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ノート:牧野保成

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牧野成興の実在性はどの程度なのでしょうか。ほぼ100㌫と考えてよいのでしょうか。 --兄卵妹卵 2007年3月13日 (火) 16:26 (UTC)[返信]

なんで出羽守を、称したのでしょうか。真木越中守と並び、先祖の出身地を冠したものではないようですし、この2名は理由がまったくわかりません。誰かご存知ですか。--兄卵妹卵 2007年3月13日 (火) 16:29 (UTC)[返信]


牧野成興・牧野出羽守

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牧野成興に限らず、三河牧野氏の事績は多くは牧野系図(長岡藩主関係・三河地方伝世の諸系図)によるものが多く、同時代文書や古棟札などの一次史料で裏付けられるものもありますが、伝承に属する部類にとどまるものが多いです。成興については長岡中央図書館所蔵の牧野系図にその記述があります(一般の閲覧可能)が一次史料による裏付けは未だです。

次に牧野出羽守・真木越中守等の官職名について。 まず、室町幕府の衰退と戦国期の動乱で天文期(1532~1554)には官位・官職の叙位・叙任の制も乱れ、金銭や贈物による官位・官職の買収・濫授の風が横行したとされます。こうなると、勝手に僭称するものもいたでしょう。(参考文献→『戦国大名と天皇』今谷明著、講談社学術文庫に詳しいです)

牧野出羽守の場合、初出はどうも『今川記』の寛正6年(1465年)の「三河国額田郡一揆」に関して室町幕府が鎮圧令を命じた三河の武将に牧野出羽守がありました。この頃は室町幕府の求心力もまだ健在であり、正式の叙任であったはずですが、任官関係の文書は伝わっていないようで(多くは失われているでしょう)なぜ、出羽なのかは不明。

ただ、官位相当の官職が任命されるのが通例で、国守の任官対象国には大国・上国・中国・下国などのランクがあり、ちなみに出羽国は上国なので従五位下に相当の国ですから、牧野出羽守は従五位下以上に叙位されなければなりません。もっとも叙位の記録も伝わらないので正確なことは知り得ません。つまり、任官候補者の功績や門地あるいは献納品の額等総合的に判断し朝廷の機関が決定する(希望通りとは限らない)。牧野出羽守につてはその後、世襲化したようで(たぶん勝手に)成種・保成・成元・成真(?)と続いた。

なお、国守は遙任国守(任地に自身で赴任せず目代などに代理支配させる)が多く、実際の支配地と任官地が一致しないことも多かった。特に室町期には遠国僻地を除いて有名無実化していたといって良いでしょう。これらの乱れは徳川家康の天下統一で終止符が打たれ、国守名(受領名)は勝手に名乗ることも、また江戸幕府に無断で朝廷へ叙任申請もできなくなりました。--故城一片之月 2007年3月13日 (火) 18:07 (UTC)[返信]


郡代=守護代ではないとのご指摘について

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オタスケマンさんへ
東三河の守護所の存在については『豊橋市史』310-312頁において、御津神社応永22年(1415年)の棟札・菟足神社同24年(1417年)棟札、管領畠山満家の施行状・同30年(1423年)、御津神社・永享11年(1439年)棟札のおのおのに記載された三河守護職の一色左京大夫(義範・義貫)の名前により推定されています。

次に三河守護職は永享12年の将軍足利義教の一色義貫暗殺まで三河一色氏が務めていました。牧野氏の嫡流たる牧野平三郎系はこの守護職一色氏の被官であった。→『牧野系図』長岡市中央図書館蔵、『新編岡崎市史』379頁(第2章第2節守護と奉公衆衆の引用文「今川記」)
その一方、これとは別に宝飯郡長山一色城の城主一色時家(刑部少輔)は三河一色氏ではなく、鎌倉公方(関東公方)足利持氏の奉公衆・御番衆であった関東一色氏の一族(一色直兼の子または甥)とされ、永享の乱(1438-1439)で敗北し三河に亡命した人です。この人は守護職一色義貫の保護を受け長山一色城に居住し義貫の郡代的存在として宝飯郡に勢威を持ったとされる。(同じく渥美郡の郡代は幕府奉公衆の一色七郎であった)このように、東三河においては守護一色氏の親類が郡代を務める例があったのです。
なぜ、郡代=守護代と受け取られたか判然としないですが、同じ一色氏でも守護職と郡代は別人であるし、守護代は石川道悟という人で西三河にいたとされますが、三河の新守護職細川氏の守護代東条国氏と戦い戦死したとされます(前掲『豊橋市史』315頁)。どこかすれ違いがあるようですね。先述の守護所とは郡代のものではないですよ。

後に長山一色城主または牛窪古城の城主になったという牧野保成(出羽守)の先祖とおぼしき牧野出羽守(某)が前掲の「今川記」に名前があります。つまり、当時の出羽守は一色義貫の子義直の被官で郡代一色氏の家臣ではない。それゆえに本文では子孫(孫に相当する)の保成が元の守護所付近にかつていた可能性を記した(永正14年久保神社棟札に牧野一族が署名)。実際、永禄の頃この付近(佐脇・八幡)で保成は松平軍と激戦している(最後は負傷→死・永禄6年3月)し、ここでの戦いの敗北でほぼ大勢が決したのです。--210.147.34.37 2007年3月24日 (土) 16:50 (UTC)は故城一片之月 2007年3月24日 (土) 16:58 (UTC)です(ログイン無効のため再度署名)。[返信]


本文内容の改訂の告知

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当記事「牧野保成」は、現状の脚注方式から、新設の参考文献節に掲げられた各参考文献と脚注節の参照形態に改めることにより、本文内容もそれらへの関連性および引用に従った形に改訂整備する予定です。基本的に現状の記述内容は出典に適合するものは活かしますが、最近の学術論文とその典拠たる古文書史料に基づき加筆も予定しています。--故城一片之月 2011年3月8日 (火) 14:51 (UTC)[返信]