ノート:秋田の聖母マリア/削除
秋田の聖母マリアは一度削除が検討されました。このページはそれに関する議論を保存したものです。編集しないで下さい。(Wikipedia:削除依頼/秋田の聖母マリア参照)
竹麦魚氏へ 安易で軽率な削除依頼に抗議する。
秋田の聖母マリアについての解説の投稿は、ご指摘いただいたホームページの著作者小林徹也自身によるものです。私が自分で書いたのですから、著作権の侵害にはならないし、内容にも問題はない。あなたの削除依頼は非常に安易な方法で行われました。こちらへの確認が行われていません。この内容を削除しようとした意図を明確にしなさい。背後に巧妙な悪意が感じられる。状況によっては、国際社会にさらに告発する。 すぐに文章を復帰させてもとに戻しなさい。
- ウィキペディアは、匿名の投稿を認めるかわりに、著作権について非常に慎重な方針をとっています。ホームページからのコピーは毎日たくさん投稿されますので、通常は本人確認の手間をかけず、不明なら削除します。しかし特別に、本人が自分が書いたものだということを証明すれば、削除されません。具体的な方法としては、ご自分が書いたホームページの末尾にでも、ウィキペディアに同じ文を投稿したむね注記していただければ十分です。
- しかし念のため申し添えますと、そうした確認を他の人に求め非難する人は、まったく歓迎されません。著作物の確認はウィキペディアにとって大切な仕事です。その仕事をボランティアでしてくれる人の気持ちを、損ねたくないからです。また、本人確認ができた場合でも、ウィキペディアは信仰の立場から編纂されるものではありませんから、小林徹也さんと立場や見方が異なる人によって文章が徹底的に改変されることが予想されます。そうした方針に承服できない場合には、ウィキペディアへの投稿をご遠慮いただくことになります。最悪の場合、大論争のはてにひどい状態の記事を残して投稿禁止になることもありえます。もしまだウィキペディアに悪意を感じるのでしたら、今のうちに投稿を思いとどまることをお勧めします。Kinori 2006年1月2日 (月) 03:31 (UTC)[返信]
- 削除依頼は、削除ではありませんから、議論終了後存続となれば編集は続行できます。さて、まず、当該あなたのサイトはGFDLに基づく転載を許可したものでしょうか。GFDLでは、自由な改変が認められていなければなりませんが、その点については問題ないでしょうか。もしGFDLライセンスによるリリースが許諾されるものでありましたなら、当該あなたのサイトにGFDLに基づく許諾を行う旨お書きいただけませんでしょうか。その上で、削除依頼のサブページにその旨お書きください。なお、コピーはこのようなことになりますので、Wikipedia:スタイルマニュアルなどに則り、百科事典的な書き方になさっていただくことをお勧めします。竹麦魚(ほうぼう) 2006年1月2日 (月) 03:35 (UTC)[返信]
といいますか、このIPが当該サイトのご本人だという確認は現状されておりません。当該サイトに一言かいてくだされば確認できるのですが。なお、以前同様の削除依頼があったことを参考までに申し添えます。(Wikipedia:削除依頼/秋田の聖母)竹麦魚(ほうぼう) 2006年1月2日 (月) 10:54 (UTC)[返信]- 当該サイトが書き換えられたようですね。IP氏がご本人であることは分かりましたが、このようなことを外部サイトで書いてもご自分の主張だけにしか過ぎません。削除依頼でも書かれていましたように、他者の改変を許し、中立的な観点で書かれるものであれば、削除が必須というものではありません。なお、削除するかどうかの判断は私が行うのではなく、Wikipedia:削除依頼に書かれているとおり、他の管理者が行います。竹麦魚(ほうぼう) 2006年1月2日 (月) 11:34 (UTC)[返信]
どもー。ええ、そういうわけで存続票を投じておりますが、現在のヴァージョンはちょっとなー百科事典じゃないよなー布教テキストだよなー。というわけで、保護解除後に登録すべえというヴァージョンを作っておきました。こんなんでどうっしょ。あ、GFDLです。使うんだったら「ノートより」でいいです。
