ノート:確率
この記事は2008年9月13日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、特定版削除となりました。 |
削除した部分
[編集]以下の部分を削除しました。削除した理由は次の節に記載しました。 コメント等あればお願いします。
-- ここから --
量子論の世界で事象が確率的になるのは、なぜか? その理由は、数学の確率論からわかる。すなわち、「それぞれの量子は、たがいに同等で区別がつかない」ことである。たとえば、二つの電子は、たがいに区別がつかない。一方のエネルギーが高く、他方のエネルギーが低いとしても、一瞬後には、一方から他方にエネルギーが移ったかもしれないから、エネルギーによって識別することもできない。特に、よく知られた例として、電子の衝突がある。二つの電子AとB が衝突したあと、電子CとDが離れていく。AとBのどちらがC(またはD)であるかは、まったく判明しない。さらにまた、Cは、AとBのどちらでもないかもしれない。なぜなら、Aが消滅して、かわりの電子が発生したかもしれないからだ。
量子がたがいに区別不可能であるということは、量子の世界が本質的に確率的であり非決定的であることを意味する。古典物理学の世界では、物質はたがいに区別可能だからこそ決定的なのであり、量子力学の世界では、同種の量子はたがいに区別不可能だからこそ非決定的なのである。
量子のこの特質は、シュレーディンガーの猫の問題において鮮やかに現れる。崩壊するアルファ粒子は、量子であるがゆえに確率的であり非決定的であるが、現実の猫は、マクロの世界の物質であるがゆえに非確率的であり決定的である。量子はたがいに区別不可能なものであり、真空中において発生したり消滅したりするが、猫はたがいに区別可能なものであり、真空中において発生したり消滅したりしない。この両者はまったく別の世界の事象であって、たがいに等価ではない。両者は確率としての値だけは等価になるが、それ以外のことが等価になるわけではない。
ミクロとマクロの世界ははっきり区別される。その違いは「対象が確率的に発生したり消滅したりするものであるか否か」つまり「対象の存在が確率的であるか否か」ということだ。(何らかの大きさの違いが理由になるわけではない。)
-- ここまで --
削除した理由
[編集]削除した部分では、「量子論の世界で事象が非決定的に起こる」理由を「それぞれの粒子は、たがいに同等で区別がつかない」こととしています。これは正しくないと思います。異存のある方はコメントをお願いします。
「それぞれの粒子は、たがいに同等で区別がつかない」ことによる帰結のひとつは、統計の問題です。個々の粒子の区別がつけば、マクスウェル-ボルツマン(Maxwell-Boltzmann)統計に従います。一方、個々の粒子の区別がつかないならば、ボーズ-アインシュタイン(Bose-Einstein)統計もしくは、フェルミ-ディラック(Fermi-Dirac)統計に従います。
例えば、二つの電子は、互いに区別がつきません。電子の衝突を考えた場合、二つの電子AとBが衝突したあと、電子CとDが離れていくとします。このとき、AとBのどちらがC(またはD)であるかは、原理的に、わかりません。このため、AがCで、BがDの場合の確率振幅と、AがDで、BがCの場合の確率振幅を足して、確率を計算する必要があります。
「量子論の世界で事象の発生が確率的になる」理由は、よくわかっていません。現象が確率的になることは、実験結果からわかったことです。わかっていることは確率が確率振幅の自乗に比例することのみであり、それは量子力学の基礎原理のひとつです。別の何かの原理から導くことはできません。「重ね合わせの原理」を実験結果と結びつけるために「確率解釈」が必要となります。ですので、どうしても「量子論の世界で事象の発生が確率的になる」理由をあげるのであれば、「重ね合わせの原理」となります。
「現実の猫は、マクロの世界の物質であるがゆえに非確率的であり決定的である」という記述は、
シュレーディンガーの猫の問題を誤解しているように思えます。もし、現実の猫が決定論的なのであれば、
シュレーディンガーの猫の問題は解決しています。「現実の猫が確率的で、非決定論的なのではないかという
疑念」がシュレーディンガーの猫の問題の本質です。
「確率」という熟語の発案者
[編集]本文の「中塚利直は、藤沢利喜太郎の訳語であると推定している」という記載について。確かに出典のウェブ記事
- 藤沢利喜太郎 生誕150年 - ウェイバックマシン(2011年10月12日アーカイブ分)
に中塚利直氏は2010年の著作『応用のための確率論入門』で「藤沢に端を発した訳語」と解説していると記載されています。一方で同氏は2008年の論文
- 中塚利直「プロバビリテーの訳語の歴史」『経営と制度』第6号、65–87頁、2008年 。
のp. 84で誰が発案したか分からないが「筆者は林(鶴一)であろうと考える」と述べています。中塚氏の2010年の著作は確認していませんが、次のPDF
- 河野敬雄「公算 vs. 確率 (1)―probability とは何を意味するのか―」『京都大学理学研究科・理学部数学教室同窓会誌』第2号、49–71頁、2018年 。
のp. 52の脚注10によれば中塚氏は2010年の著作でも「だれが考案したのかは現在でも不明である」と述べているそうです。
--Hagurekusa(会話) 2024年8月14日 (水) 15:47 (UTC)
- ウェブ記事「藤沢利喜太郎 生誕150年」の出典になっている中塚氏の2010年の著作の付録も確認しましたが、中塚氏が「確率」という訳語は「藤沢に端を発した訳語」と考えている、と読める記述はありませんでした。前述の河野氏の論説P. 52の脚注にあるように中塚氏の2010年の著作の付録は2008年の論文と内容はほぼ同等なのですが、2008年の論文にあった「筆者は林であろうと考える」という記述はなくなっていました。それらを踏まえてこの編集で対応しました。--Hagurekusa(会話) 2024年8月22日 (木) 20:35 (UTC)