ノート:物部氏
物部氏は大阪生まれなのに、大阪に古い寺院などがある。
[編集]--以上の署名のないコメントは、211.121.9.123(会話)さんが 2008年8月21日 (木) 13:21(JST)、2008年8月21日 (木) 13:22(JST) に投稿したものです(Dong1jin4による付記)。
史書に書かれている「伝承」と、学界における「定説」の間
[編集]八月二十一日付で編集させてもらった者です。
今回、「五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになった。」という一文を付け加えました。
まず、皇位継承争いで活躍の部分については、井上光貞「帝紀からみた葛城氏」など、昭和四十年代に書かれた論文以降に有力化していった説を元にしています。後半の雄略朝にはじめて最高執政官を出すようになったという部分は、ここ十年ほどで有力な説になったものです。加藤謙吉氏らがこの立場にあります。
また、最高執政官をあえて「大連」としなかったのは、氏姓制度を継体朝以降の成立と見る、近年の主流派の学説に基づくものです。
これらの点、日本書紀や先代旧事本紀といった、古代文献と大きな齟齬があります。物部氏が誕生当初から執政官を出し、垂仁朝には大連の称も持っていたとされるからです。
「事実」を書ければベストなんでしょうが、大化前代史においては、非常に困難です。百科事典の妥当性・公平性であろうとすれば、不可能といってもいいです。単なる伝説に過ぎないものや、文献編纂者の創作という部分は必ず入ってきてしまいます。
かといって、学界の定説がもっとも正しいのかといえば、必ずしもそうではないところもあります。あくまで、「支持する学者が多い」だけの、「有力な仮説」である場合もあるからです。いくら有力でも、仮説は仮説です。
物部氏のはじまりを、5世紀になって台頭してきた伴造氏と見るアカデミックの立場と、アマチュアに人気のある弥生時代にまで起源を遡らせる立場、両者の乖離は著しく、妥協点を見出すことができません。個人的には学界側が一般に向けて、学術的な成果を還元できていないことに原因のひとつがあると思ってます。
古代文献に明記されていることを根拠に、学説無視で伝説や文献編纂者等の作為を史実認定してしまうか、
いきすぎた史料批判がある可能性も否定できない、有力な学説、通説・定説を書くか、
そのあたりで迷いがあります。 両者の擦り合わせ方、妥協の仕方について何かご意見お願いします。 --以上の署名のないコメントは、219.13.115.37(会話)さんが 2008年8月21日 (木) 13:21(JST)、2008年8月21日 (木) 13:22(JST) に投稿したものです(Dong1jin4による付記)。