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ノート:現代音楽/要出典タグの是非とそれを巡る発言

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ノート:現代音楽2006年9月28日(木)17:20の版からサブページ化

ブラッシュアップについて

最近要出典を貼る馬鹿が多いが、貼っているやつは何の予備知識も持っていない(ルーマニアのスペクトル楽派も知らない!!)ので、この者のアカウントをさらすべきだ。要出典を貼って良いのは作曲家のインタヴューとか発言とか、それに限られる。--58.94.119.178 2006年9月20日 (水) 18:14 (UTC)[返信]

そう言いますけど、「スペクトル楽派」の存在を知っているのは、よほど特殊な専門知識のある人に限られるのではありませんか。--間久部緑郎 2006年9月20日 (水) 19:34 (UTC)[返信]

ルーマニア・スペクトル学派の述語は確かにまだ一般的ではないです。しかしながら「ホラチウ・ラドゥレスク」などの作曲家は確かに存在しそのように言っても必ずしも間違いではありません。出典の問題ですが、会話などの場合は必ずしも書かなくて良いと思われます。むしろ他の文献などと元に記事を書いた場合には、このWikipediaのもっとも嫌う「著作権の侵害」に当たる可能性があり、その意味でまたここの百科事典の独自性を出すためにも、会話や・講義・放送等の「出典」記事は多いに推奨されるべきです。と言うわけでWikipediaの規則そのものが完全ではないと思われます。(菅野)--以上の署名のないコメントは、195.93.60.133会話/Whois)さんが 2006年9月27日 (水) 15:26 (UTC) に投稿したものです。[返信]

私(要出典を貼った馬鹿)としては「要出典を貼って良いのは作曲家のインタヴューとか発言とか、それに限られる」に要出典を貼りたいところです。いろいろな論文指南書(音楽学の専門書含め)を読みましたが、そのような解説に出会ったことがないので。Nattilv1 2006年9月21日 (木) 03:27 (UTC)[返信]
私も要出典を貼る馬鹿ですので幾つかコメントを。まず、IPさんは「要出典」を「根拠のない記述」と批判されたと捉えていらっしゃるようですが、「要出典」は「その記述の根拠がどこにあるか分かるようにしてください」という意味で、「記述に根拠がない」という意味ではありません。間久部緑郎さんのご指摘とも重なりますが、百科事典は、専門知識を持っていない人が読んで、その事象についておおむね理解できることが大切です。そして、その記事に「某は「云々」と発言している」と書かれていた時に、その内容に興味をもった読者が、もともとの出典にあたりなおし、自分でもっと調べることができるようになっていることがもっと大切です。そもそも、どこで誰がその内容を示したのかという情報がない記事は、事典記事としてまったく役に立たないといっても過言ではありません。
そして、Wikipediaでは(まあ本来どこでもそうですが)、記述を書きこむ人がその出典を準備することになっています。もちろん、この記述がどこにあるのだろう、と他の人が調べて出典を補うことは不可能ではないでしょう。でも、それが最初に記述をした人が参照していたものと本当に同じソースか確証はないですよね?学術論文のように版にまでこだわることはないでしょうが、でも、たとえばA氏の○○という発言が複数の本に載っていた時に、Wikipediaの記事がどの本からそれを引用したのか、というのは大切な情報であり、それがわかるのは加筆した人だけです。一つ一つの記述に出典を明記できなくても、少なくとも、今の「現代音楽」の記事はこんなに長いのに、一点の参考文献すらあがっていないのですから、「要出典」だらけになるのは当然だと思います。
最後に、Wikipediaの編集は(コミュニティのルールを守る限りにおいて)誰でもできます。「専門知識がない人しか編集してはいけない」というのは、Wikipediaの理念に反しています。もしそういう空間で百科事典編集に参加したいのならば、Wikipedia以外の場所をお探しください。(あとアカウントを晒すというのは何をしたいのですか?誰が加筆したかは履歴で簡単にわかるはずですが?)Aotake 2006年9月21日 (木) 04:35 (UTC)[返信]

少々お答えします。「そのような解説に出会ったことがない。」などという人は、日本語の本しか読んでない人でしょうね。確かにそれでは出会うことは全くありません。TEXT+KRITIKとかのシリーズに目を通されました?出典を書けという人が多いようですが、それなら日本語を母語とする者が私しか接していない作曲家はどうなってしまうのでしょうか?フィニスィーのような「大作曲家」でも、書くなということでしょうか?英語版とかに、出典がいちいち明記されているのを見たことがありません。たとえば英語版のフィニスィーの項目はどう考えてもOUPからの転載ですが、転載したという記述はどこにもありません。どう考えてもおかしいですよね。日本はあまりオランダのように現代音楽が好意的に見られる国ではないので、日本語で読める絶対量が少ないのです。少ないから知らないでは、世界の笑いものですよ。要出典テンプレを貼るのは、「妥協案として」は賛成です。項目分割もやってしまって、ここには1900-1910のように年代別でおきた大きな潮流を拾ったほうが事典らしくなるでしょう。--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 05:48 (UTC)[返信]

あと付け加えますが、日本の音楽学はかなりでたらめなので、あまり「論文指南書に書いていないからだめだ」などと吹聴しないほうが身の為です。世界に出てから、損をします。根拠がないというのなら、「根拠がないことを」証明しなければなりません。たとえばドナトーニとドナトーニ信者の振る舞いはイタリア人で知らない者は誰もいませんが、そんな事を書いている文献はどこにもないです。ドナトーニはキジアナのアカデミーのトップの座に死ぬまでいたので、多くのイタリアの作曲家が迷惑したなどと書かれている文献がどこにあるのですか?ないからといって、これはイタリアの現代音楽業界を語る上で絶対に無視できる事項ではありません。シュトックハウゼンへの無理解な批判も、ちゃんと正当に演奏する者が現れて初めて撤回されたように、「要出典」を貼った人は一からの勉強をお勧めします。--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 05:55 (UTC)[返信]

また、現代音楽は「出典先が間違っている」ということも多発します。「素人は書くな」という意見も、現時点では微妙ですね。東大の博士をもらっていても、何も知らない人もいますからね。何を基準に「素人」と定義するかですね。私は何か興味深い項目を充実させれば、素人ではないと判断します。つまり、何か一つ強い分野があればそれでよい。しかしながら、このノートに書く人の多くは初心者ですし、これだけ初心者が多い国の音楽が信用されるかどうか、考えられたことはありますか?どこの外国に行っても、日本のアニメの話は盛り上がりますが、日本の音楽の話なんて誰もしていません。これは一つのショックでした。--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 05:59 (UTC)[返信]

コメントをありがとうございます。上のIPさんとNoda,Kentaroさんは発言の方向性がよく似ていらっしゃいますが、同一人物でいらっしゃいますか?4点反論します。
  1. 出典や参考文献が「日本語の本でなければならない」という規定は私が探した限りではありません。事実、日本語以外の言語の参考文献をあげている記事もありますし、Wikipedia:出典を明記するでも外国語文献のあげ方が載っていますよね。なぜ「出典を明記してください」というリクエストが、「日本語の文献に書いてあることしか書いてはいけない」という意味に読み替えられるのか、はっきりいって謎です。もしそのような規定がWikipediaにあるのでしたら示してください。
  2. 先にも書きましたが、記述の検証可能性が低いと感じたユーザーが「根拠のないこと」を示す義務はありません。
  3. 英語版の記事に出典のないものや、外部から転載したものがあることは、日本語版でそういう記事を作ってよい理由にはまったくなりません。どの言語版のどのプロジェクトであろうと、問題に気づいたらすこしずつでも改善していく、というのがWikipediaの精神ではありませんか?(英語版とかで出典が明記されているのをごらんになったことがないということですので、ご参考までにen:Frederic Rzewskien:Giacinto Scelsiをリンクしておきます。)
  4. 「素人」の議論については、失礼ながらおっしゃりたいことがわかりません。Wikipedia日本語版は、別に日本の現代音楽家のコミュニティでもなければ、日本の音楽シーンを国外に発信する場でもありません。どんなナショナリティの人でも、何語を母語としていても、何を職業としていても、何についてよく知っていても、インターネットに接続ができ、一定以上の日本語の読み書き能力があり、コミュニティのルールを守れば、Wikipediaのどの記事の編集にも参加できます。Noda,Kentaroさんが「微妙」と思おうが思わまいが関係ありません。私は「現代音楽」の記事は、読みづらく、百科事典の記事として適当でないと感じ、それを改善するために日本語の表現や、読者への情報提供の適切さといった面から編集に参加しています。そのことと「日本の音楽が信用されない」こととは全く関連性が見出せません(だいたい「音楽を信用する」という表現は私の日本語の感覚では何を意味しているかわかりませんが…)。Aotake 2006年9月21日 (木) 08:24 (UTC)[返信]

だから、「根拠がない」と発言する意図はどこにあるのですか?ラドゥレスクの欄に「要出典」を貼ったのは誰です?これはれっきと出典があるのに、なぜ要出典が書かれるのかその理由を聞きたいだけですよ?それと、Aotakeはさっさと一から勉強しなおして来なさい。そうしたらまともには成るかもね。--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 09:02 (UTC)[返信]

