ノート:百人斬り競争/過去ログ3
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「肯定説・否定説」の2分法について
- ディベートではありませんので「肯定側・否定側」と安直にわけて記述するのは本来不適切です。肯定論者も否定論者も論者によりそれぞれ観点がことなり、また主張の範囲も異なっております。百科事典としての「わかりやすさ」の要請上このような二分法が過渡的に導入されているのだと思いますが、「あんな論者と一緒にされたくない」「こんな信用ならないムック本に擁護されたくない」と思われる筆者もいらっしゃるとおもいますので、記述上の体裁には配慮して頂くようお願いいたします。--大和屋敷(会話) 2017年2月22日 (水) 10:04 (UTC)
中立性に欠けている
否定川の方が圧倒的に多く、百科事典にふさわしくない非学術的なソースばかりです。--以上の署名の無いコメントは、130.132.173.191(会話/Whois IPv4 ・ IPv6)さんが 2017年12月14日 (木) 07:20 (UTC) に投稿したものです(たわわちゃん(会話)による付記)。
たんたたたぬきさんによる特別:差分/76791412についてですが、本多勝一ほか『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』は論争・紛争当事者のものですので、中立的な立場に立っているとは言いがたいので、冒頭文に書くべきではなく、主張や見解の節に移す必要があるでしょう。望月五三郎の『私の支那事変(私家版)』は二次資料ではないので扱いに注意を要する。当然ながら、冒頭文に書くべきではなく、証言としてとりあげられるべきものです。また、現行版におけるこれら二つの合成の方法はWP:SYNTHESISに違反しています。書き方を改める必要があるでしょう。なお、原剛は論争・紛争当事者ではなく第三者の立場で記しているので、冒頭文に入れてもかまわないと考えますが、どうしてもというのなら、主張や見解の節に移しても問題はないと考えます。-- Takabeg(会話) 2020年3月28日 (土) 13:26 (UTC)
冒頭文について
Wikipedia:中立的な観点
によれば、
(引用ここから)
意見を事実として記さない
一般的に、記事にはそのトピックについて重要な意見を含んでいます。しかしその意見はウィキペディアの意見として記述してはなりません。その代わりに、誰の意見であるかを文章で明記するか、あるいはそれが許される場合なら、大多数の観点などとして述べられるべきです。例えば「大量虐殺は悪行である」と述べてはいけません。しかし「ジョーンは大量虐殺は人間の悪の縮図であると記している」と述べることはできます。
(引用ここまで)
「「百人斬り」が実際に行われたということは論証されていない」「両少尉は、戦闘中の白兵戦か捕虜捕獲の際に、何人かを斬ったことがあるのを、浅海記者などの誘いに乗り、つい「百人斬り」という大言壮語をしたのではないかと思われる。」は原剛氏の意見です。ただの個人の意見を冒頭にいれるべきとは思えません。2002年8月時点での原剛氏の意見は意見として項目として載せてもいいと思いますが、その後の資料の発見により否定されている(最低でも「論争がある状態である」)意見を、冒頭に入れるべきではないと思います。最高裁の判決でも「少なくとも、両少尉が浅海記者ら新聞記者に話をしたことが契機となり、百人斬り競争の記事が作成されたことが認められる」と、明確に否定されています。
第三者についてですが、では秦郁彦氏ならよいでしょうか?笠原十九司氏は論争・紛争当事者ではありませんが、第三者でしょうか?私が思う一番中立なのは日本の裁判所(だから稲田朋美氏は裁判に訴えたのでしょうし)なのですが、判決文を引用するのはよいでしょうか?
また、「両少尉は、戦闘中の白兵戦か捕虜捕獲の際に、何人かを斬ったことがあるのを、浅海記者などの誘いに乗り、つい「百人斬り」という大言壮語をしたのではないかと思われる。」を「その他」として独立させるなら、場所はそこではない方が望ましいです。「佐藤振壽の証言」以降が「主な否定説」に入らなくなります。
それから、現在の書き方だと確実に「本多勝一、洞富雄が戦闘による百人斬りがあったと主張している」と誤解を招く表現なので追加したのですが、事実は事実として書くべきと思ったので、事実だけ書きました。二つを分けること、出典を二次資料に改めることはできますが、それでよいでしょうか?