まーなんだね。こういうのはじめて知ったひとは「なんじゃこりゃ」と思うんじゃないかと思うわけだけど、んなことゆーたら宗教なんてどれもこれも似たようなもんでね。異言とかだって、不信の目で眺めるんだったらすげーぜ。正気の沙汰とは思えないという感想だってあるわけだし。根拠チェックしてないけど、ローマンカトリックの奇跡認定を受けてるんだったら、まあ項目としてはあってもいいでしょ。もちろん信じる信じないは各自が勝手に判断すりゃいいことだし。--Nekosuki600 2006年1月2日 (月) 10:45 (UTC)[返信]
コレ
[編集]秋田の聖母マリアとは、日本の秋田県にあるキリスト教系修道会「聖体奉仕会」で起きたとされる奇跡のひとつを意味する呼び名。
発端は、1973年に、同会所属の修道者の手に十字架型の文様が現れたことである(これは聖痕と呼ばれ、世界各地で、ときどき事例報告がある)。そのほかにも、木製の聖母マリア像から涙がこぼれたなどの奇跡があったと言われている。これらの奇跡は1984年まで続いたとされている。
1984年には、ローマ・カトリック教会の新潟教区長であった司教・伊藤庄治郎により、キリスト教的奇跡と確認し巡礼を許可する声明が出された。その結果、キリスト教世界における巡礼地のひとつとなった。
正確性について
[編集]初版を読んでもNekosuki6000さんの改定案を読んでも、どうしても納得がいきません。
- >(Nekosuki6000さん)ローマンカトリックの奇跡認定を受けてる
- >(Nekosuki6000さん)キリスト教世界における巡礼地のひとつとなった。
というのは どこでどう確認されたのですか? 本文をどう読んでも、ローマ・カトリック教会の公式な認定を受けたとは思えないのですが。本当にカトリック教会の奇跡認定を受けているなら、カトリック教会のWEBサイトで何らかの紹介があるはずではないでしょうか?・・・もしカトリックの公式サイトで紹介されていたら、失礼の段、お詫びいたします。どうぞURLをお知らせください
- >(本文)[カトリック教会]の信徒が任意で信心してよい場所
ということは、「公式に信心すべきとされた場所」ではないわけですよね?
- >(本文)秋田の聖母の奇跡に関連するホームページも世界で多く作られている。
英語のホームページがありましたら、URLをご紹介ください。--miya 2006年1月2日 (月) 11:44 (UTC)[返信]
- 前者。おれが書いてないことについて説明を求められても困りますぅ。後者。信者が勝手に巡礼する場所はたくさんあり、ワン・オヴ・ゼムくらいならそういってあげてもいいでしょう。気になるならさらにトーンダウンした改訂版を作成されよ。--Nekosuki600 2006年1月2日 (月) 12:33 (UTC)[返信]
- 「前者」について:失礼、これは私の勘違いですね。元の本文から、またNekosuki600さんの改定版から、あたかも「ローマンカトリックの奇跡認定を受けてる」と言っているかのような印象を受けてしまいました。それでは読者の誤解を招かないように「信者が勝手に巡礼する場所」と明記すべきではありませんか?
- >キリスト教世界における巡礼地のひとつとなった。
- という表現は「信者が勝手に巡礼する場所」にはとても見えません。こちらについては、どこで確認なさったのでしょうか? 改訂編集で残すと言うことは、あなたが認められたことになるのではありませんか? 編集の正確性に自信が無い場合は、除外するか、あるいは手を出さないか、どちらかにするべきだと思います。--miya 2006年1月2日 (月) 12:54 (UTC)[返信]
- 「前者」について:失礼、これは私の勘違いですね。元の本文から、またNekosuki600さんの改定版から、あたかも「ローマンカトリックの奇跡認定を受けてる」と言っているかのような印象を受けてしまいました。それでは読者の誤解を招かないように「信者が勝手に巡礼する場所」と明記すべきではありませんか?
