ノート:神童 (文化)
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文化現象としての神童
[編集]「神童」と「神童 (文化)」という二つの項目がなぜあるのかという理由であるが、以下に述べるような背景がある。
- 神童とは何かという点で、国語辞書的には、「卓越した才能を持つ・示した児童」という概念が普通である。また神童の基本的な意味としては、この辞書的な定義で間違いではない。しかし、「神童」というのは「天才」と同様、ある意味、非常に特殊な概念である言葉なのである。神童とは、「卓越した才能を持つ児童」というよりも、むしろ、それは基礎条件として、文化的・社会的・歴史的な現象であり、概念であるというのが妥当である。
- 「神童」という概念・言葉がどのように使われるかと言うと、二つの場合がある。一つは歴史的な人物について、「幼少時に、神童と言われた」という風に使う場合と、現代の人物、児童などについて、「誰々は、本物の神童である」などという使われ方をする場合である。前者の場合、神童と呼ばれた人物は、歴史的・文化的に或る程度、範囲が決まっている。例えば、モーツァルトやパスカルは神童と呼ばれた、という点では文化的に合意がある。しかし、後者の場合は、評価する人によって、神童であるとかないとか、色々と変化する。また「本物の神童」というような「本物」という限定形容詞が付くことがある。どうしてそうなのか、ということを考えると、神童とは、最初に述べた辞書的な「卓越した才能を持つ児童」という単純な意味ではないことに気づくのである。
- 「神童」の文化的認知というのは、少なくとも次の二つの段階が必要であるという結論あるいは見通しが出てくる。
- 1)同時代において、「卓越した才能を発揮した児童」として名声を得ること。
- 2)成人して後、「成果を挙げて」、歴史に名が残る著名な人物となること。
- 何故このようの二段階の条件が必要になって来るかというと、まず1)だけだと、心理学や児童発達の問題のように見え、児童が児童である段階で、神童か否かが成立するようにも見えます。またこの段階で成立すると考えても、考え方・概念の把握の仕方としては、それでもよいように見えます。しかし、2)の成人して後の「成果」が必須というのは、「歴史に残る神童」は、成人してからも成果を挙げて、名を残したので、その児童の頃は「神童であった」という記述が、伝記などに加わるのです。成人してから成果のない人は、名が歴史に残らないので、「神童と呼ばれた子供が、この村にも昔いたという話だが、誰だったのだろうか」というようなことになり、名前も存在も忘れられてしまうということになるのです。それは現代の児童で神童と呼ばれた場合も同様なのです。
- 1)と2)が条件だと、このような神童の概念は、歴史や社会や文化のなかで成立し形成される文化現象概念になります。現在、児童である対象について、「神童」と形容する場合、何らかの「保留表現」が加わることが多いです。それは、英語の child prodigy は言語的文化的にどういうニュアンスなのか、よく分からないのですが、日本語の「神童」というと、例えば、音楽だと、モーツァルトが連想され、念頭されるような言葉だとも言えるのです。「驚くべき音楽の才能を持った児童」というのは、評価する人が、「驚くべき才能」だと感じれば、これは成立するのですが、「神童である」というのは、言葉の文化的な用法が、背景に恒に存在しているとも言えます。
- 実は、文化現象としての神童には、もう一つ条件というか、段階が付きます。このような条件あるいはシチュエーションが「神童」という概念の文化的背景に内含されているという可能性があるのです。
- 3)夭折すること(夭折は、二十代、三十代、ときには四十代でも夭折になります)。
- モーツァルトやパスカルは夭折しています。他方、ピカソやノーバート・ウィーナーは神童であったのですが、長命でした。長生きした人の場合、人生の時間が多くあるので、文化的に高い成果を、壮年時代、晩年時代を通じて数多く出すので、相対的に、児童のときに「神童であった」という事実は希釈化されるのだとも考えられますが、他方、文化的現象としては、神童であることと、夭折、そして人の運命・死に対する態度・生き方は、何かの次元で関係し合っているとも言えるのです。神童と呼ばれ、成人して成果をあげて、かつ長命であった人と、同じであるが夭折した人では、実存の質に何かの違いがあるとも言えるのです。
- 「文化現象としての神童」というのは、少なくとも、2)の条件は必須だとも言えるのです。3)の位相も重要なものですが、このような内容については、客観的研究はないはずであり、百科事典には記載できないということになります。しかし、神童であって成人して成果を出した人は天才になる訳で、天才が長命であると、「賢者」になります。他方、神童であった天才が夭折すると、モーツァルトの名アマーデウスが意味するような、「神に愛された者」ということになります。ここから、暗示的な記載が可能であり、この記載は、「文化的現象としての神童」という概念の意味が十分に把握されていれば、不自然な記載にはならないとも言えます。
- しかし、辞書的な意味の「卓越した才能を発揮した児童」という点的位相でしか神童の概念や意味を捉えることができない人には、神童の文化的な意味や、文化的な神童概念の成立条件さえも理解できない訳で、「神に愛された者」というのが、神童とどういう関係があるのか、当然、理解を超えたことになります。
- 「通俗的概念・通念としての神童」と、「文化現象的概念としての神童」は内容が非常に違う訳で、後者の内容を「神童」の項目とは認めないという人が多い以上、二つの別の概念があるとして、二つの項目を立てるしかないということになります。わたしの記載した「神童」の記事を読んで、「そういう意味の広がりがあったのか」と感じる人には有益かも知れませんが、自分の抱くイメージと合わないので記載がおかしいのではないかという人には、むしろ、邪魔だとも言えるからです。
- なお、「真性神童」とか「疑似神童」というのは、わたしが造語したので、幾ら考えても、この概念に当たる適当な言葉が思いつかなかったからです。しかし、「概念」としては何のことかは明らかで、概念があるが、それを表現する言葉が見つからないので造語したので、誰かが適当な表現に変えてくれることを期待したのですが、それも無駄なようです。「真性神童」は「本来的な神童」、「疑似神童」は「一時的な見かけの神童」とでも言い換えることにしましょう。Maris stella 2005年9月10日 (土) 11:36 (UTC)