているといってるのです。」というのは間違いってさんざんいってなかったっけ?
そこで、「科学的正当性を判断する基準はおおむね一致しているといってる」ということなんだけども、 ここが有意性の問題ですよね。よくご存じだと思うんですけども。そこのところを強調しすぎたかもしれませんが、有意性の判定というのが要は最も明確な基準なんですけども、それををどう行うかというのは、手法も含め極めて多様でしょう。 夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13:03 (UTC)
(3)
>>デカルトの指標が科学的か否かの最良の指標であるかのようにかかれていますが
>そのような解釈を与えるとしたら申し訳ありませんが、そうは書いていません。
もともとの表現は
- 概して言えば、より一般に、「適切な証拠(測定方法を含む)の存在」、「適切な推論過程の存在」が科学的方法を特徴づけている[1][3]。
- つまり、科学的な方法においてはこれらの特徴が認められる。
と書かれていました。この本文を読めば、デカルトの条件が上記の二つの条件に要約され、それが一般的な解釈であると読まれます。
しかも、(2)と(3)と続けて書かれたら執筆者の意図に反して読者は、デカルトの指標が科学的方法の判定基準であると誤解します。 そして、その後唐突にファインマンの引用がありました。実際には、デカルトが方法序説を書いたのは1637年、ファインマンは前世紀の人 ですから、科学史的なギャップは大きいです。実証主義的な発想はケプラー、コペルニクス、ガリレオ、ニュートンから産業革命ごろ までで、量子力学や相対性理論が研究されるようになると、反証主義的になります。アインシュタインやエルンスト・マッハが反証主義に強く反発したことからも、19世紀以降科学的方法が大きく変化したのは明らかです。ファインマンのいう科学的方法が実証主義でしょうか?ファインマン自身の論文を読めばその点は明らかです。時代の隔絶した二例をあげて科学的方法について説明するのは科学史的には明らかに中立とはいえないでしょう。
ファインマン自身の論文ってどの論文?って具体的にはどの論文?提示していない文献を読めばわかると言われても。 それで、「反証主義的になります。アインシュタインやエルンスト・マッハが反証主義に強く反発したことからも、19世紀以降科学的方法が大きく変化したのは明らかです」とかいうセリフ、哲厨君がよく言うんだけど、こういうのを明らかになるように解説してくれたためしは一度もない。僕的にはうんざりしてます。現実に、「反証主義」を現在の科学者がそのよって立つところにしているかというと、これはNOです。そんなもの、習ったためしはないですし、高々に反証主義を掲げなんていう本は、哲学の本を除いて、僕は知りません。有意性とかそういった概念は、当たり前に思えるレベルではあるんですが。夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13:03 (UTC)
--122.218.63.76 2008年9月7日 (日) 04:23 (UTC)--H335 2008年9月7日 (日) 04:28 (UTC)
まったく新しい作文で置き換わっていたのでびっくりしました。
- 総じて言えば、現代では、「明確な結論の存在」、「適切な証拠(測定方法を含む)の存在」、「適切な推論過程の存在」が科学的方法における推論を特徴づけている[1][3]と考えられている。
総じていえばとはなにを総じたのでしょうか?
- この点については、研究者間での見解の相違は、総論としては少ないと考えられている[1]。
いずれにしてもhttp://www.project2061.org/publications/sfaa/SFAA_Japanese.pdf についてはひどく誤解されているようです。
- へぇそうなんだ。じゃ、正しく読むとどうなるの?夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13
- 10 (UTC)
- また、この特徴は、論理学における「論理の三要素」[15]や、ビジネスにおける「三角ロジック」[16]に共通する。
この一文は必要ですか?新しい用語をだしたわりには、科学的な方法になんら説明を付加できていないようです。
付け加えた話というのは、変な方向に走らない文献としては、この辺が妥当なんじゃないといったまで。
夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13:03 (UTC)
- ところが、現実の研究レベルでは、「明確」、「適切」の具体的な意味に、分野間、研究者間である程度の見解の相違が認められる[1](後述の「推論過程の曖昧さと飛躍」を参照)
- ここでは、科学的な方法における「適切な証拠の存在」を前提とした上で、「明確な結論」、「証拠と結論を結ぶ 適切な推論過程の存在」に関して説明する。
- この問題に関して、適切/不適切を分ける古典的な原則は、デカルトによって示された以下の基準である[3]。
デカルトを17世紀の人物だと書いたのは削除する理由があったでしょうか?時代を書いただけで読者を誘導してしまうとしたら、そもそも特定の時代の人物をあげることが歴史学的には中立とはいえないような気がします。しかもデカルトは「科学的」を定義するつもりでこれらの条件を提案したわけではないのに、それを引用している文献をこのように引用するのは適切でしょうか?
