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ノート:白田林二郎

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  • 大阪に派遣された当初、稽古に来る者の中には若年の白田を侮る風が見られた。中でも元力士という大柄の男性にそれが顕著だった。白田が稽古中その男を招くと案の定いきなり突っかけてきたので白田はそれを捌き、その手を二教で極めた。とたんに腱の切れる音がして男はおとなしくなった。男は顔色一つ変えずに自分の席に戻ったがそれ以来その男も他の者も白田に一目置くようになった。(二教に極めて「抵抗できまい。これを無抵抗の位という。」といったというエピソードもある。)
  • 皇武館時代最も仲のよかったのは年の近い塩田剛三だった。白田は住込みの内弟子で塩田は通いだったが夜になるとたびたび道場を抜け出して二人で遊び歩いた。(その際何度も『実戦』を経験したという。)また抜け出すときは履物を懐に入れて音がしないようにそっと抜け出すのだが、何故か開祖にはばれていたという。
  • 道場破りの相手を勤めたことについて後年、「今のように合気道をやりたいから習う、という時代ではありませんでした。勝負して負ければ相手の弟子になる、そういう時代でした。だから絶対負けられなかった。」と語っている。
  • 終戦から山形県支部設立までの約20年間を「空白の20年」と記載する資料もあるが、実際には白田は昭和23年秋田県での指導を再開し、その後は青森県弘前市で指導していた。また食料の不足する時代に本部道場に米などを送っていたと吉祥丸道主のインタビューに見られ、必ずしも合気道から離れていたわけではない。開祖が亡くなられた、昭和44年に、山形県合気道連盟を設立した。
  • 白田はビルマで終戦を迎えた。その時代の苦労を語ることは少なかったが白田は晩年、口癖のように「合気道は心と心を結ぶ道である。世界が合気で結ばれますように。(合掌)」と語っていた。
  • 白田は台湾やアメリカシカゴなど国際的な交流にも力を注いだ。山形空港、山形新幹線などはまだない時代で白田が山形を拠点にして世界に足を伸ばしたことは今考えれば驚異的である。

--Easyman 2007年3月16日 (金) 06:20 (UTC) 一部修正--Easyman 2007年3月22日 (木) 11:51 (UTC)[返信]

  • 白田は晩年よく「人生に五計あり」と弟子に語っていた。五計とは生計、実計、家計、老計、死計の五つの計画(はかりごと)のことであり、中国宋代の思想家朱新仲の言葉である。(ただし二番目の実計は一般的には身計とされる。)
  • 若い頃の白田は膂力が非常に強く米俵を二つ持って、拍子木のように打ちつけることが出来たという。

--Easyman 2007年4月7日 (土) 09:05 (UTC)[返信]

  • 白田が好んで用いた言葉に「来たらば即ち迎え 去れば即ち送る。対すれば相和す。一九、十なり。二八、十なり。五五、十なり。」好んだ道歌に「麗しきこの天地(あめつち)の御姿は主(ぬし)のつくりし一家なりけり」がある。
  • 白田は全日本合気道演武大会において巻紙に書いた「神の化身 植芝盛平翁を讚う」の詩を奉読してから演武を行った。その詩は生前開祖と親交のあった五井昌久の書いた詩である。

--Easyman 2007年4月7日 (土) 10:04 (UTC)[返信]