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ノート:犬食文化

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「概要」から「社会心理学的な解釈」への流れは犬食文化の説明ではなく、「犬食を忌避する文化」についての説明になってないでしょうか?記事名に沿った概要を述べたうえで、次段としてそれに対する周辺文化を描くか、別記事を建てるべきだと思うのですが。--220.8.222.14 2014年5月22日 (木) 06:35 (UTC)[返信]

議論はノートにて

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本文中にコメントアウト形式で長々と議論を行うのは控えていただけるとありがたいです。--Peachkiller 2008年2月1日 (金) 14:01 (UTC)[返信]

本文中のコメントアウト形式の議論をこちらに移します。コメントアウト形式ですと、誰がいつ発言したのかが非常に解りづらいので、なるべく要出典タグや編集コメントを利用して、ノートでの議論を行ってください。--Peachkiller 2008年2月1日 (金) 14:08 (UTC)[返信]
以下は日本の節より移動。移動を行ったのは--Peachkiller 2008年2月1日 (金) 14
08 (UTC)
  • 【他に見られない説です。デマでなければ明確に文献を指摘してください】しかし、栄養上の必要からか、中世・近世を通じて犬肉を含めた獣肉は、薬肉として広く食べられていた事が文献的に実証されている。
  • だが奈良時代に犬食を原因とした疫病が広まり、犬食の禁令が出され、その後犬食を禁忌とする習慣が広まった。祟りとかならばあり得るかもしれませんが、疫病原因説というのはこの時代には存在したはずがないです
  • 【他に見られない説です。デマでなければ明確に文献を指摘してください】徳川綱吉の生類憐みの令に付いて「犬食を禁じる目的であった」とする説があるが、江戸時代の武家屋敷の発掘が盛んに行われ、近世考古学の研究が進展すると共に環境考古学の成果として、犬を食用にしたとしか考えられない切断され煮込まれた犬の骨格が大量に出土する事例が報告され、裏では下層民に留まらない広い層にこっそり食用にされていた可能性が有力視されつつある。
  • 横レスでスイマセンが、犬食文化にも地方差があったことは確実なので、その辺の事情は藩邸ごとに違ったりするのではないでしょうか? それと、下層民が犬食していたという証拠はあるのでしょうか?←ノートにも書いてますが、本項目は歴史学的、考古学的な文献に沿って編集を入れても、そこに感情的な編集が付け加わってしまって、かなりごちゃごちゃになってしまっているんです。日本での犬食の事情についてはかなり普遍的に行われていても文字記録にあがってくるのがあまりにも断片的で、よくわかっていない部分が大きい。さらにそこに現代的な観念による嫌悪感や、中韓への反感、偏見との二重写しになった感情が紛れ込んでしまって、非常に取り扱いが難しい項目になってしまっていると思います。ですから、今のところ私は、本格的に文献収集して隙のない綿密な執筆ができるようになるまでは、本格的な編集をちょっと控えております。


教えてください

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本項目の「その他東アジア」の以下の記述ですが、どなたか、この文章の出典(文献)を教えてください。よく似た内容の記述でもかまいません。

「 野良犬を食べるというのは逸脱的とする見方もあるが、アジアでは広く集落や都市内で半飼育、半野良的に犬の群が人間社会と共存関係にあり、廃棄物処理、余所者の侵入の警告の役割を担っている状態が、嘗ては普遍的に見られた。こうした犬群の一部が、飢餓の際などに食用に用いられた。 」

投稿内容に不満があるとかそういうことではありません。ちょっと個人的に興味があるので、教えていただきたいと思いまして。それだけです。よろしくお願いします。--Kogane 2007年2月9日 (金) 15:53 (UTC)[返信]