- この基準は、現在の科学的方法を論じる上ではこの考え方に若干の修正や適用範囲の制限を行わねばならない点があるが、それでも現代における科学的方法に対する基本的な枠組みを与えているものと認識されている[3]。また、この考え方は、ビジネスの世界におけるバーバラミントの「ピラミッド原則」(特に要素分解)や、MECE(特に漏れなくダブりなくという点において)に 共通する点が多い[16][17]
この一文は必要ですか?読者にこの一文から何を読み取ってもらいたいのでしょうか?バーバラミントの~はとくに説明がなくても理解できるものでしょうか?共通する点があったとしてそれが科学的方法の説明になんらかの情報を付加していますか? MECEが科学的方法あるいはデカルトの条件のどの部分に該当するのですか?
カッコ付でかいてあったじゃん夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13:03 (UTC)
- 科学的な方法においては、ある現象を説明する場合に、「なぜそうなるのか」という哲学的な問題を棚上げした上で、「その現象がどのようにふるまうのか」に着眼する傾向がある[18]。
誰が述べたのかを明示していたのですが、削除する理由はあったでしょうか?
まちがって消えただけ夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13:03 (UTC)
- モデルの良し悪しは、明確であることが求められると同時に、どれだけ多くの現実を説明できるかにかかっている。モデルの成否の推定については、以下に挙げる「パースの仮設推論」が、基本を与えていると考える[3]。
用語を新たに提供する必要があったのでしょうか?なんか学生がレポートの枚数を増やす努力をしているような変更に見えます。
この考え方も、よく紹介されている考え方で、知っておいて損はないと思ったから書いただけ。どういう枠組みの上の議論なのかは明示しといたほうがいいでしょ?
夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13:03 (UTC)
- 結論の明確さの判断に関しては、疑似科学の批判活動においては、よく「ホパーの反証可能性の原則」がよく引き合いに出される。確かに、本質的に立証も反証も行えないような対象は、科学の対象とはみなされない[1]。しかし、実際には、科学における仮説は一般に最初はあいまいなところからはじまり、徐々に明確になっていく傾向があり、論文を書く場合には簡単には反証されないように細心の注意を払う傾向がある[4]。また、はじめから、「この対象には、既知のモデルをこのように変化させれば説明がつく」といったように、適用範囲にある程度の制約があることを前提とした議論が行われることが多く、例外がいくつか見つかっただけでは、「適用範囲がより明確になっただけ」と解釈されるだけで間違いとまでは考えないことが多い。この意味においては、特に未解明の段階のものにおいては、完全な意味で反証可能性が成立しないものもある。
論文を書く場合には~というのは百科事典における科学的方法の説明として必要でしょうか?
