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ノート:白井新太郎

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前妻について

南部次郎氏が前妻であるとする記述がなされました。この南部次郎氏は東政図氏でよろしいでしょうか?個人的な知識として白井氏が南部藩士の息女と結婚したとは伺ったことがあり、この記述を疑うわけではありません(私の先祖の一人は白井氏と同じ藩の出身で別撰組として鳥羽伏見を戦い、その息子は同じ会の会員でした)。むしろそう書きたいのです。しかしながら何らかの文献資料によって確認することができないため記述できません。このWikipediaの場は検証可能性を満たさない限り記述できないのです。従っていったん見えない形にさせていただきました。無念ではありますが、場の約束は守らねばなりません。公刊された文献、または図書館収蔵資料など確認できる資料はありますでしょうか。戸籍謄本は第三者に確認不能ですので使えません。記述復活→削除の繰り返しなどは望みませんのでどうかご理解の上確認可能な資料の御呈示をお願いいたします。もし記述者様に不明な点がございましたらこの場にてお伺いします。--Stingfield会話2014年2月9日 (日) 12:45 (UTC)[返信]

白井新太郎の長男 龍一郎の孫にあたるものです。先妻は 確かに東政図の娘です。新太郎が書生で南部家に行っていたときにそこのお姫様と結婚してしまったと聞いています。実の曽祖母の名前がなく 別の人が私の曽祖母になっているのは やはり気分の良いおものではありません。私の父から聞くところによると 白井龍一郎の火遊びが原因での火災で母である前妻が亡くなり 後妻の方が実子を跡取りにしたかったらしく 戸籍から龍一郎とこうじろう(字はしりません 東大を銀時計で卒業したらしいのですが 若くして亡くなりました) 先妻を削除したらしく のちに新太郎は激怒したらしいです。徳川に嫁いだ美代子は後妻の方の子で 後妻の方は白井震四郎(神戸製鋼所)に跡をとってもらいたかったようです。しかし 新太郎が亡くなった時にまだ学生だったとか。でも私の父いわく震四郎おじさまが跡を継いでいたほうが 白井の家は残ったかもしれないそうです。白井龍一郎は堤康次郎らに株券をとられ 衰退していったらしいです。これも父の言葉ですが 堤家が事業を引き継いだからその事業が大きくなったのであって 自分たちが引き継いでいても大した企業にはならなかっただろう とのこと。堤幸次郎とのことも堤家にいいようになっているそうです。 所詮 没落したものの戯言ですが 山内容堂と南部次郎の玄孫であるというのは 私のちょっとしたプライドです。私の次男は新太郎にそっくりなせいか やはり気に入らないそうです。山内容堂の家系図には恵美子(恵美)の嫁ぎ先として新太郎と龍一郎がのっているかと思いますので そのうち高知に行ってみてきます。(私の父いわくそこは龍一郎の母親に後妻がなっているかもと笑っています。)Luna0531

白井家のご子孫の方々のご健在を心よりお慶び申し上げます。また貴重なお話を伺うことができ感激いたしております。この記事を書きました際に、白井家は旧藩にとってまさに鳥羽伏見を象徴する存在であることに思い至りました。保男様が勢津子様を出迎えた際に、林権助氏、そして白井新太郎氏を伴われた理由に、戊辰の戦で倒れた方々に思いを致されたこともあったのではないでしょうか。開戦の際、白井隊は未だ参戦していなかった土佐藩部隊の協力を得ておりますし、15代将軍と容堂公にご縁を得られた。さらには南部藩のご家老とも。感慨に堪えません。ここで伺ったお話は発表されてしかるべきかとも思われます。白井家と徳川、山内、南部の各家との縁がどのようにして生まれたのかはもっと知られていてしかるべきではないでしょうか。会津地方には郷土史研究会(例えば会津史談会)があります。私自身は福島県民でもなく、そうした団体にも属しておりませんが、畑敬之助氏が代表的存在と思われます。非常に近い親族が畑氏に大変お世話になり、信頼できる方と考えております。会津若松の市立図書館あたりから連絡を取ることは容易と考えられますので御一考いただけますと幸いです。さて、上述のようにwikipediaは検証可能な文献を示した場合のみ記述が可能です(実際には多くの記事が検証不能な状態で、その意味でも信頼性には欠けております)。従いまして該当部分には出典が求められている旨が示されております。残念ながらこの部分は検証不能として誰でも消すことが可能な状態なのです。もし文献が見つかりましたらこちらにでもご提示ください。私の方でも探してみます。なお国会図書館公開文献として『大正人名辞典』があり、コマ番号1084に白井氏の御子息、御令嬢のお名前の記載もございますのでよろしければご覧ください。最後になりますが、白井新太郎氏が会津のために様々にご尽力くだされたことは、旧藩ゆかりの者が忘れてはならぬ事であり、少なくとも肝に銘じている者がここにいたことをご記憶の隅にでも留めていただければ幸いであります。--Stingfield会話2014年2月13日 (木) 15:51 (UTC)[返信]