もともとは、この文の原型投稿は、食用専門として飼育されて食肉とされているのでなければ逸脱的な例外的なものとみなすような記述がなされてしまったために、加筆でやんわりと否定したものです。食用とされたのは飢饉のとき以外にも普遍的に食べられていたのですが、後の編集で「飢饉の際」という語句が加えられてしまいました。犬関係の文化史の記述を読めば、半飼育、半野良的な犬群がアジア都市部での犬の普遍的なあり方であったことは普通に出てきます。もう廃刊になってしまった平凡社の自然史雑誌『アニマ』にも、そのあたりの論述のある研究者の文章もかなりあったことが記憶に残っています。ちょっとそのあたりの文献を長崎の借家に置きっぱなしにしているので今すぐ具体的に挙げることができないのですが・・・。実は日本でも市中の犬群を「河原者」身分の人々が時間をかけて少しずつ生け捕りにして蓄養し、武士団の犬追物に提供しており、また武士たちも犬追物に使って傷ついたりおびえるようになった犬を、行事のあとの宴会の犬鍋に供して食べてしまうことで始末してしまっていたことが山川出版社の日本史リブレットシリーズの一冊、『武士と荘園支配』に詳述されています。こうしたことも記述で書き加えたいのですが、本項目は嫌韓、嫌中ナショナリズムと絡んだ事実に反するプロパガンダ的な編集がされてしまうことが多く、今の記述にもそうした編集の痕跡がちらほらしているのが現状です。こうしたことにうんざりして、最近は本項目の編集からちょっと手を引いて静観しているところです。--ウミユスリカ 2007年2月9日 (金) 22:59 (UTC)[返信]
ウミユスリカさん、興味深い情報有難うございました。『武士と荘園支配』はまだ入手していないのですが、服部英雄さんの著作ですよね。最近、彼のサイトで概略を目にしたので注文している所です。半飼育、半野生の犬が人間と共生し、廃棄物処理や番犬的な役割を担う一方で、食用にされることもある。実に興味深いと思いました。ご指摘にあったアニマは探してみます。また、いつでもけっこうですので、その辺の民族誌的なレポートなどがありましたらご教示ください。--Kogane 2007年2月10日 (土) 08:59 (UTC)[返信]
いえいえ、あまりお力になれず、申し訳ありません。そもそも犬の家畜化は、犬を飼育して飼い始めたというより、狼の群れが人間社会と合流して共生関係を結ぶ過程で犬という動物が成立していった側面が強く、狩猟民や遊牧民、牧畜民の社会では人個人と犬個体の個々の結びつきが強くなりますが、洋の東西を問わず都市社会、農村社会では個人との結びつきがよわく、事実上野良犬といって差し支えない形で、なおかつよそ者の侵入に吠え立てたり、人糞や生ごみを食べて処理したり、また時には(西アジアでは食のタブーに入ってしまいましたが)食用になるという形で、軽蔑されながらもそれなりに存在意義が認められるという状態が普遍的だったようです。現在の先進国の都市社会ではそうした共生犬群によって担われていた機能は、さまざまな公共サービスによって担われるようになり、必要性を認められない単なる野良犬という地位に堕してしまったということじゃないかと分析しているんですが、この歴史的変動を裏付ける研究までは目にしていないので、現状では「近代化による(必要とされない)野良犬の誕生」というのは、私の「独自の研究」止まりになってしまうかと。誰か、そういう研究をしておられる方がいらっしゃるといいのですが。服部英雄さんの『武士と荘園支配』でも、日本の都市社会、農村社会での犬群の地位までは踏み込んでおられないですね。それにしても、当項目の編集履歴をたどってみると、ある種のネット上の「嫌中・嫌韓」議論には、「食犬」をもって中・韓を蔑視する正当化根拠とみなす層が存在するようで、日本の犬食文化をかさにかかって、逸脱的なものとして否定しようとする投稿者が目立ちます。ベトナムの犬食文化を「中国の影響」としている記述も投稿されてますが、私はかなり疑問を持ってまして、むしろ古代に中華文明を形成した諸要素のうち、南方文化に犬食文化があり、その古層をベトナムが保持していると見たほうがいいんじゃないかと思ってるんですが、とりあえずは静観させていただいております。--ウミユスリカ 2007年2月10日 (土) 09:45 (UTC)[返信]

日本

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江戸時代の犬食については『落穂集』という大道寺友山重祐(1639-1730)の記録があります。 いわく「我等若き頃迠ハ御当地の町方において犬と申ものハ稀に見当り不申事に有之候。 武家・町方共に下々の給物(たべもの)に犬に増(まさ)りたる物ハ無之ごとく有之ニ付、冬向に成り候へハ見合次第打殺し賞玩(しょうがん)仕るに付ての義と有之候也」と。要は生類憐れみの令の前までは江戸市中 (路上など) では犬の姿を見ることは希であり、冬になれば武士町人の別なく見かけ次第追い回して食べたということです。たぶん温まる食べ物とされていたんでしょうね。 --Ypacaraí 2008年4月7日 (月) 04:52 (UTC)[返信]

現在でも犬食べる日本人は多分いると思うのですが。そういう人を見た事はないのですが、よく聞きます。日本に習慣がないと本当に言い切れるのでしょうか?--KOGARASI 2008年7月26日 (土) 12:54 (UTC)[返信]

私は現代の日本人が犬を食べる話という話は聞きません。習慣はないと言って差し支えないのではないでしょうか。一般の人の感情として犬を食うことが受け入れられると思いますか? --Ypacaraí 2008年7月26日 (土) 13:45 (UTC)[返信]
犬はよほどに不味いのでしょうか?--KOGARASI