--122.218.63.76 2008年9月7日 (日) 08:08 (UTC)
現実の科学的/そうでないの判断は、査読のプロセスでの判断が一番権威をもちますよね。だから説明しただけです。主義主張より現実ですよね。夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13:03 (UTC)
- 標準計測の考え方に従うと、少なくとも現在では、逆二乗の法則の説明としては、「精度いくつで2乗と考えてよい」という考え方をする。
とのコメントがありましたが、実際にはそんなに単純ではありません。なぜならば、「ある測定系で」という条件が必ず付加されるからです。ニュートンの運動方程式や、万有引力の法則は地球上やせいぜい人口惑星をとばせる距離ならば厳密に測定できますが、それ以上のスケールでの正しさは測定できないし、測定できなくても天体物理学は科学的に研究されます。 そのために、修正ニュートン力学のように説明がなされることもあります。現代の科学は必ずしも実証主義的はありませんし、常に対象が測定できるとは限りません。 --122.218.63.76 2008年9月7日 (日) 08:37 (UTC)
へぇそうなんだ。測定ってなぁに?後半は、相対主義の立場に立てば、そうでしょうね。夜仮面様 2008年9月7日 (日) 13:03 (UTC)
以上をもって本文をほぼ元に戻しました。検討のうえ修正をお願いします。 --122.218.63.76 2008年9月7日 (日) 09:05 (UTC)(H335)
コラム、エッセイ的、百科事典に相応しくない内容
■タグが付いているので読ませていただきました。 全体として、「科学的方法」というタイトルにも関わらず、その説明に終始完結していないと見受けました。 wikipediaは科学に身を奉げる後進を教導する場ではなく、編集者が概説を『述べる』場でもありませんので、それを踏まえて大幅な簡略化が必要と思います。
・小節『「科学的」という言葉への誤解』『科学的ならば正しいか?』などは、「科学的方法」という手続きそれ自体とは無関係な社会現象です。疑似科学等への移動が適切でしょう。
・『科学的に扱いにくい対象への切り込み』『科学的な論証方法の特徴』内に見られる、「良質な文献」の論旨を紹介する箇所は不要です。内部リンクを張って文献をリストアップすれば良いでしょう。
・『科学的な論証方法の特徴』の節ですが、当項目内ではせいぜい、「科学的な論証方法」とはどのようなものかと説明すれば良いのであって、その「特徴」や問題点を箇条書きで示す必要はないと思います。
・『推論過程の曖昧さと飛躍』も、当項目では言及すべき重要な要素ではありますが、最初の一段落でその用を果たしています。
・『学校における「科学的方法」の教育』は教育問題です。これも当項目に独立の節を立てるものではないと思います。
その他、「誤解されているようではあるが」「無知な人間にとってはこの問題は若干奇怪な話に写るようであるが」等の唐突な反論じみたフレーズの前後は冗長なものが多く、簡潔な記述を望みたく思います。
大変多くの労力があって構築された項目だと思いますが、「示すべき命題が何なのか」を改めて検討して全面的な改定の必要があると思われます。
--It-out 2008年9月6日 (土) 14:22 (UTC)
■随筆的になっていることは分かっていて、文面を書き改める必要があるとは思っています。
示すべきことは、まずは、「科学的な方法というのは、どういう方法なのか」ということなのでしょうが、 嘘をつかずに「科学的方法は○○な方法である」という言い方をするのは、極めて難しいものと理解しています。
ただ、引用した良質として問題ないと思われる十分オーソライズされた文献に共通した見解として、
- 仮説の構築と検証というプロセスからなっている
- 明確な結論、適切な手法で取得、処理された証拠、証拠と結論の間の適切な推論過程が要求される
- 「Why」よりも「how」を求める傾向がある
とという傾向がある手法であることが認められ、ここまでは明確に書けると思います。 ここまでは、ほとんどの研究者に共通した見解だと判断してよいでしょう。この部分を、 「示すべき命題」として書いたつもりです。
内容が冗長になっている原因は「明確な」、「適切な」というあいまいな表現の具体化に
あります。これについては、書き方を誤ると誤解を与えやすい。さらに、分野、個人によってばらつきがあります。
問題は、むしろここにあるのではないかと僕は理解しています。