- 秋田の件については確認はしていないんですけどねー。ついでに、即時削除流れの正確性ネタをここでやろうということだと想像し、あんまし調べる気にもなれないんで簡単に書きますが。
- ご存知かと思いますが、キリスト教世界には、「正統」「異端」「邪教」という区分があります。んで、奇跡のたぐいは、時として分派(異端)につながったりしますので、それなりに教団側は警戒してます。たとえば異言とかでイエスが直接になんか新しい預言とかをしたと主張されたら厄介なことになるわけで。んで、おそらくこれは、確認時点でそういう危険性がないとされたという意味です(ちなみに、異端・邪教と判断された場合には、そこに正しいクリスチャンが信仰目的で行ったらまずいってことになる。そういう場所ではないよ、ということを確認したというのが「[カトリック教会]の信徒が任意で信心してよい場所」とされたことの意味)。
- 実はそういう防御的なチェックであったとしても、その奇跡の当事者側は、正式に認められた奇跡であるということを強調してセールスポイントにしようとするわけです。まあそのあたりは、しょーじきありがちな綱引きであり、そういうコンテクストで眺めてあげるのが正解なわけですよ。そこらへんは、キリスト教に詳しくどちらかというと保守的なひとからの抑制的な加筆があるといいなあとは思いますが、それは後日の話で、今やってもモメるだけではないでしょうか。
- --Nekosuki600 2006年1月2日 (月) 13:15 (UTC)[返信]
- --Nekosuki600 2006年1月2日 (月) 19:51 (UTC) 加筆[返信]
- えー、つまりですねぇ、ウィキペディアを「正式に認められた奇跡である」と主張する場所に利用されるのは困る!ウィキペディアは独自の主張を披瀝する場でも宣伝や擁護の場でもありません。それをウィキペディアンであるNekosuki600さんが確認もせずにあっさり許容するんですか!?と・・・。詰問口調になってしまったのは、ごめんなさい、お詫びします。
- では、名も無く貧しき会サイトの情報をもとにして
- >1984年には、ローマ・カトリック教会の新潟教区長であった司教・伊藤庄治郎により、キリスト教的奇跡と確認し巡礼を許可する声明が出された。その結果、キリスト教世界における巡礼地のひとつとなった。
- >指導司祭の安田貞治神父は著書『秋田の聖母マリア』と『奇跡と涙』を著した。
- >しかし1998年、この「奇跡」は後任の新潟教区長、○○司教によって否定され、安田神父の著書は焼かれ、修道女は聖体奉仕会を追われた。
- と加筆すれば、中立性は保てるかもしれません。ヴァチカンがこの「奇跡」をどう見ているのか、事実関係をどうやって確認するか、など頭の痛いことですが。--miya 2006年1月3日 (火) 06:58 (UTC)訂正miya 2006年1月3日 (火) 08:21 (UTC)[返信]
- では、名も無く貧しき会サイトの情報をもとにして
- 対立サイトの記述も見ていますが、後任者による否定というのは、公式なものではないと判断しました。
- というか、その論点には踏み込みたくないんですが、要するに「奇跡」なるものの扱いはたいへんにむずかしく、カソリック内部でも揺れがあるということでしょう。かといって、教会は間違いを簡単に認められるような組織ではない。ゆえに、非公式な内部対立が存在してしまったのだ、と(ここでローマ教皇名での否定とかが出てきたらそれはそれで興味深いのだが、よっぽどのことがない限りそういうことにはならない)。
- それからねえ。おれは修道女の名前をおれのヴァージョンには記していないし、それは基本的にこういう「奇跡」というのは「それを待ち望んでいた人々の間に起きるもので、そういう状況があったことに注目すべきであり、誰がきっかけになったかにはあまり意味がない」と思ってるせいなんですけどね(もちろん例外はあり得るが)。追放だなんだという話をするなとは言わないけれども、不用意に氏名を出すというあたりには、ここがノートであるとはいえ、ものすごく違和感があります。また、そのあたりの宗教組織内部でのありがちな対立について外部から明確な確認が出来るというのを前提に論じるのがそもそももう間違っているんじゃないでしょうか。こういう現象は時々起きるんですが、たとえ「十字型の聖痕」が自傷行為によるものであったとしても、それを「奇跡だ」と受け止める人々がいたということの方に着目すべきなんです。