もはや現代と言っていいかはわかりませんが、戦後のもののない時代に犬を食ったという話は割に耳にします。たしか裸足のゲンにもそんな場面があったような?--118.6.70.39 2013年6月8日 (土) 05:46 (UTC)[返信]

飢餓状態の際に例外的に犬を食べたからといって,犬を食べる文化であることの証左には全くなりません.飢餓状態の際に他の生き物を犠牲にすることは,ローマであろうがどこであろうが背に腹が変えられない場合は起こり得ることです.--126.249.85.30 2024年7月15日 (月) 13:22 (UTC)[返信]

動物愛護法

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第一条  

この法律は、動物の虐待の防止、動物の適正な取扱いその他動物の愛護に関する事項を定めて国民の間に動物を愛護する気風を招来し、生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止することを目的とする。

第四十四条  

1 愛護動物をみだりに殺し、又は傷つけた者は、一年以下の懲役又は百万円以下の罰金に処する。
2 愛護動物に対し、みだりに給餌又は給水をやめることにより衰弱させる等の虐待を行つた者は、
五十万円以下の罰金に処する。
3 愛護動物を遺棄した者は、五十万円以下の罰金に処する。
4 前三項において「愛護動物」とは、次の各号に掲げる動物をいう。
一  牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
二  前号に掲げるものを除くほか、人が占有している動物で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの

です。

法律の目的は、「生命尊重、友愛及び平和の情操の涵養に資するとともに、動物の管理に関する事項を定めて動物による人の生命、身体及び財産に対する侵害を防止することを目的とする。」です。犬の生命をまもることではありあません。

愛護動物をみだりに殺しとは、ペットを食べるわけでもないのに、おもしろ半分に殺すことです。犬やネコがかわいそうだからではなく、犬やネコに満足できず人にそれが向けられることへの抑止です。自分の犬を焼こうが生であろうが、食うことは自由です。食卓の犬は既に愛玩動物ではありません。医学部では犬や豚が毎日解剖され、理学部では悲惨な姿のネコが毎日作られ殺されます。これらが愛玩動物の虐待にあたらないのはあきらかでしょう。あなたの判断では  第四十四条 4項1号の牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、ねこ、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひるも食べられないことになりますが?明らかに不条理です。牛、馬、豚が食べられるということは、犬、ねこ、いえうさぎも食べられるということです。

犬やネコを食べないのは、食べない人が犬やネコを殺すことをかわいそうだと思うからです。食べる人にはそのような感情は関係ありません。ましてや法律は全く関係ないと思います。

--KOGARASI 2008年5月28日 (水) 13:09 (UTC)[返信]

縄文時代の人と犬の関係

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於下貝塚での解体痕を持つ犬骨の発見ですが、わたしが「犬の埋葬行為とは別に犬食文化が存在した可能性を示す発見」と編集したところ、Kogane様によって「縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫る発見」と改められました(こちら)。わたしは関係論文を見ていないので詳しくはありませんが、縄文時代の犬の埋葬事例は船橋の藤原観音堂貝塚をはじめ幾つかあるはずで、これらの事例も含めて犬食痕跡と考えられているのでしょうか?私は狩猟などに用いた伴侶動物としての犬の埋葬事例と犬食風習が必ずしも矛盾することではないだろうと考えて「埋葬行為とは別に」と但しを付けたのですが、いかがでしょうか。--でここ 2009年1月26日 (月) 12:29 (UTC)[返信]

まず関係文献を読まれることをおすすめします。「埋葬」とされている事例は、縄文時代の穴を発掘した際、底部に犬の全身骨格が解剖学的な位置関係を維持したままで出土したものを、調査者が「埋葬」と解釈したもので、紹介した於下貝塚関係の文献の執筆者は、そのような埋葬されたとする犬の出土例を根拠に、縄文人が犬を飼育し埋葬までしたとする、従来の人と犬の関係全体に関する定説の見直しが必要ではないかと指摘しています(私の意見ではありませんよ、論文の執筆者がそのように書いてるんです)。いずれにせよ、ここでは最新の考古学・歴史上の文献をすなおに引用すべきで、ウィキペディア投稿者個人の解釈や意見を反映させるべきではないでしょう。--Kogane 2009年1月26日 (月) 15:18 (UTC)[返信]

Kogane様、説明ありがとうございます。私が参照しているのは「山の民と海の民」という山梨県立考古博物館2005年度の企画展図録です。参照して執筆したのではなくたまたま読んでいたのですが、比較的近年(於下貝塚の発調報告書よりも最近ですね)の刊行である同書の中では犬骨の出土事例は埋葬であると説明されていたので、埋葬行為であるとする解釈も残されているのではないかと考えました。

