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ノート:社青同解放派

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「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」の一部を転記する提案

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現在、「革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会」(以下、解放派全協)にある以下の記述を、社青同解放派の概要に転記することを提案します。当該箇所はもっぱら、革労協結成までの社青同解放派の歴史を概説的に記述するものであり、革労協結成後10以上経過してから、革労協から分裂した解放派全協の解説としては不要な記述です。WP:MMは、分割すべき場合として「見出し語の解説としては不要な記述」である場合を挙げ、また、転記は分割・統合に準じた基準で行われるとしています。よって、上の通り、転記を提案いたします。

  • 旧社会党内で構造路線をめぐる対立が社青同内に持ち込まれ、1964年2月の「社青同第4回大会」で社青同左派の社会主義協会派が構改派から指導権を奪うなど社青同内での対立が激しくなったころ、解放派も次第に勢力を伸ばしはじめ、1965年3月に正式に「社青同(解放派)」を結成するが「協会派」と対立するに至り、両派は1967年9月3日の東京地本での衝突(九三事件)をはじめ各地で内ゲバによる流血事件を引き起こす。その後、解放派は1969年10月、政治組織の革労協を結成。1971年9月には独自に「社青同第10回再建大会」を開催し、自派傘下の社青同を結成する。機関紙は「団結の砦」。

--以上の署名のないコメントは、Ethanol会話/Whois)さんが 2011年8月4日 (木) 11:17(UTC) に投稿したものです。

賛成 Ethanolさんご指摘の通り、上記記述は時期的にも内容的にも、現在記述されている革命的労働者党建設をめざす解放派全国協議会の記事にではなく、明らかに当記事(社青同解放派)の方に記述すべき内容と思うので、転記(Wikipedia:ページの分割と統合#項目一部転記)に賛成します。--Rabit gti 2011年8月4日 (木) 14:16 (UTC)[返信]
(報告) Rabit gtiさん、賛成ありがとうございます。一週間経過しましたが異論はないようですので、転記を実行しました。--Ethanol 2011年8月13日 (土) 08:52 (UTC)[返信]

「目上委差別ビラ事件」についての備忘録

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「百歩譲って云々」の文言が主に問題になったが、当時を知る者としてその背景を一点記しておく。この回の上映会情宣ビラの作成を担当した労組員はまじめな勉強家だった。上告趣意書も彼は自ら購入して読んでいた。

一般に無罪主張事件の弁護側の論旨は、証拠に基づいて無罪の主張を展開するが、それが認められなかった場合に備え、有罪だった場合の情状による刑の軽減事由を最後に追加主張する。それは、上告趣意書の狭山事件の弁護団主張も同様である。この事件が起きるしばらく前に大学で私が参加した上告趣意書の学習会でもこの点が取り上げられたことがあった。参加者の中から、無罪なのに情状主張はおかしいのではないかという質問が出されたが、講師からこれが被告の利益のために最善を尽くすことを目的とする刑事弁護の常道だという説明を受けて納得したことがあった。

問題はビラの筆者が一般向けの説得を目的にした情宣と裁判所での攻防を混同したことにあったと思われる。ただし、いくら勉強家とはいえ狭山弁護団に絶大な信頼を寄せている法律の素人にその区別を要求するのはいささか酷であろう。--以上の署名のないコメントは、Sinpenzakki会話投稿記録)さんが 2013年7月29日 (月) 01:08 (UTC) に投稿したものです。[返信]

コメント ここは記事の記述の議論の場です。出典の無い説明・主張・見解を書く場ではありません。署名もお願いします。ノートであれ、ウィキペディアの各種ガイドを理解の上、ご利用ください。--Rabit gti会話2013年8月4日 (日) 10:06 (UTC)[返信]