私が何故か白井新太郎の欄を見つけ どのようにしたらいいのかわからないまま訂正を入れたりしたことで 自分自身のルーツのようなものを父以外の方から知ることができ、とてもうれしく思っています。白井龍一郎の子も 私の父(86)のみに現在なって 足も弱くなっています。父に何かしらの資料を残すことを勧めてみようかと思います。会津のたしか恵倫寺に白井家の墓があるのですが そちらも気になりだしました。どのようにしたらよいか アドバイスをいただければ何かしら形に残したいと思います。よろしくお願いします。 Luna0531 2014年2月20日

非常に嬉しいお言葉です。私の考えといたしましては、会津若松市立図書館または歴史春秋社から、郷土史団体に連絡をとっていただき、どのような形で、またどのような資料、事柄を発表するかをご相談なされたらいかがかと存じます。白井家のご子孫から連絡があった際の関係者の喜ぶ様が目に浮かぶようです。図書館にご依頼になれば白井家に関する資料についても調査してくださるはずです(私もお願いした経験がございます)。なお御尊父はじめ御一族の方々とのご相談も必要かと思われます。或いは難色を示される方もおありかも知れません。しかし白井家に関する資料は何らかの形で後世に残されるべきものであることは論を待ちません。思いますに、もし所縁の品などがあれば、鶴ヶ城に展示されていて当然なほど白井家の存在は重いのです。個人的なルートから畑敬之助氏に接触することもできないわけではありませんが、私がWikipedia上で活動していることは誰も知らない(家の者は薄々は感づいていますが)ことで、誠に勝手ではございますがご協力できないことをお許し願いたく存じます。何らかの形で白井家の資料が世に出ることを楽しみに、また期待致しております。恵倫寺には必ず伺わさせていただきます。--Stingfield会話2014年2月21日 (金) 15:54 (UTC)[返信]

今日 父に話をしたところ南部藩家老南部次郎伝(東野明著)という書籍を見せてもらい そちらの南部家の系図に白井新太郎に嫁す とありました。また林白井両鉄砲隊戦争日記とか白井五郎太夫の戦歴とかよくわからないものがありました。(鳥羽伏見の戦いのときに新太郎を抱きながら袋に家系図や少しの文書を詰め持ち出したそうです)そして白井隊が伏見の戦いの前に土佐藩から道を教えてもらったなどの協力を得たことを知っている人が自分以外にもいることにとても驚いていました。父としては 誰も白井の家を継がないので白井家の昔からの家系図などをどうするか 誰かに知っていてもらいたいようで豊臣のころからの話をされてしまいました。今現在 私が仕事がとても忙しく 4月頃になったら資料を写真に撮ってUSBにでもいれて 会津若松市立図書館に連絡をとってみたいと思います。 あと 恵倫寺の白井の墓は会津城が見える丘の上にあります。昔はとても広く敷地があったようですが東京にお墓を作ってしまったため疎遠になり無縁仏になりかけ私の父が墓石を探し 27~8年前に再び丘の上に戻してもらいましたが とても狭くなったそうです。不思議な話で墓石は 誰が探しても見つからなかったのに血筋の父が何故か見つけたらしく父の自慢話です。白井新太郎のこと 調べて教えていただきありがとうございます。今後 資料が何らかの形で残るよう努めたいと思います。Luna0531 2014年2月22日

まず出典の御呈示、ありがとうございました。これにてwikipediaの条件も満たせましたので、記述は残ります。ご同慶の至りであります。もしも新太郎氏の日記、手紙などの文書があればそれは貴重な歴史資料となりえますので、お心あたりがあれば、大切に保管していただけますか。何らかの形でお父上の思いが実ることを願っております。会津若松市に行かれることがありましたらと思い、ご参考までに。白井家の旧宅は地図の黄色に着色されている118号線の神明通南交差点から下った一つ目の十字路、セブンイレブンの対面の四角く囲われて見える部分にありました。十字路のはす向かいが新太郎氏のご友人であった井深彦三郎の、白井家から118号を下った三軒目が飯沼貞吉の家です。白井家旧宅の左にある葵高等学校は白井隊の組頭であった海老名郡治の妻海老名リンが創設しました。恵倫寺は必ず墓参させていただきます。この度はありがとうございました。--Stingfield会話2014年2月23日 (日) 08:38 (UTC)[返信]