本来ならば関係論文を参照しながら反論したいところなのですが、「従来の人と犬の関係全体に関する定説の見直し」とは、犬骨の出土事例をすべて犬食風習のものであるとする解釈と、埋葬事例のほかに犬食の事例が含まれる、つまり埋葬事例とされているものの幾つかは犬食の事例であるとする解釈と、ふたつの可能性があります。kagone様のおっしゃる通り最新の考古学的知見を反映させて執筆するべきであるとは思うのですが、きちんと研究史を把握しておく必要があるかと思います。引き続き従来の埋葬事例が完全に否定されているのかどうか疑問に思うのですが、いかがでしょうか。--でここ 2009年1月26日 (月) 16:06 (UTC)[返信]

縄文時代の人と犬との関係はどんなものだったのか、犬の埋葬との解釈は否定されるべきなのか、そのままでよいのか、こういったことは考古学者たちの研究に任せるべきで、ウィキペディアの投稿者間で議論するべきことではありません。私が、でここさんの「但し書き」を削除したのは、出典として挙げた文献には、「犬の埋葬行為とは別に犬食文化が存在した可能性を示す発見」などとは書かれていなかったからです。ここは百科事典ですから、テーマにかかわる記述は、いくつかの見解が対立し、並存していようとも、出典に沿ってそれぞれの見解をそのまま紹介するべきで、投稿者個人による恣意的な解釈や但し書きは不要と存じます。--Kogane 2009年1月27日 (火) 11:40 (UTC)[返信]

Kogane様、わたしも縄文時代の犬と人間との関係について、ここで議論しようとは思っておりません。於下貝塚の発見を受けての研究史はどうなっているのか、埋葬事例は否定されているのかどうかが気になって質問しているのです。kogane様はわたしの但し書きの表現を問題視なされておりますが、私は逆にこの表現のほうが、出展からの距離が取れているかと思います。於下貝塚の発見について、事実だけを端的に記すのであれば「埋葬行為とは別に犬食風習が存在した可能性を示す発見」で、あくまで発調報告書のなかで「縄文時代の犬と人間の関係について、再考を必要とする」という見解が示されているのであって、無批判にこの見解を受けて「定説に再考を迫る発見」としてしまう表現のほうが違和感を感じるのですが、いかがでしょうか。kogane様のほうでも研究史の把握をなされていないのであれば、新情報が得られるまで従来の埋葬事例が否定されていない可能性を示す表現にしておくべきかと思います。--でここ 2009年1月27日 (火) 14:03 (UTC)[返信]

縄文犬に関する定説の再考が必要だと主張しているのは私ではなく、引用元の報告書と論文の執筆者です。それと、「埋葬事例は否定されているのかどうか」に関する結論をここで出す必要はないのです。それは将来考古学者が行うでしょう。また、百科辞典の記述における引用は「無批判」に行われるべきです。記事本文に紹介した縄文犬は食べられていたとする文献と、縄文犬埋葬説を論じた文献の双方とも、「埋葬行為とは別に犬食風習が存在した可能性」など主張していません。ウィキペディアの投稿者が引用文献の内容に「違和感」や「疑問」をもったからと言って、引用元に全く書かれていない解釈を、記事に反映させてはいけません。それに、私の編集では定説となっている「埋葬」説が全く否定されたかのような記述にはなっていません。対立する見解を紹介しただけです。むしろ、縄文犬埋葬説の重要な基本文献を出典として補足したほどです。--Kogane 2009年1月27日 (火) 14:49 (UTC)[返信]

Kagone様、繰り返しますが「埋葬事例は否定されているのか」を含めて、ここでの議論で結論を出そうとは思っておりません。ただ何度も申し上げているように、この点を含めて研究史の把握ができているのかどうかを確認したいのです。Kogane様の指摘しておられる諸点に関しておおよそ異論は無いのですが、唯一の相違は「埋葬行為とは別に犬食風習が存在した可能性」というわたしの但し表現に関することのみのようです。

従来の埋葬説と見直し説の関係が不明瞭な中、双方の説を中立的に記すためにはわたしの用いた表現が妥当であると思うのですが、Kagone様はこれをわたし自身の「解釈」と受け取られている。ここに見解の相違があるように思います。於下貝塚の発見事例から事実のみを抽出すれば、「切痕を持つ犬骨の発見」ですよね。Kagone様はここに「縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫る(発見)」と、おそらく発調報告書で用いられている解釈表現を付け加えておられる。対してわたしは、於下貝塚の発見に対して無批判でこの見解を受け入れるべきでないと考え、あくまで発見は「従来の埋葬事例と異なる可能性を持つ(発見)」と表現している。