犯罪的編集行為について

イアンク・ドゥミトレスクホラチウ・ラドゥレスクはルーマニア版スペクトル楽派と呼ばれ、国際的に高い評価を受けているが(要出典)2人とも活動の場を海外に移している。

これに要出典を貼った者は誰だ!出て来い!こんなことはどこにでも出典が見つかるだろう!そんなことも知らない人間のくせに「要出典」を貼る権利がどこにある!--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 09:08 (UTC)[返信]

なにをそんなに興奮なさっておられるのかよくわかりませんが、私が(要出典)を貼ったのは「国際的に高い評価を受けている」という部分なのですが…… 抽象的な表現ですので、具体的にどのような媒体で評価されているのか、記述があるべきではないかと思っただけですよ。別に他の作曲家の一部に書かれている受賞歴なり、CDの発売枚数なりなんでもかまわないと思いますが。それと、「編集制限」というシステムがWikipediaに存在するのか寡聞にして知りませんが、もしそういうことをお望みでしたら、このノートページや私の会話ページにではなく、コメント依頼なり、管理者伝言板なりに依頼をしてくださいませ。Aotake 2006年9月21日 (木) 11:11 (UTC)[返信]

国際的な評価を受けているから、グリフィスは項目を足したに決まっているでしょうが!それとも、ここにドゥミトレスクとラドゥレスクのHPを貼れと言うのですか?馬鹿馬鹿しいにも程があるでしょうが!いい加減にしろ!! http://meltingpot.fortunecity.com/utah/549/dumitrescu.iancu.html http://mywebpage.netscape.com/uytarokh/horatiuradulescu.htm?f=fs --Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 11:16 (UTC)[返信]

とにかく

この項目を執筆する人間はなんらかの専門教育を受けた者でないと、正直対応するのが非常に困難と思われます。素人が「書けない」項目であることは断っておく必要があるでしょうよ。--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 09:15 (UTC)[返信]

Noda,KentaroさんはいちどWP:Vをお読みください。-- 2006年9月21日 (木) 09:19 (UTC)では、あなたはグリフィスの本を信頼性に乏しいソースと断定なさるのですか?--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 09:28 (UTC)[返信]

だから、出典がポール・グリフィスの本に載っているのに、なぜ要出典が書かれるのか理由をお教えください。私は別に要出典テンプレを貼るなとは全く言ってません。--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 09:21 (UTC)[返信]

ちなみに、グリフィスの「20世紀の前衛」は日本語版が翻訳された後に全面的に改訂され、英語による改訂版はスペクトル楽派のことについてかなりページが割かれています。ルーマニア版スペクトル楽派はその割かれた中の項目の一つです。なぜAotakeの馬鹿がここからの出典を知らずに「要出典」テンプレを貼ったのか、お教えいただきたく存じます。--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 09:23 (UTC)[返信]

ここにその書名と著者名は書かれましたから、そのほかに、出版社名と原著名、出版年などを書かれれば、事は済みますが。-- 2006年9月21日 (木) 09:38 (UTC)[返信]

(追加)ページもお書きください。-- 2006年9月21日 (木) 09:39 (UTC)[返信]

落ち着いてください。まず、これらのウィキペディアの方針を読んでみてください。Wikipedia:独自の調査Wikipedia:検証可能性Wikipedia:出典を明記する
「要出典」とは、その根拠を具体的に提示してほしいということであって、根拠がないという指摘ではありません。フランスの項のブーレーズの発言は、どこに由来するのかについて、要約欄に、ラフに書くのではなく、本文末尾に参考文献の節を作って
『現代音楽 : 1945年以後の前衛』ポール・グリフィス著 石田一志訳 音楽之友社 1986
Modern Music and After Paul Griffiths Oxford University Press, USA; 2Rev Ed edition 1996
などと記し(『20世紀の前衛』の改訂版が、違う本を指しているかもしれません)、ノート欄で「フランスの項のブーレーズの発言はグリフィス1986(or 1996)」と示すことで要出典タグを外していただければ、なんら問題は生じません。グリフィスの本が信頼性に乏しいかどうかが問題なのではなく、記述されている情報が何の本からもたらされたのかを教えてほしいというのが<要出典>タグなのです。記述されている情報から、その情報が掲載されている書籍を特定することは多くの場合困難です。「こんなことはどこにでも出典が見つかる」のであれば、どれでもいいので、どれかを記してほしいのです。記述者あるいは専門家による出典の明記を進めることで、ウィキペディアの記事を誰でもが検証でき、信頼性が確保されるのです。「超有名」であるならば、いくつもの出典が挙げられるでしょうし、日本語文献に限定するルールも、書籍に限定するルールもありません。海外の学術論文誌などでもよいのです。--Ks aka 98 2006年9月21日 (木) 09:42 (UTC)(追記--Ks aka 98 2006年9月21日 (木) 09:43 (UTC)[返信]

http://www.oup.com/uk/catalogue/?ci=9780198165118 これですよ。皆さん。誰も読んでないの?--Noda,Kentaro 2006年9月21日 (木) 09:47 (UTC)[返信]

横から失礼します。出典の書き方の具体例はよくわかりました。論争の的になっているラドゥレスクとドゥミトレスクについてですが、確かにフランス寄りの現代音楽関係者やファンなら、彼らがスペクトル楽派寄りの作風であることは異論がないと思います。ドイツのゲオルク=フリードリッヒ・ハースなどについても同様でしょう。しかし、それらは主にスペクトル楽派の項目に書いたほうがすんなり収まるのではないでしょうか。ここでは現代音楽におけるスペクトル楽派とは何かということを一潮流の位置づけに書きとどめる程度でも十分ではないかと思います。僕もかつては国別傾向と称しつつ該当国籍の作曲家一人ひとりについて記事を書き足していましたが、記事が膨大な量となった今、それらの整理のためにはこうした作曲家一人ひとりの項目を書く作曲家別あるいは国別の衛星記事に移すなど、一つずつ整理することが先決ではないでしょうか。情報の乏しい国々の場合は無理に項目を増やして国別に書かず数カ国をまとめた地域として扱う、或いはくだんのラドゥレスクやドゥミトレスク(他の例ではフィンランドの中でも特にサーリアホ)については国別と見なさず特定の傾向を持つ楽派としてまとめるだけでも大分見やすくなると思います。30rKs56MaE 2006年9月21日 (木) 21:02 (UTC)[返信]

Noda,Kentaroさんの逆鱗に触れたせいでいろいろと混乱しましたが、すこし落ち着いたようなので、コメントしておきます。なんども同様の説明をしていますが、私は別にドゥミトレスクとラドゥレスクのところについて特に全然聞いたこともないから「要出典」と貼ったわけではありません。ただ、この記事全体にたくさんある単に「評価されている」「知名度がある」という羅列に対して、もっと具体性があってどうしてそう言えるのか誰にでも分かるように改善してください、という意見として貼りました。別にそれはルーマニアの項だけではなくて、他のところにも貼りましたし、「西欧・南欧」をいじった時の要約欄に書いたように、基本的には「評価には根拠を明記するべきだ」と考えて出典を求めています。なぜなら、Wikipediaは事象の評価をする場ではないからです。「Wikipediaにそう書いてあるからこの人はすごいんだ」という情報源に、Wikipedia自体がなってはいけないからです。「Aは有名」「Bは常識」といった記述のみで終わらせることは、Wikipedia自体が事象に評価を加えていることになってしまう(少なくともそう見えてしまう)から、望ましくないと考えます。
そもそも、もっとわかりやすくしてください、というリクエストに対してそんなに憤懣するのはどうしてなのですか?みなさまはなんでWikipediaの記事執筆をしていらっしゃるのですか?ご自分の持っている知識を、他の方に分け与えるためではないのですか?それともこの記事は、現代音楽のことについて詳しい人が「ふんふん、そうだよねー」と言いながら読めるような記事を目指しているのですか?もし後者だとするのならば、とても悲しむべきことだと思います。Aotake 2006年9月22日 (金) 01:11 (UTC)[返信]

すでに、現代音楽といわれるジャンルが発足してから60年以上が経過しました。グリフィスや松平の本が一度改訂されているように、地域的に潮流が膨大になり、わかりやすく書けなくなっています。ひどいことを言うと日本の音大の先生が全く知らない作曲家が、国際的なデビューを飾り本が出版される事態に展開しています。前衛がいったん停滞した30年前ならわかりやすく書けた可能性もあるのですが、現在これは不可能です。もしも、「どうしても解りやすい現代音楽の記事を書きたい」とお考えなら、ウィキペディアのsimple English版を執筆されてみてはどうでしょうか。--Noda,Kentaro 2006年9月22日 (金) 05:20 (UTC)[返信]

