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ノート:真理

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分類は必要ですか。各項目の記述も大いに疑わしい。

科学的検証をパスした理論を真理と呼ぶというのは、何もいっていないというというか、科学的という言葉を使っている時点でトートロジーでしょう。実際には科学は反証主義なわけですし、検証にパスしたからといって、真理とみなすわけではなく、真理だから検証にパスしたと考えるはずです。分野ごとに真理という言葉の意味に違いがあるとは思えない。宗教的真理と科学的真理の違いは、科学と宗教が真理を見出す方法論に関する信念の違いであって、真理そのものに対する考えが違うわけではない。宗教的真理が心理的リアリティを重視するといっても、それが基準や根拠になるわけではない。単に、宗教は、真理ならば心理的リアリティを効果として持つだろうと信じているに過ぎないでしょう。必要な項目・分類だとは思えません。まして論理学と哲学の真理の意味は別ではないですよ。論理学の真理の定義として挙げられているのは、実際には、論理学や哲学における整合説と呼ばれる考えに過ぎず、別に論理学の真理概念とはいえません。道徳的真理の定義にいたっては、なぜそういう定義になるのか、ひとつの説としかみなせない。「経験や道徳、理念を統一的にガイドできる考え。 」なぜこれが道徳的真理の概念になるのか、説得力があるとは思えない。

またニーチェやキルケゴールを実存主義とするのは実存主義のほうで勝手に言っている話で、実存主義というのははやっていた時期には、それ以前の自分たちと似た傾向の哲学者をなんでも実存主義にいれてしまっていたわけで、ここで持ち出すような話でもないと思います。


「哲学において真理論は論理学や分析哲学においてとりわけ主題化された。この場合、真理とは何かについての整合説や対応説などの、観念と現実との関係についての問題が重要となる。」

「現在この問題をまっすぐ扱っているのはもっぱら哲学であり、 哲学から派生した論理学や哲学の一分野である分析哲学などで頻繁に議論される。 この場合「何をもって真理とするのか」に関しては幾つかの立場がある。以下、列挙する。」

というのは単純に改悪になっているので戻します。文章が冗長になった挙句、情報が減っています。--Clinamen 2006年5月30日 (火) 04:11 (UTC)[返信]

つまり、分野別に真理の意味に違いがあるというのは疑わしいにしてもわかりやすいというのであれば絶対に反対というわけではありませんが、定義が現状ではいいかげんであると考えます。科学的真理というのは、客観的な世界の間主観的に再現・検証可能な性質のことでしょうし、宗教的真理と道徳的真理を区別するのは難しい。哲学的真理と論理学的真理も有意味な区別があるとは言いがたい。しいていえば真理へのアプローチの区別はこの三分野の間の違いでしょう。--Clinamen 2006年5月30日 (火) 04:20 (UTC)[返信]
理屈としてはUser:Clinamenさんの言うとおりです。まったく正しいと思います。ただWikipediaの指針である「素人にもわかる記事をかく」という点を考えた場合 例えばこの場合であれば、「真理とはなにか」について深くは考えた事がないような読者を考えた場合 明らかに冗長でも、議論の混乱を防ぐ、という目的のためにあのような分類は有益だと思いました。実際、日常言語における「真理」の使用法(特に英語のen:Truthの使用法)は非常に多義的です。
また一般に「真理」という言葉を検索している読者ならば、「正しい事は何なのか?」というボンヤリとした問題意識を持っていると思います。その場合やはり「宗教的・道徳的部分な正しさ」と学術的な意味での「真理」という概念との分離を明示するというステップは必要だろうと思います。この分離は素人にとっては自明ではありません。
しかし読者の中には「はてさて、Wikipediaではいったい「真理」の項をどう扱っているのかな?これは難しいぞ」といった動機で眺めてみる人もいるでしょう。このような玄人に対してはUser:Clinamenさんのおっしゃるとおり、私が戻したような分類は自明な前提でしょうし、仰るように中途半端な定義として感じられるとも思います。
しかし「真理」という言葉が日常言語としても用いられてしまっている以上、この言葉の定義がいいかげんになってしまう、または明確な定義のし様がないという状況は避けられないと思います。かといって、厳しい目をもつ玄人の評価を期待して、または高いレベルにある自分が一番スッキリとして感じられる記述を追いかけることで、素人(意味を知りたい、という百科事典が想定している本来の読者層)の理解容易性を捨ててしまっては良くないと思います。
ですから自分としては、ボンヤリとしか分類できないけれども、それでもあのような分類は有益であると考えます。
Was a bee 2006年5月30日 (火) 13:15 (UTC)[返信]


初めまして、私は真理を現した、数学を数学たらしこめているものは何か?という問いに対し、当初は「現象学的真理」と思えた言葉が、 「ルールがあるならば、世界ができる。」 という言葉に表せました。これ以上の発見は、私史上では無理です。 この「ルールがあるならば、世界ができる。」というのは、ルールがあるから世界ができる。という、一昔前の自然科学の絶対性というか、確かにそうだけど、強迫めいたものから、少し後ろに退き、どんなルールでも、あるならばそういったものを頭の中では造れるという、主観的な世界というものを感じることができる。ほとんどは妄想、空想になりますが…現実になることもあるかもしれませんが、 さて、私のルールと言っているものは、例えば、サッカーのルール(得点や違反行為などの規定)、また、歌い手が歌うという行為によって(この歌うという行為をルールと見ている)歌の世界をみんなに伝えている。また、我々を治める国家は憲法や法律などのというルールによって、国民を治めている法治国家。このような、我々の主観的な世界か、または、自分が法というルールに従って現実に生きるという世界がある。つまり、主観的妄想、空想世界か…時間と共に他者と関わり生きているこの現実世界の、2世界観がある。

おっと、ここまで説明で書いたこともルールとして見れば、世界が見えるのではないか?見えて欲しいという期待が強い。 あと、ここで「ルールがあるならば、世界ができる。」という命題を論理包含的に見てみて真理値が偽となる命題、つまり 「ルールがある且つ、世界ができない。」の意味を考えなければならない、ルールがあり世界ができない。というのは、 ルールという手が首を絞め世界を窒息死させようというような、イメージが私的に見ている、死に至らしめる「殺す」や「自殺」のような、ここがニーチェが厳しく誤謬とした点であると私はニーチェに確認したい。

出しゃばり過ぎですが、

「ルールがあるならば、世界ができる。」

という言葉を、片手に吟味して見て、問いが欲しいです。 --田中毅-1978.8.1.会話2014年2月22日 (土) 07:06 (UTC)[返信]

真理に対する哲学者の試みが大幅にアップされたと感じています。 また、ニーチェの誤謬という所を上手く、処理して頂きありがとうございます。(って言ってのかは、自分でも謎ですが) 大幅な改訂により、グッと旨みが増した様に感ぜられました。