- --Nekosuki600 2006年1月3日 (火) 07:33 (UTC)[返信]
- あのー。削除依頼の方を見ていてなんか頭が痛くなってきたんですけど。
- 秋田の聖母マリアをめぐる争いですが、「奇跡否定派」と「奇跡肯定派」にわかれて戦ってるわけじゃありませんよ。「名も無く貧しき会(以下『会』と記す)」の側が、本稿初稿執筆者(以下「初稿者」と記す)の側を、「『秋田の聖母』否定派」と呼んでいることは事実ですが、じゃあその否定派が当該奇跡を否定しているのかというとそういう話はないわけでしょ。初稿者はWikipedia上に布教であるという批判を受けるようなテキストを掲載してるわけなんで、否定してたらそんなもんを掲載するはずがないでしょう。また、初稿者の側も、会に対して「ゆえなき中傷」と言ってるわけですが、そのコンテクストからすると会側が奇跡を否定しているように見えるんですが、そんな話もない。
- つまり、当該2陣営間に、奇跡があったことについては、別段争いはないのです。争いは、第三者的に見て「奇跡をめぐるイニシアティヴ争い」です。
- 想像ですが、おそらく初稿者側は比較的オーソドックスなカソリックであり、会側はもしかすると異端に走りかねない危険性を持つ突出した信者、という構図ではないかと思います。ま、ありがちありがち。
- なにはともあれ、Miyaさんは「奇跡肯定派と奇跡否定派が争っている」というご認識のようですが、そういう話じゃないぞという指摘をしておこうと思います。そう、そんな単純な構図じゃないんです。
- もうひとこと言いたいことはあるんだが、それはちょっと自粛しておく。
- --Nekosuki600 2006年1月3日 (火) 08:06 (UTC)[返信]
- 「奇跡をめぐるイニシアティヴ争い」ですか・・・正直な話、二つのサイトのどこが違うのか、サッパリ分からなかったことは認めます。奇跡否定派というわけでもないのに、どこが「中傷サイト」なんだろうかと。「もうひとこと」については別の場で甘んじて承ります。--miya 2006年1月3日 (火) 08:21 (UTC)[返信]
正確性について 2
[編集]提案されている文面、「キリスト教系」というのが繰り返されるのであたかもキリスト教世界全体がこれを奇跡として認めているようにおもわれ、いささか首をかしげるものがあります。キリスト教=カトリックではないので、あくまでもこれはカトリック内でだけ巡礼地として通っており、また論議の対象となっているということは明確にしたほうがいいのではないかと。その意味で冒頭文などはともかく、「キリスト教の巡礼地」というのはちょっと誇大な表現ではないかと思います。エキュメニカルなものであるような印象を故意に与えようとしているというような悪意の解釈もあるいはされる危険性があるのじゃないかと。
冒頭文も「キリスト教系・カトリックの」としてあとはすべてキリスト教を「カトリック」で置き換えるくらいがちょうどいいのかなと感じました。 --Aphaia 2006年1月6日 (金) 10:24 (UTC)[返信]
改定稿案2
[編集]存続の方向のようですし、Aphaiaさんからの指摘もありますので、改訂稿案2を作成しておいておきます。改定内容は、「プロテシタントには及ばないことを明らかにするためカトリックのものであることを明記した」「ローマン・カトリックによる認定の性格を書き加えることにより、誤解が生じる虞を削減した」の2点。
- 改定2項草稿 --Nekosuki600 2006年1月9日 (月) 10:02 (UTC)[返信]
- 何か公認されたかのような書き方ですが、ただ禁止されていないという段階だと思います。johncapistrano 2006年1月9日 (月) 10:29 (UTC)[返信]
- そのあたりの話はMiyaさんとおれとの会話で扱われています(ちょっと上の方にあるので参照のこと)。そのあたりの扱いの話をこの項目で延々と語ることは、おれの感覚では「場違い」なんですよねえ。はっきし言ってこの「秋田の聖母マリア」は、幾多あるそういうせめぎあいのひとつにすぎないのだし。いったん「異端・邪教ではない」と確認されたらそれが覆るのはレアケースだということも考え合わせれば、この程度ならばバランスを逸してはいないというのが2稿作成者としての見解です。このややこしい論点についての解決を目指す加筆については歓迎する(けど、前述の通り、詳細を語るとバランスを崩すとも思う)。--Nekosuki600 2006年1月9日 (月) 11:02 (UTC)[返信]
