ノート:神功皇后
神功皇后の記事を見て・・・! 神功皇后については、方々で、その地名の由来になつているのを見聞きする度に、近親感を覚えます。 北九州市の「帆柱山」「帝踏岩」、福岡市の「姪浜」、福岡県筑紫郡那珂川町の「現人神社」等。 そして、応神天皇をご出産された福岡県粕屋郡宇美町の「宇美八幡」と・・・!
神功皇后についての編集を楽しみに期待しています。
2005.6.6 福岡市在住 林 賢治
「1926年(大正15年)10月の詔書」について
[編集]Omitugiといいます。 1926年(大正15年)10月は帝室制度審議会の審議が終わり,長慶天皇登列の詔書のほか皇族就学令,皇族儀制令,皇統譜令,皇族遺言令,皇族後見令,皇族陵墓令,皇族葬儀令(以上皇室令)および位階令,国葬令が発令されました。 しかし,「神功皇后を歴代から除く詔書」は発令された記録が見つかりません。私の不勉強かもしれません。それで「要出典」をマークしました。--Omitugi(会話) 2013年6月2日 (日) 11:24 (UTC)
- 大正15年10月の詔書では、「神功皇后を歴代から除く詔書」は発令されておりませんね。それ以前よりの臨時御歴代史実考査委員会の諮問を経た上で、同年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜において代数から外れておりますので、そちらとの混同ではなかろうかと思います。訂正するとすれば「 1926年(大正15年)10月の皇統譜令施行以降、皇統譜上の歴代天皇の代数から外された。」辺りが適当ではなかろうかと思いますがいかがでしょうか。--No-Marcy(会話) 2016年8月22日 (月) 15:04 (UTC)
事跡の「玄界灘を渡り」について
[編集]「『日本書紀』などによれば、…(中略)…筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。」とありますが、明らかな誤りかと思います。この点は古事記には明記してあるのですが、仲哀天皇に現れた神は、西の方に国があると告げており、仲哀天皇は実際には西には国がないから偽りを言う神だと疑ったとあります。日本書紀には仲哀天皇へのお告げの部分には方角が明記されていませんが、その後の神功皇后の記事において「西征」と明記されており、西へ進軍したことは明らかです。これはつまり、当時も今も変わらぬ対馬海流の流れの速さによるものであり、九州から松浦を通過して五島列島と対馬との間の海をまっすぐ西に航行すると、海流に流されてちょうど新羅に着くのであって、そのルートをとおって進軍したことを、古事記も日本書紀もともに明記しているのです。そのルートを通らず玄界灘を渡って朝鮮半島に行こうとすれば、海流に流されて日本海を漂うことになり、朝鮮半島には到達できません。なので、「玄界灘を渡り」は明らかな誤りであって、削除すべきではないでしょうか?--122.216.26.17 2015年5月28日 (木) 02:24 (UTC)
一部史書で第15代天皇
[編集]冒頭、一部史書で第15代天皇とありますけど皇統譜に登載されてるなら一部どころじゃないですよね? 大正15年までは正式に天皇として歴代に数えられてたということですよね政府・宮中公認で。 ”一部史書”という表現だと控えめですが
で、歴代の天皇に数えられていたのに外すのは大事だとおもいますけど、その辺の経緯が詳しく書かれているといいなと思いました。大正15年以前の皇統譜は何を根拠にいつから編纂されていたのか、神功皇后が即位していないと判断した理由とか。--代言人(話/歴) 2019年12月27日 (金) 14:31 (UTC)
- Omitugiといいます。上の「「1926年(大正15年)10月の詔書」について」の質問をしたものです。その後少し調べました。現在私が知っていることを回答します。2020年2月5日に書いたものを少し書き換えます。
- (1)記事には「大正15年の皇統譜より……」とか「1926年(大正15年)10月皇統譜上の……」と書いてありますが,これは元々「皇統譜令」と書いてあったのを私が「皇統譜」に書き換えた時に1926(大正15)年を消すのを忘れたために起こった間違いです。
- 「皇統譜令」は1926(大正15)年に公布されたのは,はっきりしているのですが,いつ「皇統譜」が作られたのかは分りません。たぶん大正15(1926)年の「皇統譜令」(大正15年皇室令第6号)に基づいて,作られたのでしょう。ですから,同時か,それ以降と考えるのが妥当でしょう。
- 「皇統譜」という言葉も,明治22(1889)年の旧「皇室典範」から規定されたもので,江戸時代以前には無かったのではないか,と私は思っています。ただし,これらのことがはっきり書いてある本や論文が私には見つかりません。
- ですから「大正15年以前の皇統譜は……」無い,あるいは在ったとしても1889(明治22)年からだろうと思います。
- 歴代天皇をはっきりしよう,としたのは,1869(明治2)年に皇霊殿が作られてからです。江戸時代には,京都の御所内にあった仏間で法事をするための過去帳はあったでしょう。
- (2)日本の「政府・宮中公認」の歴史書は,『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の六国史だけしかありません。
- 『日本書紀』には,神功皇后は仲哀天皇皇后・摂政であると書いてあります。天皇であるとも,即位の式をしたとも書いてありません。ところが,その69年の治世を一書とする扱い方が他の天皇と同じだ,ということが問題なのです。即位の式をしていなくても,天皇だと認められた例は沢山あります。だから,書いて無くとも神功皇后は天皇だったのだろう,という考えが生まれたのです。『日本書紀』以外の5冊には神功皇后のを天皇とは書いていません。そもそも神功皇后の時代を扱っていないのです。
- (3)神功皇后を天皇と書いた最初の書物は,註1の『常陸国風土記』だろうと言われています。息長帯比売天皇と書いてあります。
- (4)註1の『扶桑略記』は,神武天皇から堀河天皇までの記事が載っています。104冊の本から引用しているけれど,その半分以上は現在では失われているのだそうです。今は無くなってしまった本の中に神功皇后天皇説を説いていたものがあったかもしれません。
- (5)徳川幕府は『徳川実紀』という公式史書を作りました。でも書いてあるのは幕府や徳川氏に関わりのあることで,神功皇后には触れていません。その他の武家政権がどんな史書を編纂したのかは調べてみてください。
- (6)先日まで註1に『大日本史』が書かれていましたが,これは誤りなので私が消しました。水戸藩が編纂した『大日本史』は神功皇后を歴代としないことで有名です。
- ですから「大正15年までは正式に天皇として歴代に数えられてたということですよね」は誤りです。