「科学的な方法」という概念がこの世の中に存在していることは明らかで、概論としてある程度の 傾向が認められるのも確かなのですが、どこかに「科学的であるか否かを判断する絶対的な基準があるか」 と言われると、これは真っ赤な嘘です。近いものはあり、それが、統計学であったり、論理学であるのでしょうが、 それでも、任意性が生じる部分が現実にはあるのは、ご承知の通りだと思います。
これらに対する最も簡潔で、正しい説明は、 「こういうのは評価の問題ですよ」という言い方ですが、これでは説明を放棄したに等しいでしょう。 こういう問題を扱う場合には、少なくとも通常の科学者は、反証するのが難しいようにかくわけです。 そうすると、具体的な例の寄せ集めになっていきます。
そのうえで、重要なのが、前例と現実の判断です。前例というのは、すでに評価の確立した論文に見られる論法、 現実に「とりあえず」の判断が行われ過程というのは、「査読」です。
実際の研究レベルでは、「適切」「明確」というのは、個々の論文の査読過程に限局すれば 「節度の問題」の部分があります。これは、考えてみれば当たり前で、「どこで適切、不適切を機械的に峻別できるレベルの話は、 もはやプロの研究者が取り組むレベルではない」ということで、最終的には複数の論文を踏まえて どこかで誰かが整する過程や、あるいは企業において具体的な製品化が行われる過程で、最終的に近い 判断が行われるものです。これがプロの世界である以上、そこを曲げることは難しいでしょう。
また論文の査読過程というのは、個々の調査結果を、科学的であるか 否か(だけではないが)判断する正規のルート(これ以外のルートは正規のルートとしては 認められないといっても過言でない)である以上、ここを外して科学的であるか否かを 語るのは、ナンセンスです。
とはいっても、もうすこし、「教科書的」な説明、つまり「科学的な方法とは○○です」みたいな説明がほしいだろうな
という気持ちはわかります。こういった説明は、先述のように間違いを与えやすいばかりでなく、本質的には不可能ですが、
「こういうのは評価の問題ですよ」の部分を、初等的なレベルに関してならばある程度明確化することは可能で、
それが、「教育」の分野の話になります。理科教育については、最近は、一つの傾向として、派手な演示実験を
ショー的に行うのが流行りのようで、研究者からみると、「おかしなことやってるなー」と思うことが
多いのですが、まともな人たちもいて、旧国研系の人達というのは、よく現実を調査調査していて、客観的な
指標を提示していることは確か(確かであることが十分オーソライズされいている)です。「飽くまで
初等教育レベルでは」ではあるものの…。従って、削除するよりも、むしろ「学校教育レベルでは」という
表現に変えるというのが現実的ではないのでしょうか?
夜仮面様 2008年9月7日 (日) 01:49 (UTC)
■ご指摘、それに対する反論も含め、構成を修正しました。結果とし改善した面とかえって悪化した面があると 認識しています。
特に、「科学的方法の特徴」については、これは僕の力量の問題でしょうが、二つ以上に分けて書いたものを一つに 統合したせいで、「抽象から具体」という原則を無視した形になりました。また、素材としては書くべきものを網羅していると思いますが論旨がタイトルと完全に乖離する形になってしまっています。ここは随時修正します。
>『推論過程の曖昧さと飛躍』も、当項目では言及すべき重要な要素ではありますが、最初の一段落でその用を果たしています
については、私も全くその通りだと理解していますが、これについては、過去に「こんなあたりまえなことまで」ということにまで、要出典を出されたことがあり、 それに対して反論する過程で長くなったものです。当時は、確かに僕の常識で書いてしまった傾向があるのですが、 改めて調べたところ、良質な文献で裏を取れたので、文献を紹介するにとどめてよいものと理解し、 スリム化しました。
>『「科学的」という言葉への誤解』『科学的ならば正しいか?』
ここは、「社会とのかかわりの問題」であるかどうかを含め、議論が必要でしょうが、特に後者については、
削除は難しいのではないかと思いましたが、後者は一つの節にするには至らないというのは確かで、
別の場所にスリム化して統合しました。
前者については、理屈の上では、おっしゃることはわかるのですが、よくある誤解というのは、なぜそれが誤解なのかも含めて 簡潔に説明しておくほうが親切ではないかと思い、一旦残す選択をとりました。夜仮面様 2008年9月7日 (日) 02:58 (UTC)