今回の「ラドゥレスク要出典事件」の発端はそもそも、文章中のどこに対して要出典と指摘しているのかで論点が変わってくると思います。「ルーマニア版スペクトル楽派と呼ばれ」る事に対しての要出典なら、Noda,Kentaroさんの挙げた本を文章末尾に追記すれば済むでしょう。実際には「国際的に高い評価を受けているが」の後に「要出典」がついていますが、この「高い評価」についていちいち出典を明記することは大変困難だと思います。Wikipediaにおいてむやみに文章中で「高い評価」と飾り立てるのが好ましくないことは承知していますが、ラドゥレスクとドゥミトレスクが一定の評価(および特定の楽派のレッテル)を得て国際的な活躍をしていることは紛れもない事実です。またこういうものさしはあまり好ましくないですが、演奏会やCD、各国立放送局の番組などでもよく名前を見かけます。一方でノート:日本のクラシック音楽の作曲家一覧の議論にあったように、コンクール歴などを理由に世間の評価を物差しで計ることもまた問題です。「この記事は明らかに編集者が事実以上に飾り立てているのではないか」「コンクールで一度入賞しただけで現代音楽という汎用記事内に書くべきことか」と疑問を向けるべき箇所は、この記事内にも関連記事にもっとあるはずです。それと「判り易い現代音楽の記事」についてですが、判り易い記事というものは誰もが望むことです。無論それは単なる入門記事に限らず、本記事のように高度に専門的な内容を含むものについても同様です。つまり記事の内容を抹消するというのではなく、もっと見通しの良い段落あるいは衛星記事に分散することおよび全体を要約できる導入部を置くという事ではないでしょうか。30rKs56MaE 2006年9月22日 (金) 21:36 (UTC)[返信]

ずいぶんと紛糾しているようですので横から失礼します。芸術に関わることの評価をコンクールの受賞歴等のみに依存すべきでないというのは一方で大変良識的な意見ですが、Wikipedia:ウィキペディアは何でないかにみられるように、百科事典が従うべき良識には反しています。「高い評価」というのは本質的に主観的な価値判断をともなう事柄ですが、ウィキペディアはそのような価値判断に組するべきではありません。ウィキペディア上での基本的な原理(Wikipedia:検証可能性)を骨抜きにすべきではありませんので、音楽コミュニティーが高く評価しているというのであれば、そのなんらかの客観的な根拠が必要であるとするのが妥当ではないでしょうか。ラジオで放送されていることを根拠にするならどのラジオ局で何年頃からどの程度の頻度で放送されたかを記述する必要があり、そのような前提知識を暗黙のうちに読者やほかの利用者に要求すべきではなく、執筆者に説明する義務があると思います。このガイドラインも参考にすべきです。なお、Noda,Kentaroさんおよびそれと同一人物によると思われる執筆、編集はあまりにも主観的、音楽評論的な色彩が強すぎるために、執筆者独自の主張であるとの印象を与え、またその百科事典の記事としての妥当性について疑問をもたれやすいのではないでしょうか。ウィキペディアは音楽評論をする場でも自説を開陳する場でもありません。さらにこのような傾向は30rKs56MaEさんが奇しくも指摘されている通り、この項目のみならず、ほかの場所でも随所でみられますがこれらはあくまでも改善されるべき事柄であって、単に一度に手が回らない、項目「現代音楽」が基本的な項目であり、過去には秀逸な記事であったことなどから、手始めとしてAotakeさんが手を入れ始めたのではないかと想像します。一般論としても、編集に際して「参考文献を列挙する」ことを行わないで編集した者は、{{要出典}}タグの貼付けに抗議する権利はないのではないですか?ついでに、Noda,Kentaroさんの乱暴な発言や、ノートページの改竄は道義的にも、ウィキペディアのルールとしても見過ごすことができず、今後改めるべきであることを付記しておきます。--Pugnari 2006年9月23日 (土) 22:59 (UTC)[返信]
真剣に相手をするのも非常に疲れました。『一般論としても、編集に際して「参考文献を列挙する」ことを行わないで編集した者は、{{要出典}}タグの貼付けに抗議する権利はないのではないですか?』なんて言われましてもね、基本の中の基本が落ちている人に言う権利があるのか?確かに自分ひとりしか演奏したり、出会ったりしていない作曲家の記事は「要出典」が貼られてもある期間は仕方がない(でしょう)。しかし、ラドゥレスクのようにメシアンに絶賛された形でデビューし、世界的に熱く語る信者がいるような作曲家に対して「要出典」なんてやらかすのは、編集した人間ではなくてこの日本語版を読む海外の人々を笑わせることにはなりませんかね?「どうせ読まないだろう」という解釈は一切お勧めしません。--Noda,Kentaro 2006年9月24日 (日) 00:41 (UTC)[返信]
笑われるどころか、慎重、緻密かつ客観的な編集方針で賞賛さえされると思いますよ。主観的、評論的、装飾的語句で無駄に記事を長くする前になすべきことがあります。
あなたや、現代音楽の専門家のかたにとって「基本」であっても、人類の残り99.9%の人にとってはまったくもって非自明な事柄だということを理解してください。これは、想像力の問題です。立場を変えてみましょう。私の専門分野では「トム・ブリッジランドは若手の代数幾何学者の中にあって、代数多様体のホモロジー代数的な研究で際立った第一人者であり、関係者から絶賛されている」というのは、あなたの日本語の用法では「基本中の基本」であり、また「事実」でもあるわけですが、現代数学の情勢について真剣に知りたいと思っている門外漢に対しては、このような記述はまったくもって不誠実かつ不適切であるといわざるを得ません。なぜなら、第1に「絶賛されている」という表現が過剰であり百科事典的でない、第2に代数幾何学の専門家以外でも彼が高く評価されているという事実を納得させる説明がなされていないからです。さらに、私は代数幾何が専門ですけど、専門家以外が口を出すななどと不遜な発言をする気にはなりません。なぜなら、私は数学に興味のある人なら大方知っているフィールズ賞受賞者のような権威というわけではなく、自分の認識が正しいという確信も社会的保証もないからです。さらにいえば、数学界で超有名なフィールズ賞受賞者であっても、世間のほとんどの人たちはその名前すら知りません。ウィキペディアはそういう一般の人たちに資するべきです。
その点、Noda,Kentaroさんは現代音楽界の権威でいらっしゃるようですね。ウィキペディア来るまであなたの名前すら存じ上げませんでしたが。自分の認識にそこまで自信があるということはあるいみすばらしいことで、うらやましい限りです。--Pugnari 2006年9月24日 (日) 05:57 (UTC)[返信]

再び申しあげます。落ち着いてください。

pugnariさんもいったん落ち着いてください。ウィキペディアにおける記述についてなどのご指摘には同意します。また、ご意見に感謝します。現代音楽と現代数学は、知識や認識が限定的であるという点で共通していますが、現代数学については一定の評価基準が学問的に存在するのに対し、現代音楽についてはたとえば作品が査読つき定期刊行物に載るわけではなく、「現代音楽」の外側も含めて社会的な要因が少なくありません。比喩としては不適切であるように感じます。現状、多少なりとも現代音楽の事情(その内容および社会的な位置づけなども含めて)を踏まえていないと意見交換が困難であるように感じております。恐縮ですが、本筋ではないところで混乱が生じることを避けるようご配慮願います。

30rKs56MaEさん:ルーマニア版スペクトル楽派についてですが、こちらについてもその内容が論争になっているのではなく、「出典の明示」が論争?の対象かと思われます。すなわち、「フランス寄りの現代音楽関係者やファン」なら、「彼らがスペクトル楽派寄りの作風であることは異論がない」という場合、執筆者(あるいは関係者やファン)は、その情報をどこで得ているのか、ということを素人にもわかるように明らかにして欲しい、ということになります。上記グリフィスの本で例示したように、情報源となる書名などを挙げていただければ、論争は収束します。出典が明記されないままであれば、この項目内、あるいは他の項目への移動を含めての記事構成をより適切なものと変更した場合にも出典不明の問題は継続して残ってしまいます。

記述の内容について、また内容に応じた構成の変更については、30rKs56MaEさんほか、現代音楽に詳しい執筆者の判断に委ねられるべきかと考えますし、この点についてはAotake さんほかも同様でしょう。他方、ウィキペディアの方針・ルールへの対応や、読みやすさのための構成の変更などについては、ウィキペディアに関わる者として、また記事を読む立場からの意見として受けとめ、執筆者としてご協力いただけないでしょうか。もちろん、読みやすさのための構成の変更が、予期せず記事の意味合いを変えてしまうような場合にはご指摘いただき、そこで議論の上、意味内容を損なわず読みやすさを向上させることができる文面を考えていくのが望ましいと考えます。--Ks aka 98 2006年9月24日 (日) 06:39 (UTC)[返信]