百人斬り講演について
確かに百人斬り講演という言い方は適切でない可能性があります。「野田少尉は多くの講演を行い「百人斬り競争」の話をした」でよいでしょうか?
鈴木二郎へのリンクについて
記事作成中というのなら、作成してからリンクを貼ったらいかかでしょうか?
--たんたたたぬき(会話) 2020年3月29日 (日) 04:07 (UTC)
- Wikipedia:特筆性のある人物ですので、作成せずとも赤リンクでよろしいでしょう。-- Takabeg(会話) 2020年4月13日 (月) 12:58 (UTC)
WP:SYNTHESISやWP:NPOV その2
たんたたたぬきさんによる特別:差分/76931538の編集の問題点を指摘します。
- "「政経研究」第42巻第4号 日本大学法学部南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌 P94" という部分ですが、"「政経研究」第42巻第4号 日本大学法学部"と"南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌"がごっちゃになっていて、ソースそのもののWP:SYNTHESISになってしまっています。おそらく、「政経研究」のほうは秦郁彦の"いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(二)" で、"南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌"は本多勝一・星徹・渡辺春己による書籍のことであろうと思われます。後者の94頁では、夏淑琴の証言が掲載されてますが「百人斬り競争」とは関係がありません。前者の94頁では百人斬り競争に言及がありますが、"『百人斬りは新聞報道では「戦闘中の敵兵殺害」と表現されているが本当は捕虜を斬った』と野田少尉が自ら公言していたことが戦後明らかになっている。"などとは書かれていません。したがって、どちらに転んでも虚偽出典となります。
- 現在、削除依頼が提出されている「百人斬りの歌」のコンテンツをWikipedia:ページの分割と統合を経ることなく、コンセンサスもとらずに転載しています。これは明確なルール違反です。
- "判決で、「両少尉が浅海記者ら新聞記者に話したことが契機となり、『百人斬り競争』の記事が作成されたことが認められる」と判定されている。"という部分ですが、高裁判決の「結論」を記載することなく、この部分だけをチェリーピッキングした理由が分かりません。導入部ですので「結論」が記載されるべきでしょう。
- この記事は「肯定説」と「否定説」の二項対置に基づく構成となってしまっています。ある部分は「肯定」し、ある部分は「否定」するというような実証史学に基づく論考が存在しているにもかかわらず、事件を全否定または全肯定するというスタンスや名誉棄損裁判に偏重して記述するのは、利用者たちによる独自研究になるのではないかと考えます。本記事の変更履歴を見ると利用者:総持庄一さんが「否定説」の代表格でたんたたたぬきさんが「肯定説」の代表格であることがわかります。どちらも、典拠にある記述を、自身が信奉する「説」に都合の良いように捻じ曲げてしまう傾向が顕著です。総持庄一さんはブロックされているので編集することはないと思いますが、たんたたたぬきさんに今後も編集するつもりがあるのであれば、Wikipedia:中立的な観点、とくにWikipedia:中立的な観点#ひとつの帰結:敵のために書くに留意していただきたく存じます。-- Takabeg(会話) 2020年4月13日 (月) 12:58 (UTC)
- 虚偽出典とは穏やかではないですが、
(引用ここから)
次に志々目項の一部を引用したい。(野田が)たんたんと話したうちわ話は、ほぼ次のようのものであった。「郷土出身の勇士とか、百人斬り競争の勇士とか新聞が書いているのは私のことだ……実際に突撃していって白兵戦の中で斬ったのは四、五人しかいない……占領した敵の塹壕にむかって『ニーライライ』とよびかけるとシナ兵はバカだから、ぞろぞろと出てこちらへやってくる。それを並ばせておいて片っぱしから斬る……。百人斬りと評判になったけれども、本当はこうして斬ったものがほとんどだ……