確かにわたしは何も典拠文献を参照していない状況ですし、「埋葬行為とは別の可能性のある発見」はわたしの解釈といえば、その通りなのかもしれません。ただ、於下貝塚の発見事例が縄文人と犬の関係を語る上でなぜ注目されるかと言えば、それは従来の埋葬事例とは異なる状況であるからであって、解釈であるにしても他にその余地があるとは思えません。wikipediaの編集者が解釈をしてはいけないとは、典拠文献の見解や表現をそのまま受け入れるという意味なのでしょうか?わたしはこれが解釈に相当するとしても、複数の見解を参照して記事を構成していく執筆者にとって中立を期するための最低限であるもので、何ら問題があるとは思えないのですが・・

最後に、現在の本文がkagone様のおっしゃるように、従来の埋葬説を否定するものではないかどうかを、確認したいと思います。

日本では、縄文時代に集落遺跡などの土坑底部から犬の全身骨格が出土する例があり、これを埋葬と解釈し[3]、縄文時代の犬(縄文犬)は、狩猟犬として飼育され、死後は丁重に埋葬されたとする説が一般的になっていた

しかし近年、縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫る発見があった(以下於下貝塚の解説)。

確かに埋葬事例を完全に否定する表現にはなってはおりませんが、埋葬説との関係が不明瞭でありますし、現在の状態ではわたしのように疑問に思う閲覧者は多いのでは無いでしょうか。現在は埋葬説が完全に否定されているのではないかというニュアンスを感じてしまう可能性もあると思います。わたしは「埋葬行為とは別の可能性のある発見」という表現に拘ろうとは思いませんし、現在は埋葬説は否定的であるという情報が得られない限り、埋葬行為の可能性も以前としてあるというニュアンスにする必要を感じます。--でここ 2009年1月27日 (火) 15:45 (UTC)[返信]

論点が拡散しているようなので明確にしておきましょう。要はでここさんの「但し書き」は適切だったのかどうかです。結論としては、不適切だったと言わざるを得ません。何故なら、「但し書き」の内容は、出典として挙げられた文献の内容から逸脱したものだったからです。でここさんは、「わたしは、於下貝塚の発見に対して無批判でこの見解を受け入れるべきでないと考え」と申されているが、その考えは間違いです。あなたの「批判」は必要ない。考古学研究における議論について、ウィキペディアの投稿者が審判役を買って出る必要はないのです。そのような行為は投稿者の恣意的解釈であり、ウィキペディアでは禁止されている「独自研究」に該当します。ここのページの編集では、縄文時代の人と犬の関係について発表された二つの見解を両論併記するしかないのです。二つの説の関係が不明瞭(?)だと、あなたや他の読者が感じたとしても、それが考古学研究の現状なのだからしょうがないのです。--Kogane 2009年1月28日 (水) 07:31 (UTC)[返信]

確認するのに少々お時間がかかりましたが、わたしがはじめに提示した論点(研究史の把握状況)に関しては、Kogane様の方でも研究史の把握ができていないと考えて宜しいのですね。であるとするとわたしの方の問題は解決されましたし、記事の表現をどこに落ち着けるのかの議論に入りたいのですが・・

現状では埋葬事例の可能性もあることを確保しておく表現にする必要があるかと思います。わたしが確認として挙げた部分に関して問題がないかどうか、Kogane様のご意見を伺いたいのですが、いかがでしょうか。わたしはけして自分の用いた表現に固執するわけではありませんから、埋葬説が成立する可能性を残した表現になっていれば、問題ないかと思います。

で、どうやらwikipediaにおける「解釈」の問題をめぐり、わたしとkogane様の間では完全に見解の相違があるようです。わたしの用いている表現が「解釈」にあたるかどうかは、他の人の意見もお伺いしてみたいのですが。

繰り返しませんが、わたしは自分が用いた表現がまったく解釈の問題に属するものとは思わず、恐縮ですが「縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫る発見」という表現のほうに中立性の観点から若干の問題を感じてしまいます。確かに出典情報に基づく表現なのでしょうし、発掘調査に携わった方の見解は第一に重視するべきであるとは思いますが、於下貝塚の発見事例に対する解釈は発調報告書が独占しているわけではありませんし、他の解釈が存在する可能性もあります。ですから、無批判に(批判をするべきという意味ではないのですが・・)この解釈を採用せずに、事実と解釈の間に距離をもうけておくべきではないかと、提言しているのです。

kogane様は我々wikipedianが審判役をするべきではないと申しておられますが、わたしはまったく逆に審判役をするべきであると考えております。審判役とはA説とB説のどちらが妥当であるかを判断することではないとまずお断りしておきますが、定説となっているA説に対してB説という見解が生じてこれを記事に反映させる際に、A説とB説の関係、たとえば現在ではB説が主流になっているだとか、B説は学界でも重視されていないものであるとか、B説が提示されて間もないとか我々の力不足で研究史の把握が不十分である(本件はこれですね)であるとか、双方の関係を把握した上で(わからない場合も含めて)著述するべきであると考えるのですが。