「出典の明示が論争の対象」については承知しております。無論ルーマニア版スペクトル楽派はたまたま一例に出ただけに過ぎないでしょう。今回Noda,Kentaroさんが分割編集する直前の要出典が多く貼られた版を改めて読み直しました。確かにタグを貼られた箇所はあまりにも多すぎます。「これは出典を明記した方がよいだろう」という箇所も多くありましたが、例えばオランダのミニマリズムの影響など、現代音楽に馴染んでいる僕にとっては「常識」ですらあったものについても要出典と言われてしまうと、はてそのオリジナル文献はどこから持ってきたものか、困ってしまうというのが正直な意見です。僕が加筆したフレーズについて要出典が求められた場合、CD解説書程度でも良いのであればそれを書きますけど。僕はNoda,Kentaroさんほど外国の文献には精通していません。しかし一ファンとして多くの演奏会や録音聴取の場数を踏んでいることは確かだと思います。その中で経験上、ルーマニア版スペクトル楽派やオランダ版ミニマルが「紛れもない事実」であるとは判断できます。いや、無論そうだからと言って、出典を明記すべきという皆さんの主張に反対するものではありません。確かにこの現代音楽の記事はいまや高度に専門的なものになりました。そうした記事は出典の明記をより高精度で求められることになるのは理解できます。しかし例えば僕が以前新規執筆や大幅加筆した記事のうち、クスクスはあきらかに気軽に書いたタイプの記事であり、(加筆したのは主に歴史で、しかも約2年前ですが)については学生時代に日本音楽史の授業で習った内容のノートを元に書いたもので、これについて出典を明らかにするのは随分前に大学を卒業した今や確認は困難です。ファンレベルの共通認識事項やちょっとした知識提供程度のものまで細かく出典を求められる頻度があまりに高すぎるとなると、新規執筆参加や加筆は、今後大変しづらいものになるのではないでしょうか?僕が心配するのはむしろその視点です。30rKs56MaE 2006年9月25日 (月) 02:14 (UTC)[返信]
現代音楽の記事は「秀逸な記事」に選ばれていた記事です。他の記事の手本となる記事である、とコミュニティに認定されていた記事なのです。もちろんどの記事もWikipediaの三大方針にそったものとなることが目標ですが、それには何十年、何百年という時間がかかります。でもせめて「秀逸な記事」はある程度の基準までこの三大方針をクリアしていなければいけないのではないでしょうか?
私が「現代音楽」の記事を秀逸な記事の再選考に出した際、もう一度秀逸な記事になるような改善を目指すために賛成する、というご意見があり、ですから、これが秀逸な記事にもう一度なれるようにお手伝いできればと思っていました。査読依頼にもしこの記事が出ていたら、どういうところにまず突っ込むか、ということを考えながら「要出典」を貼りました。Wikipedia:検証可能性に明記してあるように、Wikipediaに書かれるべきことは、「真実であること」ではなくて、「検証可能なこと」です。私は秀逸な記事に選ばれた時期にはWikipediaには参加していませんでしたので、その時の判断についてなにかを申し上げる立場にはありませんが、正直なところ、参考文献の一点もない記事が百科事典の「秀逸な記事」に選ばれていたということには大きな違和感を感じます。なお、「常識」であることについては、基本文献を参考文献にあげ、必要に応じてその基本文献の参照箇所を示すだけでも、検証可能性をクリアできるのではないでしょうか?Aotake 2006年9月25日 (月) 06:07 (UTC)[返信]

nodaさんには、再びWikipedia:独自の調査Wikipedia:検証可能性Wikipedia:出典を明記するを読むことをお願いします。

まず、<要出典>とは、記事内の情報を執筆する際の情報源の提示を求めることに過ぎず、情報源の有無を問うものではなく、また記述者への不信をことさらに表明するものではないことについてご理解下さい。<出典>とは、ある記述について執筆の拠り所となる本、論文、レポートなどで、どの本(etc)を参照したかを提示することで、問題は解消します。

「ルーマニア版スペクトル楽派に出典がれっきと存在するのに、なんで要出典が書かれるのか」というと、まだ出典が明らかになっていないし、「存在するのに」と書かれても、それでは出典を明らかにしているとは言えないからです。具体的な書名と執筆者、できれば出版社と版、および該当ページを記すことが望ましいです。反応を見ていると、<要出典>タグあるいは<出典>という言葉が何を指しているのかというところで、共通理解ができていないように思えてなりません。

ウィキペディアでは素人にも執筆ができ、かつ筆者が素人なのか専門家なのかが特定できないという特性があります。したがって、記述者は誰であれ、常に信頼されていないことになります。記述内容や署名からNoda,Kentaro さんが誰なのか、ある程度推察することはできますが、それは確実ではありません。一般の百科事典では、出版社や執筆者名への信頼が一応担保され、記述内容への信頼性が保証されますが、ウィキペディアではそうはいかないため、通常の学術論文よりも厳しいと言っていいくらい出典を求める方針が採用されているようです。今後誰か現代音楽に詳しくない人が思い込みで編集することがあるかもしれません。出典が記されていれば、専門家ではなくとも、その編集をリバートできる可能性があります。その内容が「常識」であるかどうかは問題ではなく、「常識」であれば、なんらかの情報源は示すことができるはずであり、情報源が示せないのであればそれは「常識」ではないとして、執筆者の思い込みや俗流の解釈を排除することが可能となります。実際に記述されるすべての内容について出典が付された記事は見たことがありませんから、かなり柔軟な運用がなされているというのが現実ではあるでしょう。そうでなければ立ちゆかなくなると思うので、個人的にはそれでいいとも思いますが、査読依頼や秀逸な記事の選考などの際には、出典を付す作業があるべきかと考えます。また、出典を示すことによって、「これは絶対押えないとだめ」という基本書籍がどの書籍なのかという情報を読者に示すこともできます。

現在貼られている<要出典>タグは、すべての情報に対して出典を求めてはおらず、ご本人が説明されている通り、特に記述の中でなんらかの「評価」がなされていて、その評価の主体が明らかになっていない箇所、および誰かの発言が文中に置かれている箇所を中心に貼られています。評価の主体がグリフィスなのか松平なのか、あるいはウィキペディア参加者なのか、という点、および、発言の情報源は明らかにされるべきかと思います。あるいは、その「評価」を代表させる具体的な事柄があるのであれば、「メシアンに絶賛された形でデビューし」と書くことで、誰が評価しているかわかりにくい状態を避けることができますし、メシアンの絶賛についてならば適当な情報源を示すことも可能となるでしょう。

出典を求めることは、記述されている内容について素人にでもできます。紙の百科事典の編集者も、担当するすべての項目についての専門家であることはあり得ないでしょう。記事内容については、執筆者が専門家であり編集者は素人です。しかし、ウィキペディアの方針やルール、また文章の構成の仕方などについては、現代音楽についての知識は必要ではありません。もちろん、方針やルールに対応すること、あるいは読みやすさのために文章構成を変更することによって、記述内容の意味合いが変わってしまうこともあり得ますから、変更は慎重に行われるべきであるでしょう。出典についても、たとえば、編集者がおそらくこの本の情報を基に書いているだろうと言う推測によって補うべきではありません。そのため執筆者を尊重し、執筆者自身によって、あるいは執筆者と同等またはそれ以上の知識を持つ人によって出典を示すことを求めて<要出典>のタグが付されるのです。

また、「現代音楽」の項目をわかりやすく書くことが困難であることは確かでしょう。しかし、現在求められているのは、すでにある程度歴史となった部分の整理や、情報の補足、そして節単位での構成の見直しと文章としてのブラッシュアップといったものに過ぎません。これらは「現代音楽」および「現代音楽を記述すること」が持つ複雑さとは、同一ではありません。--Ks aka 98 2006年9月24日 (日) 06:39 (UTC)[返信]

出典を挙げる理由は他にもあります。「要出典を貼って良いのは作曲家のインタヴューとか発言とか、それに限られる」という文章に接した読者が「なぜそう言えるのか」という疑問を持ったとします。その際、執筆者が出典を明かしさえすれば、読者はその書籍などにあたって、この注意が出てくる理由を知ることができます。執筆者にとっては、出所を明示することで、読み手からの質問を事前に防ぐことができます。つまり、お互いにとってメリットがあります。Nattilv1 2006年9月24日 (日) 07:28 (UTC)[返信]

話が

食い違ってきている。(敬語表現は、今後止めることにいたします。)

なにも、素人が要出典を貼るなとかそんなことは言っていない。確固たる自信があれば貼ってもいい。『メシアンの絶賛についてならば適当な情報源を示すことも可能となるでしょう。』ってさ、そんなもんはCPOのピアノ協奏曲のCD解説にも改めて8年前に再録されたけどね、数十年前に確立した評価をなんで書かなきゃいけないわけ?すごい偉そうだねぇ。どうして素人がさ、専門でやってる人に向かって「要出典が必要」なんて言われんならんの?不愉快でしょうが。じゃさ、自然科学系の昨日今日出てきた研究データが必要な記事は、要出典タグまみれになってるの?絶対、違うよね。音楽だけだよね。こんな基礎データにすらも要出典貼って馬鹿にさしたのはね。それはね、「音楽はみんなもの」だって考えが編集する人の意識のどこかにあるからなんだよ。野田憲太郎が勝手に考えて書いているんだろうと。酷いこというとさ、うちと他がかき寄せるまで、この項目はド素人以下だったよね。それのほうが良いのか?アホか貴様ら。

もっと酷いこというとさ、ラドゥレスク関係を知らなかったことについて、ひとかけらの謝罪もないよね。ここの人たちは政治家より頭が悪い。謝罪できないんだから。

正直言いたくないけど、プロパー以外出典を問うのも記事を編集するのも立ち入り禁止にしてください。最近編集合戦が多発する項目もありますが、ほとんどの場合素人と専門家の争いでしょうが。それは「素人に書かせないほうが」いいんじゃないの?ゲーム系だと、企業の工作員とユーザーの冷静な指摘が拮抗することもあるけれど、ここにはない。事実かどうかは自分で調べなさい。調べる方法はたくさんありますから。英語だけだと厳しいかもよ。--Noda,Kentaro 2006年9月24日 (日) 14:25 (UTC)[返信]