<ここから>
秋田の聖母マリアとは、日本の秋田県にあるカトリックのキリスト教系修道会「聖体奉仕会」で起きたとされる奇跡のひとつを意味する呼び名。
発端は、1973年に、同会所属の修道者の手に十字架型の文様が現れたことである(これは聖痕と呼ばれ、世界各地で、ときどき事例報告がある)。そのほかにも、木製の聖母マリア像から涙がこぼれたなどの奇跡があったと言われている。これらの奇跡は1984年まで続いたとされている。
1984年には、ローマ・カトリック教会の新潟教区長であった司教・伊藤庄治郎により、キリスト教的奇跡として認め巡礼を許可するという声明が出され、異端的あるいは邪教的なものではないと確認された。その結果、キリスト教カトリック世界における巡礼地のひとつとなった。
<ここまで>
この原稿から末尾1文を削除して差し替えを行いました。--Nekosuki600 2006年1月15日 (日) 13:57 (UTC)[返信]
削除依頼で私たちがもめても、本人がGFDLを理解できているかどうかはわからないので、今日中に[1]にあるメールアドレスあてにメールを出します。(URL音がでるので注意)投稿がGFDLに則るということは撤回できませんが、今のところ他の人の加筆もないので、「初版作成者による依頼」という即時削除の規定に則って、ウィキペディアから削除することは可能だと思うのですがいかがでしょうか。このまま存続になったとしても、GFDLを理解しないままの投稿であればウィキペディア内に余計な争いを持ち込むだけだと思います。(でもって、sysopとしては、それは避けたい事態です)--すぐり 2006年1月3日 (火) 09:04 (UTC)[返信]
- また管理者が不当な圧力をかけてきた、と言われるだけではないでしょうか。本人依頼は本人が望んで出すものであって、管理者の都合で出させるものではないでしょう。Kinori 2006年1月3日 (火) 09:24 (UTC)[返信]
- そうねえ。最初の段階で「管理者の不当な圧力」というのが頭に焼き付いてしまっているだろうからねえ。本人からの削除要請を出せと求めるのは、やぶへびになる公算が強い。やめとけばと思います。新版を登録して履歴の奥底にしまっておくだけで十分ではないか。--Nekosuki600 2006年1月3日 (火) 09:31 (UTC)[返信]
- あぁ、誤解を招いたようで申し訳ないです。削除要請を求める気はないです。個人的にはせっかくだから残しておきたいと思ってますので。ウィキペディアに対して大きな誤解をされたままでは悲しいので、説明をしたいというのが一つ。もう一つは、サイト上の文章が少しずつ書き換えられているのを見ると読んで頂けてるのは確かなようなので、これからもお書き込みになるのではないかという気がしています。ですので、少なくともGFDLについての説明はしておきたいのです。--すぐり 2006年1月3日 (火) 09:43 (UTC)[返信]
- えぇと、遅れて申し訳ないです。今、当該サイトあてのメールを送りました。(遅れたのは、ひとえに私の怠惰が原因です。申し訳ない)続報があればまたお知らせします。送ったメールやお返事の公開が可能なようなら、ML宛に転送することにしますので、いったんお知らせまで--すぐり 2006年1月4日 (水) 03:10 (UTC)[返信]
- メールのやりとりが数通ありました。ML[2]に全文を転送しましたので、ご確認お願いします。結論からいうと、交渉に当たったにもかかわらず、どうもウィキペディアを誤解されたままのようで、私の力不足、皆様に心よりお詫び申し上げます。
GFDLで公開された前提は前提として、ウィキペディア上に置いておくかどうかとしては、これからに禍根を残すよりは、このメールをもって本人依頼として削除できないかと個人的には考えています。コミュニティの皆様の判断をお願いいたします--すぐり 2006年1月9日 (月) 15:26 (UTC)[返信]
- メールのやりとりが数通ありました。ML[2]に全文を転送しましたので、ご確認お願いします。結論からいうと、交渉に当たったにもかかわらず、どうもウィキペディアを誤解されたままのようで、私の力不足、皆様に心よりお詫び申し上げます。