ノート:盧武鉉
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TBSの特番に出演した時の発言はこれです 誇張捏造はやめて下さい--211.13.148.196 2005年10月20日 (木) 12:43 (UTC)
最近の発言の項について
[編集]ウィキクォートに移動するべきじゃないでしょうか?百科事典的にあまり関係がありませんし。--鹿両性証明 2006年12月8日 (金) 05:15 (UTC)
- 盧武鉉の注目するべき特徴の一つに、慣例に囚われない大胆な発言を繰り返すことがあげられます。記事本体でその旨を語り、ウィキクォートの項に繋がるのであれば、問題ないと思います。Tatsujin28 2006年12月19日 (火) 13:19 (UTC)
2005年1月29日の保護について
[編集]--H.L.LEE 2006年1月29日 (日) 19:26 (UTC)
- 今更ですが、一部の百科事典では項目名として「ろ・ぶげん」という読みが使われているので、「ありもしない」という訳では無いようです。勿論、ウィキペディアに採用するかとは別の問題ですが、報告までに。。--Tsim.sha.tsui 2006年4月22日 (土) 12:01 (UTC)
占い師~について
[編集]Canon2、根拠があるのであればソースを提示すべきと言っても無視するのは何ででしょうか?一応、Canon2は他記事にも同様の荒らし行為ばかり行っておりますから信用は出来ませんが。king-wise 2006年4月15日 (土) 16:15 (UTC)
「仮想敵国視」発言について
[編集]ソースはhttp://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2006/06/24/20060624000002.html です。 他のメディアでも報じられているようですが。
外交 - 日本
[編集]「小泉は従来から日本と韓国の間に横たわり、双方が必要に応じて適時棚上げしてきた問題に関して、盧武鉉に何も与えなかった。」との記載がありますが、これだと小泉の側にのみ問題があったかのように読めてしまいます。盧武鉉が歴史問題を持ち出してきたのも関係悪化の一因でしょう。どう書き改めたら良いのか考えがまとまっていないのですが、とにかく書き換える必要があると思います。219.97.103.63 2006年12月16日 (土) 14:15 (UTC)
- この箇所は就任以来の宥和的な外交姿勢と、三・一節演説以降の外交姿勢を繋ぐところです。なので、完全に落としてしまうと説明がうまく繋がりません。小泉の責に因りすぎているという指摘は一理ある(盧武鉉的表現)のですが、代案の案出をご検討下さいませ。Tatsujin28 2006年12月17日 (日) 14:42 (UTC)
匿名ユーザ(*.opt2.point.ne.jp)様へ
[編集]編集された内容に誤りやPOVがありましたので差し戻させてもらいました。
2006年8月24日のテレビ朝日による番組ではじめて日本で盧武鉉の韓国政府によるチンイルパの解明が行なわれている事が報道された。チンイルパ400人の子孫から財産を没収したとされ、「魔女狩り」との批判が存在する。しかしチンイルパの中には韓国軍事独裁政権を築くのに貢献した者も多数おり、とりわけ韓国軍がチンイルパを通して引き継いだ日本軍式体質は朝鮮戦争中における左派虐殺や朴政権下に於けるベトナム侵略にも繋がっていった経緯があるので、民主化運動を担った市民団体からは支持の声が強い。しかし対日協力者即ちチンイルパではないので、公平な解明が求められている。(斜体部が匿名ユーザ氏による変更箇所)
- (コメント)「親日派400人の子孫から財産を没収したとされ」とあり、ここは親日反民族行為者財産帰属特別法(日韓併合時代の対日協力)に関する記述です。しかし付け足された文章は戦後の韓国の「親日派」を指しており、両者を混同するのは誤りです。
2005年3月、盧武鉉は三・一節の演説で日本への明確な謝罪と反省、補償を要求し、ついに対日強硬政策へと舵をきった。
- (コメント)2005年の三・一説演説[3]では「過去の真実を究明して心から謝罪し、賠償することがあれば賠償し、そして和解しなければなりません。」とあるので「補償」ではなく「賠償」と言う言葉が正です。
リベラル派である盧武鉉大統領には朴政権時代のベトナム侵略への徹底した謝罪と補償が市民団体から期待されていたが、軍事独裁政権の系譜を引き継ぐ親米反共の野党ハンナラ党と軍部の抵抗及び盧武鉉大統領の指導力不足からこの問題では全く進展が見られていない。韓国での軍事独裁残滓の根強さを表している。
- (コメント)要出典のタグを勝手に取り外さないで下さい。
女子中学生を轢殺(または轢死、轢き殺し)
- (コメント)「轢殺」という言葉があまり馴染みがなく、また「在韓米軍 女子中学生 轢殺」で調べる[4]と 特定の政治的主義主張を持った団体の情報がヒットします。故にその様な文脈で語られる表現であると考えて「交通事故」という言葉を使っています。
Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか、WIkipedia:言葉を濁さない、Wikipedia:出典を明記するの文書も合わせてご確認下さい。Tatsujin28 2007年1月7日 (日) 10:32 (UTC)
日本
[編集]2006年4月25日、盧武鉉は特別談話を発した。ここでは三・一節の演説より幾分か対日姿勢の緩和が見られ、日本は充分な謝罪を行ったと認めて日本にこれ以上の新たな謝罪を求めないとしたものの、過去の謝罪に見合った行動を求めた[1]。
- 「充分な謝罪を行ったと認めた」のではなく「これ以上求めない」としているだけです。盧武鉉が真に言いたいのは「すでに、幾度か行われた謝罪に見合う行動」なので、この演説をもって対日姿勢の緩和を強調するのはミスリードです(事実、小泉政権下では日韓首脳会談の再開に至らなかった事実に留意して下さい)。この様に直接、演説を比較するのは幾らでも別の読み方が出来ます。なので事実のみ記述し:
2006年4月25日、盧武鉉は特別談話を発して、日本にこれ以上の新たな謝罪を求めないとしながらも、幾度か行われた謝罪に見合った行動を求めた。
となります。また文中の特定の箇所を強調する事で、読み手に誤った先入観を与える可能性があります。他の記事でも多用されておられますが、あまり歓迎されません。Tatsujin28 2007年1月7日 (日) 14:58 (UTC)
米国
[編集]盧武鉉は大統領選挙の前から対米自立主義で知られ
- 「対米自立主義」という言葉は一般的ではありません[5]。一般的でない言葉を導入するのは不適切です。代わりに盧武鉉が反米主義者として大統領選を勝ち抜き、反米主義者という評価で対米関係が悪化したことを説明する出典を明示します。[6]
反共の野党ハンナラ党はたびたび盧武鉉を『左翼』として非難した。
- ハンナラ党からの盧武鉉への批判ですから、左翼をカッコ書きする必要はないでしょう。また盧武鉉自身も「左派新自由主義[7]」を標榜しています。
以上、Tatsujin28 2007年1月7日 (日) 12:28 (UTC)
その他
[編集]2006年8月24日のテレビ朝日による番組ではじめて日本で盧武鉉の韓国政府によるチンイルパの解明が行なわれている事が報道された。チンイルパ400人の子孫から財産を没収したとされ、韓国の保守派などからは「魔女狩り」との批判が存在する。チンイルパの財産没収については日本の植民地支配に協力した責任などを重視する市民団体などからは支持されているものの、対日協力者即ちチンイルパではないので、公平な解明が求められている。
- (コメント)この箇所はテレビ報道という検証が難しい出典に基づいていたので、要出典のタグを貼っていました。ノート:盧武鉉のコメントを参考にしていただいたと思いますが、更に幾つか指摘致します。
- 「チンイルパ」は「親日派」と表記するのが妥当です。でないと、韓国では親日派=売国奴の意味を持つという基礎知識がない読み手には意味が通りません。
- 「求めている」のは誰でしょうか?行為者の主体がよく解らない表現は避けて下さい。でないと、編集者個人の個人的主張が述べられていると読まれて削除されます。Wikipedia:言葉を濁さないをご一読下さい。
- で、差戻しを繰り返すのも面倒なので、こんな感じで「改革」の章に取り込む事にします。出典は文京洙『韓国現代史』から。
盧武鉉も歴史の見直しにも強い意欲をもって臨んだ。民主化以降の文民政権は、政権の正当性を確立するために現代史の見直しや精算を進めてきたが、盧武鉉はこれを一歩進めて日韓併合や日本統治時代の親日派、朝鮮戦争時の民間人虐殺や軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明を主張した。韓国国会は過去清算に関わる立法を進め、金泳三・金大中政権で成立したものを含めて13の特別法が効力を持つことになった。また、これらの法律を総括するために、植民地時代から軍事政権期にいたる全ての事案に適用して真相究明や責任の追及、補償を行うための過去史基本法(真実・和解のための過去史整理基本法)を成立させた。
以上、Tatsujin28 2007年1月7日 (日) 15:40 (UTC)
改革
[編集]リベラル派である盧武鉉大統領には朴政権時代のベトナム侵略への徹底した謝罪と補償が市民団体から期待されていたが、軍事独裁政権の系譜を引き継ぐ親米反共の野党ハンナラ党と軍部の抵抗及び盧武鉉大統領の指導力不足からこの問題では全く進展が見られていない。彼の大統領としての指導力不足と韓国での軍事独裁残滓の根強さを表している。要出典
- 文章を精査しましたが、特定できない市民団体からの一方的な期待が叶わなかったことに対する批判と解することができます。この為、この項に含める事は不適切です。Wikipedia:中立的な観点、Wikipedia:ウィキペディアは何でないか、Wikipedia:出典を明記するをご一読下さい。Tatsujin28 2007年1月8日 (月) 02:19 (UTC)