自然科学の記事であっても、もし参考文献があげられていなければ、専門家が当然だと思っているどんな場所に{{要出典}}が貼られてもおかしくないというのが私の意見です。Ks aka 98さんの「数学にはレビュープロセスのある論文雑誌があるけれど、音楽はそうは行かない」というのは一面としては正しいですが、一般人にとっては同じぐらいちんぷんかんぷんな事で、譜面を見たってラジオ放送を聞いたってその音楽がなんで評価されるのか直感的に理解できません。だからこそ、出典が必要なのです。
Noda,Kentaroさんの主張はまず第1にウィキペディアのよって立つ3大基本指針の一つであるWikipedia:検証可能性を守る事なく編集を続ける事の宣言と見えますが、そう理解して良いのですか?もしそうだとすれば、ウィキペディアのコミュニティにとって重大な問題です。第2に、「プロパー以外出典を問う」な、という主張は、現代音楽のコミュニティーを現代音楽の文脈を理解する一般人から見れば宇宙人のような人たちの閉鎖的な空間に封じ込めようという試みに見えます。音楽というのは聴衆がいて始めて成り立つんですよね?現代音楽の場合は違うのでしょうか。自然科学がみんなのものであるのと同様に音楽もみんなのものだという主張に対して論理的に反駁できるのですか?音楽家のためだけの音楽って何ですか?その音楽家だけが読者として想定されている記事を書く事にどれほどの意味があるというのですか?たまさか現代音楽に興味を持った人が現代音楽の森に分け入っていくときに必要な手がかりこそが出典なのです。自分で調べなさい、などと大上段に命令なさいますが、ウィキペディアの執筆者には、それがNoda,Kentaroさんのおっしゃる「プロパー」とやらであろうと「素人」だろうと、そんな命令をする権利はないのではないですか。
さらに、ある事柄を知らなくて、その事柄について十分に説明してくれとリクエストする事が悪い事なのですか?何故それで謝罪しなければならないのでしょうか?
ともかくも、出典を過不足なく明示できるかどうか、百科事典としてふさわしい文章が書けるかどうかというのは、日本語の作文の能力、文献リテラシーの問題であって、音楽の知識があるかどうかとは別問題なのだと思います。--Pugnari 2006年9月24日 (日) 15:15 (UTC)[返信]

ほれ、今ね記事を分割してたんだけどさ。これも分割しろしろとか言って、実行したのは私だけだったじゃないの。なんか謝辞かなんかほしいくらいですよほんとに。いらないけどね。口のでかいやつが何も実行役を引き受けていないということは、書かせてもらいますよ。--Noda,Kentaro 2006年9月24日 (日) 15:29 (UTC)[返信]

それはあなたが私の改稿の提案をきちんとお読みになっていないからです。私は「修正意見がつかなくなって1週間たったら作業に移る」と宣言しました。それはWikipediaの推奨するルールに従ってのことです。他のご批判については、重ねて私からコメントする意義が見えませんので返答は差し控えます。Aotake 2006年9月24日 (日) 17:40 (UTC)[返信]

記事の分割の仕方ないし記事名に疑問があります。

  • ギリシャは「西ヨーロッパ」なんでしょうか? 政治的にはそうだったのかも知れませんが。
  • メキシコは「南アメリカ」なんでしょうか?
  • 「キリル文字を使用する語族」だとバルト三国は当てはまらず、一方で東欧の国のいくつかが当てはまることになりますよ。

この辺は分割する前に話し合っておくことだったでしょう。Uraios 2006年9月24日 (日) 17:57 (UTC)[返信]

それは、もう勝手に変えてください。バルト三国の人はロシア語は通じます。メキシコは厳密には中央アメリカですが、南アメリカの作曲家と共通項はかなり多いです。ギリシャはかなり微妙で、どちらかに入れてよいのかあまりはっきりしません。--Noda,Kentaro 2006年9月24日 (日) 18:18 (UTC)[返信]

Wikipedia:即時削除の方針に基づき、分割された記事は削除しました。-- 2006年9月25日 (月) 11:59 (UTC)[返信]

非専門家(こいつらをつまみだせ)が分割するのは勝手だけど、それが私のような専門職が見て、不備があったらどうするんですかね?「それは私の責任ではない」ですかね?貴様ら本当に偉そうで、何も知らない人たちだね。--Noda,Kentaro 2006年9月25日 (月) 12:19 (UTC)[返信]

だから不備がなるべくないように、ノートページで議論を重ねてから分割することになってるのです。議論やWikipediaがその歴史の中で積み重ね洗練してきたルールを無視して作業をするから、こんなことになるのです。あまり不穏当な発言はしたくないですが、「本当に偉そうで、何も知らない人」という言葉はそのままNoda,Kentaroさんにお返ししたいと思います。例えばバルト三国の人がロシアにどのような思いを抱いているか、まさかご存知ではないのですか?「歌う革命」のこともご存じないのですか?あなたの分割こそ、不備だらけだったと思いますよ。Aotake 2006年9月25日 (月) 16:29 (UTC)[返信]

さっさとくだらない争いは止めにして

分割された今、総論は充実されるべきです。今読むと、かなり怪しい。グリフィスや松平の引き写しにならないように、充実が急遽望まれます!--Noda,Kentaro 2006年9月24日 (日) 15:31 (UTC)[返信]

どうしましょう?総論の中に「技法」を分割で入れるか、それとも別個に「技法」にしたほうが良いか?これは皆さんでお考えください。私もまだ迷いがあります。--Noda,Kentaro 2006年9月24日 (日) 15:33 (UTC)[返信]

分割する事自体には賛成できますが、議論が進行中なのになし崩し的に{{要出典}}を次々にはがした上、記事を移動したから{{unreferenced}}も必要ないといってはがすというのは誠実な編集とは言えないのでは。結果的に、分割した各項目に議論が飛び火するだけですよね?ウィキペディアの記事も、現代音楽それ自身も、あなたの私物ではないと思いますよ。--Pugnari 2006年9月24日 (日) 15:59 (UTC)[返信]

いや、もうぜんぜん出典は日本語でごろごろ出てくるから、あえてタグを貼る必要ないよ。どうしてもって言うんなら<>つきで書いておけばいいし。今までは確かに当事者しか知らない項目が多すぎて大変だったけど、今はぜんぜんそうじゃないので。--Noda,Kentaro 2006年9月24日 (日) 16:02 (UTC)[返信]

音楽の素養の無い人々がつまらない編集をすることについて。

211.133.18.145 2006年9月25日 (月) 06:16 (UTC)[返信]

編集して恥をかく人々がいるということだけは、知っておいたほうが良いでしょう。--Noda,Kentaro 2006年9月25日 (月) 08:10 (UTC)[返信]

で、誰でも編集できるのだから出典を示せ、と。それは、記事を書いた人々やその記事にまつわる人々を、誹謗してることにならないの?たとえば自分で調べつくしたけれど、見つからなかった。だから要出典を貼る。これはOKか。でもさ、自分が知らないし自分の周りの人も知らないから要出典を貼るという行為に、何かしらの躊躇を感じないのか?グーグル検索ですぐ見つかることも、要出典なのか?私のページも一回削除依頼に出されているけど、その理由が「特に大きな業績などがあるわけでも、社会的な影響を与えたわけでもない人物」と。何だこりゃ。すでにこの記事の執筆当時、モスクワ音楽院まで行ってコンソナンス弦楽四重奏団にコーチしに行くことは、大きな業績ではないと。なるほどー、多くの日本人にとってはモスクワ音楽院で日本のコンテスタントは常に団体行動をするとロシア人に吹聴されることが大きな業績のようだから、これは当然か。アホか。

素養というのは、時によっては嫌味になるわけだ。なんでこいつしかしらんのや、と。気持ちはわかるよ。でもね、日本人がこのジャンルでへっぽこな結果を出しまくっていることは事実なんだし、そんなんだからこの項目もあまり立派にならないわけでしょ。まだ総論にはかなり酷い手落ちがあるからね。その手落ちを直すことが先決であって、編集するとかタグを貼りまくるとか言うのは、後の話なんじゃないの?まず、記事内容をまともにしたらどうか?ま、そのまともにした分に素人がタグを貼りにいくのがここの人々の仕事なのだろうが。--Noda,Kentaro 2006年9月25日 (月) 12:52 (UTC)[返信]

無防備に書けば「出典不足」といわれ、出典を示せば「著作権違反」と騒ぐ。このダブルスタンダードだけは、直すべきです。--Noda,Kentaro 2006年9月25日 (月) 13:14 (UTC)[返信]

