ノート:真田信之
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徳川の与力時代、及び主君の表記について
[編集]「徳川氏の家臣となる」という表記がありましたが、真田家は第1次上田城合戦後、徳川家の与力とされています。家臣ではなく与力です。なので与力扱いでよいのではないのでしょうか。その時に真田信之(信幸)は父である真田昌幸の下にいたので、その時点での主君は真田昌幸扱いでよいのではないのでしょうか。--220.1.22.24 2017年6月24日 (土) 17:46 (UTC)
- 与力時代を家臣としないことは納得もできますが、通常、既に嫡男の立場にある場合に、家督を譲られる前の当主である実父の家臣であるという見方はあまりないと思われるのですが、そう見做すことになっているという学界などでの根拠となる出典はありますか?一応、武田氏滅亡前に元服し、「信幸」の「信」は当時の武田の嫡男である武田信勝からの偏諱であり、庶子であり他家(武藤家)の養子となっていた父・昌幸が、長篠の合戦における伯父2人の戦死によって真田の当主になることにあたって勝頼からの指示で、真田信綱の娘である清音院殿との婚姻していたことなどから、徳川家康の前に、豊臣氏なり、武田氏を主君とするのであればまだ判りますが。--ジャムリン(会話) 2017年6月25日 (日) 06:05 (UTC)