■先述の問題も含めて修正しました。現在、構文エラーが一か所出ていますが、内容面についてはおおむね修正を済ませたものと思っています。夜仮面様 2008年9月7日 (日) 06:24 (UTC)
■
- とはいっても、もうすこし、「教科書的」な説明、つまり「科学的な方法とは○○です」みたいな説明がほしいだろうな という気持ちはわかります。
- こういった説明は、先述のように間違いを与えやすいばかりでなく、本質的には不可能ですが
というのはおそらく、方向を誤っています。
「科学的方法とは」がいかに説明しにくいかを主張する立場は百科手事典的ではない。これは、「神とは」を百科事典では説明できないと主張するのと類似しています。百科事典では百科事典的に説明できることだけを説明して、議論が残されているならそれは付録としてかかれればいい情報です。その点では、英語版ではとても論理的に背景も含めて科学的方法を解説できています。英語版を参考に再構成するか英語版を翻訳するというのがよい方法だと思います。
個人攻撃するつもりはないのですが、既存の文章の特徴が、結果的に散文を作りやすいと思うのです。
たとえば下記の文章は、「科学的方法の概要」なのですが、科学的方法の概要になっていません。たしかに、権威ある文献?から引用されているようですが、その引用の組み合わせは論理の方向性を失いがちです。引用方法にも問題があることがあります。また、接続詞や修飾語の使い方があまり意味をもっていないこともあります。読者もほかの編集者もなにを言わんとしているのか判断できないので、建設的な編集ができず、ダメだしと権威ある文献?の引用のサイクルがさらなる散文を生み出します。このような現象は、この概要に限定されていません。
- 断片化された散在している雑情報あるいは、新たに実験や観測をする必要がある未解明な対象に対して関連性、関係性、法則性を見出がす
こと、科学的方法の目的である。ための体系が科学的方法である。 - 科学的な方法の顕著な特徴は、その調査プロセスと、論証過程に顕著に認められる[1]。「顕著な」の多用
- 調査プロセスにおいては、PDCAサイクルと類似した傾向があり、類似性が重要なのか?
- 概していえば、「仮説の構築とその検証」というキーワードで特徴づけられる[1]。なにを「慨した」のか?PDCAとの類似性か?なら一言でいえないか?百科事典がPDCAサイクルという聞きなれない言葉に、説明を託すべきか?
- 科学的な論証方法の顕著な特徴としては、「適切な証拠への依存」、「明確な結論の存在」、「証拠と結論を結ぶ 適切な推論過程の存在」の3つの特徴が認められる[1]。顕著な?顕著でない特徴もあるのか?それならなぜ三つ選んだのか?
- 結論の提示は、現実の物理現象、社会現象などを定性的/定量的に説明する具体的なモデル[5]を提示する形で行われる傾向がある[1][3]。そうでない場合もあるのか?、概要に例外を示唆する表現は必要か?
- 結論の成否は、一時的には、証拠となる事実の取得方法、処理方法、推論過程の適切さの判断となる。一時的には? 成否は~判断となるの関係が変
- しかしながら、この問題は、有意性の問題のように、評価の問題を含む。有意性の問題ってのが唐突にでてきたけど
- 概して、分野間、研究者間によって、データの処理方法や実験的所見、定性的又は定量的手法等において、見解の相違が生じることがある。何を慨した?
- このように、「科学的な論証であるか否かを峻別する金科玉条のようなもの」は「適切」、「明確」というあいまいなレベルを超えたものは、少なくとも分野間を越えて通用する原則としては存在しないこのようにとはどのように?
- が、それでもなお、 科学者の間では、科学的正当 性を持つ研究調査がどういったものであるかに関する共通の理解が存在している[1]。 共通の理解とは何だ?概要ならもっとも必要なのでは?
- また、最終的な結論の成否は、その結論がどれだけ現実をよく説明するのかによって決まる。
--H335 2008年9月7日 (日) 07:11 (UTC)
すみません。こちらも個人攻撃する気はないのですが、科学用語は正確に使ってください。 「物体」、「質点」の相違など、そちらのレベルを疑う点が多く、これは、僕も まぁいいかで過ごしたのですが、僕が再編集した後で、誰かに筆をいれらたのは、 なんともみっともない。
そのほかにも、上の指摘も含め、用語の使い方がいい加減なんで、意味がわからないです。 申し訳ないのですが、ご意見を言う前に、もう少し勉強されたらどうでしょう?