たしかにNoda,Kentaroさんが現代音楽およびそれに隣接する話題について、広範にわたる知識をお持ちである事には素直に敬意を表します。ですが、その知識が十分に客観的な、百科事典的な記述になっていない事が問題なのだと思いますよ。より詳細で専門的な知識を取り扱う場合に、記述内容の高度化に比例して、その客観性や出典の明記への要求が高度化していきます。これはWikipedia:中立的な観点を確保するために必ず必要となる事です。もし文章の客観性や百科事典的であるための水準を満たさなければ、情報の量をいたずらに増やしても、「記事内容をまともにした」ことにはならないのです。
なるほど、Noda,Kentaroさんは、とやかくいうなら自分で書け、と仰いますが、じっさい私なぞは現代音楽についてそれほどの知識を持ち合わせていないので、あなたの書かれた部分にしばしば現れる過剰に評論的で価値判断を多く含む装飾的表現をどのように修正していいものやらわかりません。出典をネットや図書館やCDのブックレットなどで漁って、それを一つ一つつまびらかに調べれば、百科事典としてどのような表現がふさわしいか提案する事はできるのでしょうが、それは労力の無駄というものです。知識とそれなりのビジョンを持ち合わせた方に{{要出典}}タグで出典を明らかにするようお願いし、それによって、百科事典としての文章の推敲に多くの人が参加できるようになるのです。また、自分の記述の出典を要求された場合にどのような出典をあげる事ができるだろうかと常に気にしながら書くという束縛条件によって、記事の客観性を高める事ができるのです。それがウィキペディアの目指している編集のあり方でもあると思います。けして、自分が専門家だからといってその知識等などを自由気ままに書きつけてよい場所ではないのです。--Pugnari 2006年9月25日 (月) 14:10 (UTC)[返信]
出典を示しても示さなくても著作権法違反は著作権法違反であり、国際条約と各国の国内法に反する違法行為です。出典に基づきながら著作権法に違反しないのは矛盾しているように見えるかもしれませんが、そんなことはありません。各自がそれぞれ解決すべき問題であり、またそれが可能な問題です。もしそれが解決できないのなら、Wikipediaに執筆すべきではありません。-- 2006年9月25日 (月) 14:17 (UTC)[返信]

著作権についての話がどこに出ているかいまいち把握できないですが、たとえば文章をまるごと写しているようなものであれば著作権侵害です。この場合、出典の明記を含む「引用の要件」を満たしていれば著作権侵害とはなりません。参考文献の内容に基づき、自分の表現で記述する場合は、著作権侵害となりません。現在の議論での「出典」とは、ある記述に対する「参考資料」を指すと考えていただいてよいと思います。参考資料を挙げ、自分の表現で記述することがウィキペディアでは求められており、これは特に難しいことではありません。また、出典を挙げたからと言って「著作権法違反だ」と騒がれた場合は、それなりの判断はできますので、利用者ページで声をかけていただければ。--Ks aka 98 2006年9月25日 (月) 19:18 (UTC)[返信]

提案:野田氏の処遇について

連休中のこの一連の論争を読んで、こんなウィキペディアンもいるのかと、情けない思いになりました。野田氏の一連の発言は、専門家ファッショとして弾劾されるべき類のものでありこそすれ、決して容認さるべきものではありません。分割したのは自分だと得意がって吹聴していますが、客観的に見れば、現代音楽に関する記事をむやみに肥大化させたいがために、ただその口実として分割しただけに見えました。しかもノートに書いている暴論は、野田氏が2ちゃんねるなどの電子掲示板によくいがちな、その手の(ある)典型的な人格の持ち主であるということをさらけ出しています。それだけならまだしも、日本の音楽学者うんぬん、ドナトーニうんぬんといった与太話(というか大風呂敷というか)は、場合によっては関係者から、ウィキペディアを訴えると言われても、仕方のないものではないでしょうか。

ドナトーニ云々は与太話どころか、イタリアの楽壇に深い爪あとを残した大きなアカデミズムの一つだ。これは絶対に与太話ではすまないぞ。日本の音楽学の話も、私が関する限りでは建設的な業界をあまり見ない。(学生の論文を「本当に」査読できない環境はおそらく日本くらいでしょう。)この二つの話題も私だけが吹聴しているわけではありません。こんな食い下がりをしただけで永久ブロックを考慮するなどと言うのなら、「ラドゥレスクのことは全く知らないけれど、記事を書いてくるものが掴み掛かってくるからブロックしようか?」という言い分が通るということですか?いつにも増して不愉快。--Noda,Kentaro 2006年9月25日 (月) 14:03 (UTC)[返信]

これ以上野田氏が暴論と毒を吐きつづけるのであれば、野田氏とその関連IPの永久ブロックと、野田氏の宣伝記事の即時削除、ならびに野田氏の初期投稿による第三者に加筆・修正されていない記事を、すべて削除すべきであると思います(「要出典」と貼り付けられただけで、これだけヒステリックに他人に噛み付き回るのは、野田氏自身が自分の投稿や発言の信憑性に自信がない証拠と見受けました)。また、その根拠として、当ページにおける野田氏の発言は、永久保存すべきでしょう。---間久部緑郎 2006年9月25日 (月) 13:37 (UTC)[返信]

野田さんへ
ウィキペディアのノートは、執筆者同士の意見交換や合意形成の場であって、自分の考えをだらだら吐露する場ではないということを自覚すべきです。その上で、これまでの発言を撤回し、他の方々に謝罪すべきでしょう。 ---間久部緑郎 2006年9月25日 (月) 13:51 (UTC)[返信]

ちょっとまった。なんで話がこうやって逸れる訳?別に素人が「要出典」を貼るなとは一言も言ってないでしょう?じゃぁさ、どの言語版にホラチウ・ラドゥレスクに対して要出典なんてタグを貼ったのがあるのさ!(まずないと思うけどね。)こっちは「基本は押えるべきでしょう」と何度も断ってるのにね、「基本も知らない人がいるから」というのは理由になるのか?いくらなんでも、「何も知らない」がまかり通ることはならない。これは自分の考えでもなんでもないでしょう?--Noda,Kentaro 2006年9月25日 (月) 13:56 (UTC)[返信]

野田さんへ
話を本題から次々に逸らしているのは自分です。野田さんが逸らすから、他人から突っ込まれるだけの話ではありませんか。本題からすれば瑣末な話題で、しかも余計で大げさなことまで書くから、与太話だし大風呂敷だと言ったのです。 ---間久部緑郎 2006年9月25日 (月) 14:24 (UTC)[返信]

とりあえず1日の投稿ブロックにしました。-- 2006年9月25日 (月) 14:09 (UTC)[返信]

野田氏の暴論とされている部分について、現代音楽に関わることについては多少理解できる部分はありますし、「暴論」の多くはウィキペディアの編集に関するものです。個人的には、執筆意欲があり、知識がある人であると認識しておりますし、ウィキペディアにおける編集方針を理解していただいたうえで執筆を続けてもらうことの方が好ましい結果になると思います。まだ1週間足らずしか経過していませんし、野田氏は継続して冷静さを欠いているように見受けられますが、油を注ぎ続けている状態となっているのも確かです。また、方針に合致しない記述であっても、削除対象やブロックの対象にはなっていません。ここ数日の発言は、攻撃とみなされるものであるとは思いますが、ブロックについても手続上は警告を発し、あるいはコミュニティの合意を確認するべきだったと思います。

とはいえ、今の状態があと1週間も続くようであれば、これは好ましい事態とは言えません。野田さんには、再々度ですが、先に挙げた方針を読み、また、冷静にウィキペディアの執筆・編集に関するこのノートでの書き込みを読むことをお願いします。--Ks aka 98 2006年9月25日 (月) 19:08 (UTC)[返信]

暴論もさることながら、ほかのウィキペディアンに対する暴言が問題なのでしょう。ノートページの改ざんや、GFDL違反もあります。Noda,Kentaroさんは履歴を見る限り、2004年3月からこのアカウントで投稿されているのですし、それがルール上いけないこととは知らなかったでは済まされません。また、いたずらに「油を注いで」いるつもりもありません。どちらかといえば、Noda,Kentaroさんが圧倒的に冷静を欠いているように見えます。海原に浮葉を探すほどまれな現代音楽通はいざしらず、それ以外の人の理解の助けにならない方法で情報を付け加え、出典なしに評論的表現を追加するのであれば、これに対しては私としては、私自身の考えもさることながら、ウィキペディアの公式方針のよって立つ精神の観点からも、絶えず問題提起をし、異議を唱えていかざるを得ません。--Pugnari 2006年9月26日 (火) 01:51 (UTC)[返信]

野田さんの「暴論」や「毒」について私が言いたかったことは、Pugnariさんが代弁してくださいました。Pugnariさんのおっしゃる「暴言」こそが、私の言った「毒」にほかならないからです。野田さんが「圧倒的に冷静を欠いているよう」だというのも同感です。短日でこれだけ(1/2/3/4/5)項目を立てて罵詈雑言や誹謗中傷を重ねている時点で、すぐさま警告しても本来おかしくなかったはずだというのに、今から1週間も待てるというのは呑気すぎます。だいたい項目名からして、「犯罪的編集」「くだらない争い」「素養のない人のつまらない編集」と、たいへん刺戟的です。たとえばKs aka 98さんの投稿に私が添削を施すだけでなく、野田さんがやっているように、ペンネームとIPの両方で、「編集内容の要約」欄に<どあほ>だの、<無知な素人>だのと並べたら、(もしKs aka 98さんが許してくださったとしても、)他のウィキペディアンはそんな私をどう思うでしょうか? しかも野田さんは、ウィキペディアン以外にも、毒(暴言)を撒き散らしています。もしかしたら、野田さんの一連のコメントにビビッたり引いたりして、ウィキペディアに参加したい気持ちをなくしたという人がいるかもしれない。あるいは、繰り返しになりますが、野田さんの暴言を見て、訴えると言い出す人がいてもおかしくないでしょう。だとしたら、野田さんの「執筆意欲や専門知識」はかえって、ウィキペディア(のイメージ)にとってマイナスなのではありませんか。以上は極論かもしれませんが、だからこそ反省と火急の謝罪を野田さんに求めたのだということを書き添えておきます。 ---間久部緑郎 2006年9月26日 (火) 14:00 (UTC)[返信]