要出典
[編集]58.143.105.54さんの投稿[8]で、
- 1946年9月1日(陰暦で8月6日)、慶尚南道金海市進永邑にて生まれる(光州盧氏 梅竹窩公派)。
- と本貫の記載がありますが、これの情報源はお持ちでしょうか?「光州盧氏」までは解っているのですが。Tatsujin28 2007年1月12日 (金) 14:01 (UTC)
盧武鉉の発言を取り上げる理由
[編集]直接、編集者の会話ページに書きました[9]。この節の処理は前にも問題になりまして、ウィキクォートに動かそうという話もありました。ですけれども、ざくっとやるのはまた別の話ということで。--Tatsujin28 2007年12月24日 (月) 11:30 (UTC)
盧武鉉の逝去に関する取り扱いについて
[編集]現在進行中の事象ではありますが、2009年05月23日午後時点で、元側近による遺書の存在などが公表され、少なくとも通常の死亡ではないようです。略歴、来歴での並記が行われていますが、最終的にどのように扱うのか、議論した方が良いかと思います。 220.216.111.115 2009年5月23日 (土) 03:03 (UTC)
- 最終的に確定してから記載してください。--hyolee2/H.L.LEE 2009年5月23日 (土) 03:42 (UTC)
確定事項について明記します。
- 盧武鉉の死亡
- 現場は同日午前6時50分ごろ、自宅裏のポンファ山警察、盧前大統領が死去と正式発表朝鮮日報
- 死亡時間は午前9時30分、直接的な死因は頭部の外傷(頭蓋骨骨折・脳挫傷・裂傷など)。他に肋骨・脊椎・右足首・骨盤など複数の個所で骨折が確認。釜山大学梁山病院のペク・スンワン院長による所見。盧前大統領、直接の死因は頭部外傷=釜山大学病院朝鮮日報
- 遺書の発見とその一部の公表
- 「これまでつらすぎたし、ほかの人々につらい思いをさせすぎた。本を読むことができない。恨まないでくれ」「生と死は一つではないか。火葬してほしい。村の周辺に石碑を建ててくれ」「息子、娘、支持者の方々にも本当に申し訳ない。退任後、農村に戻り余生を送ろうと思っていたが、うまくいかず、誠に遺憾だ」「お金の問題に対し批判が出ているが、この部分についてはクリーンだった。わたしに対する評価はいずれ、歴史が示してくれるだろう」盧前大統領の遺書、一部公表朝鮮日報
220.216.111.115 2009年5月23日 (土) 05:25 (UTC)
- 遺書の全文が公表された。最終保存日時は23日午前5時21分。
- 非常に多くの人に面倒をかけた。
- わたしにより多くの人々が受けた苦痛は非常に大きい。この先、受ける苦痛も察することができない。
- 余生も他人に荷物となることしかない。
- 健康状態が良くなく、何もできない。本を読むことも、文字を書くこともできない。
- あまり悲しむな。生と死はすべて自然のひとかけらではないか。
- 申し訳なく思うな。だれも恨むな。運命だ。
- 火葬してほしい。そして家の近くにごく小さい碑石をひとつだけ残せ。昔から考えていたことだ。
- <盧前大統領逝去>遺書全文5月23日 YONHAP NEWS
220.216.111.115 2009年5月23日 (土) 06:40 (UTC)
現時点、警察や政府が自殺である、と公式に認めたわけではないですから、「(略)死去する。自殺と見られる」よりは「(略)死去する。死後自宅に短文の遺書が残されていたことが判明する」にとどめた方がいいかと思われます。--あな@34 2009年5月23日 (土) 07:47 (UTC)
内容は、続報を待つとして、まず位置づけをどうするか、から検討してはどうでしょうか。現状では略歴、来歴、大統領退任後に逝去に関する記述が分散、重複しています。既存の項目のいずれかに統一するか、新規項目を追加するのか。 --220.216.111.115 2009年5月23日 (土) 08:01 (UTC)
脚注
[編集]- ^ 『韓日関係についての大統領特別談話文』、駐日韓国大使館、2006年4月25日。
島根県施設を攻撃を検討したという情報
[編集]>また、2006年4月21日付のワシントンポストにおいて、盧武鉉政権が海上保安庁の竹島周辺海域海洋調査を阻止するために日本政府への具体的な圧力として、「島根県内の防衛庁(現防衛省)施設」に対する軍事攻撃を検討していたことが明らかとなり、仮に攻撃が行なわれたとして自衛隊との軍事的衝突はおろか国際的な非難と信用の失墜及び最悪経済制裁を受けていた可能性もあり、韓国国内からも盧武鉉政権の独断ぶりに憂慮の声が強く挙がった。
この記述について調べましたが、2006年4月20日付のWaPoによる竹島関連記事にはそのような記載がなく、また4月21日付の関連記事も存在しません。また、google検索の期間指定を利用して「島根 廬武鉉(または韓国) 攻撃」等ググっても2012年以前はそのような主張を発見できないため、フェイクニュースと断定して削除しました。--Cerbeza(会話) 2020年9月28日 (月) 03:33 (UTC)