一度、文献を読めていないことを指摘されたのだから、読めるようになってからきたらどうかなと言いたいですね。 一応日本語で書いてありますし、英語版もありますよ。
>「科学的方法とは」がいかに説明しにくいかを主張する立場は百科手事典的ではない。
あえて本文では主張してないでしょ? 神の存在がどうたらって、いみわかんない。説明が難しいのは説明が難しいんだけどさ。 わけの分かんないこと太字で書くなよ。
あんた、Web上の文献で、最初に引いた文献に何度も繰り返し書いてあることを、根拠不明って書いた前科
あるんだよ。
あと、英語版については、英語版なんですけども、「Introduction to scientific method」 でも、具体例3つばかり挙げているだけですよね。他のコラムで挙げられている 具体例も、かなりデフォルメされていて、 科学的な推論の在り方を若干曲げてるんじゃないのと研究者の視点からは言いたくなるんですが。
この辺、たとえば、一応あなたの加筆を尊重して残したりしたときにも思ったんですけども、 ニュートンの法則ひとつ取って、なんというのかあんまりそういう説明のしかたはしないよねという感じですね。 英語版の例はそこまでひどくないけども…。よく、科学用語を哲学に引用したがる連中というのは、 確かに似たような説明をするんですけども。ほったらかしてたら、かなり初歩的な所に 筆を入れられて、こっちが恥ずかしいです。
それで、関係する具体例とか、なにがしの言説をいくつかあげて茶を濁すというやりかたというのは、間違いを犯さない
よいやりかたではあるんだけども「英語版ではとても論理的に背景も含めて科学的方法を解説できています。」
という印象は、本当によんだのかいと思うんですけどね。それに、ホパーを最初のほうに持ち出してるんだけども
ホパーですかって感じですね。
日本人に限ってではあるんだけども、ホパーをものすごく持ち上げたがる人がいて、これがまぁなんというのか少しキワモノの人が 多いんだよね。なんというのか、ろくに研究もしないで、疑似科学の批判ばっかりやってたり、ネット上で 居酒屋談義ばかりやってるのがいるでしょう。ああいう 年に一報論文かいてるかどうかだって怪しい、ひょっとしたら博士号すらない連中は、よくホパーを持ち上げますよね。 あと、もうもうもうろくしちゃったな というのがたまにホパーを持ち上げるんだけど、現実に、学会いくつか入っていて、ホパーが話題になることなんて まずないですね。
科学哲学のほうでどれだけホパーというのが正当なのか知りませんけども、僕の廻りみても、論文書くときに ホパーを参考になんてことはまずないですし、査読するときだって、ホパーの原則みたいなの? そんなの気にしたこともない。もう少しオーソドックスなところを挙げるのが正しいんじゃないんですかね。 「ホパーって知ってますか?」なんてあほなこと聞いて回ったことはないけども、半分は知らない、 半分は、「あぁ変な人たちが信奉してる怪しげな思想ね」という言い方をするのがオチでしょう。
「論理的」みたいにいろんな意味があってあいまいな言葉を、説明なしに使われると、 特に用語の扱いに不安の多い方相手では、不毛な議論になりかねないからいやなんですけどね。 もしやるならば、最近の有名な原著論文あたりでよくつかわれる方法に 置き換えたほうがいいんじゃないですか?
ためしに、訳の問題でも出しましょうか?英語版のほうから
夜仮面様 2008年9月7日 (日) 09:23 (UTC)
- 熱くなってしまったようなので冷静にお願い致します。出典をもとに投稿されておられる夜仮面様氏の貢献に敬意を払います。また引用をもとに投稿をされておられる事と、「科学的方法」なるものを語る信頼できる出典元の多くが著名な科学者・哲学者のエッセイ的書籍であることから、どうしてもWikipedia記事「科学的方法」そのものがエッセイ的にならざるを得ない側面があることもあると思います。このあたりはむつかしいのですが。引用元が明示されていることから現状記事でもWIkipedia読者に相応の信頼感をあたえているものとは考えますが、より「百科事典としてふさわしい体裁」となるよう期待しております。--ネコバット 2008年9月7日 (日) 10:08 (UTC)
- すみません。頭冷やします。
もう一段深めるとすると、英語版で挙げられているように、個々の分野や事例を挙げるというのが あるのでしょうが、これは、非常に難しいでしょう。出典元をいちいち検証するにしても、自分の専門外 の分野について、総合、分析するのは危険です。まず用語のレベルで足元をくじかれる可能性さえあります。 科学という分野は、非常に用語にうるさい分野で、私自身も恥をかくことがよくありますが…。