野田氏のスタンスを示す資料として、本件に関する2ちゃんねるでのやりとり(発言者名に「◆MG64yE6TCE」という文字列を含む発言が、野田氏によるもの)と、野田氏が執筆した可能性が高い「かんたん!ウィキペディア!はやわかり・FAQ ホラチウ・ラドゥレスク事件」を提示しておきます。ご参考まで。--58.93.212.17 2006年9月27日 (水) 07:59 (UTC)[返信]

間違いがあれば、ご指摘ください。なぜ、一部の管理ユーザは日本語を母語としておらずかつ日本語が不自由なのに、日本語版の管理を行っているのでしょうか?--Noda,Kentaro 2006年9月28日 (木) 00:18 (UTC)[返信]

荒唐無稽もここまで来たかという感じです。管理者が日本語を母語にしていようとしていまいと、日本語の理解能力があるなら何ら問題ないはずですが(ウィキペディア日本語版の来歴を知っていれば、こんな差別的なことは恥ずかしくて書けない筈)。野田さんの使う汚い、酷い台詞が模範的な日本語だというのなら、確かに考え直さなければいけないでしょうけれど。---間久部緑郎 2006年9月28日 (木) 14:01 (UTC)[返信]
もっとも、わたくしも管理ユーザーに対して批判的な気持ちがないわけでもありません。「いつまで管理ユーザーは野田さんにアホなことを吠え続けさせるつもりなのか」という観点からですが。---間久部緑郎 2006年9月28日 (木) 14:01 (UTC)[返信]

最後に

私は一年間、この項目への執筆を控えます。一年間の間にどれだけ充実しているのか?一番危惧している「総論」、「技法」の詳細な説明は誰が行うのか?私抜きでやってください。それで現時点よりも詳しくなるとは、全く思っておりませんが。--Noda,Kentaro 2006年9月26日 (火) 15:09 (UTC)[返信]

止める必要はないです。我々も詳しい情報は貴重なので間違ってもそのまま続けてください。なおミスった場合はこちらでいくらでも直すので心配ありません。--以上の署名のないコメントは、195.93.60.133会話/Whois)さんが 2006年9月27日 (水) 15:44 (UTC) に投稿したものです。[返信]

またしても話をずらしていると思います。この記事は必ずしも拡充する必要はないとして(だからこそ、初心者が見たら敬遠したくなりそうと指摘された)、必要最低限で的確かつ簡潔にまとめたいという方向性が出されたのにもかかわらず、「詳しくしたい」と意気込んでいたのは、野田さん独りだった筈です。野田さんの方向性なら、確かに詳しくはなるでしょう。しかし、野田さんのやり方では、マニア的(オタク的)に詳しくなるだけだと思うのですが。ウィキペディアはあくまでオンラインの百科事典であって、音楽事典ではない(のだから、どこまで詳しくすべきか)ということを弁えるべきです。それにしても、こんなにふてぶてしい捨て台詞は吐けるのに、どうして自分の暴言を謝罪することができないのか、不思議でなりません。---間久部緑郎 2006年9月26日 (火) 15:36 (UTC)[返信]

ですから、それに盲点があるのです。「必要最低限で確かに簡潔に」ここの人たちが書こうとすると、「必要最低限」のことが抜けてしまう可能性があるのです。たとえば『総論が怪しいよ』と私がアドヴァイスしても、誰もその誘いに乗っていないではないですか。『「技法」は包括するのか』という問いにも誰も答えていないでしょう?それは、やはり記事を仕切る人々に基礎的な態度が欠けているのではないでしょうか?今までの言葉使いで大変暴論があったことは認めますが、そのなかでもNIKEさんの暴論はまたしてもスルーされている。立場を変えれば、コミュニティが私の意見を無視しているようにしか取れないのではないでしょうか?

もし充実させたいのなら、ここに書いたユーザー全てはグリフィスと松平の本は読んでおいていただくようお願いいたします。もし、現代音楽に対して全くの初心者であっても、この二冊は何らかの助けにはなると思います。--Noda,Kentaro 2006年9月26日 (火) 15:43 (UTC)[返信]

NIKEさんの暴論はまたしてもスルーされている。
野田さんのノート読みました。しかし、わたくしもNikeさんの発言がとりたてて騒ぐほどの暴論だとは思いませんでした。投稿者(の個人情報)に関する記事があれば、普通なら宣伝・広告の類か、さもなくば嫌がらせかと疑るのが当然ですから。あとは野田さんの面子の問題ですね。---間久部緑郎 2006年9月28日 (木) 14:10 (UTC)[返信]


野田さんさ、あんたが素人か玄人かなんてインターネットの世界じゃわからんのですわ。もしあんたが玄人というなら素人に要出典を付けられたことをむしろ恥ずかしいと思うべきだね。なぜって?玄人でなんでも知っているくせに素人が読んで判らないようなことしか書けなかったということを図らずも証明してしまっているからさ。ここは百科事典だから素人が読んでわかるようにしなきゃいかんのだね。それが出来ない玄人は玄人じゃないよ、単なる知ったかぶりというのさね。次に来るときはもちっと素人衆でも判るように文章を書く勉強をしてきてくださいな。--以上の署名のないコメントは、219.97.67.11会話/Whois)さんが 2006年9月27日 (水) 14:45 (UTC) に投稿したものです。[返信]

著名がないよ。上の発言。 だから、わたしぬきで、グリフィスと松平とシェッフェルとギーゼラーの本を読んで、もっとかっこいい記事を書けばそれでいいんじゃないんですか?どうして、個人攻撃をこんなところでするのですか?ネットの世界じゃ解らんって言うのは、単純にオランダ語とドイツ語の記事に目を通していないからこうなるわけだし。--Noda,Kentaro 2006年9月27日 (水) 16:05 (UTC)[返信]

仕切り直し

(記事の編集および具体的な参考資料についての書き込みはノートページ)

野田氏の処遇はこのままで良いでしょう。そのままどんどん書いてください。いわゆるアマチュアがここを編集する場合については、あくまでも誰でも書けるのが前提ですから制限できません。書く気を起させるのが最大のねらいです。間違ったらその都度直せばいいでしょう。またここの議論が延々と続いていますがそのまま延々とやってください。現代音楽の議論の活性化にはぜひとも必要です。休みたければ休めばいいし、とういうことでここでは全く問題はありません。(菅野)--以上の署名のないコメントは、195.93.60.133会話/Whois)さんが 2006年9月27日 (水) 15:37 (UTC) に投稿したものです。[返信]

Wikipediaは「百科事典を作成するプロジェクト」です。現代音楽についての議論を行うためにあるのではありません。 -- NiKe 2006年9月27日 (水) 15:39 (UTC)[返信]

菅野さん、大変どうもすみません。(時刻つきの著名はなるべくお願いいたします。ないと怒る人が多いです!)私は別になんとも怒っていませんし、要出典タグを厳しくするのも問題はないと考えております。私の発言が気に障るという人も多いようですが、その人はどうして怒る前にこの記事をもっと加筆しようと思わないのですか?話が空転しているのではないのですか?--Noda,Kentaro 2006年9月27日 (水) 16:07 (UTC)[返信]

私の発言が気に障るという人も多いようですが、その人はどうして怒る前にこの記事をもっと加筆しようと思わないのですか?話が空転しているのではないのですか? とありますが、「加筆」より「整理」が優先事項で、しかも、その整理の仕方をめぐって討議がなされている最中だから、(野田さんをのぞく)全員が加筆や編集に慎重になっている。ただそれだけではないですか。分割すれば無条件に加筆できると思っているなら大間違いです。どうして「怒る」人がいるのかは、野田さんが自分で考えてください。---間久部緑郎 2006年9月27日 (水) 17:05 (UTC)[返信]

ついでに、作曲家だという菅野さんにも申し上げますが、一連の紛糾している「議論」は、「現代音楽の議論」などでは決してありません。ウィキペディアのマナーやルールを理解してくださいという要望を、野田氏が理解できるかできないか(野田氏に納得させられるかさせられないか)という「議論」です。この程度の「議論」で現代音楽の(作曲家の)世界とやらは、「活性化」するものなのですか?---間久部緑郎 2006年9月27日 (水) 17:05 (UTC)[返信]

僕が言いたい部分は主に出典の部分だけです。規則では出典を書くようになっていますが、そのまま書くと著作権侵害の恐れがありということ。講義文や会話はOKだと思う事。録音でも取ってない限り証拠は残りませんが、現代音楽は所詮こういうものだということです。またStockhausenやBoulez・Lachenmann自身の著作物・インタビュー・会話自身にも必ず矛盾点はでてきますが、そこを細かくつついても意味がないということです。もしどうしても真意を知りたいのならば直接質問するのが良いでしょう。その都度いろいろ答えるはずです。最近のラッヘンマンのラジオインタビューで彼が90年にジョン・ケージに「あなたは決して間違いを起こさないのか」と問いただしたら「Oh,No.I have so many mistakes!」と言う返事が返ってきたそうです。規則自体に戻りますとここの規則そのものが欠陥です。直しても良いんですが完全には無理でしょう。それよりも細かいどうでも良いところをいちいち問題にしないのが正道です。明らかにミスがあれば直すだけでいいのですから。議論はなっていませんが、止めさせようとはおもいません。出来ないからこそやらせるのが活性化につながるからです。 28.09.06、0:19 Kanno--以上の署名のないコメントは、195.93.60.133会話/Whois)さんが 2006年9月27日 (水) 22:22 (UTC) に投稿したものです。[返信]

