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ノート:相見駅

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相見駅に正式決定

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相見という地名

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1889年10月01日 (明治22年10月1日)の市町村合併によって、新規に誕生した名前で、それ以前には、相見という地名はなかった。江戸時代の村落地図では、おおむね額田郡高力村が該当する。 また、JR東海道本線が貫通している周辺は、菱池という湖沼があり、近代になって干拓されたものである。なお、日本荘園データベースに、相見庄が登録されているが、村名の由来は中世に相見庄と称した地域を中心に合併という記載があるが、それを裏付ける中世史料は一切ない。

※三河国の江戸時代の村落地図には、相見村あるいは相見庄なる地名はない。また、菱池の干拓以前と現在は、土地形状に違いがあり、こうした事情を説明するのは重要なこと。東海豪雨でも菱池干拓地が水没しており、菱池が相見庄であろうはずがない。--115.39.236.125 2012年3月13日 (火) 07:13 (UTC)[返信]

マークアップを修正し、見出し化しました。なお、この節の存続にあたって、きっちりと出典を示したいただければありがたいです。荘園データベースに書いてあるでは出典の示し方としては微妙かと思われます。Wikipedia:出典を明記するを参考になられてください。--東京特許許可局会話2012年3月14日 (水) 13:46 (UTC)[返信]

江戸期・村落領主(石高)     明治1

横落村 山田内匠領(169石9斗5升1合) 横落村     相見村(明治22)

大草村 松平庄九郎領(1021石9斗9升1合)

浄土寺領(7石)         大草村

北鷲田村 天領(17石8斗5升3合)

松平庄九郎領(65石3斗5升3合)     北鷲田村

高力村 天領(7石6斗8合)

山口内匠領(473石8斗5升)     高力村

鷲田村 吉田藩(414石2斗5升3合)

天領(121石6斗2升6合)         鷲田村  菱池村(明治9)

岩堀村 天領(47石1升2合)

山口内匠領(682石8斗2升2合)     岩堀村

西脇村 天領(21石3升8合)

山口内匠領(209石9斗4升7合)     西脇村

日本荘園データベースの検索結果(詳細)

【荘園コード】 1002005 【国名】 参河 【郡名】 額田 【荘園名】 相見庄 【フリガナ】 アイミ 【重複コード】 【参考市町村】 額田郡幸田町 【町村コード】 23501 【明治村字】 大草・西脇・岩堀・高力・横落・鷲田・坂崎・久保田・長嶺 【史料村郷名】 【領家・本家】 【初見年和暦】 【初見年西暦】 【出典】 【遺文番号】 【記録類】 【関係文献】 無 【地名辞典】  荘園志料=記事なし・角川地名=庄号なし→相見村=広田川上流の額田郡幸田町=村名の由来は中世に相見庄と称した地域を中心に合併という

また、荘園の記録として『岡崎市史』に深溝荘が、『荘園資料』に相見荘が記載されているが、存在を裏付ける史料はない。幸田町史 94頁

愛知県図書館絵図検索 参河国全図 国絵図 天保8年 菱池の掲載あり。

高力村=JR相見駅およびカメリアガーデンのある周辺。--14.132.93.92 2012年3月16日 (金) 05:16 (UTC)[返信]

Himetvと申します。「東海豪雨でも菱池干拓地が水没しており、菱池が相見庄であろうはずがない。」、 「また、JR東海道本線が貫通している周辺は、菱池という湖沼があり、近代になって干拓されたものである。」についての根拠をご提示願えますでしょうか。--Himetv 2012年3月16日 (金) 06:13 (UTC)[返信]

ttp://www.aichi-pref-library.jp/gazou/ezudata/all/all_544.html

自分で確認したら?天保18年江戸時代の三河国地図。

菱池の下のほう。六栗村=今の字の六栗と同じで、すぐ横が菱池=JR東海道本線が貫通。

菱池の上のほう東側。高力村=今の字の高力と同じ=相見駅とカメリアガーデン。 すぐ西は菱池で、JR東海道本線が貫通。

岡崎市のほうの土呂、高須は、今の福岡町です。

現在の字の菱池となっているところは、江戸時代の菱池です。

菱池の干拓(1883年)

JR東海道本線 JR岡崎駅 開業年月日 1888年(明治21年)9月1日

少しは自分で調べたらどうでしょうか?--14.132.55.97 2012年3月16日 (金) 09:33 (UTC)[返信]

コメント菱池自体は室町時代の応永9年(1399年)の矢作川における六名堤建設の際に(伏樋)を引いて本格的に湖沼化したものであり、それ以前は江戸期のものよりも小さく浅かった模様です。幕末期の地図をもって中世の相見荘(相見庄)の不存在を断定することは不適切だと考えます。また、「菱池の干拓が近代になって干拓された」という点については干拓の完成は明治期であるものの、干拓自体は寛文・享保年間にすでに始められており、享保年間だけで65町歩の干拓が行われています。また、相見という地名が明治22年の町村制施行と同時に新しく作られたように文章中で書かれていますが、明治15年に開削された人工河川に「相見川」と名付けられている点につきましてはいかがお考えでしょうか。(参考文献:『角川日本地名大辞典 23 愛知県』角川書店、1989年、P1976-1977。)--Himetv 2012年3月16日 (金) 10:23 (UTC)[返信]

あなたね、出典を示したのに、言い掛かりとは酷いですね。文脈わからないのですか? こっちの独自研究みたいな言い方ですよね?相見川から由来するは、あなたの独自研究ですよ。 また、天保時代の絵地図を示したのに、それ以前から干拓されていたとか意味不明。 干拓されていたのなら、干拓地に、相見村があるはずでしょ?何を見ているの?あなたは?