Kogane様は埋葬説と犬食説の関係は考古学者の領域と力説されておられますが、わたしの言っているのは妥当性の問題ではありません。双方の説の関係がわからない以上は、埋葬説が成立する可能性を残しておく必要があり、そのためには現在の文章では若干問題があるのではないかと、ここを問題にしています。Kogane様は現在の文章で問題がないとお考えになられるのか、問題があるとすればどういう表現に落ち着けるべきか、そこをお伺いしたいのですか、いかがでしょうか。--でここ 2009年1月28日 (水) 10:22 (UTC)[返信]

ようするにですね~、でここさん、あなたの「但し書き」は、あなた個人の考えに基ずいたものだから駄目なんです。ウィキペディアでは、投稿者個人の独自研究による記述はダメなんです。どこかの研究者が「埋葬行為とは別に犬食風習が存在した可能性」と書いた論文を発表していて、それをあなたが引用しただけなら問題ないわけです。しかしそうではなかった。私が出典として紹介した文献にもそんな記述はなかった。一方、私の編集した現在の記述は、でここさんと違って、私個人の考え、意見、解釈(まあ、どう表現してもいいんですが)そういうものは一切入ってません。出典もちゃんと挙げてます。また、でここさんが、考古学上の対立する見解について、何らかの判断をする必要はありません。やはり独自研究になりますから。そもそも肝心の文献を読んでもいないあなたに、その論文についての「但し書き」を書いたり、「研究史の把握(?)」など、できるわけないでしょ。--Kogane 2009年1月28日 (水) 13:29 (UTC)[返信]

Kogane様。わたしとKogane様の間で解釈の問題に関する考えが完全に異なっている以上、これ以上は繰り返しになりそうです。

今回の問題に際してわたしが考えたのは、wikipediaにおいて中立性と独自研究性の排除は、どちらかに偏っていると両立できないのではということです。確かにKogane様のおっしゃられるように、典拠文献の表現のみに準拠する姿勢であれば、独自研究性が介在する余地はないでしょう。ただ、それだと上記の理由で(もはや繰り返しません)中立性の観点から問題が生じる。やはり、独自研究性の排除と中立性の確保を両立するためには、典拠文献の表現を離れた操作が必要であると思いますし、典拠文献の表現に完全に準拠した状態で中立性を確保することは、難しいように思われるのですが・・。この点に関してKogane様との間ではもう繰り返しの主張になるでしょうから、第三者のご意見を伺ってみたいところです。

そもそもわたしが必要な文献を参照していないのではないかという指摘は大変痛いところです。研究史の把握状況について、Kogane様からもっと早く回答をいただければここまで長々と議論することもなかったのですけど。確かにわたしは本件について必要な文献を参照していない状況ですがKogane様とわたしの間で共有している情報によって、記述の妥当性を論じることは出来ます。現状では埋葬事例が否定されていないということがわかりましたし、その点で現在の記述は妥当であるか、上記で質問しているのですが、この点に関する回答をいただいておりません。わたしの用いた表現が独自研究であるというご指摘はもはや結構ですから、この点に関するKogane様のご意見をいただけないでしょうか。--でここ 2009年1月28日 (水) 14:44 (UTC)[返信]

いったい何が言いたいのかよくわかりませんが、いいですか、ここでのわたしの指摘は、ウィキペディアのルールに基ずいたものであって、私個人の考えではありません。ででこさんがそのルールを理解せず、無視して、ご自身の個人的見解を本文に反映させたことが問題なのです。明確な出典を基に本文を記述することや、独自研究の不可は、ウィキペディアのルールなのです。出典に忠実に記述することで中立性に関する疑義など生じません。あなたはどうやら「中立性」という言葉の意味を誤解しているようだ。
それと、議論が長引いたのが私の責任かのような指摘も意味不明です。少なくとも、あなたが出典に挙げた文献を読まれておらず、縄文時代の人と犬に関する研究の知識が無いことはわかりました。あなたと私の間に共有している情報などありませんよ。ですから、あなたは、読んでもいない学術論文の内容について、その妥当性を論じようとなさったり、ましてや恣意的な「但し書き」を書き加えようなどと、無謀な行為はやめなさい。--Kogane 2009年1月28日 (水) 15:36 (UTC)[返信]