二人で競争したのだが」(~中略~)
白兵戦では斬らずに戦意を失って投降した敵を斬るという”勇士”の体験談は、私にはショックだった。ひどいなあ、ずるいなあ。…国軍の生徒としての教育を受けるようになってから、そのことを改めて思い返すようになっていた。(中略)次の論点は投降した捕虜処刑の有無だが、筆者は志々目証言の裏付けをとるため、志々目が所持する鹿児島師範付属小学校の同級生名簿(有島善男担任)を頼りに一九九一年夏、数人に問い合わせてみた。明瞭に記憶していたのは辛島勝一(終戦時は海軍兵学校75期生徒)で、野田中尉が腰から刀を抜いて据えもの斬りをする恰好を見せてくれたのが印象的だったと語ってくれた。また北之園陽徳(終戦時は海軍機関学校生徒)は、「(野田は)実際には捕虜を斬ったのだと言い、彼らは綿服を着ているのでなかなか斬れるものではなかった」と付け加えたと記憶する。他の三人は野田が来たのは覚えているが、話の中味はよく覚えていないとのことであった。裏付けとしてはやや頼りない感もあるが、最近になって野田の母校である県立鹿児島第一中学校の名物教師だった安田尚義の著書に付された年表の一九三九年七月二十四日の項に、「朝礼後野田毅中尉の実戦談を聴く」と記載していることがわかった。
安田は歌人としても知られ、教え子たちの思い出を列伝風につづっている。野田も入っていて、「一中在学五年間極めて特色のある、謂わば名物生徒・・・・・・丈は低い方であるが、健康で磊落で極めて積極的・・・・・・早くから軍人志望で剣道を励み・・・・・・」と書き出し、その後のエピソードにも触れている。野田はビルマ独立運動を支援した南機関の参謀長としてアウンサンとともにビルマ進攻作戦に加わり、ビルマ国軍の新設とともに指導官をつとめたが、安田は「かかることは野田のはまり役」だったと回想する。終戦後、鹿児島市内のマーケットに店を出していると聞き、安田が訪ねた時はもういなかったという。「友人たちが逃亡をすすめたが応じなかったと聞くが、すでに妻女と離別しているところを見れば覚悟が定まっていたのであろう」と書いた安田は、野田の遺書の一部を紹介して筆を置いた。その他の情報でも、野田のやや風変わりだが剛胆で芝居気のある製めん将校であったことを示す逸話が少なくない。一九三八年四月、下志津飛行学校の偵察学生に転じ、第一直協飛行隊(※)付として広東攻略作戦に参加した野田は、四〇年四月歩兵第一三三連隊の機関銃中隊長として華中戦線で勇名を博すが、部下の一人は「赤い長靴をはき、軍刀をだらりとさげ、マントを翻して先頭に立つ隊長の姿は、率いる兵力こそ僅少であれナポレオンもかくや」と回想し、「食後の運動やるか」と一言したのち抜刀した野田が単身で敵陣に切り込んで、あざやかな太刀さばきで八人をなぎ倒したと書いている。
野田が鹿児島を訪問したのは三九年五月に戦地から岐阜へ帰り、八月に北朝鮮の会寧へ転勤した合い間の七月で、鹿児島一中、付属小、それに父が校長をしていた田代小学校と少なくとも三ヵ所に顔を出したようだ。その時、鹿児島一中の三年だった日高誠(のち陸士五十八期を卒業)は、野田が全校生徒を前に剣道場で捕虜の据え物斬りの恰好をして見せたのを記憶している。彼は違和感を持ったが、あとで剣道教師からも「とんでもない所行だ」と戒められたという。どうやら一般住民はともかく、野田が白兵戦だけでなく、捕虜を並べての据え物斬りをやったと「告白」したのは事実らしい。
(引用ここまで)
を要約しました。全て転載することは可読性を損ねます。出典を要約することはwikipediaでは認められているので、虚偽ではありません。
- 「削除依頼が提出されている」と言いますが、そもそも削除依頼を出しているのはあなたであり、削除依頼の理由もほとんどいいがかりレベル(その証拠に、削除されておらず、削除に賛成する人もいない)です。正直いいがかりとはいえ、それでも「著作権侵害」というあなたの主張に配慮して著作権侵害にならないように引用を一部に留め、「独立した記事をするほどの特筆性がない」というあなたの主張に配慮して、すでに多くの記載がなされている記事に書きました。「明確なルール違反」とおっしゃいますが、「削除依頼が提出されているページの内容を転載してはいけない」というルールはどの部分を根拠に仰っているのでしょうか?
