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ノート:矢野玄道

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古史傳続修執筆の頃を書く上での参考資料
  • 玄道翁晩年掉尾の事業は、古史傳の続修で是は明治12年比から同19年の末に及んで居る。しかも12年の2月には、宮内省の御用掛は罷めたので、郷里に帰ろうとしたのであるが、同門の人々や、師家からして、今翁に去られては、古史傳は遂に完成を見ずに了るから、是非にと懇請せられ、遂に姑く止まって其れに力を盡し10月予定だけのものを完成したのであった。
  • 抑々古史傳といふのは、皆人の知る如く、平田先生の著であるが、始め先生古事記や日本書紀等の記事に、参差交錯する所があるので、是を正さうとして、古語拾遺や他の古典を参取して、別に古史成文といふ書を著した。それは神代から推古天皇に及ぶ筈であって、神代だけが大体出来て居た。この古史成文に対して本居先生の古史傳に倣って・・・或いはもっと遡れば、孔子の春秋に対する三傳といふことになるが・・・古史傳を著して第28巻までは出来て居た。然るに其れ以下は第29巻及び第30巻の一部分が書きかけてあるだけで、其後は全く無い。それで平田先生の嗣子である鐡胤主は、玄道翁に兼ねてからこれが続修完成の依頼をしたのであって、今存している書簡に依れば、明治7年11月が依頼して来られた最初で、時恰も翁は蟄居御免の後、郷里から上って京都に来て居た際である。此の書簡は右依頼の事のみで無く、古史傳の成立ちの由来、其の他に就いて参考になるべき点があるから、之を左に掲げて置く。
  • 『近来意外に御遠々敷打過申候 先以此節向寒之砌弥御安健被成御勧学之旨 恭賀之至奉存候 次に拙老追々老衰 殊に一昨年病気勝にて 一入衰耗仕り候へ共 此節平臥と申すにも 無之候條 然者近年 御著編志斐語を始め 古文彙 真木柱 玉鉾物語等御上木に付き 追々 拝読 近来倍々御精学之御事と 深く感伏 忝しく大慶至極に奉存候』

今般改めてご依頼申し度き儀之れ有り。則ち左に御意を得候。右者は著述の事、在世中自分存分に出来候も数部之れ有り候へ共 又名目計にて、稿本成らざるもあり。又半端にして余義無く打置たるもあり。生涯苦心致さ被れ候中にも、古史傳は最初文化之末頃より草稿取り掛かり、文政の始め頃迄に、成文1~2巻程は、ざっと稿成り候所段々見識博く相成り、殊に故鈴屋大人御遺教をも相伺れ候て、弥々以って、世界悉く我が皇大神達之御鎔造なされたる事を感得致され候に付き、古史傳は先づ差し置き赤縣州を始め、印度及び西洋之古傳をも悉く皆探索網羅して、其の上にて、充分に古史之註解をと存し込ま被り候て、文政の央(なかば)頃より、専ら外国学に困苦致され被れ、凡そ廿年餘りも歳月を過ごされ候て、赤縣太古傳初め、即今之だけ有る著述は出来候へ共、中々以って先人の心底に叶ひ候事には之れ無く候へ共、大抵は見當も付候に依ては、拙子始め門人中之所存にも、段々時節相後れ、先人も老年に被成候に付き、先づ先づ外邦之所は大抵にして差し置れ古史傳之清撰を連て相願ひ催促いたし候て天保の10年頃より、漸々と其方にも被趣候所 言語規則之書無之に付、餘義無く五十音義譯之撰に掛かり、凡そ壹ケ年程打過られ候所舊幕の命に依って秋田へ放逐、尤も同所は本国の事、親族共不少、第一舊君候より厚く思遇も之有り候て、会計の辛苦は薄らぎ候へども、著述致す可遑なく、彼比両三年心配被致候内、病発にて入幽被致候次第 残念至極にて御座候。然れば古史傳は全く初稿の儘にて不行届中々以って上木可致には無之候へ共、門人中一同之懇願に付差し置き難く、上木相初め第28巻まで刻成り申候段 御見聞之通に御坐候。 扨て成文第144段より第150段迄は大抵草稿出来居候間、則ち傳第29巻第30巻以上弐巻として未定乍ら、近々上木仕り候筈に御坐候。扨て成文第151段火須勢理命御幸易之処より、巻末165段迄は草稿少しも之無く候。 拙老儀は兼ねて御見分候はむ不学不才迚も著述は出来申さず、其の内先人遺言も之れ有り。延胤義は少々心掛け候へ共、存外不孝いたし何共仕方無く、當惑至極に罷り在り候事に御坐候。茲に依り御頼み申し候。貴君御事御頼致す可き御仁之れ無く候間、何卒右第151段より末迄之所、御註解被成下度御頼み申し候。右御出来被下候はば、先人の霊も嘸々満足可被致候はむ。猶委曲之義は深見速雄主より御頼可被申し上げ候間御承知被下候。古史成文の儀も、兼ねては推古天皇之御紀迄撰述の心組にて、云々、右御依頼申上度以書中如斯御坐候。頓首 謹言    

  • 上記の書簡は明治7年申戌11月27日平田宗家後継者 平 田 鐵 胤 翁 が、未完であった古史傳の続編依頼の経緯を篤胤先生死後の門人伊予の 矢 野 玄 道に申し述べ懇願された貴重な資料の一つであります。  

玄道研究の上に於いて重要な出来事であります故に、昭和8年出版 愛媛県先哲偉人叢書 矢野太郎篇『矢野玄道』の古史傳続修についての中から一部そのまま書き写し掲載致しております。戦前の書籍故、著作権もすでに無効になっており、あくまで矢野玄道翁研究の一環として引用させて戴きました事、悪しからずご了承下さいませ。   

文体

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文体が異様な個所は削除が適当と思われます。--Kafuka1964 2007年3月14日 (水) 13:45 (UTC)[返信]

削除した個所

  • 旧字の使用。
  • 引用以外の擬古文の使用。
  • 「……をした事が機微に触れ不審ありとて……」など意味不明の誤記。
  • 指示語、接続語、副詞の漢字使用。

上記、削除しました。復元される方は上記を修正したものに変更して下さい。--Kafuka1964 2007年3月14日 (水) 14:14 (UTC)[返信]

以下2項目、Wikipedia:スタイルマニュアルより抜粋。

  • 仮名遣いは現代仮名遣いを原則とする。
  • 漢字の字体が複数ある場合には常用漢字表にある字体のものを使うのを原則とする

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