Kogane様、発言が感情的になっておられます。そして私の記している一連の文章に関して、十分にご理解いただけていない懸念を感じます。これ以上当事者同士で議論を続けると良くないのは経験上わかっておりますから、これで最後にしてもう一度きちんと説明します。

  • Kogane様の表現に関して

わたしはKogane様の表現(「縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫る発見」)がKogane様独自のものであるとは一言もいっておりません。この出典に忠実である表現を用いることに異論はありませんが、ただ、はじめから「縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫る発見」としてしまうのには中立性の観点から問題があり、「切痕のある犬骨の発見」という事実に対して「縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫る」という評価が与えられているのですから、出典の評価情報との距離を確保すべきであると考えています。

  • わたしの用いた表現に関して

Kogane様の指摘されるように、今思えば典拠文献をきちんと参照できていない状態で、埋葬説も必ずしも否定されていないであろうと推測で編集していることに関しては軽率でした。ただ、確認できたように埋葬説は必ずしも否定されていないのですよね?でしたら埋葬説の可能性を確保できる内容にしておく必要があろうと本文の確認作業に入りたいのですが、この点に関してはついにKogane様のご意見をいただけておりません。そして、私は自分の用いた表現に必ずしも固執しないと何度か申しておりますし、要は埋葬説の可能性が確保できる表現であれば、どのようなものでも良いのですが。そして、これも繰り返していますが、私は犬食説と埋葬説、どちらが妥当であるかの問題はまったく論じておりません

議論がここまで長引いたのは、もちろんKogane様の責任などではなく不勉強なわたしの責任です。ただ、Kogane様がはじめから私の質問に答えてくださっていれば、円滑に次の議論に移れたものと考えていますし、わたしとKogane様の間柄が険悪なものになってしまったのは残念に思います。最後に、わたしのほうで思案を提示して、Kogane様はじめ第三者のご意見を仰ぎたいと思います。

日本では、縄文時代に集落遺跡などの土坑底部から犬の全身骨格が出土する例があり、これを埋葬と解釈し[3]、縄文時代の犬(縄文犬)は、狩猟犬として飼育され、死後は丁重に埋葬されたとする説が一般的になっている

一方で、近年は切痕を持つ犬骨の発見事例があり、縄文人と犬との関係について、定説に再考を迫るものであると評されている(以下於下貝塚の解説)。--でここ 2009年1月28日 (水) 17:01 (UTC)[返信]

    • 一連の議論拝読しました。でここさん、もうやめましょうよ。意味不明の論理を振りかざして、真摯に議論に応じているKoganeさんを困らせるようなやり取りはいい加減になさい。でここさんは関連文献を読んでもいないのだからが、該当部分の記述の試案を示すこと自体が不適切でしょう。編集前の恣意的な「但し書き」と同じことを繰り返そうというつもりですか?。Koganeさんが、でここさん独自解釈の但し書きを削除し、学術的な論文に基づいて改めた現在の記述に問題はありません。それでもなお、でここさんが、出典に基づかない独自解釈(独自研究)の記述を復活しようとするなら、荒らし行為と見なされますよ。--水田 2009年1月29日 (木) 06:06 (UTC)[返信]

Kogane様、水田様。もはや何も言いません、ただ、一点だけ確認したいです。典拠文献に忠実な表現であるか、つまり独自解釈性のあるなしではなく、内容の正確性の問題に関して。Kogane様との議論で埋葬説が必ずしも否定されていないことがわかりましたが、現在の文章は埋葬説の可能性が確保されるものになっているとお考えでしょうか?閲覧する人に誤解を与えないものになっているでしょか?出来れば具体的理由とともにお答えいただきたいです。再三申し上げているように、私が拘っているのは自分の表現を残すことではなく、この疑問点を解決させることです。この一点のみが確認されていれば、後にこの問題がきちんと議論される可能性があると思いますし、私はこの返信をもって本議論から退くことを約束いたします。Kogane様、長々とお時間を煩わせて申し訳有りませんでした。--でここ 2009年1月29日 (木) 22:55 (UTC)[返信]