- 「高裁判決の結論が記載されていない」との言説は、全くの虚偽です。明確に、「毎日新聞、朝日新聞、本多勝一などの勝訴」と結論が書かれています。チェリーピッキングなどと、相変わらず言い方がおどろおどろしいですが、結論のほかに根拠を書いてはいけない、というルールはありますでしょうか?中立というのなら、一方的な偏った主張をしている書籍を引用するより、判決から引用した方が中立性が保たれているかと思います。
- 随分と私のことを敵視なさってくださっているようですが、それなら、まずは、ご自分が「敵のために書く」を実践なさってはいかがでしょうか?序文の記述について第三種の意見を募り、合意を取った経緯を無視して一方的に編集を強行したあなたの行為は、少々無理があったかと思います。
--たんたたたぬき(会話) 2020年4月17日 (金) 15:06 (UTC)
- たんたたたぬきさんによる特別:差分/77105897の編集ですが、前のご自身の編集と比較しても分かるかと思いますが、殆んど改善されていません。秦郁彦の作品を典拠として示されているようですが、秦郁彦は、"『百人斬りは実際は捕虜を斬った』と野田少尉が自ら公言していたことが戦後明らかになっている"とは書いていませんので、虚偽出典となります。また、秦は以前から「据物斬り」説を唱えていまいしたが、それが少数説であると認識していました。Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)の「導入部は、前置きであると同時に、それ自体で完結したひとつの記事であるべきです。第1文で主題を定義し、続いて別名や間違いやすい事柄に触れ、前後関係や注目に値する理由を説明し、そして最も重要な点—あらゆる著名な論争も要約することが推奨されます。導入部では、さほど重視されない論争に必要以上の注意を加えることによって、Wikipedia:中立的な観点に反しないこと。」あたりを熟読してみてください、。また、判決の箇所も「自説」に沿う形でチェリーピッキングされた形になっています。もしかしてお手元にソースが無いのではないでしょうか? お手元にソースがあるにもかかわらず、こうした編集をされているのならば、目的外利用の可能性も出てきます。なお、私は、この記事で言われているところの「肯定説」とやらも「否定説」とやらもこれといって支持していませんし、WP:NPOV、WP:NOR、WP:UNSOURCEDなどに違反した編集を正しているだけですから、敢えて「敵のために書く」必要はありません。他の多くの利用者たちも私と同様のスタンスで編集していると思っています。しかしながら、利用者:総持庄一さんやたんたたたぬきさんは、明らかに特定の「説」を支持しており、個人的に「説」を支持することは人それぞれ自由ですが、ウィキペディアにおける編集にそうした信条や理念やイデオロギーなりを反映させるのはルール違反であり、目的外利用となります。導入部だけでなく、本記事の殆んどの箇所がWikifyされる必要があります。私もルールに沿った形で修正しますし、利用者:花蝶風月雪月花警部をはじめとしたルールを理解して編集している他の利用者の方々にも修正してだけるものと思います。もしも、たんたたたぬきさんが、ルールに沿った編集ができないというのであれば、本記事から距離を置かれることをお勧めします。-- Takabeg(会話) 2020年4月20日 (月) 14:10 (UTC)