ノート:現実
政治学的なリアリズムやプラグマティズムや理想と現実の哲学的な問題、認識論的なありかたなどがぐちゃまぜとなっています。また定義部も多様な意味のごく一部に限定しており著しく不正確と考えます。Kotoito 2006年2月24日 (金) 17:40 (UTC)
まずこちらに文案を書いてみます。Clinamen 2006年3月3日 (金) 15:03 (UTC)
現実と虚構の関係
[編集]現実と偶然の関係がわかりにくいので一旦削除。たしかに、非現実的といういい方においては現実化の可能性が問題になる。しかし、現実と不可能や偶然は、少なくとも直接的には反対語ではない。現実を、たしかに整合的な認識や秩序において不可能なものを「非現実」として排除した「世界」として規定する哲学的立場はわかるけれども、一方ではラカンのように、そうした排除されたものこそを「現実」と呼ぶ立場もある。そうしたものを統合的に記述するには、規定要因としての性格に的を絞るほうが適切なのではないか。少なくとも、もう少し一般的な言葉で論理の途中を省略しないで書いてください。もうひとつは虚構性を「ありそうにない」ということとして規定するのも、一面的と言うか違和感がある。ホームズは虚構だけれどもありそうにないかという微妙。虚構と言う言葉には「絵空事」という意味もあるが「言葉やイメージの中の世界のもの」という中立的な意味もある。虚構が不可能だというのと、ありそうにないというのも別の話です。--Clinamen 2006年11月3日 (金) 01:51 (UTC)
こんにちは。言葉の用法の問題でもありますが、論理的には虚構は不可能性、偶然性は予測不可能性を意味します。また現実は、秩序(コスモス)として無秩序(カオス)を排除するという働きも持っていると考えられます。加筆・訂正など、お任せできればと思います。
--Yuu6676 2006年11月3日 (金) 08:39 (UTC)
いや、現実というのは、とりあえずある種の「限界」という性格がある。で、その「限界 リミット」との内部が世界であり可能なるものからなる秩序、というか実践のフィールドであるわけだから、不可能なものを排除したものが現実である、という見方はよくわかりますし、記述に入れるべきだと思います。しかし、リミットというのはマージナルなものであるわけで両義的なんです。というのか、リミットは不可能なものと接していて、内側から見れば、境界ゾーンは外側(不可能なもの、排除されたもの、不可視のもの、おぞましきもの)に属しているともいえる。「世界」の外延を規定しているのが、内側からの秩序の無秩序を排除する外向きの力であると規定すれば、現実は秩序ですが、「世界」の外延を規定しているのは、世界を包囲している不可視のものであり、世界に侵入しようとしている外からうちへの力こそが、世界の外延を決めているという見方からすれば、現実とは不可視のもの、不可能なものでしょう。
これってある意味で政治の議論で、体制がある領域の実践を不可能なもの、「非現実」として不可視化、虚構化する。それに対して、批判的な言説が、そうした実践こそが「現実」をメタレベルで規定している規定要因であると主張する。そういう構図も起こりうるわけです。現実の両義性をですからどちらも生かした形で書ければなと思います。
あと、うーん、虚構については、用語のニュアンスの問題なのかなあ。虚構と虚偽性あるいは不可能性の間の関係はもうちょっときちんと分析する必要がありそうな感じがします。文学や物語論的な議論の文脈で、あるいは「仮想現実」のような「二次的な現実」を虚構と呼ぶとき、それを不可能性として規定するのは、少なくとも、議論にもう一歩抜けている論証があるんじゃないでしょうか。
まあ、筋からいえば、対立する問題はできれば典拠主義で既成のテキストをもってきて議論すべきなんですけど。--Clinamen 2006年11月4日 (土) 00:42 (UTC)
こんにちは。これも言葉の用法の問題でもありますが、ある世界を「現実」と決めた場合、これとつじつまの合わない世界を「虚構」とするという意味で、現実は虚構の上位にあるともいえます。この点、虚構は現実に対しては不可能性をもつともいえます。また現実をよそおった虚構は虚偽にあたるともいえます。以上と関連して、史実を得たい歴史家は批判された史料を求めます。ご参考までに。--Yuu6676 2006年11月4日 (土) 12:02 (UTC)