ノート:石城山
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天智四年(六六五)、日本に進駐して来た唐・新羅連合軍が、達率答ほん春初を指揮官としてこの地にきたり、倭人を動員して、古代長門水道(柳井水道)の要衝石城山に朝鮮式山城を築き始め、天智九年(六七〇)二月に完成した。/標高三二〇メートルの八合目で、全山をぐるりと鉢巻き状にとり巻く列石の長さは、二・五キロに及び、東西南北四ヶ所の水門と、二ヶ所の城門を構えた日本版万里の長城である。/かくして周芳の地にも当時は「長門の城」と呼ばれた石城山城がつくられ、長門水道の浮島にあった(阿曇比羅夫の)水軍基地を接収、その近くの麻江(おごう)に駐屯地の司令部・周芳総令府を置くことになった。/のちにこの「麻江の里の府」が縮められて「麻里府」と書かれ、またそう呼ばれるようになったものと思われる。(鹿島昇『裏切られた三人の天皇ー明治維新の謎』1997年1月20日発行382~3頁、松重正「解説-万物流転」/印は改行)
この記載は日本書紀の天智四年と天智九年の記事と、鹿島昇の『日本王朝興亡史』に基づく歴史観(白村江の戦いの後、唐・新羅連合軍が我が国に進駐して来て奈良に都を築いた)によるものである。朝鮮式の山城がなぜこのような時期にこのような場所に造られたかと云う謎は、鹿島昇の歴史観により初めて解明できたのである。