でここさん、あなた独特の文章表現は第三者には理解できません。今後何かノートで議論する際はもう少しご自分の文章を推敲なさい。たとえば「出展からの距離」とか「無批判に(批判をするべきという意味ではな)この解釈を採用せずに」など。それと、「正確性」などと、熟語にやたらと「性」をつける必要はありません。さて、理解しずらい表現満載の今回のご質問にも、なんとかお答えしましょう。
(1)「内容の正確性」ですか・・・、主語がありませんよ。私の編集は、出典に基づき、私個人の意見は含まれていないので何の問題もありません。その意味では正確です。
(2)「(縄文犬)埋葬説の可能性が確保」と、これも妙な日本語ですが、おそらく、でここさんは、縄文犬が人の伴侶として飼育され、死後は埋葬されたとする説が否定されたのかと、心配でしょうがないんですね。これについては、でここさんへの3回目のお答えにすでに書きました(読んでないんですか?)。繰り返しますと、本文では「埋葬」説が全く否定されたかのような記述にはなってません。埋葬説に関する基本文献(山崎論文)を出典として加え、記述を強化したほどです。
(3)ただし、茨城県於下貝塚で出土した解体痕のある犬骨、バラバラになって出土した犬骨を根拠に、縄文人による犬食の存在を指摘し、従来縄文人は犬を埋葬し、人の伴侶として飼育されたとする説に再考、再検討を迫る内容の調査報告書と論文が発表されています。犬食の歴史に関わる内容なので、その文献の内容を紹介したのです。なお、この調査報告書と論文に示された見解を否定したり、反論する内容の研究は今のところ発表されていません事を付け加えておきます。
(4)私の編集した内容で、閲覧する人に何か誤解を与える部分はありません。編集は、学術論文の内容を紹介しただけですので。でここさんによる出典不備の「但し書き」こそ、読者に誤解を与えるものでした。もう何度も指摘しましたが、あなたの投稿内容は、文献に基ずいていないばかりか、上記の出典文献の内容を逸脱した、でここさん個人のお考え、解釈に基ずいた内容だったからです。こういうことがないように、Wikipediaでは独自研究、独自解釈の記述は禁止されているのです。
でここさんは、Wikipediaのルールをほとんどご存じないようなので、新たな編集を行う前に、以下の項目を熟読されますように。
Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:出典を明記する

横槍で申し訳ありませんが、切断痕のある犬骨=犬食文化の存在、という考察は、こと縄文時代では簡単に成立しないと思われます。何故なら縄文人は人骨も同様に切断・粉砕して骨髄まで取り出して食していた痕跡が存在しているためです。これをして縄文人を人肉食文化を有した人々と考えたモースのような先例もありましたが、非常に丁寧な解体が行われているため、故人をしのぶ儀式食人だったと考えている例もあります。

このような文化風土があった縄文人が、犬骨を同様に解体して食していたとしても、これが食肉用途の家畜を食するのと同様の行為だった可能性よりも、家族の葬儀だった可能性が高まるものと思われます。--以上の署名のないコメントは、220.150.181.133会話/Whois)さんが 2009年1月31日 (土) 14:34時 (UTC) に投稿したものです。

では、私も横槍で。論旨が破綻しています。
「縄文人は人骨も同様に切断・粉砕して骨髄まで取り出して食していた痕跡が存在している」ここから導き出される結論は「縄文人は人骨の随を食べたらしい」こうですね。そこから、人肉食があったかどうかはそれ以外の情報が必要です。つまり「故人をしのぶ儀式食人だった」というのはそのうち一つの可能性です。にもかかわらずそれを前提として「このような文化風土があった縄文人が」というのはおかしいですよね?ですから、この議論ははっきり言って続けるだけ無駄です。終わったらどうですか?--Ks 2009年1月31日 (土) 09:03 (UTC)[返信]
え~私が始めたわけじゃないですが、議論はもう終わった、ようですよ。要するにですね大昔の儀式だろうと犬肉食だろうと、ここでは考古学者や歴史家が発表した研究を引用するだけで、ウィキペデアの編集者が独自に解釈して記事を書いてはだめですよと、ず~っと、同じ説明を繰り返してきた次第です。以上。--Kogane 2009年1月31日 (土) 11:32 (UTC)[返信]

食用犬種との統合提案

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食用犬種という記事が別個に存在しますが、重複する内容が多い上に、「食用犬種」というグループ分けは独自研究であることも疑われるため、統合を提案します。--Aotake会話2015年8月11日 (火) 01:19 (UTC)[返信]

「食用犬種」の記事はそれなりに分量がありますが、重複分や独自研究を省いて統合可能であるのなら統合してしまってもかまわないと思います。(個人的に「食用犬種」の記事にカテゴリをつけたときに、なぜ記事名が「食用犬」ではなく「食用犬」なのか疑問に思ったことを覚えています。)U.S.S.Momotaro会話2015年8月11日 (火) 12:01 (UTC)[返信]
ありがとうございます。特に反対のご意見もないようなので、統合したいと思います。もしよければ内容整理にご協力お願いします。--Aotake会話2015年8月19日 (水) 10:57 (UTC)[返信]