Kannnoさん、最初の文がわかりません。なぜ出典を書くと著作権侵害なのですか? -- 2006年9月27日 (水) 23:13 (UTC)[返信]

菅野さん彼らを真正面から相手にしてはいけません。管理側の誘導尋問です。--Noda,Kentaro 2006年9月28日 (木) 00:16 (UTC)[返信]

講義や会話がOKだというのはひとつの意見でしょう。しかし、それを根拠に執筆するのであれば、最低でも講義であれば何年何月にどの場所で行われた講義か、また会話であれば、誰と誰が何年何月ごろ行った会話であるかということが記載されていなければなりません。それが文献リテラシーというものです。ほかの方のことはわかりませんが、私はあくまでも百科事典としての体裁上必要とされるディシプリンのことを問題にしているのです。さらに、出典もさることながら、本文中にしばしば見られる主観的な表現評論的表現をどうにかしてくれと言ってているのです。評価について書くならば、その評価を下しているのが誰かが、その発言の出典(口頭であれば前述のように、その日時や場所など)とともに記載されなければなりません。そうでないと、たとえそれがギョーカイの常識であっても、読者はその部分を執筆した人の勝手な主観であるか、あるいは根拠のないウワサ話じゃないかと疑います。Noda,KentaroさんのみならずKannoさんにおかれても文章の客観性と内容が正しさには直接関係がないことを理解いただけないならばそれは大変残念です。現代音楽のセオリーを振り回す人たちはそのぐらいの区別はつくはずだと信じていますが、わざとわからないフリをしているのですか?もし本当にわからないのであれば、現代音楽にかかわる人々の(業界の外からの)評価もおのずと決まってくるように思いますが。--Pugnari 2006年9月28日 (木) 03:54 (UTC)[返信]

多弁になればなるほど、誘導なんだろうな、懲りないな、ということです。もういちいち追求しませんが、KANNO氏を追及することだけはお止めください。ウィキペディア管理ユーザーの毒牙に彼がかかるのは、私が一番いやなのですから!--Noda,Kentaro 2006年9月28日 (木) 03:57 (UTC)[返信]

「多弁になればなるほど」「懲りないな」というのは、野田さんにこそ当てはまります。この記事に執筆しないと宣言したのだから、執筆方針に口出しするのも慎んではどうですか(自分が書かないとしても、他人にあれこれ指図を出し、結果的に他人が野田さんの意図のままに動くのなら、自分が書くのとほとんど大差ありません)。
また、「ウィキペディア管理ユーザーの毒牙」とやらにかかりたくないというなら、そうまでしてウィキペディアに書かずに、自分(たち)のホームページで気ままに書いたらどうでしょう。
だいたい、日本の学会では論文をまともに査読する体制がなっていないというのが野田さんの言い分ですが、少なくともウィキペディア日本語版では、たとえば出典の明記の要求や版継承、記事の長さも含めた読み易さetc.に神経を尖らせるなど、それなりに査読体制がなっているというのが私の客観的な感想です。
査読を要求するからには、とうぜん他者から監視や指導が入ります。野田さんの考えている「査読」とは、内容の充実度をチェックすることだけのようですが、普通はそれ以外(論旨の首尾一貫性、書式・構成の適不適、文体の統一不統一)にも注意と指摘がなされるものです。たとえば「長すぎる」とか、「此処から先は自分で書かずに、脚注や参考文献表で読むべき箇所や書誌を示唆するのがいい」とかです。どの程度までその判断に従うかは、確かに筆者の自由ですが、査読してもらった結果にいちいちケチをつけるなら、最初から査読を要求しないほうがいいし、それでも発言したいなら、好き勝手のできる場所で書けばいいのです。
それに菅野さんの言い分も、理解に苦しみます。自分(たち)にとって欠陥ルールだから無視してしまえばいいというのなら、口調こそ慇懃ですが、考えていることは荒らしと何の違いもないということになるでしょう。(ついでですが菅野さん、署名するなら--の後に~を4つ続けると、自動的に署名されます。) ---間久部緑郎 2006年9月28日 (木) 09:17 (UTC)[返信]


出典をそのままコピーした場合は明らかに著作権の侵害です。しかし新聞のように独自にインタビューなどをした場合の記事は著作権はその人本人に帰します。報道関係では取材原を明らかにしないのが裁判の場合であろうと常識です。彼が明らかに誤った場合、めったにないですがそれは当然修正いたします。今回のラデイレスクは僕はDarmstadt時代から長年知っているし(作曲家の性的趣味が悪く人間として個人的に好きではありませんが)、こちらのラジオでも良く放送されてので彼は虚偽の記事を載せたとは到底思えません。取材元はわかりませんが、たとえば彼が現在パリではなくスイスに住んでいるかどうかはわからないので保留しております。「ルーマニアのスペクトル学派」と言う述語は一般的ではありませんが、彼を一言で言った場合、矛盾に当たるものではないと判断いたしております。全般に彼の文章は論理的でわかりやすい方です。従ってこのままで良いですそれ以外の日本語の意味の不明な質問の多くは時間の関係から無視させていただかせております。Kanno、28.9.6.10:21

すみませんが、脈略がつかみにくく、「意味の不明な」文面になっているので、もっと分かりやすくまとめてください。それから、特定対象について主観的な好き嫌いは、ウィキペディアで書くべきではありません。---間久部緑郎 2006年9月28日 (木) 09:17 (UTC)[返信]

反論

なんだか人の書いたのすべて消しているようなのでここに何らかの権威があるとは認められませんね。何らかの独占状態なのでしょう。--以上の署名のないコメントは、195.93.60.133会話/Whois)さんが 2006-09-28T14:26:15 に投稿したものです。

サブページ化しております。ページの冒頭および記述があった場所にサブページへのリンクが置いてあるので、ご確認の上移動してください。--Ks aka 98 2006年9月28日 (木) 15:18 (UTC)[返信]

IPユーザー195.93.60.133の投稿について

「犯罪者集団」など、特徴的な語彙や投稿履歴から見て、このIPは野田氏の自作自演か彼の信奉者のどちらかだろうと思われるのですが、いずれにせよ嫌がらせの横槍を入れ続けています。もはやウィキペディアの品位の問題だと思います。管理権をお持ちのユーザーには、発言をチェックした上で、永久ブロックで対処してくださるようにお願いいたします。---間久部緑郎 2006年9月29日 (金) 11:40 (UTC) 訂正。野田氏ではなく、菅野氏だったようですね。発言だけ見ると、ほとんど同一人物ですが。---間久部緑郎 2006年9月29日 (金) 12:58 (UTC)[返信]

菅野茂さんですね。とりあえず警告しておきましょう。-- 2006年9月29日 (金) 14:18 (UTC)[返信]

///////////////////////////////////////// ちゃんと195.93.60.133|195.93.60.133と記録されているのでこちらではいちいち名前は記していません。上記のような文章書くこと自体が全く信用できない事を暴露しているようです。同様に嫌がらせと言っても全く問題ではないでしょう。

なお現代音楽の編集の件については興味がないのでお任せしますが、ラドゥレスクについてのみ全く無知な文章を発見したので書き込んだまでです。こちらの使命は知らない人に正しい情報を提供するだけです。なおこの件は野田君との打ち合わせはではなく全くの自由意志で行った物で、彼とは考え方が完全に独立しております。以上の署名の無いコメントは、195.93.60.133会話履歴)氏が[2006年9月29日 (金) 20:50]に投稿したものです(ikedat76 2006年9月30日 (土) 12:12 (UTC)による付記)。[返信]

履歴に記録が残るか否かに関わらず、署名はしてください。どれが誰の発言か分かりにくくなり、特に第3者には議論の流れが把握しにくくなります。無署名に対する苦情に対して、暴言で応じるごとき行為もお控えいただきたく存じます。--ikedat76 2006年9月30日 (土) 12:12 (UTC)[返信]

質問とそれへの答え

なんか…ねえ。いきなり「グリフィスと松平の本は読んでおいていただくよう」とかいうオタクっぽい話が出る時点で、素人にも分かるような記事を作るという視点が無いとしか思えないですね。まあ、専門家だからといってちゃんとした百科時点の記事を掛けるとは限らないということで、記憶に留めておくこととします。--220.212.242.221 2006年9月29日 (金) 02:35 (UTC)[返信]

これは、松平頼暁の「現代音楽のパサージュ」とポール・グリフィスの「モダン・ミュージック・アンド・アフター(第三版)」とヴァレリア・ツェノヴァの「現代音楽の作曲理論」を読まないと理解できないジャンルです。数学と要は一緒で、タームを抑えていないと何のことやらわからないジャンル、それが現代音楽です。162.243.22.167 2013年9月29日 (日) 19:00 (UTC)[返信]