>「科学的方法」なるものを語る信頼できる出典元の多くが著名な科学者・哲学者のエッセイ的書籍であることから
これは、僕も判断を迷うところで、「科学的方法」について解説した書籍自体が哲学書を除きそう多くない 上に、だいたいがエッセーであり、エッセーでなくても、「すべてのアメリカ人の科学」を 含め、エッセー的と言われればエッセー的かなーと言えなくもない。
それで、勢いあまって安易に哲学に手を出すと、これこそ解釈の世界で、 哲学者だって誤解を指摘されるレベルの話になる。これをネットという次元で議論すれば 不毛な議論になるのは目に見えている。
それ以前のレベルで「用語は正確に」とか 「きちんとしたデータに基づいて論理的に話そうねそうね」とかいった、 当り前のことで書けることはたくさんあるし、そういう当たり前のことでも ある程度の解説は必要な部分がある。例えば、一般人はたかが用語の問題ですますとことも 科学者の世界では、少なくとも科学用語に関してはうるさいですし、ロジックの問題だって ロジックを理由にはねる/はねられることだってよくある。 こういったレベルで、ある程度学会のコンセンサスを得ている考え方を紹介する というのが重要でしょう。
では、学会でコンセンサスを得ている考え方というのは、なんだろうかというのを考えたときに、 「すべてのアメリカ人の科学」は、少なくとも全米科学振興協会の中での採択はあり(従ってアメリカの 幅広い分野の権威ある研究者の大半が意思決定にかかわっており)、文部科学省を含めた 各国の教育関係の省庁でも尊重されている文書であり、言っている内容、説明のロジック含め、 現時点の科学者の物のとらえ方を極めて慎重にとらえている点が認められ、 まっこれをベースに書くのが現実ベストでしょうねというのが、僕の意見です。
夜仮面様 2008年9月7日 (日) 10:31 (UTC)
■ご指摘ありがとうございます。
1.「ための体系が科学的方法である。 」これは、そうしたほうがいいかもしれません。
2.「顕著な」の多用もなおしたほうがいいでしょう。
3,4 PDCAサイクルについては、リンク先に詳しい解説があります。特に「仮説の構築とその検証」という体系を系統だって研究しているのが
プロジェクトマネージメントの分野であり、特に研究開発のマネージメントにおいても最初の基本とされる考え方であるので、この考え方は参考になる点が多いでしょう。そのため、PDCAサイクルについては、言及しておいたほうがいいでしょう。
5.すべてのアメリカ人の科学において、明確に書かれていることが、この3つであり、その意味で採用しました。また、補足的であり、
(あなたによって削除されましたが)論理の三要素として、野矢茂樹教授の著作に解説されています。何度も言いますが
一度「すべてのアメリカ人の科学」の1章だけでもいいから読んでください。あまり顕著じゃないのは反証可能性とかですかね。
6.全てがそうだと言い切れるかというと、そうではありませんよね。その証拠がない。また、実験報告のような論文や数理物理の論文では、
必ずしもそうではない。
7.一次的にはの誤植です。お詫びして訂正します。
8.「有意性の問題」というのは、基礎基本のレベルですが、確かに若干唐突かもしれません。あくまで一般向けである以上若干補足が必要でしょうかね。この手の問題は、有意性の問題というのですが、これの解説は、すでに項目がありますが。
9.「概して言えば」とかに直せばいいですか?
10.質問の意味がわかりません。
11.何度も述べているように、少なくとも、SFAAには、そういう記述が明示されていて、「仮説の構築と…」、と「適切な推論過程…」とされています
12.当たり前のことですよね。
夜仮面様 2008年9月7日 (日) 11:51 (UTC)
熱くなりすぎました。しばらく編集を自粛します。夜仮面様 2008年9月8日 (月) 12:49 (UTC)
「「科学的」という言葉への誤解」について
「「科学的」という言葉への誤解」という見出しがついていますが、「科学的」という言葉に対して誰のどういう誤解があるのか明確でないように思います。 見出しを改めるか、記述を見直すべきように思いますがどうでしょうか。--122.18.94.195 2008年10月6日 (月) 18:55 (UTC)