相見村の由来は、相見荘なる荘園だと、角川地名辞典に出ていると、荘園データベースに掲載されているのです。 そして、幸田町史には、相見荘なる荘園の中世史料はないって、wikipedia内にも出ていますし、 荘園データベース内にも、中世史料の出典はありません。よって、ないとしか、書けません。 相見川の由来なんて一言も言ってないのに、ごちゃまぜにしていますよね?相見村の村名の由来の話しですよ?

あなたの言ってることが独自研究に当たりますね。--14.132.82.27 2012年3月16日 (金) 13:59 (UTC)[返信]

国立歴史民俗博物館 日本荘園データベース(以下、荘園DB)は、日本中世の社会的・経済的な基盤であった「荘園」について、 それぞれの荘園ごとに所在や荘園領主・史料出典などの主要な情報を検索・表示するものです。 対象とする「荘園」には、庄園・御厨・御園・牧・保・別符などを含み、近世の地域名としての庄も 一部に採録してありますが、中世の国衙領である郡・郷は対象としていません。 【地名辞典】 その荘園の立地・比定地などを記す。使用した文献は以下のとおり。

「荘園志料」

「角川地名日本地名大辞典」(「角川地名」)

「平凡社日本歴史地名大系」(「平凡地名」)

「平凡社大百科事典」(「平凡百科」)

なお、「荘園志料=なし」→「荘園志料」に記載なし 

「荘園志料=記事なし」→史料の掲載がない近世の地名としての「庄」という意味である。

相見庄 荘園志料=記事なし→史料の掲載がない近世の地名としての「庄」という意味である。

※つまり、荘園データベースでも、中世に、相見庄なる庄園はないと断定しています。

1、中世に相見なる荘園はあった→独自研究。

2、相見村の由来は相見川から由来する→独自研究。1921年完成の荘園志料は、相見庄は近世名称なりと断言。 どっちにしろ、明治時代になって名付けられたものである。--14.132.82.27 2012年3月16日 (金) 14:31 (UTC)[返信]

一応指摘させていただきますが、近世江戸時代近代は明治以後に対して使われます。よろしいでしょうか。なお、私は相見村の由来は相見川に由来する、とは一言も申しておりません。町村制施行の明治22年より以前に「相見」の使用例があり、「相見」の名称は明治22年の村名制定時に創作されたものではないという旨で相見川に言及しております。--Himetv 2012年3月16日 (金) 14:41 (UTC)[返信]

あのさあ、あなた文章まったく読んでいないよね。1921年の荘園志料に、相見庄というのが載っているんですよ。 江戸時代に荘園制度はありませんから、相見荘園は、ありません、当然。 それ以前の平安・鎌倉・室町時代の史料(中世史料)に、相見荘はありません。 江戸時代の村落地図に、相見村はありません。 よって、明治時代以降に、中世に相見庄があったかのような呼び方が出来たことがわかります。 1921年の段階で近世といえば、近い時代の意味で、江戸時代を指す意味ではない。というか、 江戸時代に荘園制度はないから、相見荘なんか、ありっこない。よって、明治時代以降という意味になる。 江戸時代に額田郡幸田町という地方自治体はなく、地名を勝手に住民が名付けるなんてこともできない。

また、矢作部民の村→矢作川。豊川村→豊川。のように、村名から川名がつくられており、その逆はない。 よって、相見川から由来するはありえない。

明治22年に創作されたとは一言も言ってないね。合併した村の名前として、新規に名付けられたと言っています。 それ以前に、相見村という村はありませんので。地名とは、土地の名前のことで、領土を意味しています。川は領土ではありません。川は多く境界線になってることが多く、このことからも川名から村名を名付けにくいですね。 荘園データベースに、相見庄があり、これは近世のものである。しかし、公式に地名・村名として起用された事実はない。はっきりしているのは、相見村の誕生のときだけである。

仮称相見駅→正式相見駅みたいなもんでしょうね。--14.132.82.27 2012年3月16日 (金) 15:22 (UTC)[返信]

横やりを入れて悪いのですが、そもそも「相見」の由来を詳しく載せる必要があるのでしょうか。駅名の由来は単純で、誘致運動が始まった当時に相見村という村が存在していたからではないのですか。わざわざ存在すら定かでない荘園を持ち出して、「そんなものはない」と項目中に書く必要があるのでしょうか。相見庄については、幸田町の記事中で触れました。そもそも区画整理が始まるまで、あの一帯を「相見」などと呼ぶ町民はいませんでした。駅名決定の詳しい経緯は知りませんが、ルーツが相見庄でなく相見村であることは明白だと思います。
また、駅がかつて菱池だった旨が書かれてますが、愛知県図書館の地図が出典では不十分です。高力という集落は県道483号線沿いに位置します。北鷲田は駅から幸田高校に上がっていく途中にある集落です。ただし、三河国全体の地図から相見駅の位置を断定するのは無理がありませんか。駅周辺は土地が低いので、かつては菱池だったのではないか、と個人的にも推察はしています。幸田町の作成したハザードマップにも駅周辺が浸水する危険性が高い地域として示されており、町議会でも質問が出たと思います。その意味でも菱池との関連を書くのはいいかと思うのですが、もっと資料を調べてはいかかがでしょうか。--Umako会話2012年3月18日 (日) 19:20 (UTC)[返信]